睡蓮の池のほとり


末 期
(まつご)


ふう。ちょっと落ち着いたようだな。何でもいいが、息が苦しいのは堪らないぜ。
 …目を開けるのが面倒だな。ま、いいか。どっちみち、もう脚も萎えちまって、こうして寝っ転がってるだけなんだからな。…もう起き上がることなんて、ないのかもなあ。

 なってみりゃ、ファラオなんてのも、そう大したもんでもなかったよな。
 なり方がいけなかったのかな。もうファラオの座なんて、どうでもよくなりかけた頃に、向うから転がり込んできたんだからな、ファラオの座が。…拍子抜けしちまったぜ。

 あれから、まだ二年か。

 「わしももう年だ。まだまだやらねばならぬことはあるのだが、身体がついて来ん。退位しようにも、わしには跡取りがおらんのだからな。情ない話だ。子沢山のおまえとは違ってな。
 ラムセス。おまえ、若い時分から、いつかファラオになるのだと息巻いておっただろう。ちゃんと知っておるぞ。
 どうだ。おまえ、ファラオになってくれぬか。わしの代わりに。
 わしはこれまで、ファラオの座を狙っている者など、掃いて捨てるほど見てきた。いや実際、あまり目障りな奴は、掃いて捨ててやったわ。どいつもこいつも、身の程知らずの権力亡者どもめが。
 わしがファラオになった頃、互いに追い落としあった奴等も、そのすぐ後を追ってきた奴等も、もう誰も残っておらん。別に、全部わしが掃いて捨てたという訳ではないぞ。人間、年齢を食えば、夢が叶おうと叶うまいと、死んでゆくのだ。
 おい。目障りだといえば一番目障りなおまえが、どうしてわしに掃いて捨てられなかったか、解るか。

 権力争いなど、どう体裁を繕っても、汚ならしいものだ。あのミタンニの女のこと、覚えておるか。皇太后のネフェルティティさまだよ。
 別に、オロンテスの戦で、あの女の弟に苦杯を嘗めさせられたから悪し様に言う訳ではないが、わしとて、あの女のやり方には虫酸が走ったものだ。おまえと同じでな。
 ところが、考えてみればわしも同じことだよ。何しろ、会ったことすらなかった王家の娘に目星をつけて、ファラオにしつこくねだって、わが妻としたのだ。ファラオになるための布石として、何とか王族の一員になりたくてな。
 いやいや、それでもムトノジメットはいい妻だったよ。今では、本当にいい妻と人生を共にできたと感謝している。たとえわしがファラオになれなかったとしても、な。
 しかし、わしだけではあるまい。己が器量も顧みずにファラオの座を狙う輩など、どいつもこいつもヘドが出そうな汚ならしさだった。

 それがな、ラムセス。おまえだけが違ったのだ。
 おまえ、あのミタンニの婆さまから、娘をやると言ってもらったことがあっただろう。その時、おまえは不敵に断りおったな。あれを見ていて、わしも溜飲を下げたものだ。
 さすが、わしが見込んだ男だと思った。わしは、おまえだけは特別な男だと思っていたのだ。一時は、養子に欲しいとも思ったが、おまえもラムセス家を絶やすわけにはいかぬだろうし、それでなくとも、下手にそんなことを口に出せば、おまえのことだ、臍を曲げて逆らうのは目に見えているから、敢えて言わずにいたのだがな。

 いつか、おまえが婚約者とやらを王宮へ連れてきて、その女の正体が、敵の近衛長官だったと知れただろう。その時は皆、戦にばかり気を取られていたが、講和会議から帰国するや、わしはえらい目に遭ったのだぞ。
 まあ、わしとてエネサで一度は会ったことのある敵の女に面と向かっておいて、思い出せなかったのも間抜けな話だがな。 …どうもしかし、わしは女は苦手だ。着る物や化粧一つで、全く見違えるように装いおる。わしのような武骨者など、手もなく騙されたとて無理もあるまい。
 第一、ほいほい遊び歩いていたおまえが、婚約者を決めたというのだから、わしも内心、手放しで楽しみにしてしまってな。

 それはそれとして、だ。講和会議の後、おまえがメンフィスに帰っていたのをいいことに、廷臣や将軍どもが、皆揃って王宮へ、わしを突き上げに来たのだ。
 <今度の敗戦の責任者はラムセスだ。あの男が、こともあろうに敵の近衛長官がわが王宮に潜入する手引をしたのだ。恐れ多くも王太后陛下におかれてさえ国家反逆の責を負われてご謹慎遊ばされている今、あの男が大きな顔で将軍として居座っているなど、示しがつかぬではないか>
 などとな。つまりは皆、何度か続いた敗戦で、碌に殊勲を挙げた者もいない中、要所要所で目立つ手柄を立て続けた、おまえが目障りだったのだ。ただでさえおまえは若造のくせに、態度は大きい、やることは乱暴、鼻柱は強いと来ているのだからな。
 それでもな、ラムセス。わしは、どうしてもおまえだけは処分したくなかったのだ。おまえになら、ファラオの座を追い落とされてもいいとも思ったし、いや、どうやって追い落としに来るかな、と思うと、むしろ楽しみでさえあったのだ。
 しかし、ファラオたるわしにしてみれば、連中の訴えも一理ある。だから、わしはいろいろと考えたのだ。
 そしてな、おまえの罪を言い立てた者どもを一堂に集めて、意見を徴してやった。
 <汝等の訴え、もっともである。ラムセスもまだ若いから、つい敵の女の色香に迷ってしまったのであろうが、それでも、その軽率は許し難く思う。
 であるから、朕は、汝等も知るように、一度は敵の皇帝の胸を射抜き、次いではその皇帝と組討って大傷を負わせ、その他にも数々の、史上にも類を見ない赫々たる働きを見せたラムセスに、何らの恩賞も与えぬことを以て罰としたつもりだ。あれも武人であるから、己が武功を黙殺されるほどの屈辱は他にない筈であろう。
 しかし、それでも処分が甘いと汝等が言うなら、朕も考え直そう。
 この際、ラムセスは言うに及ばず、ネフェルティティさまの国家反逆に結局は手を貸していた廷臣ども、そして、呆れ果てたる未熟な戦いぶりで、王国の興廃に関わる大決戦を敗戦に至らしめた不甲斐ない軍人ども、徹底的に調査の上、全てを厳罰に処することにしたいが、どうか。>
 とな。ははは… 並み居る高官ども、途端に真っ青になりおったわ。何しろ、わしにそう言われてしまえば、罪を逃れ得る者など、その場には一人もいなかったのだからな。皆、黙り込んでしまって、気の小さい者など、玉座から見ていても判るほど、ぶるぶると震えておったぞ。…今思い出しても、痛快であったな。
 結局、ラムセス。おまえの処分の件は立ち消えになったのだ。
 決して、おまえを不公平に庇ってやったのではないぞ。高官どもが、処分の件をうやむやにして欲しくなった様子だったから、そうしてやったまでだ。どうだ、わしもなかなか、臣下の希望に耳を傾ける、よい君主であろうが。ははは。

 しかしラムセス。最近はおまえも、大人になったなあ。落ち着いて来たではないか。あのぎらぎらとした、野望丸出しの眼光が、いつの頃からか、穏やかになってきたぞ。そうだ、あの問題の、おまえの元婚約者のヒッタイト皇妃が死んだという報せがあった、あの頃からではなかったかな。
 まあ、おまえももう六十過ぎだ、落ち着いていてもらわなくては、わしも心配で、おちおち死ねぬではないか。
 なあ。わしも長年、いろんな人間を見てきたが、おまえほど小気味のいい奴は、他にいなかったぞ。おまえのような、頼もしい息子が欲しかったのだ、本当はな。
 頼んだぞ、ラムセス。いやだとは言うまいな。長年ずっと、わしの下で働いてくれたのではないか。ついでに、わしの望みを叶えてくれ。わしの息子が、立派なファラオとしてこの両エジプトの頂点に立つ晴れ姿を、一目見せてくれい。」

 で、ホレムヘブのおっさんは、本当に退位しちまいやがった。誰があんたの息子だよ、気色が悪い。
 おれは、別に血を見ることもなく、あっさりとファラオになった。
 その上、あのおっさんがどう思っていようと、おれはおっさんの息子でも王家の親戚でもないから、この国で十九番目の、新王朝の開創者ってことにまでなっちまった。ま、禅譲ってやつだ。

 でも、知らなかったんだ、おれは。ホレムヘブのおっさんが、そんなにまでしておれを庇ってくれてたなんて。
 王宮や軍の爺どもが、おれを失脚させようと血眼になってたのは知っていたが、いつの間にかみんな腰砕けになっちまったのも、おれの貫禄に恐れをなしやがったんだ、なんて思い上がってたんだよ。
 そうだよな。若い頃の命令無視に上官侮辱、軍紀紊乱、不行跡。まともに詮議されてりゃ、いくつ首があっても足りなかった筈だもんな。みんな、おっさんが目を瞑っててくれて、そっと尻拭いをしてくれてたんだ。

 考えてみりゃ、あのおっさん、ガキの頃におやじを亡くしたおれの、父親代わりだったのかも知れないな。いつだっておれの上司で、いつだっておれを叱ってくれて、しかも、陰でそうして庇ってくれてたんだからな。
 それにいつだって、おれの隠しごとには知らぬふりをしてくれながら、じっとおれのことを見ていてくれたんだ。おれが、ユーリが死んだと聞いて、もうファラオの座なんてどうでもいいって気持になったのまで、ちゃんと気付いていてくれた。おれの方は一生懸命、相変わらずのように虚勢を張ってたつもりなんだが。

 おっさん、退位した途端に死んじまいやがったが、嘘でもその前に一言、言ってやりゃよかったかもな。
 「いろいろお世話になりました。後はお任せください、チチウエ。」

 でも、やっぱり武者震いがしたもんだ。玉座に就いてみた時には。せっかくファラオになったんだから、若い頃の理想をばんばん実行してやった。
 何と言っても新王朝だからな、古臭いしがらみはばっさり切り捨てた。本当に汗水垂らして働いてくれてる民衆に、ちゃんとその報いがあるように。

 国内にも国外にも、不満そうな奴もいない訳じゃなかったが、おれは初めから大エジプトの軍部を掌握してるんだ。逆らっちゃ自分がどんな目に遭うか、どんな馬鹿でも解っただろうよ。
 軍事力なんてのは、本当に戦うためだけにあるんじゃないんだからな。
 それで、もう一つ決めた。戦は止める。まあ、相手のあることだから、こっちが止めたくても受けて立たなきゃならないこともあるだろうが、その時は、女子供を傷つけない。甘いって言われてもいい、流す血は少ないほど価値がある、と、言ってたのは、…ユーリだったよな。

 でも、まだ日が浅いからな、国中が本当にそうなるには時間がかかるだろうが、少なくとも、その方向に向けて、この国の舵を取って置いた。後は、おれの息子がぐいぐいそっちへ進めてくれるはずだ。あいつの正妃に、ユーリの娘をもらってやれなかったのは残念だがな。
 ユーリか… 結局、おれは正妃を持たずじまいだ。そのための席も、部屋も作りはしたんだがな。もしかして、ユーリがまだ生きていてくれてるんじゃないか、と思ってだ。
 あいつ以外に、おれさまの正妃になれる気の利いた女なんて、いる訳ないからな…
 

 うっ… 息が、また息が苦しい。いよいよ冥界の神・オシリスのお迎えか… あんたなんか呼んじゃいねえよ。別に死ぬのが怖いって言うんじゃないが。
 おい、オシリス。おれは死んだって、あんたの所へなんて行かねえぜ。
 ちょうどいいや。オシリス、あんたは退っていいから、代わりにヒッタイトの冥界から、ネルガルさんを呼んで来てくれないか。
 そうだ。おれはあっちの冥界へ行くと決めたんだ。

 あっちの冥界へ行きゃあ、ユーリがいる筈だ。ムルシリもいるかも知れないが、いなけりゃ好都合だ。ま、いてもいいじゃないか。あいつ、この世の意地やしがらみさえなきゃ、おれと気が合いそうだしな。
 あいつと仲良く並んで、ユーリの許に侍ることになるかな…
 但しムルシリ、貴様はユーリの側室だ。ユーリの正妃の座には、おれが座るんだからな。…いいじゃねえか、貴様はさんざんこの世でいい目を見たんだろうが。まったく、ユーリを独り占めにしやがって。まさか貴様、冥界でもユーリの正妃に納まってるんじゃないだろうな。
 いいなムルシリ、ユーリの正妃は、おれだぞ!

 …いかん。妄想が、幻覚が見え始めた。いよいよ最期だな、おれも。

 でも、いいだろユーリ。
 おれは、ファラオになったぜ。いつかあんたに話した、理想のエジプトを、実現したんだぜ。…まだ半分ぐらいだけどな。
 でも、おれの国は、ムルシリの国より豊かで、強大な国になるんだ。
 そして、あんたの理想も、この国に実現してやった。 
 今や、ユーリの「嫌い」はエジプトの不正義なんだ! おれが、神たるファラオがそう決めたんだ!

 だから… 頼むよ、ユーリ。今度こそ、おれと…

 あれ? どこだ、ここは。まるで、花の絨毯じゃないか… あ、おれ、立って歩いてるぜ。でも、何だか脚がふわふわする。雲でも踏んで歩いてるみたいだ。
 ん? あっちに誰か… 少女か。黒い髪だな。肌は象牙色… まさか。いやいや、もう、いいおばちゃんになってる筈だぜ。 
 でも… やっぱり… 

 おい、ユーリ!
 ユーリじゃないか、こっち向けよ。おれだ、ラムセスだ! えらく老いぼれちまったけど、ラムセス、ウセル・ラムセスだよ!

 聞こえてるんだろ。聞こえたら、返事ぐらいしろよ! こっち向けよ! 頼むから…

おい…


 ラムセスの最期です。時代としては本編完結の後、「オロンテス恋歌」の前となります。
 ラムセスの年齢について、原典には全く述べられていませんが、おそらくムルシリと大して違わないことでしょう。
 ところで、一般に行われている史料を概観しても、ラムセス一世の推定即位年は一致しませんが、どうもこの人がファラオになったのは、ムルシリ二世崩御(これも一般の史料によれば紀元前1311年頃)の前年にユーリが薨去した(第28巻・122ページ)よりも後だと思われます。
 この人物は、ビブロスでの講和会議後、格好よくユーリの前を去っています(第24巻・171ページ)が、その割には皇妃となったユーリにしつこく<エジプトへの招待状>を送り続けていた(第28巻・46ページ)ようですから、以後もユーリへの思慕は募り続けたのでしょう。
 ユーリを<王の女>として求め続けたラムセスが、自身のファラオへの夢を未だ実現しないうちにユーリの訃報に接したとすれば、その落胆は察して余りあるものがあります。この人物、即位後程なく崩御してしまったようですが、即位自体が高齢になってからであった事情以上に、長らく慕い続けた理想の女性に先立たれ、生き抜く気力など失ってしまっていたのではないでしょうか。

 なお原典では、エジプト王たるラムセス二世が「余」という一般の自称を使っています(第28巻・187ページ)が、ここでは公式の場でのホレムヘブ王に、「朕」という自称を称えさせてみました。
 いうまでもなくこの自称、天子以外には許されない特別の自称です。せっかく日本語に訳した(?)王の科白ですから、この方がより「それらしく」思えたのです。


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