睡蓮の池のほとり


日出ずる国へ(後編)


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庶民の前では尊大なばかりの態度を見せる役人が、辞を低くしてわたしを招びに来るようになると、近所の者らはますますわたしを信頼してくれるようになり、代書屋稼業もより繁盛するようになった。
 それでも、わたしはただ知事に信頼されているというだけの立場に過ぎないから、公式の肩書など何もない。しかし、自由に県庁へ出入りでき、最新の法令や判例に触れることができるのは代書屋としても非常に役立った。
 知事の話し相手という役も、当初の話と違って、学問の話よりも政策について意見を求められたり、政治問題について古今の例を諮問されたりという事の方が主であったが、知事はこんな、駆け出しのままつまずいた書記官崩れの若造の意見を、真剣に聞いてくれた。

ある日、いつものように知事からの使いを得、県庁に出向いたわたしは、意外な相談を受けた。
 花嫁修行中のユーリが、その一環として市井の暮らしを体験してみたいと希望しているのだそうで、王宮でもそのこと自体には異議は出なかったものの、ハットゥサではとかく顔の知られたユーリのこと、その体験学習の場所としてカルケミシュが選ばれたらしい。そこで、知事にその準備が命じられたのだそうだが、仮にも嫁ぎ先まで決まっている一国の皇女をお忍びで町へ出し、しばらくのこととはいえそこで生活させようというのだ。何が起きるか判った物ではない。そして、何かあれば取り返しがつかない。
 といって、断る大義名分も立たない。秘密裡に、と念を押されては、滅多な者に相談もできない。知事は相当悩んだらしい。その挙句、思いついたのがわたしであったのだ。
 まさかユーリに町の中で一人暮らしをさせるわけにもいかないし、女官がつくと言っても女ばかりでは物騒だ。といって、護衛など付けては大袈裟にもなり、せっかくの体験学習が形無しになる。
 その点、わたしならユーリには身内同様、間違いも起きまいから守り役として適任だというのだろう。
 わたしは、知事にはユーリのことは話してはいなかったが、少し調べれば、ユーリの乳母がわたしの母であったことぐらいは判明したはずだ。
 実際、わたしもユーリと間違いを起こそうとは思わない。まあユーリとて、よく見たらなかなか美しい娘ではあるが、何せ小さい頃には、ユーリのおねしょをわたしのせいにされて叱られたことさえある、兄妹のような間柄なのだ。今さら…
 とはいえ、わたしもこの相談には二の足を踏んだ。それでも結局引き受けたのは、知事の苦衷を見かねて、という他にも、もう忘れることにしたはずのユーリと、かりそめにももう一度生活を共にできることに惹かれた、というのも否定できない動機だった。
 わたしは、それでも気恥ずかしい思いを隠して、人前では「皇女殿下」と呼び慣れたユーリを、小さな頃のまま「ユーリ」と呼ぶことを許してもらった。
 
 ユーリは、案外すんなりと市井の生活に順応した。
 しかし、いくら町の子らしい服装をせよとはいっても、イシュタル陛下の故事に倣っているのだと称して男の子のような格好で町へ飛び出して行くのには困った。
 祖父も、イシュタル陛下のお若い頃、その供をしてあちこちに旅をしたことがあるはずだが… さぞ、大変な気苦労だったのだろうな。
 ユーリは、わたしが苦労してでっち上げたカルケミシュ暮らしの経緯や、偽りの身分にもあっさりと馴染み、隣人らともうまくやってくれた。
 別に、何をしているという暮らしではない。朝起きて二人分の膳を調え、家事をこなす。買物や散歩に町へ出る。近所の女連中と愚にもつかないおしゃべりをする。
 これまで、ずっと王宮で暮らしていたユーリだから、いくら気をつけていても不自然さは残るが、「本来なら深窓の令嬢なのだからな」というので皆も納得してくれた。どうせ、そんなやんごとないお方と親しく交際した経験のある者など、ここにはいないのだ。
 しかし、とにかく利発な娘だ。皇女の身分がなくとも心惹かれる少年も少なくはないはずだ。いや、これは決してわたしの一人よがりではない。
 わたしはこの度の体験学習を、どうも思考の硬直したユーリにもっと柔軟な思考を持ってもらういい機会だと思った。そしてわたし自身の考えを、忌憚なく話して聞かせた。この国が凋落しつつあること、それは小手先の政略などで堰き止められる流れではないこと。
 ユーリは、わたしの悲観的な展望を否定しながらも、実際の民の生活に触れながら、徐々にそれを理解し始めた。
 ただ、エジプト王と、自身との婚姻の無意味さについては、頑として受け付けなかった。
 わたしも、その点については言葉を濁した。その無意味さを理解させてしまうことなど、ユーリにはあまりにも酷ではないか。

ユーリの市井での体験学習も、そしてユーリとわたしの二人暮らしも残り僅かとなったある日のことだ。
 ユーリは、ご親切なことに、荷物を失って難儀しているという旅人を家まで連れて帰って来た。ウガリット人のマリパスという男だったが、どうもこの男、エジプト訛りが強い。
 もしかすると、何らかの情報でユーリがここにいることを知ったエジプト王が差し向けた探りの者かとも思ったが、ユーリと出会った経緯を聞くと、とてもそんな計画的な出会いであったとは判断できない。まあ、それならそれでも別に困ることはないが。
 
 夜、ユーリがいつものように、家中の灯台を自室に集めて、書見に勤しんでいた。
 戸の隙間から漏れるその光に気付いて、起き出してその様子を窺っていたらしいマリパスが、ユーリに声を掛けた。
 いくら市井の生活を経験するとは言っても、ユーリの立場は並大抵の立場ではない。万が一にもマリパスが変な気を起こしては大変なことになるから、わたしは密かに、マリパスの様子を監視していた。
 しかし二人は、夜更けの男女の語り合いには似つかわしくない、国の将来の展望を話し合っていた。
 その話に耳を傾けていたわたしは、手を打って飛び上がりたくなった。
 ユーリが語る展望は、かつて王宮でわたしが語り、そのたびにユーリが憮然として席を蹴っていた、そのものの内容なのだ。
 ユーリ。わたしの話を理解してくれたのか。この国の凋落の兆しを、感じ取ってくれたのか。本当に、おまえもそう思うようになってくれたのか。
 しかし、闇の中で密かに浮かべたわたしの会心の笑みは、たちまち消えた。
 マリパスが、ユーリを誘惑するかのような言葉を吐いたのだ。
 そして、それを言下に拒絶するだろうと思っていたユーリが、目を輝かせたのだ。その表情は、これまでに見たこともない、どきりとするような妖艶な美しさであった。
 眼光ばかりが異様に強い、人形のような顔しか見せなかったはずのユーリに、このような顔があったのか。
 それまで、ユーリを異性として意識することもなかったわたしが、ぞくりと背筋の震えるような心地を覚えた。
 
 翌朝、町内に軍隊がやって来た。雑兵のくせに偉そうな物言いをする黒髪の兵士に訳を聞いてみると、エジプトのスパイが製鉄法の秘密を盗み出し、町に潜伏しているという。
 わたしは、即座に思い当たった。
 マリパスだ。間違いない。目的は、ユーリではなかったのだ。
 以前の、忠誠に燃えていたわたしなら、即座にマリパスを捕らえ、当局に引き渡していただろう。
 しかし、わたしはそ知らぬ顔を通して見せた。わたしは、考えを巡らせていた。
 ユーリも今や、この国の運命について、わたしと確信を同じくしてくれている。ただ、自身の婚姻が、国の凋落を食い止める力を持つという信念にだけはしがみついているようであったが、スパイだろうが何だろうが、マリパスと心が通じ合うのなら、こんな国などどうなってもいいではないか。ユーリが、そこまでエジプトとの婚姻に無理やり希望を持たねばならないのは、ただユーリが皇女として生まれたから、それだけのことだ。
 ユーリ。捨ててしまえ、そんなしがらみなど。止めてしまえ、国などという抽象的な概念に過ぎないものを延命させるために自らを生贄にすることなど。
 おまえには、新しい運命を選ぶ機会がやって来たのだ。よく考えて、自分の人生の舵を取り直せ。もっとおまえらしい、生き生きとした人生を掴み取れ。
 その日は、大変な一日だった。マリパスが治安当局に発見され、ユーリを人質にして逃亡する。その騒ぎで、ユーリの身分がばれる。わたしは知事に呼び出され、追及を受ける。
 わたしは知事に対して、別段心配は要らない、と答えた。エジプト人スパイなら、エジプト王妃になることが予定されているユーリに危害を加える訳がない、と理由をつけてみせたが、わたしの本心はといえば、こうして知事の動きを鈍らせて時間を稼いでやるから、早く二人で逃げろ、という一心だった。
 エジプト人なら、とはいっても、エジプトにも今回の婚姻に反対の立場にある者はいるだろう。マリパスがそういう者に派せられたスパイであれば、マリパスはユーリを殺す。それが一番確実な婚姻の阻止法なのだ。
 しかし、わたしはマリパスをそんな者だとは判断しなかった。マリパスのエジプト訛りは、出稼ぎの旅の中で身につくような下賎な訛りではない。相当の教育を受けた、正しい発音なのだ。それにあの男、挙措の端々にエジプト上流社会に見られる習慣が目に付く。
 いったいどういう素性なのかは見当がつかないが、マリパスは相当の身分を持つ男に違いない。あの融通の利かないエジプトが、細作などという下賎な仕事に、そういう身分のものを充てるはずがない。
 それに万一、皇女誘拐の片棒を担いだとして捕まったにせよ、わたしはもうかまわない。
 どうせ、この身を国のために捧げるという決意も捨てたのだ。それならこの身は、代わりにユーリのために捧げてやる。
 しかしその後、県庁で聞いた知らせによると、マリパスはその後、城壁の上に追い詰められ、ユーリを解放して単身河へ飛び込み、逃亡したという。
 ユーリは、婚姻の日取りも近づいていたから、そのまま知事の許に保護され、最初の婚儀が予定されている、カディシュへと旅立って行った。
 わたしは、溜息をついた。やはり、そううまく運ぶものではない。

わたしが、ユーリがいなくなってがらんとした家の床に横たわった時、戸を叩く者があった。戸口には、マリパスが立っていた。
 わたしは近隣に目を配りながら、素早くマリパスを招じ入れ、戸を固く閉めた。
 マリパスは、近くこの町を離れることになり、わたしに詫びを言いに来たのだという。
 マリパスは、わたしに対してその身分を明らかにした。エジプトの王子だというのだ。
 わたしは、その告白を聞いて、やはりな、と頷いた。
 マリパスとて、皇女と二人きり、一つ屋根の下で生活していたわたしを、もうただの代書屋だとは思っていなかった。…今となっては、ただの代書屋なのだが。
 「アサティルワ・バーニ先生。今回の事件、決して皇女殿下を巻き込み奉るつもりはありませんでしたし、製鉄法を学んだというのもまったくわたし自身の好奇心のみに由ること、決して国としての意思に由るものではありません。
 ただ、結果として町を騒がせ、ユーリの、いや皇女殿下のご正体を発き奉ってしまったことを申し訳なく思います。」
 マリパスは、誠意に満ちた眼差しで頭を下げた。
 「マリパス王子殿下。王子殿下ともあろうお方が、一介の無官貴族如きに頭をお下げになってはなりません。
 ユーリは、殿下との出会いをとても喜んでいた様子、わたくしからも謹んでお礼を申し上げます。」
 わたしも、改めての挨拶を返した。
 「いや、今のわたしはまだ風来坊のマリパス。どうか先生こそ、今までの通りこの風来坊をおあしらいください。」
 「恐れ入ります。では。
 …マリパス殿。わたしももう一度、そういう立場で貴殿に話したいことがありました。
 マリパス殿。ユーリのことをいかがお思いか。ユーリの正体をお知りになった今、ざっくばらんに、と申し上げても難しいだろうが、あの娘、お気に召しませんか。」
 「とんでもない。とてもいい娘です。この度起こしてしまった騒ぎの中、はっきり申せば心惹かれました。
 あの娘、いや殿下は、皇女という身分ではなく、一個の人間として人を惹きつける。
 そして、一個の人間として生きていけるだけの知恵を持っている。」
 わたしは大きく頷いて、言葉を続けた。
 「よろしければ、ユーリを連れて行かれぬか。どこか、遠い国へ。」
 「な、なんと…」
 マリパスは、虚を衝かれたように言葉を詰まらせた。
 「あなたはユーリ殿下の、ユーリの乳兄弟、そしてお守り役でしょう。そのような大それたことをおっしゃって、いいのですか。」
 わたしは、マリパスに事の次第と、己が確信を語った。
 マリパスも、わたしに真情を吐露してくれた。
 「王子といっても、二十七番目ともなると全く期待もされていませんし、将来も明るくはない。ただ王族としての礼遇と捨扶持を受けて、一生遊び暮らすしかない立場です。
 それは、今日を生きるために必死で働いている民衆から見ると、夢のような立場でしょう。しかしそれが、本当に人間として満足のいく一生でしょうか。
 ユーリの立場となると、尚更です。わたしのような者の義母となり、王の傍らに飾られて暮らすことが、あの生気に満ちた娘にとって悔いのない生き方でしょうか。」
 そうだ。この男、まさにわたしと同じことを考えている。
 「そうなのです。とはいえ、わたしにできることはもう、し尽くした。しかし、貴殿ならまた打つ手がある。
 マリパス殿。どんな手を講じられてもいい、今一度、ユーリにそのお気持ちを示してみられてはいかがか。それで、ユーリの意思を改めさせることができるなら、わたしは貴殿に、そしてユーリに、どんな協力も惜しみはしない。
 いうまでもなく、それはユーリのみならず、貴殿にとっても、尊いご身分をお捨てになり、お国に戻られることすらできなくなる、暴挙です。
 それをお覚悟の上で、いかがか。」
 マリパスは、唇を噛んで沈思していた。長い長い、黙考であった。
 東の空が明るみ始めた頃、マリパスは腰を上げた。
 「先生。ありがとうございます。わたしも、自分の気持ちに嘘はつけない。
 行きます。どうかよろしく、お導きいただきたい。」
 わたしはこの時、マリパスの人間を見た。わたしには到底思い切れない、重大な決意をできる男の大きさを感じた。
 ユーリ。やはりこの男だ。この男のよさが、おまえにはわかるだろう。
 王子でないこの男は、財産も職も、住む家さえも持っていない。それでもこの男のよさが、きっと。

日が上ると、わたしは県庁に出向き、知事に面会を求めた。
 「おお、アーシャ。この度はご苦労であった。…しかし、寿命が縮んだぞ。ユーリ姫にもしものことがあったら、わたしはどう責任を取ってよいのか見当もつかぬ。まあ、ひとまずこれで、わたしも肩の荷がおりたわい。」
 「全く恐縮至極、わたしの不徳から大変なご心配をお掛けしました。
 実は、ユーリの守り役もひとまずお役御免かと存じますが、お許しをいただけるのなら、しばらく暇を賜りたく…。」
 「ほう、どういうことか。」
 「はい。実はカディシュへ参りたいのです。
 ご承知の通り、わたしとユーリとは知らぬ仲ではありません。わたしもカディシュへ行って、陰ながらユーリを見送りたいのです。
 もちろん今となっては、わたしなど拝謁はもとより、城内へ入れてすらもらえないでしょう。それでもいいのです。ただ一野人として、皇女殿下を見送ることができれば…」
 「それが人情というものだな。
 他の場合ならそなたに知事の公用でも持たせて、皇女殿下に会わせてやる手配もできようが、ここまで来てはもうわたしにも手の打ちようがない。エジプト王陛下も親しくご行幸なのだからな。
  解った。行って来るがよい。さぞ、民衆どもも歓呼の声を嗄らせて殿下をお見送りすることだろう。そなたもその中に混じって、思い切り万歳を唱えて来い。
  …すまぬが、内々に頼むぞ。嫁入り前の皇女殿下をそなたのような若い男と二人で住まわせていたというのは、わたしの独断なのだからな。
 それに、そなたも気をつけよ。ハットゥサから、そなたを見知った者がうようよ出張って来るぞ。」

わたしは密かに家を出て、町を出てから馬を買い、カディシュに向かった。
 こんなことが、前にも一度あったな。あの時は、失望と自暴自棄の中、闇雲の旅立ちだった。
 しかし、今は違う。わたしには、はっきりとした目的がある。ユーリを、蘇らせるのだ。政略に使われるためだけの、生きた人形として扱われ続けるユーリを、一個の人間として生まれ変わらせるのだ。
 あの夜ユーリが初めて見せた、生きた少女の表情を無駄にはしたくなかった。
 ヒッタイトの国がどうなろうと知ったことではない。わたしは異邦人なのだ。

わたしは、ハットゥサから出張って来る者に顔がささぬよう、カディシュ近郊のある村の外れに小屋を借りた。今度は「諸国を流れ歩いている吟遊詩人が、この村ののどかな風景に気まぐれを起こしてしばらく滞在する気になった」というふれこみだ。家主や村人の前で、この村の風光を愛でる即興詩を吟じて見せると、もうそのふれこみを疑う者はなかった。
 なに、詩の一編や二編吟じて見せるぐらい、教養人なら当然のたしなみだ。
 わたしはマリパス「王子殿下」に、人を介して書簡を届けてもらった。無論、「殿下にはエジプトを旅した時、詩を奉ったことがある。偶然近くに来られているのなら知らぬ顔もできないな」ということにして、封被にも本文にも、正直な差出人名など記さなかったが、マリパスにはわたしがこの家にいるということが、通じたはずだ。

やって来た。本当に二人、やって来た。夢ではないかと思った。
 エジプトの王子であるはずの男と、本当ならその王子の義母になるはずのヒッタイト皇女が、手を取り合って抜け出して来たのだ。
 マリパスはいったいどんな手を使ったのか、ユーリは湯帷子一枚のひどい格好だったが、わたしはユーリが好きな、例の男の子のような服も用意してきていたから、すぐにそれを着せることができた。
 ユーリは、再び皇女ではない、町娘に戻ったのだ。

 わたしは、用意してあった馬と二人分の身の回りの品、そして幾許かの金を二人に与えた。
 もう、何も言うことはなかった。
 「気をつけて行けよ!」
 それだけでよかった。
 二人は、東の空に上りはじめた太陽に向かい、寄り添うように馬を走らせて行った。
 そうだ。それでいいのだ。
 二人の姿が、荒野の砂塵に紛れて見えなくなるまで、わたしは立ち尽くしていた。
 
 ところが、だ。
 当の花嫁が失踪してしまったはずなのに、不思議なことに婚儀は順調に進められたらしい。大して広くもないカディシュの町に、城門から物々しい行列が吐き出される。エジプト王の輿が、帳の下ろされた花嫁の輿が、民衆の歓呼の声の中を南へと下っていった。
 わたしは、土臭い民衆の波に紛れて、狐に摘まれたような思いでその行列を見送った。
 まさか、花嫁の輿の中は石ころだというのでもあるまい。儀礼が滞りなく済まされたとなると、この時点でエジプト王は既に花嫁と対面しているはずなのだから。
 
 首を傾げながらカルケミシュに戻ったわたしに、知事から使いが来た。何でも、エジプト王ラムセス二世と、新しい第一正妃ハトホル・ネフェル・ラーの名で、カルケミシュ県庁宛に礼状が届いたから、わたしにも見て欲しい、というのだ。
 内心の疑念を隠し、何食わぬ顔で県庁へ出向いたわたしに、知事は人払いをして真相を語った。
 何のことはない、ユーリの替え玉として、この知事の娘がエジプトに嫁いだというのだ。
 表向きは、嫁いだのはあくまで「ヒッタイト皇女ユーリ・ナプテラ」であることはいうまでもない。真相を知っているごく少数の者を対象とした機密保持の手筈も、概ね済んでいるという。
 知事の娘は、花嫁の見送りとしてカディシュに出向いていたが、カルケミシュに帰ってから慣れない旅の疲れが出て、自室に引きこもって静養している、らしい。
 わたしが招ばれたのは、ユーリ失踪の真相を極秘裏に調査する、という仕事に起用されるためであった。表面上はつつがなく輿入れが終わったとはいえ、一国の皇女が突然失踪したのだ。王宮の中枢では、密かな裡にも必死で、真相究明と皇女捜索が行われているらしい。その実務が、カルケミシュ知事に命じられたのだ。
 そんな調査に、わたしを起用されても困るな。
 わたしは、仕方なく県庁に関係者を呼び出しては形ばかりの事情聴取をした。そして、もっともらしい現場検証のため、今度は公式にカディシュに出向き、当時ユーリに付いていた女官長と湯殿係女官の口から事情を聴いた。
 なるほど。マリパスはそんな手でユーリを連れ出したのか。
 わたしはそれを聴いて、その日のうちに報告を起案した。
 
 今回のことは、人智を超えた神の思し召しである。
 懼れながらユーリ・ナプテラ殿下には、畏くもその昔、泉の水中にご降臨遊ばされた愛と戦いの女神ユーリ・イシュタル皇妃陛下の直裔であらせられるのだから、湯殿に満々と湛えられた清らかな湯の中に御身を溶け込ませられ、神々の国にお戻りになったとしても不思議はない。
 このことについて、王宮及び県庁の採った収拾策は全く妥当なものであった。後は引き続き、将来にわたって機密保持に努めればよい。
 そうして時が経てば、皇女殿下の失踪も、替え玉の輿入れも歴史の闇に消え去ることになる。
 …こんな所か。
 
 カルケミシュに戻り、わたしは報告書を作成した。そして、失笑がこみ上げてくるのを抑えきれなくなった。
 何だ。結局、父と同じではないか。
 毅然として史実を記し遺すことができない父に反発したわたしは、どこへ行ったのだ。
 確かに、今のわたしには自分の立場を守ることに汲々とするような姑息な気持ちはない。
 しかし、それは一足先に、守らねばならない程の立場を捨て去ってしまっているから、それだけのことではないのか。
 わたしは、自分が一つ、大人になったような気がした。
 知らず知らず、理屈と正義感だけを振り回し、いつしか石のように硬く、冷たく固まっていた頭が、俄かに融け始めたような気がした。あの、ユーリとマリパスを照らしていた太陽の、希望に満ちた光を受けて。
 
 代書屋もいいが、一つ、塾でも始めてみるか。忙しければ手の空いた時だけ、学びに来てくれればいい。この辺りの人たちに、小役人などに馬鹿にされなくてもいいだけの文字の読み書きや計算、そして学問とまでは行かなくとも、ものを考えるための技術を身につけてもらうのだ。
 束脩など、別に当てにはしない。今のままでも充分食べては行けるからな。
 
 ユーリ。どの辺りまで行った。おまえに、話してやりたいことを一つ思いついた。
 おまえが崇めて已まなかったユーリ・イシュタル陛下のことだ。
 あの方の本当のお国は、神々の国などではなく、この大陸の東の果ての、その先にある大洋に浮かぶ島国だ、という話、知っているか。
 そこまで行ってみるがいい。
 どんな国か、何年かかるか、知らない。いや、おまえの子、孫の代まで、東へ進み続けねばならないかも知れない。
 しかし行け、ユーリ。東の果てへ、日出ずる国へ。黒い髪、黒い瞳、象牙色の肌をした人々の住む国へ。
 おまえの、本当のふるさとへ。


前の拙稿「帰って来た娘」と同じく、「オロンテス恋歌」全編に並行するお話、そして同時に「イシュタル文書」にも関係するお話です。
 イル・バーニの孫として、王宮でも重用されていて然るべきアサティルワが、どうして<野に下>り(第28巻・136ページ)、どうしてカルケミシュなどで町暮らしをしているのか、大切な婚約者のいるユーリ・ナプテラが、どうしてこんな若い異性と二人きりで一つ屋根の下に住まうことを許されたのか、そしてさらに、どうしてアサティルワがユーリ・ナプテラの逃避行に協力しているのか、そんな事情を、当筆者はこのように想像してみました。
 また、「イシュタル文書」の「国家・都市見聞記」に、アッシリアに関する記述がすっぽりと脱落しているという点については、拙稿「出兵セズ」の中でその「影響」について想像しましたが、今回はその「理由」をこじつけてみました。
 とはいえ、実際にはヒッタイトとアッシリアがどのような関係であったか、当筆者は何も知りません。
 そして、それを書き遺さなかったアルマダッタの胸中についても。


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