睡蓮の池のほとり


不可触の女神

 わが故国の神々、ヒッタイト幾千の神々、天地のいかなる神よりも尊く清らかなる光に包まれたわが聖なる女神よ。
 わたしはこの生涯最後の祈りを、あなたにこそ捧げます。

 後宮の片隅の、薄く濁った泉で禊を取っていた、あの夜。
 あの夜わたしの前に、照月の如き女神が降臨り給うたのです。

 わたしはまだ、毎日の禊にも神殿内の斎院を使うことさえ許されない下官でした。わたしが禊場に選んでいたあの泉一帯は、いずれ新しい神殿の造営される用地として、新しく神域に指定された区域でした。
 神域にして水場のある、そんな場所はあの泉だけではありません。王宮外で、神官と見れば毎日のように供物を出す篤志の家が近い水場や、繁華街に程近くて、禊と称して羽根を伸ばして来られる神域などというのもあるのです。ある祠の番人の家に美しい娘がいるというので、下官たちの間でその祠の池で禊を取る順番の争いが始まったこともありました。
 しかしそんな都合のいい場所は、遠の昔に師兄等が独占してしまって、わたしのような若輩者が割り込むことは嫌がられていましたから、王宮の神殿でも一番若く新参者のわたしは、一人あの窮屈な、草深い泉しか選ぶことができなかったのです。
 しかしそれも、今となっては何という有難い神域であったかと思わずにはいられません。
 樹々の緑に遮られているはずの泉のほとりに突如降臨り給うたわたしの妙なる女神は、紫水晶の如き清らかな双眸から、真珠の如き澄み切った涙を流しておられました。
 身に着けているだけで天にも舞い上がれそうなほど軽やかな純白のお衣裳と馥郁たる芳香を、玻璃の如くに透き通る御身にまとっておられたのに。
 そして、皇帝の寵を受け、栄華に満ちた後宮に暮らしておられるというのに。
 わたしは輝くわが女神の前に、思わず己が傷痕だらけの身の醜さを恥じ、風の中、あらわにしていたわが身を泉の水中に隠しました。
 それでも、清らかな女神が心ならずも異性の裸身を目の当たりにして、咲き初める花のように染められた頬の色は、わたしの脳裏にくっきりと焼き付けられました。わたしの記憶の中にあるその色は、今も色褪せることはありません。
 それからどうするという間もなく、望月の足れる面輪のわが女神は、再びわたしには垣間見ることさえ許されない世界へ、お戻りになりました。
 羽衣の呼んだ涼風に乗るでもなく、銀河の階を踏むでもなく、ただ武骨なばかりの兵士らと、死んだ魚のような目をした冷たい女官に急かされて。
 その武骨な兵士らには、わたしなど物の数にも入らなかったのでしょう。未だそこにいるわたしになど目もくれず、現身の女神の噂を交わして立ち去りました。そのおかげでわたしは、わが明け初めの茜の空の希望の女神の御名と、その来し方の一端を知ることができたのです。
 ナキア。南の国から売られてきた王女。

 南の国の王女。もう少し早くあなたと出会っていたなら、わたしは正々堂々とあなたの前に跪き、青い静脈の透ける雪のような白い手に誠意の接吻を捧げて、あなたを正妃に迎えることもできたでしょう。
 わたしとて、元はと言えば北の王国の王子なのです。小さな国ではありましたが、バビロニア王女たるあなたとも、釣り合う身分であったはずです。わたしがバビロニアに赴き、王陛下にあなたとの結婚を願い出ればきっと許されるだけの身分をわたしは持っていたのです。
 しかし、それも今や、昔の話です。わたしの生まれた王国は、隣国の侵略によって滅ぼされてしまったのですから。
 もしあなたがわたしの妃となっていたら、遁れる間もなく惨殺されるか、侵略者に捕らえられて酷い目に遭わされていたでしょう。たとえあなたの意には副わずとも、ヒッタイト皇帝の妃として暮らすよりもはるかに苛酷な運命が、あなたを待っていたでしょう。あなたをわたしの妻と呼ぶ機会が訪れなかったことは、あなたにとって幸せだったのかも知れません。
 国が滅び、王族が殺戮されてゆく中、都を焼き尽くす業火の中、わたしは必死で逃げ延びました。その時既に、わが王族という王族は全て、朱に染まった無惨な骸をさらしていることは知らされていました。それを知らせてくれたわが乳兄弟でさえ、その直後、わたしの真正面から放たれた矢をその胸で受け止めて、わたしの身代わりとなって果てたのです。
 わたしは、なおも必死で逃げ延びました。わが父王が殺され、王族も残らず殺され、生きている王族はわたし一人。わが王室最後の一人となった瞬間、わたしにはすぐにでも王としてこの国を統べる義務が課せられたのです。
 だから、死んではならない。生きて生きて生き延びて、侵略者に蹂躙されていた祖国を立て直す王に、わたしはならなければならなかったのです。
 望みは、ありました。南へ落ち延びよう。ヒッタイトへ亡命しよう。
 ヒッタイトは、わが王室の姻戚でした。ヒッタイト皇帝の実母が、わが王室の姫だったのです。強大な勢力を誇るヒッタイトへは、侵略者もそうおいそれとは攻め入ることなどできない。そこでわたしは力をつけよう。力をつけて、いつかわが祖国を奪還して、その王位を継承し、高らかに即位を宣言しよう。
 王子とはいえ、幼かったわたしにはそれだけが、一縷の望みだったのです。
 とは言え王宮育ちの悲しさ、供もなく、自分の足でヒッタイトを目指すには、わたしはあまりに非力でした。わたしは間もなく侵略者に捕らえられたのです。
 わたしが王子であることが知れれば、確実に殺される。この侵略者は、わが王室を残してわが祖国を操ろうなどという中途半端な意図は持っていない。確実に王室を断絶させ、わが祖国を直接己が版図に組み入れるつもりなのだ。それぐらいのことは、わたしにも察せられました。
 だからわたしは、名乗りませんでした。馬のように鞭打たれ、野良犬のように足蹴にされても、わたしは名乗りませんでした。
 それでも、わたしが王族であることは一目瞭然だったはずです。わが王家の者は、わが民等と違って一人残らず金色の髪をしていました。それがわが祖国では、高貴の証だったのです。
 生き残った最後の王族であったわたしが、今にも下賎の兵の刃にかかる寸前。憎き狄王が現われました。横柄な態度で名を問われたわたしは、幼いながらも王族の誇りを賭けて、狄王の問に対する答を拒みました。そして、射掛けるべき矢もなく揮うべき剣もないわたしは、野蛮な狄王の鯨面に、唾を吐きかけて敵意を明らかにしてみせたのです。
 無理に名乗らせるまでもなく、わたしが王子であることは敵も早々に悟っていたはずです。なのに狄王は、敢えて己は名乗りもせずに、わたしに名乗らせようとしました。生まれてこの方、こちらから名を名乗らねばならぬような屈辱を受けたことなどない、このわたしに。わたしの身を馬のように鞭打って。
 そうまでしても飽き足りない狄王は、畜生にも劣る野蛮の本性を剥き出しにして、わたしに堪え難い辱めを与えたのです。
 わたしの身分を知りながら、狄王はわたしを一人前の男だとも扱いませんでした。この期に及んでは殺しておく必要すら否定して、事もあろうに己が身辺にわたしを侍らせようとしたのです。
 わが祖国を滅ぼし、わたしの身も誇りもずたずたに引き裂いた憎き狄王の足下に侍ることなど、わたしにできる訳がありません。そんな屈辱に塗れる位なら、死んだ方がましです。いや、死して栄誉を守るのが、王族の心得です。
 それでいて狡猾な狄王は、わたしが男であることも、まだ子など持たない若輩であることも、忘れませんでした。それでわたしは、断種の屈辱を強いられてしまったのです。最後の王子として即位することもできずに狄王の傍らに侍らされるのみならず、王族として子孫を残すことも望めない。王族である以前に、一人の男としての誇りさえ、残酷に踏みにじられてしまったのです。
 いかに恨みを抱こうとも、わたしとて生身の人間です。わが身に負わされた傷を、癒さねばなりません。いかに死を以て恥辱を雪ぐ覚悟だとて、その恥ずべき傷が元で悶死するなど、恥辱の上塗りだとしか思えませんでした。
 結局わたしは、狄王の膝下に屈することを選んでしまったのです。
 こうすることで、わたしが負わされた身の傷は無事に塞がりました。しかし。

 想像もしなかった、わが身への凌辱。憎き狄王の下に侍らされ、身の毛のよだつような鯨面に文身を施した異様な王の奇怪な嗜好の犠牲となって、その寝所にまで侍らされる試練に、わたしは必死で耐えました。
 幸いにも、敵の監視が緩み始めたある日、わたしは密かに王宮を脱しました。そして、この忌むべき王宮に拉致されるまで頼みの綱であり続けた、ヒッタイトを目指したのです。
 それまで、裸足で土を踏んだことすらなかったわたしが、弊衣をまとい、身を隠して野に伏し、草を噛み、今にも倒れそうな賎家の裏手に干された菜葉を盗んでは、火の起こし方も知らねば生のまま口に押し込み、這うようにして必死でたどり着いたヒッタイトの片隅。わたしは夜半、月の明るさを利して密かに国境の渡河を試みました。
 それも王宮育ちの悲しさ、いかに間道とは言え、人が歩いて渡れるような浅瀬が放置されている訳などないのです。ぬらぬらとした川石に足を取られながらたどり着いた向こう岸、土手に足をかける間もなく、川辺の木の上でがらんがらんと大きな音が鳴り響きました。今考えれば当然、流れの中には鳴子が仕掛けられていたのです。 
 精魂尽きてたどり着いた、最後の望みの国。そこでわたしを出迎えたのは、汗臭く毛深く、泥にまみれた野太い男でした。
 まともな国境警備の兵に捕らえられていたなら、その時だけでもわたしの名乗りが通じたかも知れません。しかし、学もなく見聞も狭い野伏の罠にかかってしまっては、わたしは単に商品にするために捕獲された、獲物に過ぎませんでした。ヒッタイト皇室を訪ねる客として迎えられるどころか、何だ餓鬼か、鳴子が景気よくなったから、迷い馬か牛かと喜んだのによぉ。人間なら人間で別嬪の一人もかかってりゃ、まだ高く売れたんだが、などと、人間の屑のような悪党にまで雑魚扱いにされ、毒づかれる始末です。
 わたしも、もう本来の身分を明かすつもりはありませんでした。然るべき時、然るべき情勢が整うまで、わたしは本当の身分を秘することに決めたのです。神の由緒を戴いた誇り高い名さえ、名乗りませんでした。わたしは咄嗟に、「ウルヒ」とのみ名乗りました。その後に戴いているシャルマ神の名を省いたこの名なら、平民の名として別に奇異でもありません。
 それからわたしは、数日のうちに何度も転売され、あちこち引き回されて、いつの間にか正規の口入の家に紛れ込まされて、土地の小さな神殿に売り渡されたのです。
 口入の親父から、そこがアリンナという土地であることと、河を渡ってからわずか数日のうちに、わたしには食費や宿賃、案内料などという名目で、信じ難い多額の借金が背負わされていることを聞かされました。アリンナなら、古くからの神殿のある土地としてわたしもその名を耳にしていましたし、多額の借金と言っても、つい何か月か前のわたしなら、いつも身につけていた指輪一つで何倍にもして支払えるほどの額でしかありませんでした。
 しかし、そんなことももう、何の役にも立ちませんた。わたしは否応なく神官の見習という名目で、神殿に引き取られてしまったのです。

 それでもわたしの買主が仮にも神殿であったことは、まだしも救いのあることでした。
 神殿の名でわたしが買い入れられたのは、哀れな奴隷に恵みを施し、自分の代わりに神に仕えさせて神に対する報恩の施行としたい、という奇特な施主がいたからなのだそうです。要は、ちょうど金持が気紛れに慈善を思い立ち、その意向を神殿に申し出た所に、わたしが売りに出ていたということですから、神の恵みはわたしにも向けられていたのかも知れません。
 施主の意向を受け、適当な奴隷を見繕いに来ていた神官長も、どうせなら奴隷でもあまりむさ苦しくなく、毛並みのよさそうな、仕込み易そうなものを探していました。そんな神官長は、わたしに目をつけたのです。金色の髪は、北では高貴の証だということを、知っていたのでしょう。わたしが、極めてあやふやながらヒッタイト語を解するというのも、便利に思えたでしょう。
 もちろん、ここでもわたしは本当の身分など明かしはしませんでした。髪の色は生まれつきだから、どうして金色なのか自分でも知らない。親は羽振りのいい商人だった。家には大勢の使用人がいて、中には異国の言葉も話す者もいた。しかしその親や使用人たちも皆戦に巻き込まれて死んでしまったから、それ以上のことは何も知らない。そう話しました。傍目から見た自分が実年齢よりも幼く見え、そしていかにも良家の子弟に見えることは、もう知っていたのです。そして、その位の嘘のつき方も。
 そうして、商談はその場でまとめられ、わたしは神官が持っていた、大した重みでもなさそうな銀の袋と引き換えにされたのです。
 わたしとて王子です。幼い頃からいろいろな神事に参列した経験があります。そうして、王族として祭祀や儀礼の初歩を学ばされていたのです。
 故国の国教は、ヒッタイトのそれと同系統のものでした。王族として身につけた知識と礼法が、売り飛ばされて流れ着いた見知らぬ神殿でも役に立ちました。
 物覚えがいい。察しがいい。機転が利く。わたしが神官たちから重宝がられるようになるのにも時間はかかりませんでした。それは当然です。どこの馬の骨とも知れないただの戦災孤児なら知らず、わたしにはもともと、神事について一通りの知識があったのですから。
 やがて、施主とも対面させられ、施主はわたしの整った顔立ちと礼儀正しさに満足したようでした。さすがは神官長、立派な子を探してくれた。これならわたしの代わりに神への奉仕を勤めてもらうに相応しい。
 そう言って喜んだ施主も、もうそれきり、わたしを見に来ることさえありませんでした。元々が金持の気紛れ、そんなことを期待する方が詮ないことだったのでしょう。
 わたしもヒッタイト語の読み書きまではまだ習っていませんでしたから、聖典の素読をやらされたのにはちょっと苦労しました。故国の文字なら一応の読み書きができたわたしですが、神殿にはヒッタイト語以外の聖典など一枚もなかったのです。
 しかし、神官長とて売り飛ばされてきたような下僕が、何語にしろ識字者だなどとは思ってはいませんから、易し過ぎるぐらいの基礎から教えてくれました。
 そうか、知らないと言えば親切に教えてくれるのだ。わたしは、それまでに身につけていた知識を隠し通す決心をしました。そして、神官長から伝授される学問の進み具合に合わせ、その都度その知識を小出しにしてゆく事にしたのです。
 今にして思えば、子供には似合わない欺瞞でした。しかし、それをやり了せることができたというのは、わたしが生来、それを可能とする狡猾さを持っていたからだとしか思えません。ただ故国の暮らしでは、そんな性分を発揮する必要もなかった、というだけのことだったのでしょう。
 わたしは、何人もの修行者の中でも、特に目上から贔屓に与るようになりました。それでもわたし自身はそんな待遇に気をよくして慢心するような稚気はありませんでした。少なくとも人前では、ただただこれも神官長猊下の高潔なご人格と施主さまのご奇特なお志の賜物、として、謙遜の態度だけを取り続けたのです。
 その結果、わたしは神官長にも師兄らにも、ますます可愛がられるようになりました。とは言っても、元はと言えばどこの馬の骨とも知れない奴隷なのですから、裏では軽蔑され続けてはいたのですが。
 その後、転機が訪れました。一通りの修行を終え、正規の神職位を戴いたわたしは、神官長の意向でハットゥサの後宮内にある神殿の一つに移ることになったのです。
 わたしなら、王宮でも通用する。わたしが王宮で出世すれば、その師である神官長自身も王宮に手蔓ができ、何かといい目もできる。そういう思惑だったであろうことは想像に難くありません。
 わたしにも、異存はありませんでした。アリンナでは、わたしは周知の買われてきた奴隷です。しかしハットゥサへ行けば、ただアリンナから来た神官、で通ります。それより前の経歴など、人の口に上ることもないでしょう。
 それに。神官として一人前になるのに、信仰心や敬虔さなどいらない。ただ表面上、慣習や戒律に則った生活態度を保ち、机上の神学を究め、儀礼に精通すればいい。そうしていれば俗世での出自など問題にはされず、やり方次第で栄達することができる。神官として栄達すれば、放っておいても財力や神聖な特権はついてくる。
 この神殿で、有難い神官長猊下の薫陶を受けてわたしが学んだ最大のものは、そういう現実だったのです。

 この時点ではまだ、己が背に負った故国の復興という使命を、忘れてはいませんでした。
 ハットゥサでわたしを迎えてくれることになる神殿は、後宮内の勅願神殿でした。皇室の神殿なのです。さらにわたしは、既に神官の肩書を手に入れています。神事を通して、誰か皇族か、殿上の高官の知遇を得ることもできるのです。そんな機会が現実に訪れる望みが生まれたのです。
 人脈が得られれば、その伝手で皇帝陛下に拝謁する。そして皇帝陛下の前で、わたしは本当の身分を明かし、故国復興の力添えを願い上げる。
 ヒッタイト皇帝陛下の援助が得られれば、あんな狄王など問題にはなりません。必要ならヒッタイト皇室の姫を賜り、わたし自身がヒッタイト皇室の一員になって、故国をヒッタイトの藩属国としてでも、とにかく故国の地に再びわが旗を立てる。
 わたしが生きる糧は、その一つだけでした。
 わたしは神官長に連れられ、後宮内にある勅願神殿に入りました。

 しかし。現実はそこまで甘くはありません。
 後宮内の神殿ともなれば、片田舎の小神殿とは違って一介の下級神官の耳にも国内外のいろいろな噂が聞こえてきます。わたしは、後宮に移って間もなく、神殿に長くいる同輩が得意気に語る、信じられない消息を聞かされたのです。
 わたしを捕らえて耐え難い屈辱を強いた狄王の噂でした。噂と言っても、戦勝奉告祭に出勤した同輩が近衛の軍師の手柄話を直接聞いてきたという、充分な確度を持った噂でした。
 己が母の国が夷狄に蹂躙されたという報に接した皇帝シュッピルリウマ一世陛下は、即座に夷狄討伐の兵を挙げることを決心、近衛長官ズィダ殿下を大将軍として師を起こされたというのです。それは、ちょうどわたしが憎き狄王の下を脱出した頃のことだったようでした。
 もとより大義名分を振りかざしたヒッタイトの大軍に押し寄せられては、狄王には抗う術などありません。たちまちのうちにあの忌まわしい王宮にはヒッタイトの旗が立てられ、あの獣にも劣る狄王は捕えられ、討たれてしまったと言うのです。
 されば皇帝陛下は、一旦は滅亡してしまった己が母の国を再興するため、生き残りの王族を、己が母の係累を探したか。
 否。皇帝陛下は、己自身が今はなき王室の縁戚に当たることを前面に押し出して、わたしの王国をヒッタイト領土に編入してしまったのです。わが王国の、国としての形を廃してしまったのです。
 皇帝陛下は、王子の一人、即ちわたしが生き残ったことも聞き出していたと言います。なのに、そんな者は生きていてももう利用価値はない、と言って、頭から無視することを命じたと言うのです。
 何と言うことでしょう。ちっぽけな国とは言え、一旦滅亡したとは言え、正当な王位継承権者が生き残っていると言うのに探しもせず、もとより即位もさせず、知らぬ顔でその旧領を己が物にするとは。

 わが北の王国を滅ぼしたのが狄王なら、わが王室が再興する望みを絶ったのはシュッピルリウマ帝その人なのではありませんか。
 その証拠に、シュッピルリウマ帝はその直後、わが王室縁の神殿や陵墓、旧王宮までも全てを完全に破却させ、わが王室が地上に存在した痕跡の全てを消し去ってしまったとさえ伝えられました。ヒッタイト人にしてみれば、胸のすくような祖国の戦勝譚でしょう。同輩がわが事のように胸を張り、得々と語るのも無理はありません。
 しかしわたしには、それは目の前が真っ暗になるような、非情な話だったのです。

 遅かった。何もかもが無為に帰した。わたしは、絶望感と無力感に苛まれ続けました。この世のどこにも、自分の身を置くべき場所はない。そう思い詰めました。
 それなら、故国の誇りを抱いて自害しよう。そうも思いました。しかし、わたしが死ぬということは、本当に最後の、わが故国の、わが王統の痕跡が、憎き敵に一矢をも報いぬまま、永久にこの世から消え去るということなのです。そこまで思い切れるほどの決意も、わたしにはできませんでした。
 生きる目標も見失い、千々に乱れる心をただ日々の仕事に紛らわせて過ごす、砂を噛むような日々。

 そんなある日のことでした。
 この国にも、わたしのための神が在しました。わたしのためだけの女神が在しました。北の国から売られてきたわたしの打ちひしがれた心を、南の国から売られて来たたおやかな女神が満たして下さったのです。
 涼やかな沢風のわが女神は、この世でもやんごとない御身に権現しておられました。皇帝の妃。わたしのさやかなる女神は、皇帝の数多い妃のお一方にしか過ぎませんでした。それでもわたしには感じられたのです。満天の全ての星をも統べるべきわが女神は、いずれこの国の頂点にお立ちになる。お立ちにならねばならない。
 わたしは、繊細にうち震える若月の如きわが女神のために身を捧げよう。天を彩る虹の如きわが女神のために生きることが、わたしの使命だ。神官たる宿命を授けられたのは、匂わしきわが女神の思し召しに他ならないのだ。おめおめと生き延びたこの身は、妙なるわが女神のために捧げよう。わが誇り高き女神の許に額づいて生きよう。
 実は。わたしがこのような気持ちを抱いたのは、もっと後のことでした。初めてわが細腰のすがるの如き女神のお姿を拝した時のわたしといえば、切なげな、それでも凛とした女神の花のかんばせが瞼に焼きついた、それだけのことであったかも知れません。
 その後、わたしは何度もわが潤い豊かなる女神のお姿を拝しました。初めのうちは、何度かの偶然のことでした。わたしが修行の一つとして、神殿を巡拝するため中庭を通る時刻がちょうど、皇帝の寝所に召されるお妃方のお渡りの時刻と重なっていたのです。そのこと自体は別に不思議でも何でもありません。神殿巡拝にしろお渡りにしろ、その時刻にまで厳格な仕来りが守られていたのですから、出会うとなれば必ず、同じ場所で出会うものです。俗人であれば、特に男子であれば、お妃のお渡りの時刻はその通路に立ち入ることなど遠慮すべきものなのですが、聖職者となれば、聖課のためとなれば例外です。
 わたしはいつも醜く着飾り、おぞましい微笑を湛えたお妃のどなたかと出会いました。そんな何度かに一度の割で、わたしはわが麗しき女神のお渡りに出会うことができたのです。泥の中より出でて咲き誇る白蓮華の如きわが女神は、他の厚かましく、淫靡なばかりのお妃方とは明らかに違って見えました。無理に妖艶な夜のお化粧に飾られた清楚な御身は痛々しく、皇帝の寵を戴く誇らかさなど感じられず、いつも憂鬱な、切なげなお顔をしておられたのです。
 わたしが、萌えたつ若葉のわが女神に惹かれ、明け暮れにその面影を偲び続けるようになったのは、この頃からでした。他のお妃方が、わたしのような数ならぬ者になど目もくれずに通り過ぎる中、わが慈愛深き女神だけは、侍女に気付かれないように、そっと伏し目がちに微笑を向けてくれていたのです。
 それでもわたしには、あなたと言葉を交わす機会さえありませんでした。

 わが無上の女神よ。あなたが、わたしに初めてお言葉を下さった日のことを、覚えて下さっているでしょうか。あなたが突然、わたしが一人で留守を守る神殿に駆け込んでこられたあの日を。
 うすら寒い外陣に、二人きり。その硬い石の床に、あなたは突然、目も眩むばかりの宝飾を一抱え、ザッと投げ出されたのでしたね。その時、あなたの自由になった財産の全てを。
 たとえ、時候の挨拶の一言だけでもいい。寄せては返す浦波の如く心地よきわが女神のお声を、誰の邪魔も入らない所でもう一度聞いてみたい。そんなわたしの願いが、驚くべき形で叶えられたのです。いや、叶えられてしまったのでした。
 わたしをこの帝国から連れて逃げて、ウルヒ。
 わたしは皇帝の子など産みたくない。
 わたしはおまえの子なら産める。
 おまえと暮らせるなら、王家の身分も側室の地位も、みんな捨てる!!
 わが衣通の女神の花びらのような唇から、この言葉が流れ出したのです。他でもない、このわたしに向けて。
 しかしこの言葉は、残酷極まりないものでした。
 わが女神の願いは、そのままわたしの願いでした。できることならその場で、朝日に光る白露の如き女神の身体を抱き上げて、王宮からも神殿からも姿を消してしまおうと思ったのです。
 しかし、そんな不誠実なことができるでしょうか。わが高貴なる女神は、皇帝の子は産めない、わたしの子なら産めると訴えてくれたのです。
 もとよりヒッタイト皇帝風情の褥に侍らねばならぬ賎しき身ではあり得ないわが女神。
 ああ。忝きばかりのわが女神の願いは、叶えられないのです。わたしと暮らしていただいたところで、何者にも妨げ得ぬ天津風の女神は絶対に御子を授かりなどしないのです。全ては、わたしの至らなさのために。
 それが判っていて、拉し去る。至上の女神に対して、そんな不誠実なことはできません。言葉を失い、立ち竦んだわたしの身体に向かって、救いを求めるように女神の白い手が伸びてきました。本当なら、わたしもその手を取らなければならないのでしたが、わたしは後へ、身を退いたのです。
 わたしは、覚悟を決めました。
 わたしの実るはずのない恋が終わる。ただ、憧れ続けてきた女神もまた、わたしに並ならぬ好意をお持ち下さっていた、ということだけを慰めに。

 わたしは恥を忍んで、真実を告白したのです。
 わたしは、あなたに御子も、女性としての幸福もさしあげられません!!
 ああ、わが理想の女神よ。わたしの恥ずかしき告白を最後までお聞きくださった後、あなたはわたしのために、泣いて下さったのです。
 この時にこそ、わたしはわが太陽なる女神と、本当に心を通じ合えたのです。
 南の国から売られてきて、産みたくもない子を産むことで、生涯故国と嫁ぎ先に奉仕し続けねばならない悲しき王女。
 北の国から落ちてきて、遺さねばならない子を遺すことも叶わず、故国再興の望みも絶たれた悲しき王子。
 二人は、ここで初めて、本当にお互いの苦衷を理解しあうことができました。わたしがただの奴隷出身の神官などではなく、世が世なら一国の王位にも就いているべき王子であったこと。わが女神がただヒッタイト皇帝に傅くためだけの側室ではなく、薬学を得意とし、さらに幼時から修養を積んだ神官でもあること。言葉の一つも交わすことなく、わたしがあなたに惹かれ、あなたがわたしに縋って下さったことも、決して偶然ではない、必然の巡り合わせだったのです。
 あの日、あなたに思い留まっていただくために、わたしが口にした言葉。今にして思えば、あの言葉こそ、わたしの口を通したありがたい神託だったのだと確信できるのです。
 あなたが、無理やりヒッタイト皇帝に嫁がされた試練に苛まれていたその頃、わたしは亡国の試練に立ち向かっていました。しかし、今でも厳然として存在し、無視できない影響力を持つ故国に恵まれていたあなたとは違って、わたしにはそれよりももっと苛酷な経験がありました。わたしはその経験に照らして、あなたの短慮をお諌めしました。

 わたしたちがたった二人で、この国の保護を離れて何ができるでしょうか。ヒッタイト皇室からも、バビロニア王室からも目の届かない辺境に、あなたの手を取って逃れることはできなくもありません。
 しかし、そこでどうやって暮らしますか。あなたは、暖を採るべき火一つ、自分で起こすことができますか。飢えを癒すべき食物を得る術をご存じですか。
 やんごとないご身分にお生まれのあなたは、その生まれついてのご身分をお捨てになっては生きていけないのです。そしてまた、その与えられたご身分とお立場の中で最善を尽くされることが、天から与えられた務めなのです。
 このわたしにしても王宮生まれの王宮育ち、とても口に糊する業など持ちません。
 あなたのお気持ちはよく解ります。この王宮での暮らしは、あなたにとっては望みもしない不本意な暮らしでしょう。しかしその暮らしは、多くの人々にとっては望んでも得られない、憧れの暮らしなのです。あなたは今、その暮らしから逃げ出すことはできなくもありません。しかし、一度捨ててしまったご身分には、二度と戻ることはできなくなるでしょう。
 どうか、ご短慮は思い留まられますように。それよりも、今あなたが立っている立場を、最大限に活用してはいかがなのですか。
 意に副わない結婚を強いられて、愛してもいない皇帝の子を産むことは、それは辛いでしょう。ですが、それを実現することができれば、あなたには新しい道が開ける。ヒッタイトのためでもバビロニアのためでもない、あなたご自身のための力を掴み取ることができるのです。あなたがお産みになる御子は、たとえどなたがお父上であろうとも、あなたの御子なのです。あなたの努力次第で、この国はあなたの血脈が支配する国になるのです。あなたが宿してこの世に送り出すその御子が、至上の地位に君臨し、世界があなたの御子の前にひれ伏すのです。
 わたしが、その御子の父となることができるなら、わたしはどんな試練をも乗り越えるでしょう。しかし、わたしにはその能力がないのです。
 お願いです。堪え難く、忍び難いご試練であることは承知の上でのお願いです。どうかあなたには、わたしの子をお産み下さるものとお思いになって、ヒッタイトの皇子をお産みくださいますように。そしてその御子に、この国を授けてあげてください。
 そうしてくださるなら、わたしはもう、故国の王統を次代に残す代わりに、あなたのご血脈をこの国に残すために心身の全てを捧げてお力添えをいたします。あなたがお産みになるのは、皇帝の子ではない。あなたの御子なのです。
 どうか、ご熟慮と、そしてご決心を。

 その日以来、全ての穢れを洗い清める時雨の如きわが女神は、始終わたしの神殿に詣でられ、熱心な「子宝祈願」に勤しまれました。おかげで王宮でも「ナキア姫の何とおいじらしくていらっしゃること。皇帝陛下に喜んでいただくために、わが皇室の繁栄のために、一心に神に祈っておられる。」などと、あなたを讃える声が日に日に大きくなり、皇帝陛下の覚えもますますめでたくなったのでしたね。神殿には皇帝陛下ご自身からも内々に、あなたの子宝祈願のための供物が何度も届きました。
 そして。あなたはついにご懐妊になりました。
 臨月ともなれば皇帝陛下のお心遣いも尋常ではなく、勅命を以てわたしの神殿に安産の祈祷が命じられ、あなたの希望を容れた皇帝陛下直々のご指名により、わたしはその祭主として一心不乱にあなたのご安産を念じ続けたのです。
 その甲斐がありました。あなたは、玉のような男皇子をお産みになりました。
 皇子をお産み参らせたあなたは、もうただの側室ではありません。堂々たる御息所です。そしてわたしも、皇子誕生に大きな功績があったとして皇帝陛下のご嘉賞を賜り、間もなく高齢の故を以て隠居を願い出た神官長の後任に指名されたのです。
 これを機に、わたしは名も改めました。いいえ、本当の名を名乗ることにしました。それまで一介の神官として、単に「ウルヒ」としか名乗れなかったわたしは、この時、思い切って本当の名を、シャルマ神の名を戴いた高貴な名を、名乗ることに決めたのです。
 「ウルヒ・シャルマ」。この名を名乗ることにより、王宮内ではわたしの素性を悟る者もあるだろう、そして、亡国の王子がヒッタイト王宮で、高級神官に任じられたことに驚きを感じる者もあるだろう、そうすれば、皇帝もわが王室を見捨てたことを後悔し始めるかも知れない、そう思ったのです。
 しかし、いざその由緒深い名乗ってみても、そんな名を記憶している者はこの王宮には一人としていませんでした。わたしの国、既にこの世に存在しない、ヒッタイトからみれば取るに足りない小さな国など、ヒッタイトの人々の記憶からは遠に消え去っていたのです。
 わたしは、故国再興の望みのなさを、痛いほど思い知らされたのでした。
 今にして思えば、シュッピルリウマ帝は勘付いていたかも知れません。もしかしたら、わたしが宮者であることも知っていたかも知れません。だからこそ、わたしなどを安心してあなたの近くに侍らせておいたのかも知れないのです。 …そうだとすると、わたしは完全に舐められていたのです。

 そんなことよりも、わたしが天にも昇る嬉しさに浸ったのは、あなたが御子を抱いてお礼参りにお出で下さった時でした。何とあなたの御子の御髪は、まだ細く、まばらで柔かかったとはいえ、わたしと同じ金髪だったではありませんか。
 これも決して、不思議なことではありません。あなたの皇子は、わたしから見ても血族なのですから。
 わたしは、決してわたしの子ではないとはいえ、思いが神に通じた、そして、あなたとわたしの絆が形になったのだ、そう確信しました。
 その後はもう、順風満帆でしたね。皇帝への発言力も増したあなたは、次第に権力を強めて行かれました。そのための手段や策略について、あなたはわたしを頼ってくれました。もとより神官でもある敬虔な御息所が、あらたかな霊験を見た神殿に詣で、有験の神官を召すことに不審を持つ者などありはしません。実際には、神前に席を借りてどんな相談をしていたかなど、あなたとわたし以外には知る者はないのです。

 古今、王宮という所は伏魔殿とも譬えられる権力闘争の場です。目に付く相手は潰さなければ、こちらが潰される。それでなくとも男皇子をお産み参らせたあなたは、後宮中の嫉妬と警戒を一心に集めておられたのですから。
 あれから、何人の妃方を陥れたでしょうか。何人の高官を葬り去ったでしょうか。あなたの次に懐妊した側室が、男皇子誕生を祈願して頻りにその里の神殿に祈祷をさせ始めた時には冷汗をかきましたね。
 結局あの側室には、あなたの処方した薬をわたしが盛って御子諸共に産褥死していただき、安産の祈祷に当たった神殿は皇帝陛下のご悲憤に乗じて取り潰してやりました。
 それはいいとして、その側室の葬儀がわたしに回ってきたのには驚きました。神殿に安置されたあの側室と水子の骸を前にして、わたしはあまりの皮肉に吹き出しそうになるのを堪えるのに苦労したものです。もしかして、薬を処方してわたしに託されたあなたも同じお気持ちでおられたのではありませんか。

 側室だろうと皇妃だろうと同じ生身の人間、ヒンティさまも脆いものでしたね。己の毛並の良さに甘えて、愛だ仁慈だと浮世離れしたことばかり考えておられると、足元の注意が疎かになるものなのでしょうか。皇妃たる者、もう少し用心深くあられてもよさそうなものでした。
 ああ、その無用心で愚かな皇妃のおかげで、わが唯一絶対の女神は。
 この国の皇妃に立たれたのです。そして、大神官としてこの国の宗教界の頂点にもお立ちになり、ようやくあなたご自身で掴み取られた至上の地位に便乗すべく、俄かに親元面をし始めたバビロニア王室の力を利用して治水・灌漑の技術を導入し、あなたは名実共に、皇帝と同格のタワナアンナとして君臨されることとなったのです。
 そしてわたしは、勅任の大神官付神官長。官位の昇進など、わたしには興味はありません。わたしが心から光栄を感じ、幸せに思ったのは、
昼も夜も、炎暑の日も雪の日も、誰に遠慮することもなくあなたの許に常侍できる、まさにそのことでした。

 しかし依然として、ジュダ殿下をこの国の皇帝に、というわたしたちの最終目標の前には、あなたの義理の息子らが立ちはだかっていました。
 わたしが、いつかわが王室を抹殺した罪を償うにその命を以てせしめんと望んでいた皇帝陛下、いや、シュッピルリウマは、七日熱で呆気なく世を去りました。そして、アルヌワンダ帝が即位されたのですが、そのこと自体は、わたしにとって必ずしも不快なことではありませんでした。アルヌワンダ帝はシュッピルリウマの子、ということはわが王室から嫁いだ姫の孫なのです。わが王室の血族が、ヒッタイトに君臨することになったのですから。
 しかしわたしは、あなたの御心のままにこの帝を弑することに躊躇はありませんでした。また今も、同じくわが王室の血を引くムルシリを廃することに何のためらいもありません。
 わたしは、もっと大きな夢を見てしまったのです。
 同じくわが王室の血を引いておられるにしても、ジュダ殿下こそはわがしなやかな雌獅子の女神の御子なのです。子孫を遺すこともかなわぬ不甲斐ないただ一人の王子に代わって、わが国の地と民を、わがとこしえに讃仰する女神の御子にしてわが王室の末裔が継承なさるのです。
 故国を復興すべき使命も果たせぬ無能の王子であり、朝にも夕にもわが冴え渡る女神に二心なき誠を捧げ続けるあなたの賛美者であるわたしにとって、これ以上の幸甚があり得るでしょうか。

 その夢は、決してつまらない夢想ではありませんでした。充分に成算のある、極めて現実的な夢だったのです。そのために次なる、そして最後の的としたのが、ムルシリでした。いえ、「でした」ではありません。今まさに、わたしたちはそのムルシリとの戦いを続けているのです。苦しい戦いです。流れを変えようとする大河を堰き止めるような戦いです。
 しかしそんな中、つい先日、心ならずもムルシリの手の者に囚われてしまったわたしは、いついかなる時にもわたしのことをお案じ下さっているわが崇高なる女神の温かい御心を、はっきりとこの身で感じることができました。
 石で畳まれた冷たい床の溝から、立ち上がった幾本もの水の手。傷だらけになったわたしの身体を抱きしめ、わたしを脅かす者どもを一薙ぎに打ち倒した水の躍動。わたしはその水の清らかさと優しさに、未だ触れたことのないあなたの温もりを確かに感じたのです。
 どよもす水に抱きしめられたあの時―― 死んでもいいと思いました。きっと… きっとわたしはあなたのために、この生命を捨てようと思い定めたのです。
 あなたとわたしが、心を一つにした数々の戦い。その中でも、この戦いは格別の手強さです。ムルシリがジュダ殿下よりも先に即位してしまったのには手間をかけさせられますが、これは本来の順番という物、大した問題ではありません。しかし、困るのはその本人に皇位継承権を持つ皇子が生まれることです。本人が正妃を持たない今はいいとして、あの男は近く、正妃を立てようとしています。これを阻止しなければなりません。
 幸いにもあの男、最近は女の選り好みが激しく、またその個人的な好みを公の場に持ち込もうとしているけじめのない男です。とはいえ、その皇帝の覚えめでたい女というのが、あなたご自身の魔法で呼び寄せたあの異国の娘だというのは、何と言う運命の皮肉でしょう。
 今ならまだ、間に合います。あの男を亡きものとすれば、この国の正当な皇位継承権者はただ一人、ジュダ殿下しか在しません。ジュダ殿下がご即位になる以外、この国の皇統を絶やさない術はないのです。
 なのに今、ジュダ殿下の出自が問題になっています。下賎の者どもが面白おかしく言いふらした根も葉もない噂を、殊更公式に元老院の議題に持ち出したのは、ジュダ殿下を失脚させたい一心の誰かの浅知恵でしょう。もしそれで本当にジュダ殿下の皇位継承権が否定されてしまっては、この国の正規の皇位継承権者が根絶することになります。未曾有の国難ではありませんか。なのに今、その点に気付いている様子が見られる者は、誰一人としていないのです。何という愚か者揃いの国なのでしょう。やはり、聡明なわが女神の怜悧な御子に皇帝としてお立ちいただき、この国を正す必要があるのです。

 それでも、わたしたちが全力を尽くした戦いが、もしここで終焉を迎えるとしても。
 わたしたちは、せめてわたしたちが犯した最大の手落ちの後始末ぐらいはしておきましょう。そうすれば、あの娘にまだ子のない今なら、この国に得体の知れない異人の血が染み残ることだけは、阻止できるのです。
 いるはずのない娘をこの国に在らしめてしまったわたしたちは、あの娘を抹殺しておかなければなりません。その手段を、講じておきました。
 わたしは、あなたが戦っている元老院に乗り込みます。そして、あなたに被せられようとしている全ての罪をこの身に負って、いついつまでもあなたをお守りします。
 それでももしあなたを庇いきれないなら、わたしの最後の策を、あなたの手で実行に移して下さい。あなたにしか実行できない、そしてあなたの為すべきことを、わたしは命に代えて、あなたにお伝えします。
 さあ、今少しお待ちください。わたしが間もなく、あなたを責め苛んでいる悪しき元老院へ、あなたをお助けに参ります。そして、この身を捧げて、あなたをお守りします。

 美と豊穣の神、真実の神。いかなる悲しき逆境にも屈することなく、正義のために戦い続ける強き愛と戦いの女神。
 掛けまくも由々しく言わまくもあやに畏き女神、わたしだけの美しき女神、ナキアよ。
 わたしは一足先に冥界へ参り、あなたをお待ちします。そして運命の神となって、わたしの北の王国を滅し去り、わが王室を抹殺したヒッタイト皇室を滅ぼして、わが意趣を返します。
 そして、わが王国最後の王たるわたしは。わが王国も、ヒッタイト帝国も、全てをあなたに捧げます。たとえ何百年、かかろうとも。
 笑み耀う容人、わが女神よ。焦がれて焦がれて、触れることも望めぬ不可触の女神よ。
 わたしはあなたの崇拝者です。あなたの永遠の理解者です。

 
 今、あの日のようにこの泉に身を沈めて、禊を取れば。
 わたしの前に、あの日のようにわが奇跡の女神が降臨り給うなら。
 いいえ。
 奇跡は、たった一度でいいのです。
 たった一度の、あの奇跡の瞬間をこの胸に抱きしめて。
 今やこの神殿に入ることも叶わず、祭壇に触れることも叶わず、人目をしのんで、この思い出の泉のほとりに跪いています。

 わたしの生涯最後のこの祈りを、わが永遠の女神に捧げます。


 第25巻・173ページ、王宮内の建物の陰から姿を現す直前のウルヒ・シャルマです。
 シャルマはこれより前に、ユーリの部屋で<お衣装係のひとり>を殺害して盗み出した<服>を人知れず神殿の壁に隠す作業をしたはずなのですが、そこはシャルマが、ナキアと初めて会った思い出の場所でもあるのですから、この位の感慨に浸り、ここで最後の覚悟を固めた、としてもよいのではないかと想像し、原典に記述された事情からこの人物の来し方を「深読み」してみました。
 ユーリの部屋から立ち去る途中、ハスパスルピに姿を見咎められたシャルマはユーリの服を手にしてはいません(第
25巻・120ページ)が、血の着いた剣を手にしたままの姿である所を見ると、これはユーリの部屋から出てきて間もなくのことであったでしょうから、盗み出した<服>は一時的にどこかに隠してあったのでしょう。
 シャルマの生まれた国は、単に<北の王国>(第26巻・26ページ)とのみ説明され、具体的な国名は原典中でも明らかにされてはいませんが、ムルシリの科白によるとシュッピルリウマ一世帝の母も<北の王国から嫁がれた方>だとされています。
 ここでは、この<北の王国>という言葉を、ある特定の国を指して使われた言葉であると解し、シャルマとシュッピルリウマ帝の母は同じ王室の出身者だとしてみました。そうすれば、直接父子ではないハスパスルピとシャルマが同じ髪の色をしている理由も、ウルヒがわが子でもないハスパスルピの即位にナキアに劣らない情熱を燃やしている理由も説明がつきます。
 原典中、シャルマは<宦官>(第25巻・182ページ)であるとされていますが、シャルマは正規の刑罰として宮刑に処せられた訳ではなく、また宦官を志して自宮したという訳でもありません。言わば、犯罪に遭って生殖機能を害されたのです。それを自ら<宦官>と称しているのは、意に反してわが身に加えられた屈辱を恥じて秘め、その記憶を封じるための精一杯の「虚勢」だったのではないかと思われます。
 もとより、人工的に生殖機能を失わされていることと宦官であることとは同義ではありませんし、神官たる要件として宮者たることが求められていたとは思えません。もしそのようなことがあるとすれば、現に神官であるシャルマがハスパスルピの父であるという説が行われることなどないでしょう。
 第26巻・8ページに描かれた御前会議の場面を見ると、元老院の面々ですらそのあたりの認識は甚だ曖昧なまま議論を戦わせています。剰え、シャルマが負うその容易ならざる筈の事情について、誰一人訊こうともしないのです。
 誰からもその程度にしか関心を持たれず、その不屈の闘争の動機をさえ<皇太后が絶大な権力を手に入れればウルヒとて相応のものが約束されているのでしょう>(第25巻・46ページ)としか思ってもらえなかったシャルマも、激動の時代の渦に翻弄された悲劇の主人公であると言えるのではないでしょうか。
 題名とした「不可触の女神」という言葉は、原典中ではルサファがユーリを慕う心情の表現に使われています(第16巻・75ページ)。しかしルサファとシャルマ、立場も境遇も大きく異なるものの、決して結ばれ得ない愛する女性に対して示した清らかな誠意には、決して優劣はなかったものと当筆者は信じています。



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