側室だった頃から変わらない少年のような軽装のユーリが、装いを改められてゆく。
ハディは、ユーリの衣裳を替え、髪を整え、今、頬に紅を掃いていた。
「お髪、だいぶ長くなりましたわね。あいかわらず、しっとりとつややかな黒髪…」
「ううん、でもね、あたしの髪って、波打ってるでしょ? 素直じゃなくてさ。もっとハディみたいに、まっすぐさらっと流れる髪だったらよかったのに。…やっぱり伸ばすの、やめようかなあ。」
「そんな。せっかくがんばって伸ばされたのに。」
「それにさ。昨夜ね、…白いのが一本、見つかったんだよ。しっかりリュイに見られちゃった。年取ったなあ、あたしも。」
「もう。急におばあさんになられたようなお口ぶり。白髪ぐらい、誰にだって探せば一本や二本ありますわ。ご自身ではお気づきではないかも知れませんけれど、ユーリさまのお髪って、たいそう太くてお健やかなんですのよ。」
「太い、って、褒めてくれてるわけ?
でも、ほんとに年は取ったわ。何しろデイルがあんなに大きくなったんだからさ。もう、ピアやヤズたちと遊ぶのに夢中で、母親なんていつもおいてきぼりよ。
学問は学問で進んでるんだけど、その分また、生意気になって…
ちょうど、あの頃のティトぐらいかな。ティトはあんなにしっかりしてたのに…」
「いいえ。まだティトの方が大きかったですわ。…生きていれば今頃…」
「あ。
ご、ごめんなさい、ハディ。あたし、つい…」
「そんな、とんでもない。…いいんですのよ。ええ、もう遠い昔のお話ですものね。」
「ふふっ。…ほら、ハディだって。」
「あら、いやだ。わたし…」
「いいじゃない。お互い、年だって取るわよ。年取ったからって、悪いことばかりじゃないもん。」
「さ、できましたわ。
今日はちょっとお髪の型を変えてみましたから、あまり弄り回したり、乱暴に駆け回ったりなさらないでくださいませね。」
「解ってるわよ、もう。あたしだっていつまでも子供じゃないんだから。
…あ、いけない。忘れ物だ。ハディ、悪いけど文書庫へ行って、昨日請求しておいた資料、借り出して来てくれない? 忘れてた。」
「解りましたわ。ちょっとここでお待ちくださいませ。代わりにシャラを寄越します。」
「いいよ、お付きなんて。あたし、一人で先に行ってるから。」
「まあ。皇妃陛下ともあろうお方が、お一人でご政務にお出ましなんて。」
「いいんだってば。早くしないと、カイルが先に出ちゃう。さ、行くよ!」
「はいはい。お時間までにはお届けしますわ。」
水面に浮かぶ睡蓮の葉を揺らして、ぶくっと泡が沸きあがった。
ざばあっ、という音と共に身を起こしたのは、二人の少年であった。
「ははは、ぼくの方が少し、長かったな。」
「どうしてですか。ぼくは、兄上が飛び出したのを見て飛び出したんですから。」
「そんなことはないよ。ぼくはこうして、ピアが飛び出すのを下から見たんだから。」
「違いますよ!」
「よおし。じゃあ、もう一回勝負だ。」
「望む所です。いち、にの、さん!」
腰布一丁で水遊びに興じる二人の少年は、再び水面下に身を没した。どちらが長く潜っていられるか、競っているのだ。
睡蓮の葉が、つややかな表面に無数の水玉を輝かせて、揺れていた。
石で畳んだ水底に薄く溜まった泥が、静かに舞い上がって身体にまとわりつく。
水底に並べられた睡蓮鉢の間に見える水面はゆらゆらと揺れて、黒い葉の鋭い切れ込みの間から、きらきらと射し込む陽の光が眩しい。
隣を見ると、ピアが頬を膨らませ、口からぷくぷくと泡を出しながらこちらの様子を窺っている。
あいつ、いつの間にこんなに潜れるようになったんだろう。…もうだめだ。
デイルが、ざばあっ、と、水面に躍り出た。
「うわっ!」
運悪くその時、池のほとりを年配の女官が一人、通りがかっていた。女官は、突然池の中から黒い影が飛び出したのを見て、目を丸くして立ち竦んだ。
今度はデイルに勝っていたピアも、何事かと思わず顔を出した。
「あ、ごめん。」
「で、デイル殿下… またおいたですの!? …もうお身大きくなられたというのに、いつまでも全く… お風邪を召しますわよ、水遊びなどなさっていると。」
大きな壷を抱えた女官は、忙しそうに立ち去ってしまった。
たった今、ごめん、と謝ったはずのデイルが、ピアを振り向いてにたりと笑った。
「ピア、今の顔、見た?」
「見ましたよ兄上。いつもはあんなに訳知り顔で澄ましてるくせに、目をまん丸にして驚いてましたね。」
「ふふっ、いいことを思いついたぞ。次に誰かが来る気配がしたら、二人して潜るんだ。で、ちょうどこの前へ来たとき、一緒に飛び出そう。」
「うん、もう一度、誰かを驚かせるんですね。やりましょうやりましょう、兄上。見つからないように、池の底にへばりついてるんです。
あ、そうだ。わざとぴしゃっと音を立てて、葉の間からにゅっ、と手を出すなんてどうですか?」
「うんうん、それもいいかもなあ。…おい、昨日ぼくたちが塀を乗り越えて神殿に忍び込んだのを母さまに告げ口した、あのアダが来るといいな。」
「仕返しって訳ですね。でも、姿を確かめてから潜ったんじゃ相手も気付きますよ。誰か来る気配がしたら、さっと潜って、待ち伏せしないと。」
全く、懲りていない。
年も取る、か…
ふっ、と小さな溜息を漏らしたユーリは、髪飾りの房にちょっと手を当ててみてから、一人、部屋を出た。
若かったなあ。恐いもの知らずで、向こう見ずで、こうだと思えば何だってやってた。いくら元気だからって、鍛え抜いた兵士たちといっしょになって、本気で真剣を振り回してたなんて信じられない気がする。
あの頃の切り替えの早さ、瞬発力。…若さ、そのものだったんだなあ。
その点、カイルはさすがだわ。相変わらずぎらぎらしてる。力強さと鋭さの塊だ。
ま、カイルは男だもんね。あたしと比べちゃ、悪いかな。
でも何だか、信じられないな。ここに今、こんなに平和な暮らしがあるなんて。
決して、好きでやって来た国じゃない。日本でなら今ごろ、あたしは何をしてるんだろう。パパ、ママ、お姉ちゃん、詠美… ごめんね。何も親孝行できなくて、心配かけちゃって。日本を、家族を忘れたわけじゃない。忘れたわけじゃないんだけど…
あたしは今、とっても幸せなの。突然、訳も解らないまま攫われて、みんなと暮らす楽しい毎日も、あこがれの高校生活も、何もかも奪い去られて… 辿り着いた国なのに。
でも、もうたくさんだ。あんなに恐しい、心細い思いは。もう嫌だ。大切な人たちの側から、カイルの側から引き離されるのは。
決して平穏ではなかった過去への感傷に浸りながら、ユーリはテラスに差し掛かった。ピロティの庇が作る影の下から中庭へ出たユーリの姿が、陽光を浴びて白く輝いた。
胸を張り、長い純白の裳裾を引き、視線をまっすぐに据えて静かに歩を進めるユーリの揩スけた姿は、紛れもない大ヒッタイト帝国の皇妃そのものの威厳に包まれていた。
ぴちゃん。
えっ?
小さな水音を耳にして、鷹揚に池の水面に目を向けたユーリが、びくりと立ち竦み、そろりと半歩後退ると、大きく悲鳴を上げた。
「きゃぁぁぁっ!!」
暗雲のように泥が湧き上がり、風もないのに俄かに波立った水面を破って四本の腕が飛び出し、ユーリの方へ伸びてきた。
ユーリの意識が、凍りついた。
「いや、いやあぁぁぁっ!!」
思わず池のほとりにうずくまった。頭を抱える刹那、ユーリの視界の片隅に、ぶちまけるような水音とともに立ち上がる、黒い影が捉えられた。
いや、いや、もうゆるして、もうかんにんして!
石畳にひれ伏すように身を丸め、目を固く閉じてぶるぶると震えるユーリの頭上で、聞き慣れた声がした。
「か、母さま!」
「あっ、ごめんなさい! 母さまが来られるなんて…」
わが息子たちの声である。
こわごわと上げられたユーリの顔は引き攣り、あまりの反応の大きさに驚いてきょとんとしていたデイルと、上目遣いの視線を合わせたユーリの目は、狂ったような光を帯びていた。
「ご、ごめんなさい母さま、いえ、皇妃陛下! …でも、そんなに大袈裟に驚かれなくとも…」
ユーリは、事の次第を飲み込むや、今度はすっくと立ち上がり、息子たちを睨み据えた。両の拳を固く握り締め、全身をぶるぶると震わせている。
「なんてことするのっ、この人でなしっ! 悪ふざけもいい加減にしなさいっ、このばかっ! いくらいたずらだって、やっていいことと悪いことがあるのが解らないの!? こんな、こんなとこから突然手を出すなんてっっ!
あたしは、あたしは…」
「おいこらぁっ、何かっ!」
悲鳴を聞きつけた近衛の兵が、抜身の槍をひっ掴んで池のほとりに駆けつけて来た。屋内にいた女官らも、通りすがりの文官も、神官も傭員も、わらわらと集まって来る。
皆が見たものは、呆然として池の中に立った二人の皇子と、その池のほとりにうずくまり、顔を覆って泣きじゃくっている皇妃の姿であった。
「これは皇妃陛下… な、何事でありますか。殿下方もまた、どうしてそんな所に立っておられるのでありますか。」
当惑した近衛兵がおろおろとあらぬ方へ槍の穂先を迷わせていると、皇帝ムルシリまでが姿を現した。
「何事か? 今のはユーリの声ではなかったか?」
うずくまったまま、えっ、えっ、と嗚咽し続けているユーリの姿を認めたムルシリは、思わずマントを払って池のほとりへ駆けつけた。
「どうしたんだユーリ!」
「か、カイル… うわあぁぁん!」
出でては鬼神をも哭かしむる数々の武勲に輝き、入りては仁愛行き渡らぬ隅もなく、臣民の讃仰を一身に集める皇妃が、伝説の奇跡の女神が、皇帝の胸にむしゃぶりついた。そして、幼女のように号泣しているのである。
皇帝と共にこの場に駆けつけた元老院議長イル・バーニが、その二人の姿を隠そうとするかのように諸官の前に立ちはだかり、手短に指示を与えた。
「大したことではない。この場はわたしが預かる。ご苦労であった。各自配置に戻れ。
それからデイル殿下、ピア殿下。恐れながらこの場は臣にお任せくださり、とりあえずお部屋へ。…おい。」
ようやく駆けつけた傅育官が、イル・バーニの目配せを受け、母親の異様な取り乱し方に呆然としている二人の皇子を池から上がらせ、飛び石の上に放り出してあった布で手早くその身を拭い、脱ぎ散らかしてあった服を着せて後宮へと導いた。
イル・バーニ自身も、恥も外聞もなく泣きじゃくる皇妃の身体を必死で抱きしめ、最早周囲の様子など全く目に入っていない皇帝に一礼して、池のほとりを離れた。
幸い今は両陛下にご裁決いただかねばならぬ火急の用件もないし、今日のご政務は明日に延期だ。日程を調整させよう。いつまで経っても手間のかかるお二方だ。
「ユーリ、何があったか知らんが、もうだいじょうぶだよ。…さ、おいで。」
ユーリの泣き声が低くなった頃、ムルシリはユーリの肩を抱いたまま、池のほとりに腰を下ろそうとした。
「ここはいや。…だって池があるから…」
「ここは、昔から池なのだが… よし、中へ入ろう。」
「うん。…抱っこして。」
「な、何? よし、…こうか?」
ムルシリは、妻の身体を軽々と抱き上げると、妻の部屋に足を向けた。
何だ、この甘え方は。若い頃でさえ、ここまで甘えたユーリなど見たことがない。まるで幼女に戻ったような… そういえば、わたしはユーリの幼女時代を、この国に来るまでのユーリを知らないのだ。
「カイル? ほんとにぜったい、ふつうのカイルだよね?」
「何を言ってるんだ? ああ、わたしだ。間違いはない。」
「カイル!」
ムルシリに抱き上げられ、ムルシリの首にしがみついたまま自室に帰ったユーリは、ムルシリと並んで寝台の縁に腰を下ろしていたが、またムルシリの胸に頬を当てて、しっかりと抱き付いた。
一体何があったのだ。このユーリが、かくも異様な脅え方をするとは。
胃の辺りに押しつけられた柔らかなユーリの胸の感触と、衿元から潜り込むような熱い息を感じながら、ムルシリはユーリの腰を抱き、大きな掌でユーリの背中を撫でてやっていた。
「そろそろ落ち着いたか、ユーリ。
この王宮にいる限り、わたしの側にいる限り、おまえがそんなに脅えなければならないことなど、何もない。いついつまでも、何もないのだ。
増しておまえは、立派な『お母さん』なのだぞ。堂々と、気を大きく持っていればいい。」
「だって…」
ようやくわが胸から上げられたユーリの顔を、ムルシリはのぞきこんだ。
どういう構造がどう崩壊したのか、ムルシリには見当がつかなかったが、形よくまとめられていたのであろう頭が、あちこちほつれて大きく左へ傾いている。そしてその基部から、編まれた髪が一束、だらりと落ちて頬にかかっている。
その顔を見れば、何かよく知らないのだが、灰色の微細な粉末がどろどろとあちこちで斑にこびりついている。
とても人前には出せない。ぐしゃぐしゃだ。
「あのね。デイルがね、ピアもよ。
あの子たち、あたしのことなんか母親だとも思ってないのよ。いくら叱ってもいたずらは止めないし、あたしのことなんか、馬鹿にしてるんだ!
カイルが甘やかしてるからじゃないの?」
「何を言うか。わたしは子供らを甘やかしたりはしないし、デイルもピアも、おまえを馬鹿にしたりなどしないはずだ。」
「馬鹿にしてるよ! あたしなんか、ほんとは皇妃なんて柄じゃないって知ってるんだ! 知っててからかって泣かせて面白がってるんだ!」
「一体何の話かまるで解らぬではないか。一体何があったのか、落ち着いて話してみろ!…な。」
「だって、だってあの子たち…
あたしが、あたしが池のほとりを通りがかるのを待ってて、池の中に隠れてて、あたしの方にいきなりにゅっと、水の中から手を出すのよ! いくらいたずらだって、ひどすぎるわ!」
「う、うむ。
…いや、あいつらにしては、おとなしいやり口だと思うが… そんなにびっくりしたのか。」
「だって… びっくりするわよっ! びっくりするに決まってるじゃないっっ!」
「わ、解った解った! …よしよし、そうだな、びっくりしたんだな。かわいそうに。」
ユーリがむきになり始めるのを思わずあやしつけながら、ムルシリはまたむしゃぶりついて来たユーリの手を握ってやった。
ムルシリには、本当に訳が解らなかった。最近はご無沙汰しているとはいえ、往時は修羅場を疾駆すること縦横無尽、自ら握った鉄剣でまつろわぬ者どもを斬り伏せること数知れず、わが手に掛けた生身の人間が噴き出す鮮血を己が身に浴びながら、にっこりと微笑んで兵を督励していたユーリ。背中に矢を受け、手当も許さず死の砂漠を踏破して生還した女丈夫。それがどうしてその程度の他愛もない、毎度珍しくもないいたずらにかかったぐらいで泣きじゃくっているのか。
ムルシリの膝に顔を伏せて、またひとしきり泣いたユーリが、そっと顔をあげて、鼻をすすりあげた。ムルシリの白い装束に、涙と共に灰色と紅色と黒が斑になすりつけられている。
「ごめんね、カイル…
えへっ、大騒ぎしちゃった。マリエより、あたしの方が赤ちゃんみたいだね。」
「いや、かまわないよユーリ。怖いのなら、いくらでも泣いていい。わたしの胸でなら、気が済むまでいつまででも泣いていていいんだぞ。マリエなら、乳母が見てくれている。
全く… おまえをこんな目に遭わせた奴など、デイルでなければその場で胴と首を別々にしてくれるところだ。」
「だめっ! もう、誰も斬らないで! もう、誰にも、もう…」
「わ、解った解った。今のはものの譬えだ!
…ユーリ。
もし、もし気分が悪くなかったら、…教えてくれないか。無理にとは言わない。言わないが、どうして、何がそんなに、怖かったのか…」
「うん…」
ユーリは、消え入りそうな声で応じると、ムルシリの膝から身を起こし、唾を飲むような仕草を見せてから、髪をかき上げ、落ちかけた髪飾りを外した。
そしてうつむき、唇を噛んだまま、しばらく黙ってその髪飾りを膝の上で弄り回してから、また唾を飲んで、訥々と話し始めた。
訳も解らないままに、この国に引き込まれるまでのこと。家族の愛に包まれ、恋に目覚めて心ときめかせ、夢が現実になった満ち足りた日々。その日々の中、突然起きた小さな怪異。そして怪異は再度、三度。美しい熱帯魚の泳ぎ遊ぶ水槽から、何の脅威もないはずのわが家の浴槽から、そして最後には、恋人と甘いひとときを過ごしていた平和な公園の水溜りから。
ユーリの平和な、満ち足りた毎日を、そして希望に満ちた将来を奪い去ったのは、水の中から伸びた「手」だったのだ。
ムルシリは、この国に来るまでのユーリのことを、よく知らなかった。ユーリのそんな心の傷には、気付かなかった。泳ぎが得意だと自慢していたユーリ。本当に、わが目の前で本当に泉から現われて見せたユーリ。そして何よりも、現にあの睡蓮の池に飛び込んで、水と戯れていたこともあるユーリに、そんな心の傷があったとは。
「そうだったのか。ナキアが、な…」
「うん。あたしだってもう、さっぱり忘れることができたつもりだったの… でも、ちょうどたまたま、ふと、ね、もう、あんな目に遭うのはいやだ、なんて、考えていたところだったから…」
「よく解ったよ、ユーリ。 …恐かったな。」
「カイルは、魔法が使えるんだよね。…人を招び寄せたらどうなるか、知ってるんでしょ?」
「ううむ… まあ、漠然とはな。
わたしは人を招び寄せたことなどないが、招び寄せる方法は心得ているつもりだ。しかし、招び寄せられる側の人間の気持がどんなものか、考えたこともなかった。…わたし自身に向けられた魔法なら、こちらで解いてしまえばいい。大した手間でもない。まあその前に、そんなものは大抵知らず知らずに封じてしまっていたようだが…」
ムルシリも、母譲りの「魔力」なるものを身につけている。それも生まれつき身についていた素質のようなものだから、母や、周囲の者に何度も指摘されるまで、そんな自覚もなかった。母の導きでその素質を伸ばす訓練をさせられたとはいえ、ムルシリ自身、魔法などという辛気臭いものよりも、剣を揮って決着をつける方が性に合っていたから、これまで現実に物事を片付けるのに己が魔力を発揮した経験といえば、後にも先にも一度だけだった。その時も一応、役には立ったが… まあ結果としては、無事に片が付いた。
とはいえムルシリは、一方的に魔法を掛けられる側の恐怖や困惑など、考えたこともなかった。
「いいなあ、カイルって。強くて、かっこよくて、頭もよくて、何でも知ってて、やさしくて、政治も上手で… その上、魔法まで使えて。あたし、カイルになっちゃいたい…」
「おまえは、わたしになどならなくてもいい。ユーリはユーリだから、わたしのかけがえのない妻なのだ。魔法などという得体の知れないものは、使えなくてもどうと言うことはない。」
なるほど、得体が知れない。第一、魔法が使える素質がどうして身についているのか、わたし自身にも説明はつかないのだ。ナキアがあれだけ魔力を振り回していたのだから、バビロニアにはそういう特技を持つ者がうようよいるかと言えば、そうでもない。ジュダだってそんな様子は微塵も見えないどころか、自身が手もなく魔法に掛けられてしまったことさえある。
ネピス・イルラ姉上だって、わたしの母とは赤の他人だ。父にそんな素質があったとは聞いたこともないし、第一、姉上とは実の兄妹であるはずのロイス兄上にも、魔力など持つ様子は全くない。
その点、イル・バーニなど大したものだ。自身は魔力の欠片も持たないようだが、ナキアの魔法と渡り合っていた頃にも、徒らに魔法を恐れることなく、仕掛けられた魔法の様子を冷静に観察し、その運用上の限界や弱点を探り当てては対策を講じていた。
そして剰え、魔力で人を操るナキアに対抗して、あのウルヒを操るに謀略を以てし、見事にわが企み通り、ユーフラテスに架けられた橋を焼かしめて見せたことさえあるのだ。
ナキア自身でさえ、いざわが腹を痛めた実の息子が服毒して生死の境を彷徨っているとなると、魔法などどこへやら、専ら薬学の知識でそれを救ったのではなかったか。
それを言うなら、ユーリも…
「なあユーリ。わたしはな、おまえにだって魔力を感じることがあったのだ。」
「あたしに…? そんなの、かいかぶりだよ。」
「いや、違う。
おまえが、わたしでさえ想像もしていなかった鉄というものを、一目で見分けた、というのがまず、そうだ。」
「あれは、さ… 最初は、あの古ぼけた剣が鉄だから強い、なんて思ったんじゃないのよ。何だかあれってちっちゃくて、みすぼらしくて、何となくあたしに似つかわしいんじゃないかな、って思っただけなの。
第一、まさかこの時代の剣が鉄じゃないなんて、思いもしなかったんだもの。」
「それでいいんだ。勘、というものだ。
勘というものは、放っておいて養われるものではない。意識するとせざるとに関らず、一定の知識と観察力によって身につくものだ。考えようによっては、おまえのはこの世ではできないはずの修行の成果だな。
それに、あの七日熱騒動の時だ。おまえは熱一つ出さず、病を消除した。」
「あれだって。日本で受けた予防… 何て言うのかな、とにかく病気にならないような身体に、してもらってただけのことなの。」
「それだ。ニッポンという国は、驚くべき技術と知識を持った国らしいな。その上もっと驚くのは、持てる知識が広く応用され、実用されているという点だ。わたしたちが魔力と称するものだって、いずれは理屈で理解され、実用に供すべき技術が開発される日が、来るかも知れない。…三千年先か、四千年先か、いつになるかは見当もつかないが、な。
ハッティを見ろ。現に、わたしたちが天から下しおかれるを待つしかない、有難い奇跡の素材だと信じきっていた鉄を、地上で、人の手で作り出す技術を開発していたのだぞ。」
「…そう考えれば、そうかもね。」
そうかも知れない。タイムマシンだって、何とか空間を利用すれば本当にできる可能性がある、なんて書いてある本も図書室にあったもんな。…そんなの、真剣に読んだことなんてなかったけど。
でも、電気だって電話だって、飛行機だって、エアコンだって。ある意味「魔法」よね。ここへ来るまではあたりまえみたいに思ってたけど。…そんなものなくたって、別に困ることもないのよね。
「魔法か、技術か。それを分けるのが、学問の水準なのだろうな。
新しい技術が生み出される元となるのは、経験から導き出される発想だ。それに客観的な説明をつけていくことで、その技術は普遍化し、系統化する。するとまた、どこかで新たな発想が生まれる。それが学問というものの実際的な意義なのかも知れない。
経験上生み出され、実用されているのに、学問の方からは未だ説明がつけられない技術。魔法というのは、そのような技術を言うのではないだろうか。
そういえばジュダなど、そのうち大予言者になるかも知れないぞ。何しろまだ狂っていない暦がどう狂うかを予測する、などと大真面目だし、日中突然太陽が欠けて、夜の闇が地上を襲うと聞く恐ろしい凶兆でさえ、ただの天文現象なのだから今に予報を出して見せる、などと息巻いてるぐらいだからな。 …もっとも今のところ、大方はクントゥラヒあたりの受け売りだろうが。
そのくせ、天文学を専攻していて肝心の占いはといえば、あんなものは天文寮が受け持っている形式だけの儀礼に過ぎませんよ、兄上のご都合が予め判っていれば、吉兆でも凶兆でもご都合に合わせていくらでもこじつけて差し上げます、だと。
まあ、それでも寝食を惜しんで、自ら志した学問に没頭している。わたしなどには到底真似のできない、ジュダの美点だよ。」
「ねえ。今言ってた鉄の話だけど、カイルは、ハッティが鉄を作るのは魔法だと思わなかったの?」
「当初は、そう思った。ハッティは、神に選ばれた聖なる一族なのだ、とな。
しかし今は違う。魔法と技術との、判然たる違いに気付いたのだ。
もし、ハッティの製鉄技術が魔法なら、ハッティの一族にしか鉄は作れないはずだ。
しかし現実には、確立した手順さえ忠実に踏めば、誰がどこでやっても鉄はできる、そういうものなのだそうだ。…だからこそ、そうあちこちに競合する製鉄産業が興らないように、機密保持に神経を尖らせているのではないか。
しかし、魔法は違う。偶然備えた素質を持つ人間にしか使えもしないし、説明のしようもない。…その説明がつき、条件さえ整えば誰にでも使える技術が開発された時点で、魔法は魔法でなくなるのだろうな。
おまえの言う、この時代、だの、にじゅっせいき、だの、よく解らない時間の流れを飛び越えることだって、いくら高度な理論でもいいから、理論的に説明できるようになれば、いつかはその理論は技術として応用されるだろう。たとえ、そのにじゅっせいきとやらの、まだ未来の話だとしても、だ。」
「…もう、二十一世紀かな、日本は…」
「そもそもその、何せいき、という概念からしてよく解らん。」
「そりゃ、そうだよね。
…ま、いっか。
あたしがカイルの奥さんで、カイルはあたしだけのだんなさま。それだけで、…それだけで、あたしは幸せ。」
ユーリが改めて、ぴとっ、とムルシリの胸に頬を寄せた。
「ああ、それでいい。…だからユーリ。
あの、な。
その、ナキアもそうだが、違う世界から人を招ぶ魔法… そんな術なのだがな。
もし、その、ニッポンとやらで、このヒッタイトまでおまえを迎えに来る技術が実用化されて、されてしまってだな、もし、ヒムロとかいう男が、おまえを迎えに来たとしてもだな… 今、現におまえはわたしの妻なのだから…」
ユーリは、ぽかんとしてムルシリの顔を見た。
「ああっ、カイルったら! まだ妬いてるんだぁ!」
高い声を上げたユーリが、両手でムルシリの胸を突き放した。ムルシリの逞しい胸は微動だにしない。逆に寝台に下ろしたユーリの腰が、ぽん、とムルシリの側から跳ね飛んだ。
「何と乱暴な…」
「ばかな心配なんかしないのっ!! タイムマシンなんて、そう簡単にできるもんかっ!」
「しかし、もしそのたいむ云々、万が一、発明されてしまったら…」
「発明されませんっ! 発明されても、カイルが心配することなんて、ありませんっ!」
「…ぷっ!
ははははは。よし、機嫌が直ったな。」
ユーリは、はっとして頬を押さえた。そうだ、あたしは泣いてたんだ。
いけない! 政務を忘れてた。…何だっけ? そうそう、最低賃金法の特例措置だ。よくわかんないから、ハディに資料を取りに行かせたんだった!
「お化粧、直してくる。」
ついっ、と腰を上げたユーリの裳裾を、ムルシリが掴んだ。
「直すんじゃない。落とすんだ。…久しぶりに、昼間のおまえの素顔が見たい。」
「だって政務でしょう、例の法案の趣旨説明もあるのよ。二人して出かけないと…」
「今日の政務は中止だ。大方イルが、その手配をしてくれているだろう。…でなければあいつのことだ、今頃やいやいと急かせて来ているはずだ。」
「そ、そうなの? …相変わらず手回しいいのね、イル・バーニって。
でも、マリエがそろそろ…」
「たまには乳母や傅育官らにも、まともに仕事をさせてやれ。そもそも皇帝や皇妃が、いちいち育児に振り回されていること自体が異例なのだからな。
それでも明日になったら、わたしはあいつらを叱り飛ばしてやるが。
だから、ユーリ。
せっかくの機会だ。たまには政務も、子どもたちのことも忘れて、二人で過ごさないか。」
「うん… それも、そうだね。
でも、ちょっと待っててね。すぐ戻るから。」
昼間の素顔、なんて言われると… 改めて意識しちゃうじゃないか。でもほんとに久しぶりだ、こんな時間から。
ユーリは、裳を掴んだムルシリの手をぱんと振り払って、それでもいそいそと次の間に向かった。女官たちはみんな遠慮して退ってるだろうけど、お化粧ぐらい自分で落とせる。
今の明るさなら、盥の水に顔が映して見られるもん。…もう、水なんか怖くはないぞ。
髪も、ばっさり解いちゃえ。…やっぱり、伸ばすのやめよう。あの頃のままに。
「ああ。…なるべく手早く…
そうだ、わたしも行こう。久しぶりで、いっしょに湯殿へ…」
「いいからっ! とにかくそこで待っててっ!」
「ははははは!」
ムルシリも立ち上がって、マントを脱ぎ、剣を外した。
全く、ユーリのおかげで。わたしも相当狼狽していたのだな。剣を佩いたまま寝台に腰を下ろしていたとは。
「お呼びですか、デイル殿下、ピア殿下。」
「うん… さっきはごめんなさい、イル・バーニ。」
「故意に人を驚かせるなど、よいご趣味ではありませんな。しかもそのようないたずらばかりしておられると、本当に火急の事態が発生した場合に、誰も本気にしなくなってしまいます。ああ、また殿下方のいたずらだろう、と思われてしまうのですぞ。」
「はい。…でも、まさか皇妃陛下が、母さまが女の子みたいに悲鳴をあげて、泣き出されるなんて… ちょっとふざけただけなのに…」
「軽い気持のいたずらでも、される側の心は大きく傷つく。それはよくあることです。とくと反省なされませ。」
「はい、反省します。
でね。今から、両陛下にお詫びを申し上げに伺おうと思うんだけど、その…」
「何ですか。」
「その… 何となく、おっかなくて、ううん、叱られるのは当たり前なんだけど…」
「要するに、わたしにお供せよということですな。」
「う、うん。…そうなんだ。」
「かしこまりました。進んでお詫びに伺おうとは潔いお心がけです。
…しかし、今日は見合わせましょう。明日の午後になさったがよろしかろうと存じます。」
「ど、どうして? 過ちの償いは早い方がいいって、いつも…」
「それは… どうしてでもよろしい。とにかく、明日になさいませ。
大人には大人の都合というものが、あるものですからな。」
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