睡蓮の池のほとり


竜眼流転(前編)

 タトゥーキアは、輿に導かれた。もう、逃げも拒みもできなかった。この輿に乗って、タトゥーキアは砂漠を渡る。そして、エジプト王の許へと嫁ぐのである。
 輿に納まったタトゥーキアを、ミタンニ王は親しく見送りに出ていた。花嫁の白い耳朶は、大きな黒玻璃のイヤリングで飾られていた。
 このイヤリングは、王自身が宝物庫に足を運び、手ずから選び出した石を仕立てさせたものであった。
 秘蔵された夥しい宝石類の中から、王は何気なく、竜を象り、黄金細工で飾られた象牙の箱を開けてみた。もう、箱は何年も開けられたことなどないらしく、蓋は固かった。そして、誰に聞いても、いつの頃ミタンニ王家に納められたのか、知る者はなかった。大して重要な宝物とも扱われておらず、ただ棚の上に置き忘れられたように保管されていた。古参の財務官によれば、確かその中味は竜の眼球だとか、緋い石の玉だとかいわれているらしいが、王が苦労して箱を開けてみると、中に納められた一対の石は黒かった。
 竜の眼球か。なるほど、二つ揃っている。
 王はその深い黒さに、わが娘の瞳の色を見た。
 すまない、タトゥーキア。そなたには、こんな小国の王女に生まれてきたばかりに、意に副わない結婚を強いることになってしまった。わたしとて、決して喜んでそなたを送り出すわけではないのだ。
 目を閉じて何か物を思っている王の傍らに控えていた宮務官は、王の手の上にある小さな箱の中の石が、緋く光ったような気がして目を瞬いた。首を傾げてもう一度石をのぞき見たところ、石は黒かった。今のは気のせいだ。もともと黒い石なのだ。
 つまらないことを言い出して、王の気を逸らせていい雰囲気では、なかった。

 王はお抱えの飾り職人を召し、親しくその宝玉をイヤリングに仕立てることを命じた。
 王女を差し出してまで黄金を得なければ国を保てない不甲斐ない国王として、ただせめてもの心尽くしに、それをタトゥーキアに持たせてやりたかった。
 職人は大急ぎで、それでも念入りにイヤリングを仕立てた。元の箱にも内張りに手を加え、ぴたりとイヤリングが納まるようにして王に献じた。
 
 いよいよ輿が出立するに及んで、必死で涙をこらえて威厳を繕っている王の前に、割り込んで来る者があった。
 その無礼な少年は、王の太子であった。しかも太子は、このめでたかるべき場で、公然と今回の輿入れに異を唱えた。今回の縁組は、王女と黄金の交換に他ならない、というのである。王は重々しくその軽率な発言を制したが、太子は諾かない。 
 諸官の面前である。いかに太子とはいえ、このような無礼、場違いは許して置けない。王は、手にした鞭を振るい、太子を打った。鞭は、太子の顔面を襲い、傷つけた。王とて、まだ幼さの抜けない太子が、慕ってやまない姉との別れを嫌っているのは知っていた。
 この騒ぎを、輿の上から目の当たりにした王女は、弟の名を叫んだ。そして、わが右耳朶に着けたイヤリングを外すと、弟に向かって投げた。この王女もまた、可愛い弟に後髪を引かれる思いを隠している。王は、そのこともよく知っていた。
 己が心尽くしのイヤリングが片方、王女の本心を宿したように太子の掌中に飛びこむのを見た王は、それ以上、何もいわなかった。ただ、涙と悔しさをこらえ、必死で威厳に満ちた表情を保っていた。
 王女は、もう戻ることはない王宮を、後にして行った。
        
        ● ● ●

 権勢というものは、一瞬のうちに奪い去られることもある。別に、本人の油断や驕りばかりが原因ではない。どうにもならない理由で、己が権勢の基盤が忽然と消え去ってしまうこともあるのだ。それでも、そんなあやふやな基盤の上に権勢を築いたのはやはり本人の責任なのかも知れない。
 ならば、わたしはこの権勢、何としても維持してやる。粒粒辛苦の末に勝ち取った権勢が、そんなあやふやなものだったとは絶対に思いたくない。
 そうではないの。里では「三国一の花嫁」と持ち上げられながら、その実は黄金と引き換えに売られて来たのと同じわたし。世界一の大国の、王の妃になれるのだといい聞かされては来たけれど、妃と名のつくひとは、もう何十人もいた。そんな妃が、また一人増えたというだけの嫁入りだった。
 わたしだって、ミタンニの王女。ミタンニでは最高身分の娘だったはずだ。
 そのわたしが、この国ではぞろぞろと王の後に従う、何ということもない妃の一人に過ぎなかった。夫たる王陛下は、婚儀の翌日にはもう、ご自分でお与えになったはずのわたしの名前を、度忘れしておられた。そして、そのことを申し訳なさそうにさえ、なさらなかった。前夜には、床を共にした妃の名だというのに。
 そうですわね、これだけたくさんの妃の名なんて、いちいち覚えてもいられないのでしょうね。
 でも、わたしにはそれがどんなに悔しいことだったか。どれほどの屈辱だったか。
 だからわたしは、王陛下に絶対忘れられることのない妃になろうと思った。他の妃の名なんて全てお忘れになっても、ネフェルティティという名だけは片時もお忘れにはなれないようになっていただこうと思った。
 そのためには、何だってやった。王女の誇りをかなぐり捨てて、毎日毎日、陛下の前で卑しい娼婦のようなしなも作ってみせた。
 王陛下がご執心のお妃には、悪いけれど片っ端から醜聞を作って噂にしてやった。それでも王陛下がお庇いになるお妃には、池に転落していただいたり、コブラに噛まれて事故死していただいたりもした。王宮の奥深くに、勝手にコブラが入ってくるわけなんてないけれど、それで通ってしまうのだからいい加減なものだ。
 それもこれも、全ては里のことを馬鹿にされたくないからだった。ミタンニの王女ともあろうものが、エジプト王の許では数多い側室の一人。それだけは許せなかった。
 わたしには、決して人には自慢できない、大切な人がいた。弟だ。わたしには初めての男性だった。王陛下には悪いけれど、それが事実だ。
 王陛下は、そんなことは別に気にする素振りもなかった。寛容なのではなかった。とにかくミタンニ王女という札をぶら下げたそこそこの器量の娘が、自分のところに来たことを、臣民に、諸国に披露しさえすればそれでよかったのだ。
 わたしが、どんなことをしても王陛下の寵姫の座を奪い取ろうとしたのは、やがてミタンニの王になる弟を、遥かエジプトから盛り立ててあげたい一心だった。もし、どこかの国が、弟が統べる国に兵を向けようとしても、王の姉が大エジプトの王妃として無視できない権勢を持っていれば、そう軽々しくはミタンニに手は出せないはずだ。
 わたしは、そうして弟を守ってあげたかった。弟の方は、そんなものを当てにはしないだろうけれど。

 なのに。陛下はあっけなく、崩御してしまわれた。
 この国では、権力は全て王が掌握する。王妃の権威や影響力というものも、あくまで王があってこその「七光り」に過ぎない。
 だから、ここまで上り詰めたわたしの権勢も、もうおしまいだということだ。
 こんなことは、許せない。今まで、何のためにあんなに恥ずかしい、汚らわしい手を使ってまでこの地位に上ったの。それが全部無駄になったというの。
 里の父も里の父だ。言葉も通じない国へ売り飛ばしたわたしには何の後見もしないで、わたしが自分の力で権勢を勝ち得ると、エジプト王の外戚だという立場を公然と誇り始めたのだ。
 もう、あんな父は知らない。わたしはわたしで、この権勢を守り抜いてやる。
 そうだ。わたしは引き続き、王妃の座を守るのだ。いいえ、今度はただの妃ではない、わたしには息子に当たる、新しい王の正妃となって。
 そのためには、
王でも神でも、何でも利用してやるのだ。
 でも、弟はどんな顔をするだろう。わたしが、愛する弟から引き離され、望みもしない他の男のものになるといって、あれだけ憤り、悲しんでくれた弟。
 今度はもう、言い訳はできない。わたしは、自ら望んで、三人目の男・わが息子と結婚するのだから。
 マッティ。もう、いいよ。あなたも大きくなっているでしょう。あなたにもきっと、たくさんのお妃があるのでしょう。
 わたしはね、今、あなたが泣いて見送ってくれた結婚の相手に先立たれて、その葬儀のために、舟に乗っているの。ナイル河の水の上よ。
 そして、明日。わたしは新しい王に、正妃としてわたしを認めさせるの。そりゃ、あの子はもっと若い、可愛い娘をお望みだろうけれど、わたしの権勢が翳らないうちに、そしてその権勢が翳らないように、わたしは息子の押しかけ女房になるのよ。いやな女でしょう。あなたの姉上って。
 あの日、わたしが着けていたイヤリングの片方を、わたしはここに持っているわ。黄金細工の象牙の箱の中、イヤリングは片方だけ。この小さな空間が、あなたの許につながっているのだと、信じていたわ。
 でも、もういいの。わたしは、もう言い訳はできない。あなたに慕ってもらえる女ではなくなるの。なりふりかまわず、権勢にしがみつくことにしか興味のない、いやな女になるのよ。
 そんなわたしに、あなたと思い出を分かち合う資格なんて、ない。
 このイヤリングは、箱ごとこのナイルの底に投げ捨てるわ。
 さようなら、愛するマッティ。さようなら、わたしのミタンニ。

       ● ● ●

 ネフェルティティが、ナイルを航行する舟の上から、突然、イヤリングを箱ごと河に投げ捨て、侍女を呆れさせていたその様子を、河岸でふと目に留めた男がいた。
 男は、最初は尊い方が何か不要な品を投棄したに過ぎないと見たのであるが、それにしては、侍女にやらせずに手ずから投げたように見えたし、その後、侍女たちが大騒ぎしているらしい様子だったから、何か大切なものが河に投げ込まれたのではないかと見当をつけたのだ。
 もっとも、尊い方にしてみれば大したものではなかったかもしれない。だからこそ、侍女が大騒ぎをしても鷹揚にたしなめ、行ってしまったのだろうが、ものによっては下々の者には充分カネになる品かも知れない。

 「おい、ここだよ、さっきの場所は。」
 「ここって兄貴、間違いないのか?」
 「ああ、この石の上に立ってな、向こう岸に見えるあのピラミッドを見通す方角だ。距離は、ファールカがこの爪の長さに見える距離だ。ちゃんと見ておいた。」
 「そうか。この季節だ、川の流れだって大したことはない。物を投げ込めばどの辺に沈むか、見当はつく。
 しかし、その金目の物っていうのが信用しにくいんだよな。」
 「そりゃ、あんな王家のお方には惜しくもないから捨てたんだろうが、おれたちにゃ一生拝めないようなお宝かも知れないじゃないか。さ、舟を出せ。」
 「ま、兄貴がそういうんなら、行ってみるか。舟を出すぐらい、元手がかかるわけでもないからな。」
 「ああ、河にはおれが潜るが、舟の扱いはおまえの方が上だ。その代わり、儲けは山分けだ。」
 「当たり前だよ。」
 しばらくして、兄弟は舟を出し、河底から何やら金色の飾りがごてごてとついた小箱を拾い上げて来た。
 水を吸ったのか、その箱の蓋は固くて開かなかったが、なかなかいい細工には見えたから、兄弟はその箱を市場に持ち込み、ちょうど滞在していたバビロニアの隊商に売りつけた。そして、それぞれが背骨の折れそうなほど大きな麦袋を担いで、ほくほく顔で家に戻った。
 とはいえ、隊商としては随分買い叩いたのではあったが。

       ● ● ●

 バビロンの場末に、ごみごみとした市場があった。主に、諸国を巡る隊商が持ち込んだ商品を売りさばく場所の一つとされていたが、あまり上品な市場ではなく、どこの産品とも知れない怪しげな品がしきりに取引されていた。
 その一角に、今朝着いたばかりの隊商が荷を下ろした。エジプト方面まで足を伸ばして来たのだと自慢していたが、荷の中にはヒッタイト正規軍の軍服や、どう見ても高貴な人物の墓に副葬されたとしか思えない葬具まであり、どこから手に入れたのか、聞いても信用しない方がよさそうな品ばかりであった。
 この市場を、これまた高級そうには見えない神官がぶらぶらと歩いていた。そして、今朝エジプト帰りの隊商が着いたと聞いて、野次馬根性丸出しで冷やかしに向かった。
 神官は、何に使うのかよく判らない木製の容器や、宝石の原石だと称する怪しげな石塊をいじくり回していたが、ふと、乾いた泥のついた小箱のようなものに目を留めた。
 一瞬、目を輝かせた神官は、その眼光を気取られないうちに退屈そうな表情を作り、その箱に手を伸ばした。振ってみると、微かに何かが入っている手ごたえがあった。
 神官は、「この汚い箱は何だね。」と商人に問い掛けた。
 「さすがは神官さま、なかなかお目が高くていらっしゃる。それはね、さるエジプトの神殿が、建替になるっていうんで放出した宝物の一つですよ。ほら、エジプトの神像があしらってあるでしょう。それはお求めになっといてご損は行きませんよ。」
 神官は腹の底で、ふふん、と笑った。どこがエジプトの神像だ。どう見ても東方系の竜の意匠ではないか。それよりも…
 「さあて、どうだかな。蓋が固くて開かないじゃないか。まあ、珍しいものには違いないな。
 ちょうどさっきな、船方の親父と賭けをしてえらく勝っちまったんで、懐が重くていけない。買ってやるぞ。」
 商人は、思い切った高値を吹っ掛けてみたのだが、神官は別に惜しげもなく金を払い、にやりと笑って雑踏に消えていった。

        ● ● ●

 市場を離れた神官は、表情を改めると小走りに神殿へと戻った。
 決して真面目ではなくとも、とにかく神官である。その箱の彫刻にどんな意味合いがあるか、おおよそ見当はついた。
 彫刻は「イルヤンカ」であった。するとこの中にあるのは、竜の霊力が込められた呪法具が入っているに違いない。箱自体の素材も細工も、本物だ。まさかこれほどの箱に、いい加減な呪法具を納める訳がない。
 神官は、大急ぎで書簡を認めた。宛先は、バビロニア王女にして神官、今はヒッタイトの皇妃たるナキア。昔の誼と潤沢な手当で、この神官を故国に於けるわが喋者として使っている人物である。
 宗教関係者らによる通信網に乗せられたこの書簡は、程なくナキアの手元に届いた。
 箱の大きさ、形状、材質、意匠、そして箱を振ると中から聞こえる硬質の音。
 事細かに記された特徴から、ナキアはこれを「イルヤンカの眼」と判断した。
 無論、扱う者に相当高度な神官としての能力がなくてはならないが、この秘宝には人の心を自由に操ることのできる霊力がある。ナキアとて実物を見たことはなかった。しかし、充分それと判断することはできた。

 ナキアは、即座に返書を認め、その箱を密かにわが許へ回付することを命じた。もちろん、その中味が持つ意味など説明はせず、「何か知らないが、ありがたい神のお導きを感じた。そのような品なら、わたくしは神官の務めとして、ぜひ自分の手で護持したい」とのみ記し、その代わり、命を果たした暁には、神官が一生楽に暮らせるだけの報酬を与えることを添記するのを忘れなかった。

         ● ● ●

 神官は、ナキアからの書簡を受け取ると、その日のうちにバビロンを抜け出す支度を始めた。「密かに」と念を押された用件だけに、正式に旅に出るという手続きも出来ず、商人に身をやつし、適当な隊商に同行させてもらって密出国する手を選んだ。隊商の頭には相当の謝礼を支払う必要があったし、復路の保証はない。しかし、用向きを果たせば手に出来るはずの報酬からすれば、そんな謝礼金などほんの端金だといえたし、報酬が手に入れば無理をしてバビロンに戻る必要はない。もともと、神官という商売も、口に糊するためにやっているだけのことだ。惜しい地位ではない。帰れなければ、どこか暮らし易そうな国で家でも買って、のんびり遊び暮らせばいいのだ。
 どうしても帰りたくなれば、またはナキアに帰れと命じられれば、質の悪い隊商に拉致され、遠い国を引き回されていたのを脱出して来たのだ、といえば通る。そんな場合にも、どこにどう手を打てばいいか、神官は心得ていた。仮にも喋者なのだ。密航ぐらい訳はない。
 神官の、いや、「初めて国外からの直接仕入れに乗り出すバビロンの商人」の旅は、順調であった。頼った隊商の頭も、新しく自分の傘下に商人が増やせるのが満足らしく、何かとぎこちない、いかにも訳ありげなこの「商人」の世話を焼き、恩に着せた。

 一行は、商売になりそうなあちこちの町を経由しながら、東アナトリアに差し掛かっていた。そして、明日はヒッタイト人相手に大取引だ、前祝だ、と称し、皆たらふくビールを飲んで野営の床に就いた。商人に身をやつした神官も、日頃から、万一破損したり、盗られたりしては大変だというので、偽装を兼ねて緩衝材代わりにたっぷりと麦を詰めた袋に件の箱を忍ばせたものを枕に、高いびきをかいていた。
 皆が寝静まった頃、この隊商は密かに追摂して来た盗賊の一団の襲撃を受けた。一同しこたま酔い潰れた寝惚け眼では満足な応戦もできる訳がなく、一行は一人残らず、荒野に哀れな骸をさらした。
 この盗賊団は、実はミタンニ軍の通商破壊部隊であった。部隊はその作戦の意図を秘匿して盗賊の仕業らしく偽装するため、商品らしき物は全て鹵獲し、基地としたマラティア城に持ち帰った。
 もちろん、慌てて逃げようとして後から斬撃を受けた隊商の一人が、最後まで何やら後生大事に抱えていた麦袋も奪われた。
 とはいえ、本当に金目当ての盗賊ではないから、鹵獲品は雑然と城内の倉庫に放り込まれ、そのうち折を見て指揮官に処分の伺いを立てようという程度の扱いであった。それよりも当面、軍は迫り来るヒッタイト軍との戦闘にこそ、全力を傾けるべきであった。



原典をご愛読の各位には容易にお察しのことと存じますが、第4巻・115ページに初出の<イルヤンカの眼>と、第7巻・24ページでその由緒が明らかにされた「マッティワザの額飾り」にまつわるお話です。
 長くなったため、前後編に分割して掲載することとしました。
 後編へは下記からお進み下さい。


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