睡蓮の池のほとり


秘 苑

 ハットゥサ郊外に建つその白い館は、さやかな風の吹き渡る疎林に抱かれ、静かな佇まいを見せている。
 長く元老院議員を勤めた祖父が建てたこの別荘を承け継いだ当主は、また代々の元老院議員の職をも襲い、元老院内に隠然たる影響力を有していた。
 建物はさして人目を惹くような、豪奢な造りとも見えなかったが、当代になって抱えの庭師や園丁が増えた。毎年季節ごとに、当主自ら指図して庭をいじらせている。
 「いやいや、庭というものは実に奥が深い。宏大を務むるものは幽邃少なし、人力すぐれたるものは蒼古少なし、水泉多きものは眺望艱なり、と言うてな、いくらいじってみてもその兼ね合いが難しいのじゃ。それでもまあ、多少なりともこの六勝を兼ね得た庭となると、ヒッタイト広しといえどもわしの庭ぐらいではないかの、ははは。」
 好きだと言うだけに、庭自慢をさせれば講釈にも熱が入る。
 その割に、この庭を見せてもらったことがあるという者は少ない。手塩に掛けた庭を「秘苑」と称して本人は満悦であったが、他人の別荘の庭など、招かれなければ見る機会もない。

 ハットゥサでも名の通った文人の中に、庭道楽の噂を聞きつけて当の議員に付きまとい、半ば強引にこの別荘への招待を勝ち取った者がある。
 「確かに金は相当かけてあるようだ。と言ってあれが、人に見せることすら惜しんで招待客を選り好みするというほどの庭かな。いや、わたしもまだまだ作庭に通暁しているという訳でもないのだが、しかし… いや、確かにあの天衣無縫というか、人に媚びない超然たる趣には、何となく心打たれたような気がしないでもないが…」
 文人は語った。結局よく解らない。が、解らないと言ってしまっては己が趣味の底の浅さを露呈する。さりとて絶賛するほどの感銘など受けようもない。
 「結局、金満ご亭主の自己満足、かな。」
 文人は一人ごちる。そんな庭であった。
 
 この庭に、久しぶりに客が招かれた。

 今度の客は、若い。落ち着き払った風情ではあったが、やっと二十歳代半ばであろうか。
 この客、王宮で書記官を勤め、一方では、立太子間もない皇太子の乳兄弟として、その身辺を取り仕切っている家令、イル・バーニであった。
  「よう来てくだされた、イル・バーニどの。何しろこの庭はわしの唯一つの道楽、命の次に大事な庭じゃ。わしがこれと見込んだ仁でなければ招きはせぬ。俗な者に踏み荒らされては、庭が汚れるような気がしてのう。
 その点、お手前ならハットゥサでも屈指の教養人にして趣味人、いや、お若いのに実に頼もしい。」
 「これは勿体ない元老先生。先生にそう褒めそやされては手前の如き若造、居たたまれませぬ。今日は先生の高尚なるご趣味に触れ、未熟な身の修養と為すよい機会と存じてお言葉に甘えました次第。」
 二人は庭園を逍遥しつつ、緑を愛で、鳥の囀りに耳を傾け、奇岩を眺め、せせらぎのきらめきに目を細めていた。
 侍女らも園丁らも、裏手の詰所に退らせてあったが、程よい辺りに設えられた亭には既に酒肴が調えられている。日が南天に至る頃、主客は共に腰を下ろし、杯を手にした。
 しかし、二人ともお互いに勧めあうばかりで、大して飲みはしない。客は庭の風情と滲み出る主人の品格を嘆賞して見せる。主は客の教養の深きと挙措の優雅を絶賛して見せる。
 語らうは花鳥風月、六合の美。互いに即興に詩を吟じ、讃えあう。傍目にはまことに雅な趣であった。
 「ああ、天地の営み、四季の移ろいの何と美しいことか。…それに引き換え、人の世の何と騒がしいことかのう。」

 「全くですなあ。こうしておりますと、ハットゥサに帰るのが疎ましくなってまいりますなあ。」
 「わしも同じじゃ。帰ればまた、頭の痛い問題が待っている。…のう。」
 やっと本題に入るか。やはりこの先生、いつもこの手で密談を交わしているのだな。招待するのにこれと見込んだ仁、というのは、あくまでも政略の上での見込みが第一なのだ。
 わが自慢の庭を秘苑と称して滅多に人を招かず、これと見立てた相手に限って招待するというのも、この先生にとっては取って置きの、信頼と誠意の表現方法なのだろう。と同時に、話をするのに庭の鑑賞から入ることもできない下郎など、先生にしてみればはじめから腹を割って見せるに足る相手とも思ってはいないのだろう。

 イル・バーニは、杯に残った酒をごくりと飲み干し、改めて喉を潤わせた。
 「お手前に愚痴もどうかとは思うが、世も末だのう。恐れ多くも皇帝陛下が崩ぜられ、皇太后陛下にはご気丈にも、女人の御身であられながらタワナアンナとして統帥大権を代行せられてアリンナに兵を遣わされた。その正規の職務執行を妨害し、剰え部隊を撃破してしまったのが、他ならぬ皇太子殿下の私兵だというのだからのう。
 わしは、殿下が戦車まで装備した大層な私兵隊を養っておられるのも、あくまで御国の四方を守り、仇なす敵を討つためだとばかり思っておったが…
 そのくせ、肝心の皇帝陛下の御身はご守護し奉り損ねられたというのではのう。」
 「恐れ入ります。全く手前の拾遺が足りぬばかりに。殿下のお顔に泥を塗るような次第、穴があったら入りたき心地…」
 「いや、お手前を責めておるのではないぞ、決して。
 お手前はよく殿下を補佐しておられる。わしも常々、感服しておるのだ。
 とは言うてもな。近衛長官殿下にはよくおわかりでないらしい。兵を出そうが退こうが、それは統帥大権を代行遊ばされている皇太后陛下の胸三寸、それを勝手に暴徒扱いにして討ったとは、皇太子殿下には明らかな反逆行為であられるのう。」
 「それがですなあ。わが家中は皆、てっきり皇太后陛下に遣わされた兵どもが突然陛下のご命令を無視し奉り、勝手にアリンナ占拠を続けておるものと見ましてなあ。
 戦争でもないのに武装した兵が我が物顔に行動しているとなると、民はそれだけでも脅え、不安を覚え、日々の暮らしにも支障が出るもの。恐れながらご仁慈深くご聡明なる皇太后陛下の御事、犯人が処刑されて事件も解決したというのに、いつまでも兵を退かせられぬ訳がありませぬからなあ。皇太后陛下が兵を退かせられているはずなのに、なぜか依然として抜身を引っ提げた兵が徘徊している。されば緊急已むを得ない治安維持活動という訳でして。」
 「そう決めつけられても、困るのじゃがのう。」
 「とはいえ、皇太后陛下にはその後、そのような公式声明をお出しになったようで。」
 「う、うむ… しかし、殿下はどうしてあんなに都合よく、アリンナにおられたのかのう。皇帝陛下が弑し奉られた現場にイシュタルさまがおられたり、ご病気のはずの殿下がいつの間にかお元気で軍を動かしておられたり、どうも腑に落ちぬことが多すぎると思うのじゃ。

 その上、皇帝陛下を弑し奉った犯人じゃ。イシュタルさまにお仕えする女官であろう。しかもイシュタルさまには、もともと不逞極まりない悪人だと解っていて、敢えて召抱えられた由ではないか。
 第一、どういう訳かあのカタパの事件、元老院には回って来んでのう。わしとて手の下しようもなかった。皇太子殿下にはいったいどういうおつもりかとお疑い申し上げたものじゃ。全てを殿下が独断で片付けてしまわれたのでは、真相の究明も何もない。体よく揉み消してしまわれたも同然じゃ。 …それだけに、あの時から既にもう、殿下とイシュタルさまは、考えるだに恐ろしい大逆を共謀なさり、あの不逞な極悪人の使い道をお考えの上で飼い馴らしておられたのではないかと勘ぐる者さえあるほどでのう。
 この度のイシュタルさまもイシュタルさまじゃ。疑いをかけられて抗弁もできず、逃亡なさったとはもう、罪をお認めになったも同然じゃろう。
 それとも、殿下のご寵愛を楯に、わがままを通されるおつもりであられたのかのう。」
 さあ、来たぞ。イル・バーニは大きく息を吐いた。元老は、早速イル・バーニの、そしてムルシリの痛い点を突いて来たのである。
 「当初は手前も驚きました。てっきりユーリさまにはご逃亡になったものと早合点しまして、殿下にもそのようにご注進申し上げてしまいましてなあ。
 これが手前の未熟者たる所でして。
 アリンナのハッティというのはユーリさまの部民でしてなあ。予てよりユーリさまにはちょうどハッティの主たる立場でアリンナの居住区を視察なさるご予定があり、その予定を整斉と消化されたというだけの事だったのですな。それを手前がつい取り紛れて、女官長からユーリさまのご日程を聴き取り忘れ、手前がご報告申し上げぬものですから殿下にももとよりご存知なく… 
 いやいや手前としたことがお恥ずかしき粗忽、ははは。

 まあ、わが部民の働きを視察なさるのは主として当然、いちいち元老院の許しが要ることでもありますまい。」
 「しかし、あの時宮の正門には、アイギルどのもわしも、元老一同が出張っておったのじゃぞ。イシュタルさまは予定の日程をこなすのに、裏口からかどこからか、こそこそとお出かけなさるのかのう。」
 「わが住まいを出入りするのに、どの門を使おうと勝手というもの。むしろユーリさまは単なるご内室の御身で、何やら元老各位がお集まりの中をかき分けて押し通るのは失礼とご遠慮なさったもののようでして…
 それでも、殿下には元老院に代わってユーリさま監視の任を請け合われたことでもあり、後れ馳せながら名代として信頼できる軍人をアリンナに派し、監視はちゃんと実行されたのですぞ。
 殿下の宮であろうがアリンナであろうが、殿下には元老院に代わって請け合ったユーリさまの監視を実行され、ちゃんと身柄の確保と証拠の保全に当たっておられたのですな。
 さらに殿下には程なくご本復の後、おん自らその監視に当たられるべく、アリンナへと向かわれました。ところが何やら指揮系統を異にする兵、皇太后陛下の私兵でしたか、それがうろうろしていたとあって、無用の衝突を避けるべく、様子を見ておられた由。
 その後、元老院の決定と処刑の執行の報がもたらされたのに、相も変わらず兵が暴れておるので、已むなく追加動員をご決意、鎮圧に当たられたものと聞いております。
 そう言えば、元老院から差し遣わされた軍がいつの間にか退かれたのも、監視のための名代差遣の措置でご納得いただけたからだと、手前どもでは安心しておったのですがなあ。
 ジュダ殿下の御身検めの必要が生じたというのに、バビロニア恐さにそれが叶わぬとなればなお一層、直接ユーリさまを追及する必要は高まったはずの事態でしたし。」
 「あれはだのう… 仮にも元老院は皇太后陛下と対等の国事決定機関、決して陛下のお顔の色になど怖気づいたのではないぞ。無論、バビロニアが恐いなどとはとんでもないことじゃ。わしとて、私情を以て彼の国との衝突を嫌う了見など、さらさらない。
 しかし、皇太后陛下が何と仰せになろうとも、バビロニアという国は他国の国内事件の審理に口を挟んで、内政に干渉するようなけちな国ではない。第一、今疲弊したバビロニアが興隆の途にあるヒッタイトと事を起こせば、ヒッタイトがバビロニアを併呑するために兵を出す、絶好の大義名分になってしまうだけじゃからな。…わが元老院にも、無用な戦を望む声など全くないのじゃ。
 元老院の兵が撤退したというのはじゃのう。ジュダ殿下の御身検めの必要が出た所を、金枝玉葉の御身の尊きをご考慮奉り、その御身検めをご遠慮申し上げた訳じゃから、ジュダ殿下よりもご身分尊くあらせられる皇太子殿下にもご遠慮申し上げぬ訳には行かず、思し召しに反して、どうでもイシュタルさまの監視を元老院に委ねよと申し上げるのは釣り合いが取れぬ事になってしもうてじゃのう… まあ、ちょうど殿下ご名代の監視役らしき軍人が到着したのを機に、まあ、言わば、事を荒立てるのも大人気なく、一つお任せしてみようかと言うような話になった次第なのじゃ。ちょうどその頃、皇太后陛下にも軍をご差遣の由、漏れ承ったことでもあったからのう。」
 そうでなくては困る。元老院は知るまいが、この騒ぎの最中、エジプトの現役軍人がヒッタイトの皇太子妃を拉致するという大変な事件が起きたのだ。ユーリさまがご無事でお帰りだったからよいようなものの、下手をすればわが国は威信をかけて、エジプトに宣戦しない訳には行かない事態にさえなっていたのだ。無事にお帰りになったと言っても、元老院に知られれば国の威信を賭けてエジプトとの戦いを主張する元老も出て不思議はない。その上バビロニアとの二正面戦など、百害あって一利なしというものだ。
 だからこそわたしは、幸いわが家中の者以外には知られていない、エジプトの国家意思とは関係なく、偏に一エジプト人の劣情が原因に過ぎないあの事件を隠蔽し通しているのではないか。
 「なるほど、さすがは天下の元老院。冷静なご分別と理論構成を貫かれたご賢明なご判断でしたなあ。」
 「…いちいち阿諛を挟まずともよい。
 それよりもハッティの者ども、元老院が遣わした兵が開門を命じたというのに、敢えて抵抗したというのは不届きな事じゃのう。」
 「ううむ、まあ田舎者のことで、元老院のご威光というものを今一つ理解していなかったのかも知れませぬなあ。それよりもわが主を守ることにばかり気を取られたものかと… 教育の行き届かぬ段、慙愧に堪えぬ次第ではございますが。」
 「ではハッティは、皇太后陛下のご威光さえ解せず、差し遣わされた兵からも出動の理由については何も聞かなかった、と言うのかのう。」
 「はあ、聞こえなかったようですなあ。まあ、突然攻めてきた暴力集団が何を喚き散らしていようと、律儀に耳を傾けている余裕などなかったのでしょうなあ。あの兵ら、別にタワナアンナ旗を掲げておった訳でもないようですし、果たして愚民どもの事、自分らが恐れ多くも皇太后陛下の兵を相手にしているということすら理解していたかどうか… ただわが居住区が突然襲われれば、誰しも抵抗するのが普通というものでして。」
 「普通と言うが、イシュタルさまとて普通は疑いを掛けられれば身の潔白を証明して見せるものではないのかのう。」

 「いやいや、それは被疑者には酷というもの。人間誰しも、常に潔白の証明ができる準備をしてから行動しているというものではありませぬ。」
 「それはそうかも知れぬが… あの真犯人、どう見てもイシュタルさまの手の者ではないか。
 とにかく、これはイシュタルさま、ひいては皇太子殿下にも、責の及ばぬ訳がないわ。」

 実に、その通りなのである。それをかわすのが、イル・バーニには第一の難関であった。
 「さあ、その点はどうなるのでしょうなあ。イシュタルさまにお仕えしていたとは言え、元は皇太后陛下の手先であったのを寝返った裏切者ですからなあ。…今にして思えば、本心からユーリさまにお仕えした訳ではなく、あの女が本当に主と仰いでいたのはやはり皇太后陛下だったのですなあ。…当家にも迷惑千万というものですが。
 しかし、秋霜烈日の如き元老院の峻厳さにはほとほと恐れ入ったと見え、遂に真実を告白した、という所なのでしょう。

 …査問会で元老院があの女を真犯人だと認定されたのは、ウルスラの供述を証拠として採用されたからに相違ありますまいなあ。」
 「ん? それはそうだのう。」
 「あの女は当家の使用人ながら、何しろ真実の究明が第一の査問会ですからな。手前とて、軽輩ながら帝国文官、その上あの席では及ばずながら殿下のご名代。個人としての義理人情はさておき、万が一にもユーリさまや殿下ご自身が事件に関係しておられたとしても、是非にも客観的な立場からその事実を明らかにすべく協力するのが義務というもの。そこで手前、敢えてウルスラに何者の教唆を受けたのかを質した次第でして。
 ところがあの女、前の悪事も今度の大逆も、共に皇太后陛下の指示を受けての犯行だとはっきり供述しましたなあ。…いやあ、あの時はわが耳を疑いました。まさか、本当に皇太后陛下のお名が挙がるとは。

 となると、今回の事件でも、カタパの事件でも、皇太后陛下には間接正犯、いやいや首謀者にあらせられるということになりますかなあ。…まさか、物証もなく証人もなく、状況証拠すらないに等しい、被査問人本人の供述だけが頼りの査問、ウルスラの供述に充分な信が措けないのに、罪状が認定されてしまう訳もありますまい。『疑わしきは罰せず』と申しますし、何と申しましても帝国中から選りすぐられた諸賢がご参集の元老院におかれてのご結論なのですからなあ。
 こうなってしまうと、皇太子殿下よりもむしろ皇太后陛下のご進退が心配ですなあ。アリンナで暴走した兵どもの監督責任というものも…」

 元老は、手にした杯をことりと卓に置き、腕を組んでイル・バーニを見据えた。
 この元老は、何代か前にバビロニアからヒッタイトに移住した貴族の裔であった。今もバビロニアとは密接な関係を持ち、元老院内でも親バビロニア派の領袖と目される立場であった。それだけに、バビロニア出身の皇太后ナキアとも極めて近い関係にある。
 「のう。あの女の供述、破れかぶれの出任せかも知れんのう。何しろ皇太后陛下にあらせられても、お手前より先に教唆犯のことを仰せ出された。万が一、本当に皇太后陛下がご関係遊ばされていたとすれば、まさか御身のお立場がご不利になるやも知れぬような供述を促されるようなことは、なさるまいからのう。」
 「それはそうですなあ。
 しかし、良識と英知に充ちた元老院、供述に疑問がある被査問人に死刑の誤判を下すことなどありますまい。…あったとすれば、元老院は未来永劫史上に特筆される、恥ずべき汚点を残されることになりますからなあ。
 皇太后陛下に関する供述が出任せだとなれば、あの女が皇帝陛下を弑し奉ったという供述の信憑性もまた、揺らぐことになりますしなあ。
 第一当家の使用人など、事件当日、ウルスラは終日宮にいたはずだ、とまで申しておる始末で。」
 「そんな証言があるとは初耳だのう。」
 「被査問人の供述を鵜呑みにして、そのような証言が出るべき証人喚問も経ずに査問を打ち切られたのは、供述に充分な信憑性があったからだと思うのですがなあ。理性と忠誠にかけては民の鑑たるべき元老院、まさか混乱に嫌気がさして面倒臭くなり、その場凌ぎの結論を出して国の宝たるべき赤子を冤罪に陥れることなど想像もつきませんからなあ。」
 「ううむ。それは… それはそうかも知れんのう。
 とはいえ、仮にも皇太后陛下に対し奉り、責を負えと申し上げるのも畏れ多いのう。」
 「実に全く。先生にもご困難なお立場、ご苦衷お察し申し上げます。拝察するだに手前などにはとても負いきれぬ重圧でございましょうなあ。
 されば皇太子殿下にも、すぐにもご即位になって皇帝となられる御身。畏れ多きことは同じですなあ。」
 「そこよ。確かに殿下には、畏れ多くも明日の皇帝陛下であられよう。しかし、いまこの時点では単なる皇太子殿下でしかおわしまさぬのだからのう。
 …こう申してはどうかと思うが、統帥大権に楯突かれるようなとんでもない皇太子殿下のお替わりなら、まだご温厚なハスパスルピ殿下がおられることでもあるからのう。」
 「そうでしたなあ。手前の如き未熟者には、そこまで思い至りませなんだ。
 されば、タワナアンナのお替わりとしても、大行陛下のご正妃さまがおわしますなあ。」
 「それも、そうかも知れんのう。
 とはいえ、ご正妃さまにはとうとう、タワナアンナにお立ちいただく暇もなく肝心の皇帝陛下が崩じられてしもうた。皇帝陛下がおられぬのに、いったいどなたがご正妃さまをタワナアンナにお立てするのかのう。」
 「それもそうですなあ。
 されば、仮にも大行陛下のご指名を戴いた皇太子殿下を廃し奉り、改めてハスパスルピ殿下を以て替え得るお方もおられぬということですなあ。
 しかも、皇帝陛下が崩じられた以上、皇位は自動的に皇太子殿下に継承される。そうでなくては皇太子などというものの意味がありますまい。それを元老院が承認しないとなると、恐れ多くも大行陛下の思し召しに逆らい奉ることになる…
 ううむ、なかなか難しい問題ですなあ。」
 全く、気楽な世間話であった。皇太后の意を受けて廃太子をもくろむ、そして皇太后が失脚しては己が政治生命に係わる政客と、何が何でも順当に皇太子を即位させたい、そして当の皇太子をたばかってまで今の状況を現出させてのけた策士との会話でさえなければ。
 亭に程近く配された巨大な三尊石の陰には、剣を抜き放った刺客が三名、イル・バーニの一挙一動を監視していた。イル・バーニも、それは承知の上だ。
 門外の林には、掛矢を担ぎ、槍の鞘を払った一群の兵が潜み、門内の樹上高く、葉陰に潜んだ物見が会談の様子を窺っていた。イル・バーニの私兵であった。
 「うむ、こうして考えてみれば、いかに殿下といえども今度ばかりは勇み足であられたのう。
 元老院については、まあ結果的にユーリさま監視の任を殿下にお委ねしてしまったと言えぬこともないが、皇太后陛下がご代行遊ばされている統帥大権に楯突かれるとは、この国体そのものに楯突かれたも同じこと。恐れ多くも皇祖皇宗より承け継がれたこの国体にご不満をお持ちのお方が、皇帝陛下として立たれるなどとんでもないことではないか。

 いや、お手前にも難しいお立場に追い込まれたものよ。」
 「いやいや、手前の立場など元来軽きもの。
 先生こそ、大変なお立場であられますなあ。皇太后陛下が皇帝陛下を弑し奉っておいて、涼しい顔で口を拭っておられたのでは筋が通りますまい。皇太后陛下と同じく高貴なるバビロニアのお血筋を引かれながら、私情を断ち切って敢えてその筋を通さねばならないお立場なのですからなあ。」

 杯を持った手を膝に置き、細波のきらめく泉水に目を当てたまま話すイル・バーニに、これまた同じく池を眺めたままの元老が応じた。
 「そういうことじゃの、今の情勢というのは。
 わしとて、老いさらばえても元老院議員じゃ。人情は人情として、何を措いても心にかかるのはお国の弥栄というものでの。」
 「それは、手前も同じでございます。もっともこの若輩、憂いはしたとてお国のためには何ほどのこともできませぬが。」
 「いやいや。この国の将来を背負って立つのはお手前のような新進気鋭じゃ。年寄が先の事を心配したとて、そのうちにもじきお迎えじゃからのう。
 どうかお手前にも、お若さに任せた短慮はさておき、落ち着いて考えてほしいものじゃ。
 のう。皇帝陛下亡き今、タワナアンナたる皇太后陛下と、次代の皇帝陛下たる皇太子殿下が、共に謂れなき罪を得、悪くすればお二方ともお身を退かれることになったりしては、大変なことじゃ。」
 「実に全く。まさしく国難でございますなあ。」
 「されば、この国の真柱とも仰ぎ奉るべきお二方、ますますご活躍願い、永く民と楽しみを偕になさっていただきたい。臣たる者、そう祈らずにはおれぬのう。」
 「実に全く。左様でございますなあ。」

 元老は、おほん、と一つ、咳払いをした。
 「考えてみればの、皇太后陛下には罪などおありではないのじゃ。そうは思わぬか。
 皇帝陛下が弑されてしまったというのに、そのご正妃さまは未だ立后なさってはおられぬ。そこで、畏くも皇太后陛下がご気丈にも統帥大権をご代行になって、あの未曾有の大事件の解決を一心に願われて、ご手兵をアリンナへ遣わされたのじゃ。なのにその真犯人の出任せで謂れもない濡衣を着せられ、さらには事件解決と同時に、民の不安と怖れを偲び給うて速やかに兵を退くべくご命令を下されたのに、兵どもが依然として陛下のお名を騙り奉って暴れまわった。
 自暴自棄の大逆犯や、陛下のご命を解さぬ愚かな兵どもの所為で、拝し奉るだにお気の毒な話ではないか。のう。」
 なるほど。これを認めよというのが先生の条件なのだな。
 ならば、こちらも通すべき言い分は通すまでだ。
 「実に、全くですな。されば皇太子殿下にもお気の毒でしたなあ。
 罪あるものにも大いなるご仁慈を垂れさせ給い、徒な厳罰を弄することなく、その更生を一心に願われて宮に召抱えられたというのに、愚かな罪人はまた罪を重ねた。しかも、その罪はあろうことか殿下のお妃さまに着せられそうになったのですからな。
 それでも殿下は屈せず、淡々としてご職務に励まれ、アリンナの町を騒がせていた暴徒どもをお平らげになり、国の平穏を復された。近衛長官として皇帝陛下をお護りになれなかったご遺漏は、その功によって埋め合わされたと申してもよいのではありませんかなあ。後は、皇帝陛下としてこのお国を正しく導いていただきさえすれば…」
 元老も、ここで腹を決めた。お互いに我田引水、相当強引な理屈の応酬であることは百も承知だ。しかし、折れ合うしかないのだ。
 「そう。そうじゃそうじゃ。皇太子殿下には、まことに次代の皇帝陛下に相応しいお頼もしさであられた。この上は、早くご即位になることを祈らずにはおれぬのう。
 …されば、今さら皇太后陛下に騒ぎの責を負えなどという議論は、まさか出て来はすまいのう。」
 「それはもう、それに疑いなきこと。
 いやいやめでたい。皇太子殿下には早晩滞りなくご即位、皇太后陛下には引き続きご安泰。わが大ヒッタイト帝国には何の憂いもない。
…それで、よろしいですな。」
 「いかにも。民に先んじて憂うるを厭われぬご英明なる皇帝陛下と、民に後れて楽しまれるを欣びと思し召すご慈愛深き皇太后陛下を戴いて、明日の御国は磐石。我等臣民には実に忝く有難き幸せではないか。
 …さ、イル・バーニどの。わが帝国の弥栄を祝願して、改めて乾杯とまいろうかの。」
 「喜んで、頂戴いたします。」
 この若造、噂に違わぬなかなかの強か者じゃ。

 岩陰の刺客が頷きあい、息をついて静かに剣を鞘に納める。
 物見の合図を受けた門外の兵が、今にも振り上げて門を打ち破らんばかりに担いでいた掛矢を地面に下ろす。
 元老とイル・バーニは、互いに杯を押し戴きあい、口に運んだ。

 「えっ。じゃあ、皇太后の罪は問われないんですか?」
 「ああ、そうだ。ナキアさまには引き続き、タワナアンナとして国務の一翼を担い続けられる。」
 「それじゃイル・バーニさま、策略は失敗じゃないですか。皇太后を追い落とさなければ、殿下もユーリさまもご安心にはなれないでしょう。ウルスラが作ってくれた好機を逃さず、皇太后を葬るんじゃなかったんですか?」
 「ああ、わたしも一時はそう考えた。しかしな、キックリ。
 考えてみよ。今、ナキアさまがタワナアンナの座を下りられたら、どうなると思う。
 今のこの帝国にはな、ナキアさま以外にタワナアンナはおられぬのだ。先帝陛下のご正妃がタワナアンナとしてご立后遊ばされていたなら、または、ユーリさまが文句なくタワナアンナたるに相応しいご身分をお持ちなら、わたしとて遠慮なくナキアさまを糾弾していただろう。いやその前に、この度のような不明朗な談合に出向く必要もないのだ。元老院が自ら信憑性を認定したウルスラの供述を証拠として、一気にナキアさまを廃位に追い込めばよい。場合によってはこちらから兵を挙げる、立派な大義名分ともなるのだからな。
 しかし今そんなことをしては、帝国三権の一、タワナアンナが空位となる。カイル殿下がご即位になったとしても、新しいタワナアンナに立てるべきご正妃はおわしまさない。かといって、カイル殿下に今すぐユーリさま以外の、それ相応の身分を持つご正妃を立てて下さいと申し上げたところで、容れられるはずもないだろう。
 先方がどう思っているか知らぬが、例えばお血筋だけから考えれば、サバーハ殿下など申し分ない后がねではないか。大行陛下のご指名を受けられた皇弟殿下が、大行陛下のご息女殿下を皇妃としてお立てになるのだ。これ以上筋の通った話はない。それに、これならわが皇室内の縁談だからな。双方異存がなければすぐにでもまとまる。外交問題も生じない。

 ならばと言って大行陛下のご正妃さまにお出ましいただくとしても、皇帝陛下ご自身が崩ぜられた後、追ってそのご正妃にご立后いただくことが法的に可能かどうか、見解は分かれるのだ。もとより今は、前例もなく、政治絡みの思惑で紛糾するに決まっている法律論を戦わせている余裕などないのだからな。
 まあ、タワナアンナがお一方もおわしまさぬからと言って国政が執れないというものではない。そんなことを言っていてはわが帝国、いつ何時国政が空転するか知れたものではない。時の皇帝陛下よりも皇妃陛下が長生きなさる保証などどこにもないからな。だからこそ、わたしはナキアさまにみ位を下りていただこうと考えたのだ。
 しかし、元老院の様子を見ていると、そうも行かないことに気付いたのだ。元老院という所は、いずれ劣らぬ多数の有力者の集まりだ。それぞれ、いろいろな利害関係もある。当然、ナキアさまに近い元老、バビロニアと親しい元老も少なくない。今、帝国が莫大な国帑を対バビロニア援助に投じているのは、そういう元老らの活動の成果だとも言えるのだ。
 今この時点で、ナキアさまがみ位を下りられ、バビロニア王孫たるジュダ殿下が皇位に就けず、カイル殿下が次の皇帝に立たれるとなれば、当然そういう元老たちは反発する。下手をすれば、カイル殿下の即位が承認されないことさえ考えられる。
 よしんば、それで殿下がご即位になったとしても、バビロニア派の元老たちは、カイルさまのなさることには悉く異を唱えるだろう。元老院内でも決して無視できない勢力を持つバビロニア派が多数派工作を始めれば、元老院全体の意思が殿下の思し召しと真っ向から衝突することにすらなりかねない。一対一の対立だ。もとより、鍵となる第三の意見は出て来ない。タワナアンナと名のつく方がおわしまさない限りはな。…国政全体が、停滞するということだ。ご即位当初から。
 早晩ご即位になるカイル殿下の政権を完全な形で発足させるためには、たとえどんな方であろうとも、とにかくタワナアンナと名のつく方が必要なのだ。
 とにかく、そういうお方がいて下さりさえすれば、国の政体は完全な形を整えたことになるし、後は政治上の駆け引きで何とかなる。たとえ、ユーリさまにご正妃としてお立ちいただいた後には否応なくご引退いただく中継ぎタワナアンナだとしても、必ずしもカイルさまにとってお味方とはならぬお方であったとしてもな。」

 「はあ、それはまあ。せっかくカイルさまがご即位になるのに、形からして不完全な政権だというのはちょっと… 予てからの理想のご政策が悉く元老院に拒まれるというのも、困りますね。」
 「そうだろう。先生としては、気に入らない皇太子殿下の即位には目を瞑っても、何とかナキアさま、そしてジュダ殿下に累が及ぶことを避けたいという腹でわたしとの会見を望んだのだろうが、わたしとしても、今しばらくはナキアさまにご在位いただかねばならぬことに気付いたのだ。
 先生の方でも、その腹づもりさえなければ皇太后さまがご代行遊ばされた統帥大権に楯突いた皇太子、そして皇帝陛下のお命をお護りできなかった近衛長官の責任を徹底的に追及して廃太子に持ち込み、ジュダ殿下を以てそれに替える筋書だったのだろうな。無血クーデターという訳だ。
 結局、お互い突かれれば痛い点があるのだから、それを相殺帳消し、ということで手を打ったのだ。談判というものはこのようにしてやるのだぞ、キックリ。」
 「はあ、左様で… しかし、それならカイルさまが法に反してユーリさまを匿われたり逃がされたり、その上統帥大権に基づいて派遣された皇太后の兵を敢えて討たれたというのは、ちょっと際どい策だったのでは。」
 「確かに、際どかったな。いや、明らかな違法行為でもあった。
 まあ、元老院もその点は追及すまい。仮にも皇帝と同格の国事決定権を持つはずの元老院が、皇太子一人の横車に押し切られてしまったと言うよりは、諸般の事情を勘案してユーリさまの監視をカイル殿下に委ねたとする方が面目が立つ。…しかも、結果としては別に真犯人がいたのだから、ユーリさまに対して強権を発動したこと自体、うやむやにできるものならそうしてしまいたいはずだからな。
 ナキアさまにしても、犯人の刑が確定した以上、即座に兵を撤収させる措置を講じたはずだ。講じていなくても、ナキアさまは講じたと言い張るはずだ。…仮にも平和なるべき国内で兵を動かし、民の暮らしを騒がせるなど、ご仁慈深き皇太后陛下ともあられようお方には万々已むを得ない処置、であるはずだからな。必要がなくなれば、すぐにも撤収の措置を講じるのが当然のはずなのだ。見ていて解るだろう。ナキアさまが、どなたよりも民衆から寄せられるご自身や皇子殿下についての評判に気を配っておられることは。
 とにかく、そういう措置を講じたというのなら、それこそ恐れ多くも統帥大権に基づいて出された撤収命令にも関わらず依然としてアリンナに居座っている兵など、明らかな抗命の輩だ。

 しかし、ナキアさまのことだ。何か別の理由をつけて、アリンナに遣わした兵は最後まで公権に基づいて正当に任務の遂行に当たっていたのだ、として、それを妨害した殿下の非を弾劾することも考えられる。
 そうなったとしても、勝手に殿下の名を騙り、最初に殿下の私兵を動かしたのはわたしの一存、越権行為だ。都合によればわたしが責を負って、事情次第では自決して、政治的に決着させるつもりだったのだ。現に皇太后さまも、私兵の暴走の責を全てウルヒに負わせてすり抜けられたではないか。

 何しろこの国の元老院は、建前はどうあれ、下の者が不祥事を起こしても、上の者の責任など実際には追及しないのが通例だからな。
 それにな、キックリ。
 アリンナのハッティが、公権に基く元老院や皇太后さまの命に従わず、敢えてユーリさまを奉じて居住区に立て籠もったのはなぜだ? 偏にユーリさまの、そしてカイル殿下のご意志を体しただけのことではないか。いくらハッティが武器に富み、忠勤の部民だとは言っても、本当に元老院の兵を相手に戦うことになったとすれば、戦力の差は明らかだ。ハッティは一族郎党、老若男女例外なく、皆殺しになっているはずだったのだぞ。…製鉄法の秘伝など、どうにでもなる。とりあえず目ぼしい技術者を何人か生かしておいて、用が済んだら処刑すればいい。元老のお歴々としても、実質上カイル殿下に独占されている製鉄法を、自分も手に入れることができる好機ではないか。
 当初は緊急已むを得ずそのように命じたとはいえ、そのままハッティを見殺しにしたのでは、殿下は必ずハッティの信を失う。ここは何が何でも殿下の御名でハッティ救援に駆けつけ、ハッティを包囲していた兵どもを討ち平らげたという目に見える事実が必要だったのだ。ハッティがわが妃を主と仰いでくれていることに甘えたまま終わってしまった形になっては、以後殿下はハッティのみならず、民衆の信を集めることなど到底できない。わが民を救うためにはどんな困難にも立ち向かう、そういう姿勢を見せてこそ、今後とも民はカイル殿下を信頼し、ついて来てくれるのだ。だから今回、程よい所で殿下おん自らお姿を現された効果は計り知れない。
 それにこの度の事で、カイル殿下が独自に擁する軍事力を国じゅうに訴求できた。何しろカイル殿下が動かされたのは、ご自身の私兵力だけなのだからな。カイル殿下の御事を快く思わぬ者に対しても、格好の示威となったではないか。」
 「なるほど。イル・バーニさまには、そこまでお考えの上で時局収拾を…」
 「当たり前だ。双子がアリンナから帰って来た時点では、まだ殿下には大義名分が不足だった。それに、最初から殿下ご自身にご出馬願ったのでは、わたしが全ての責を負うこともできないし、あのうろたえた殿下にこのような理屈を説明しても、到底聞く耳はお持ちでなかっただろう。だからわたしはわが喉に剣を擬し、手っ取り早くお止めしたまでだ。…結局、飛び出して行かれた時には、内心頭を抱えたがな。
 しかし、ウルスラもよくやってくれた。あの査問の場でナキアさまのお名が出なければ、殿下には近衛長官としての職務怠慢の一事だけでも、皇帝としての資質を疑われ、即位が承認されない方が当然だったかも知れないからな。
 そんな事態など、冗談ではない。元老院の査問がどんなものでも、皇太后のほうが近衛長官よりも、皇太子よりもえらかろうが、カイル殿下には何が何でも即位していただかねばならないのだ。
 今回の状況、明らかにこちらの不利だった。…ウルスラの供述が出ていなければな。あの供述、わたしには教唆している暇もなかったのは知っているだろう。
 わたしとしても、査問会でのあの質問は大きな賭けだった。ユーリさまに忠誠を誓って見せたとはいえ、その前にはナキアさまの手の者であり、そしてそのナキアさまを裏切った前歴を持つウルスラが、自身の命がかかった状況でどんな供述をするか。もしや最後の最後に本性を現して、殿下やユーリさまを売ったとしても無理はないのだ。…にも関らず、ウルスラは自身の判断で、あのような供述をしてくれたのだ。
 ウルスラはな。己が極刑間違いなしという状況の中、わたしに言った。『一日も早くユーリさまがご無事でおもどりになることをお祈りしています』。
 あの言葉を耳にするその瞬間まで、わたしはウルスラには気を許せなかった。常に、一点の疑惑が拭いきれなかったのだ。
 あの言葉で、わたしは初めて、本当にウルスラがユーリさまに忠誠を誓っているのだということを確信したのだ。 …その確信、もっと早くに持っていたなら、あるいはわたしとて、あっさりとウルスラを見捨てる決断ができたかどうか… わたしとて、鬼ではないのだからな。同時に決して、全てを見通せる神でもないのだ。」

 「そうだったんですか。…わたしはてっきり、イル・バーニさまは完全にウルスラを信用しておられるものとばかり…
 実はですね、イル・バーニさま。
 イル・バーニさまが殿下に、ユーリさまに自殺していただく献策をなさった時、わたしはイル・バーニさまに憎しみさえ感じたんです。どうやったらそこまで冷酷になれるのか、と思って。
 でも、よく解りました。わたしだって、カイルさまのためなら死ぬのも恐くはないつもりです。でも、どれだけ効果のある死に方をするか、一人の人間の献身を、残された者がどれだけ活かすか、わたしはそこまで考えていなかった。…いえ、そこまで考える知恵なんて、到底わたしにはありません。
 だからこそ殿下は、イル・バーニさまに絶対の信頼を寄せておられるんですね。」
 「さあ、どうだかな。まあ、わたしとしてはこれが、殿下のために最善を尽くした結果だ、ということだ。そのために、誰に憎まれようとも知ったことではない。
 だがな、キックリ。おまえもユーリさまのこととなるとあそこまで取り乱される殿下にお仕えしているのだから、今話したぐらいの状況は判断して、殿下の拾遺ができるようになってくれなければ困る。

 わたしとて殿下の家令として、殿下のご身辺から目を離すつもりはないが、何しろわたしには一方で書記という官職がある。そう露骨に、殿下お一人の利益ばかりを考えてもいられないのだ。解るな。」
 「それはそうですね。わたしならただの、カイルさまの私的な使用人だ。」
 「といっても、おまえもヒッタイトの臣民だ。臣民としての義務も、忘れてもらっては困るぞ。おまえもいずれは、この大ヒッタイト帝国の官職を戴くことになろうからな。」
 「それは重々承知しています。
 …それで、ラムセスのことはまだ報告なさらないんですか。」
 「ああ。元老院は未だ、ユーリさま誘拐の騒ぎには勘付いていない。こちらからも余計な知恵などつけてはやらなくともよい。
 おそらくラムセスは、エジプト人の居留民の村を辿って南下したのだろうが、村の者も口は割るまい。何しろ皇族誘拐を幇助した者があるとなれば、村ごと皆殺しにされても文句は言えないからな。
 ただでさえ複雑な情勢、エジプトとの外交問題まで絡んで来ては、ますます話がややこしくなる。今はとにかく、殿下のご即位が第一だ。守護し奉るべき皇帝陛下を殺された上、妃をさらわれました、などとは、殿下の間抜けぶりを誇示するに等しい。ユーリさまが無事お帰りになった以上、伏せておくに如くはない。」
 「確かに、そうかも知れませんね。それでなくても、今回の騒ぎは大変でした。何だか訳も解らないうちに…
 あ、殿下のお戻りです。」

 「イル・バーニ。ご苦労だったな。今、王宮から戻った。
 で、どうだった。秘苑は。」
 「はい、まことに見事な作庭、あの先生にはなかなかのご趣味であられますな。先生との清談もまことに趣深く、…物解りのよい先生でしたぞ、実に。」
 皇太子は、強張らせていた表情を緩め、ふうっ、と溜息をついた。
 「『殿下』。こうお呼び申し上げられるのも後少しのことですな。」
 「そ、そうか。間違いないのだな。」
 「はい。これからは、『陛下』とお呼び申し上げることになります。…あの先生とさえ話がつけば、今度の元老院議会では、おそらく全会一致でご即位が承認されましょう。
 但し、しばらくはナキアさまとの二人三脚。不本意ではあられましょうが、それがこの国の政体です。精々励まれますように。」
 「今度もまたおまえに救われたな、イル・バーニ。…いや、うまく手玉に取られたような気もするが。」
 「とんでもない仰せ。しかしそう思し召しなら、たかがわが乳兄弟風情に手玉に取られぬよう、どのような場合にも常にご冷静に事に当たられますように。…たとえ、ユーリさまが絡む場合でも。」
 「な、何だと!」
 キックリが、ぷっ、と噴き出した。


 アルヌワンダ帝暗殺(第10巻・63ページ)から、元老院によるムルシリ即位承認(第12巻・30ページ)までの、原典中でも特に難解な経緯について深読みを試みました。
 普通に考えれば、皇太子である以上、践祚・即位するのにいちいち元老院の承認が要るというのは不合理なようですが、おそらく当時のヒッタイトでは、形式的にそのような手続が必要だったのでしょう。そしてその形式を盾に取り、元老院が皇太子の即位を阻むという政争の手段もあったのでしょう。

 この、アルヌワンダ帝暗殺に端を発する一連の騒動に対して、ムルシリ一派やナキア、元老院がそれぞれ取った行動は一見不可解、少なくとも大変際どいものでしたし、結果として得られた解決もとても明快なものであるとは思えません。
 何が問題でどう折り合われたか、ということは本文中に盛り込んだつもりなのですが、この会談、あくまでも両者は恍け合い、あくまでも正規の交渉の形を避けて腹を探り合った末に政治取引がまとまったという形としました。
 なお、今回は舞台として「庭園」を設定しました。しかし、当時の現地に庭いじりの道楽や庭園鑑賞の趣味があったかどうか、当筆者は知りません。「宏大を務むるものは」云々というのもこの時代からは二千年以上の未来に語られる作庭論ですが、原典に見る限りどの邸の庭でも同じような泉水が設えられ、同じような花が配されているようです。原典に描かれているのはある程度以上の公的な性格を持った施設の庭ばかりのようですので、この庭道楽の元老も、ハットゥサに構えた邸には矩形の池を掘り、飛び石を配して睡蓮を植え込む、様式に則った(?)庭を持っていたのでしょう。


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