睡蓮の池のほとり

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帰って来た娘


 緑の平原。
 ところどころに、身を寄せ合うような潅木の林。
 
 その平原は、なだらかな斜面を描いて、遥か彼方の山々につづいている。 
 吹き抜ける熱い風は、何千年も前から変わりなく息づいているのだろう。
 この地に人が住みついても。
 ここに街がつくられても。

 この地がどんな国に属しても。
 どんな思惑を人がめぐらせても。

 風は、そんなことには関係なく、吹き続けてきたのだろう。
 そしてその風の下、河は流れ続ける。
 ゆったりと
 力強く
 涸れることなく
 これからも、永遠に。
 

 ふう。
 
 やっとここまでこぎつけたか。
 はた迷惑な話だ。
 いくら皇女さまかも知れないけど、町娘のようなまねをしてみたかと思えばスパイに誘拐されて、保護されたのは皇帝陛下のお着き直前。

 ぎりぎりセーフでわたしたちお付き女官も縛り首にならずにすんだのだ。
 臨時とはいえお付きを勤めるわたしは、一生分の神経をすり減らしたような気がする。
 でも、もうこれでだいじょうぶだぞ。
 カルケミシュを発って、こうして無事に…
 ええっと、ここ、何てゆう街だっけ?
 ああ、カディシュだ。
 カディシュの街に、たどりついたんだから。

 

――さて
 初めての読者の皆様、初めまして。
 といっても、わたし自身、こーゆうところに出てくるのは初めてなのだ。
 読者の方は、きっと状況を理解できてないだろうなあ。
 
 わたしは、ユデテ。16歳。
 どこかで聞いたことがある名前だって?
 こうゆう名前はよくあるのだ。
 わたしはリュートは苦手だし、皇子さまに恋したこともない。

 生まれたのはハットゥサ。これでもメトロポリタンだぞ。
 でも今は、カルケミシュに住んで、知事さまの所で働いている。
 どうしてそんなに大きな溜息をついているのかって?
 説明しよう。
 
 わたしたちの国・ヒッタイトは、29年前、エジプトと大きな戦をした。
 その後、講和条約ということで、ヒッタイトの皇女が、エジプト王に嫁入りすることになった。
 それで、いよいよその皇女が嫁入り支度のためにカルケミシュへやって来た。
 それで、カルケミシュ知事のジュダ・ウルヒリン公のご息女、エイミ・ハクピッサ姫付きのわたしは、臨時にユーリさまのお付きを命じられているのだ。

さっきは29年前の戦の講和条約だと言ったじゃないか!! と言いたいだろうけど、まあ、聞いて。
 とにかく、今その婚姻の準備がやっと、始まったのだ。
 まあ戦から講和まで、16年もかかったそうだし、その時、皇女さまはまだよちよち歩きだっただろうから、それからさらに13年間、ご成長をお待ちしたのだろう。
 おかげで、戦のころには影も形もなかったわたしなんかが、こうして国境の街:カディシュにまでやってきて、その歴史的な婚姻の関係者の端に連ならせてもらえるのだ。

皇女さまのお嫁入りだから、この上もなくおめでたいことだ。 

 ―――でも

問題はそこなのよね。
 なんでそんなに不自然な、無理な婚姻が進められてしまうのか。

ヒッタイトは、オリエント一の繁栄を誇る国だ。
 でも、その割には、宮廷でも政庁でも汚職やスキャンダルが絶えないし、変な天災が続いたり、ささいなことで暴動が起きたりもしている。
 何となく、落ち着かないのだ。
 民衆も貴族たちも、天下泰平になれきって、まあそこそこに働いていれば楽に暮らせるものだから、おしなべて覇気がない。
 農民は新しい耕地を開こうともしないで、税や穀物相場にばかり気を取られてるし、市民も目先の儲けにしか関心がない。
 貴族たちも、武芸や政治より、舞だとか音楽だとか、社交にばかり夢中になっている。
 これが、父さまが聞かせてくれた、栄光に満ちた歴史と繁栄を誇る国だとゆうのは、ちょっと信じられない。

 父さまなんて、娘のわたしがいうのもおかしいけど、まじめで、いつも修養に励んでいて、余計な遊びもしないし、変なコネ作りや役得には興味のない人だ。
 わたしでさえ、ちっちゃな頃から兄さまたちといっしょにされて、この国の誇り高さ、忠誠心の大切さ、父さまからはそんな話ばかり聞かされていた。
「娘たちのしつけは、わたしに任せてくださいな。ちゃんと、どこへお嫁にいっても恥ずかしくないだけのことは教えているのですから」
 母さまは父さまの堅苦しさに顔をしかめていたけれど、そんな時の父さまの反応はいつも決まっていた。
「女の子に天下国家の話を聞かせて何が悪いか。もったいなくも畏くも、ユーリ・イシュタル皇妃陛下をお偲び申し上げてみよ!」
 …わたしだってそんな話、ほんとうは退屈だったんだけど。
 おじいさまだって、武芸や軍学一筋、遊びになんて縁のない堅物だった。
 なのに二人とも、逆にそれがたたって、出世できなかったのだ。
 才能がないんじゃない。
 付き合いが悪い、堅苦しい。
 それだけのために。

 これでいいのかなあ。
 わたしのようなしがない女官が生意気なようだけど、ついつい考えてしまう。

 
 こんなことじゃ、国は発展しない。
 まあ今の繁栄を維持してゆけばいいのだろうけど、それも、みんなが地道に、ちゃんと働いてのことじゃないのかな。
 そうゆうわたしや、何十人もいる女官たちだって、そんなに猛烈に働いているわけじゃない。
 毎日エイミさまのお相手で、お衣裳の品定めをしたり、竪琴を弾いたり、お花を見に出かけたり。
 まあこれもお仕事なんだけど、それにしてもあんまり生産的じゃないよなあ。
 まあエイミさまご自身はお姫さまなんだから、楽しいことだけ考えて、ご機嫌よく過ごしていればそれでいいんだろうけど。
 それでもエイミさまは、わざわざユーリさまをお見送りになるために、このカディシュまでお出ましになっている。
 たおやかで、おしとやかで、もちろんお美しくて、お姫さまのお手本のようなエイミさまには、ボーイッシュなユーリさまのことを、ちょっとおうらやましくお思いのご様子だし。

「ちょっとユデテ。あんた、ユーリさまのお髪上げのお道具はそろったの?」
 同僚の女官の甲高い声で、はっ、とわたしは現実の世界に引き戻された。
「う、うん。ばっちりよ。完璧!」
「まったく、この忙しい時に、ぼーっと景色を眺めてる女官があるもんですか。臨時だからって、さぼってちゃだめなのよ!!
「わ、わかってるわよ!!
 はい、わかってます。
 わたしは、ユーリさまがお使いになるお湯殿を整えに、重い腰をあげた。
 
 わたしだって、これでも貴族の娘だ。貧乏貴族だけどね。
 父さまが、お勤めの関係でカルケミシュにおいでになって、知事さまのご正妃・マリエさまにお目通りした時、女官を増員したいと漏らされたチャンスを逃さず、わたしをマリエさまに売り込んでくださったのだ。
 マリエさまといえば、あの有名なユーリ・イシュタル皇妃陛下ただ一人のお姫さまだ。
 父さまから、カルケミシュへ行ってマリエさまにお仕えしろといわれた時には、わたしは夢じゃないかとさえ思ったものだ。
 なにしろわたしはちっちゃな時から、父さまに吹き込まれるまでもなく、あちこちで語り草になっていたイシュタルさまの話を聞いて、ひそかにイシュタルさまの大大大ファンになっていたのだ。
 どうして父さまはわたしに「ユーリ」という名をつけてくれなかったのかと怨んでいたほどだったから、マリエさまにお仕えしろといわれただけで、夢じゃないかと自分の耳を疑ったものだ。
 そして、いよいよほんとうにハットゥサを出て、カルケミシュへと旅立つ11才のわたしは、故郷を離れる淋しさなんてなく、頭のてっぺんからいくつも八分音符を引っ張りながら、父さまが手配してくれた馬の背に乗ったのだ。
 もっとも、つまりは宮仕えだから、楽しいことばかりでもなかったし、今にして思えば、ようするに「口減らし」だったのはわかっちゃったけど。
 父さまも、お金はないのに子供はたくさんいて、たいへんだったんだろうな。
 ……そんなことはどうでもいい。

ねえ、ユーリ・イシュタルさまって、知ってる?
 ムルシリ二世陛下のご正妃で、なんと、ハットゥサの町の、泉の中から現われたんだって。その泉は、わたしが生まれるよりもはるか昔になくなってしまったそうだけど。
 そんなばかな、って?
 ばかとは何だ!
 許さないぞ。イシュタルさまの悪口はっっ!!
 だって、最初の時はたまたま水汲みに来ていた近所のおばさんたちが目撃しただけだったそうだけど、その後にももう一度、イシュタルさまは泉から、それも、絵に描くのにはうんざりするんじゃないかと思うほどの大観衆の目の前で姿を現したっていうんだもん。

 その頃、まだ若くて、王宮に勤めていたわたしのおじいさまが、その様子をはっきりと拝したのだ、って、何度もわたしに話してくれたのだ。
 何でも、イシュタルさまはそんな現われ方をなさったものだから、神さまの化身だといっても地上では家柄も何もない。
 皇族どころか、貴族ですらない。
 だから、ムルシリ二世陛下はイシュタルさまをご正妃にするのをずいぶん迷っておられたらしい。
 だもんだから、イシュタルさまをこの国に下されたテシュプの神がお怒りになって、イシュタルさまを神々の国に召し返されてしまったんだって。
 それで、ムルシリ二世陛下もやっと反省なさって、大神殿前の泉の前にお出ましになって、イシュタルさまを返したまえ、ってテシュプの神にお祈りしたのだ。
 その時、おじいさまはその神殿前の警備ということで、陛下の背後、テラスの上の特等席に立っていたのだ。
 すると。
 鏡のように静かだった泉の水が、陛下のお祈りとともにこぽこぽと沸きあがって、その中から、そう、イシュタルさまのお姿が現われたのだとゆう。
 だれだって、そんな奇跡を目の前で見たのは初めてだったから、感激してありがたがって、大神殿前は熱狂的なパニック状態になったらしい。
 その時、お勤め大事のおじいさまは、それ以上奇跡に見とれていたりはせず、すぐさま部下たちを指揮して、観衆のほうへ突進して行ったのだそうだ。
 その素早い行動のおかげで、観衆にも警備陣にも、1人のけが人も出なかった。
 これが、おじいさまの自慢だ。

 ああ、わたしも見てみたかった。
 もちろん、おじいさまの勇姿じゃなくて、イシュタルさまの奇跡のほうだ。
 きっと、バーンと見開きいっぱいに描かれるような見せ場だったんだろうなあ。
 ……無理だな。わたしが生まれるはるか前のお話だもんね。

 でも、わたしは覚えてる。
 おじいさまが聞かせてくれたその伝説を。
 誰が作ったのか知らないのだけど、後世、その見開きいっぱいの見せ場に添えられるような感動の詩を。
「暁の光の中
 若き皇帝ムルシリ2世の元に
 女神が降臨たまう
 黒き髪 黒き瞳 
 そしてすべらかな象牙色の
 肌をした小柄な女神は
 泉より現れいでて
 ヒッタイトに華のごとき
 栄光をもたらした」

 そうよ!
 わがヒッタイトの栄光と繁栄は、イシュタルさまがくださったものなのよ。
 しかも、イシュタルさまはその後、もう神々のお国にはお帰りにならず、地上の、この国の赤い土になられたんだわ。
 わたしはおじいさまにおねだりして、イシュタルさまのご陵と、イシュタルさまが最初に降臨された泉の跡に建っている神殿を拝しに連れて行ってもらったことがある。
 マリエさまも、そのお姫さまであるエイミさまも、そしてユーリ・ナプテラさまも、そのイシュタルさまのご子孫なのだ。
 ああ、お姫さまになりたいとは思わないけど、できることなら、イシュタルさまのご血脈に生まれたかったなあ。
 …ごめんね、父さま、母さま。
 
 わたしは信じてる。
 イシュタルさまが、その生まれ変わりの姫さまが、この国の赤い土にまします限り、この国は安泰だ。
 この国が滅びる時、それは、イシュタルさまに見限られた時だ。
 

 でも
 その時は、決して遠くない気もするぞ。
 何しろ国が、このありさまだもんなあ。
 ユーリさまのご婚姻だって、ヒッタイトとエジプトの友好の象徴として、ということになってるけど、ほんとうはそんな明るいものじゃない。

 ようするに、この国は落ちぶれているのだ。
 エジプトに皇女殿下を差し出して、ファラオのご機嫌を取って、援助をもらって、そして、侵攻だけは勘弁してもらう。
 国中が天下泰平の夢をむさぼっていた間に、国はそこまで疲弊していたのだ。
 だからこの婚姻がうまくいかなければ、国は滅びる。
 ユーリさまは、ヒッタイトにたった1つ残された希望を一身に背負って、会ったこともない年老いたファラオのもとへ、嫁ぐのだ。
 そして一生、エジプト王家のご機嫌を取り続けて、ヒッタイトを守るのだ。
 なんとゆう苛酷な人生だろう。
 わたしは、考えていて涙がこみ上げてきた。
 おかわいそうに………

こんなことを考えながらも、お湯殿はぴかぴかに磨き上げられていた。
 ほかのことを考えながらでも、ちゃんと手は動く。
 わたしってば、なんて有能な女官なんだろう。
 これなら、ユーリさまにもきっとご満足いただけるわ。
 わたしのような者がそんなユーリさまにしてさし上げられる、せいいっぱいのはなむけだ。

「ちょっとユデテ! いつまでお湯殿磨いてるのよ!! 顔までびしょびしょにして、真っ赤になって。この忙しいのに、水遊びしてる女官があるもんですか。早く香油とお花、貰ってきてよ!!

 こいつはっっ!! どうしていつもわたしの忠誠心にあふれた思索を邪魔するんだろう。
 はい。わかってます。
 わたしは、もう1度お湯殿の中を見渡して、手落ちがないのを確かめると、手配しておいたバラの花びらを受け取りにむかった。
 

大きなかごいっぱいの花びらを受け取ったわたしは、廊下で大荷物を持った同僚の女官に出会った。
 真っ白な布の包みの中は、式場でユーリさまがお召しになるドレスらしい。
 同僚が
「すごいわよ、ユーリさまのお衣裳。ちょっと見ていかない?」と、わたしを誘惑する。
 冗談じゃない。
 今、それどころじゃない……のよね。
 これでもお湯殿の責任者なんだから。
 でも
 早く見てみたいな、ユーリさまのお衣裳。
 エジプトから贈られた、すばらしいお衣裳。

 だめだだめだ。
 お仕事があるんだ。
 だめだ

 でも
 うーん
 うーん
 うーん
 ………

 行く。


 うわあ
 うわあ
 うわあ

 すごい。
 すごい。
 輝くような純白のドレス。
 白鳥をかたどった、宝石と金銀象嵌のかたまりのような宝冠。
 色とりどりのパーツが、一点の乱れもなくつづりあげられた首飾り。
 髪の毛よりも細い彫刻がぎっしりのイヤリング。
 ついでだから敷いてあるカーペットにも感心しちゃおう。
 さすが、エジプトの細工はちがう。
 ヒッタイト人だって、けして不器用なわけではない。
 特に、兵器を作らせれば世界一の水準なのだそうだ。
 でも、工芸品、特にインテリアやアクセサリーとなるとちょっとやぼったい。
 そーゆうのはやっぱり、エジプト製が最高だ。
 わたしだってこの間、必死で貯めたおこづかいで、欲しくて欲しくてたまらなかったエジプトのブレスレッドを買った。
 市場のおばさんは、ついでにエジプト直輸入の真っ白なすけすけドレスを持ち出して、試着まですすめてくれたけど、服とゆうのはみっともないプロポーションを隠すためにあるのだ、と考えるしかないありさまのわたしはひたすら遠慮しておいた。
 ……そんなこと、どうでもいいのだ。

でも、いいなあ。
 皇女さまだからこそ、こんな豪華なお衣裳でお嫁に行けるのだ。
 今度の婚姻でも、わが国のほうではヒッタイトの威信を誇示するために、ユーリさまにはあくまでヒッタイトふうのお衣裳で通していただいて、エジプトへ行っても、徹底的にヒッタイトふうのライフスタイルを守っていただこうという方針だったらしい。
 そのために、毎年毎月、ハットゥサから直接ユーリさまに、新しいお衣裳やお身の回りの物をお届けし続ける手配までできていたという。
 でも、お相手のファラオが、エジプト王妃にふさわしい花嫁衣裳を贈りたい、という意向を伝えてきてからは、そんな懸命のナショナリズムも腰くだけになってしまった。
 皇帝陛下ご自身でさえ、ファラオの申し出を拒絶するようなお心意気は、お持ちでないのだろう。
 情けない。

「あら。ちょっとユデテ! あんた、どうしてこんな所にいるのよ? お湯殿はどうなったのよ。あんた、さっきからぼうっとして、さぼってばかりじゃない!? やる気があるのっっ?」
 「だって…」
 「何が、だってよ。言い訳があるなら言ってごらんなさい!」
 ……ない。
 わかってる。
 ごめんなさい。
 

 ユーリさまがおでましになって、湯あみをなさっている。わたしが精魂こめて整えた、そのお湯殿で。もちろん、わたしもお湯殿の隅に控えている。
 どこか、ゆきとどかない点がございますか?
 ふん、ないだろう。
 まいったか。

 …手落ちがなくて当たり前なんだけど。女官の仕事とゆうのは。
 でも、ユーリさまは緊張していらっしゃるのか、かたいご表情だった。
 まるで思いつめたようなお顔だ。
 無理もない。まして、ただの花嫁じゃないんだものな。
 女官長が、何とかユーリさまのお気持ちをほぐして差し上げようと、ユーリさまのお美しさ、ご聡明さをほめちぎって差し上げている。
 それでもユーリさまは、ご表情をおゆるめにならない。
 女官長が、今度は花嫁衣裳の豪華さをほめそやし始めたのも煩わしいだけなのか、ユーリさまは突然、お湯の中に頭までざばっともぐってしまわれた。
 そして、
「お願い、すこしだけひとりにして。考えごとしたいの」
 と仰せになった。
 女官長は、にこりと笑ってうなずくと、わたしたちに、退がれ、の合図をして、自分も立ち上がり、お湯殿の扉を閉めた。

 もういいかな。時間も迫ってるし。
 わたしたちは、女官長の後にくっついて、お湯殿に向かった。
 いよいよユーリさまにエジプトのお衣裳をお召しいただくのだ。
 さあ、がんばるぞぉぉ!!
 わたしたち、ハットゥサとカルケミシュからよりぬかれた精鋭女官部隊が、ヒッタイト宮廷の名誉にかけて、ユーリさまに一世一代のおめかしをしてさしあげるのだ。

 エジプト人が息を飲むしかないような、美しい花嫁に仕上げるのだ。
 さあ
 

!!
 うっそ―――っっ!!
 こ、こんなのってあり――
!?
 ユーリさまがいない!


 まんまんとお湯をたたえた浴槽の中には、筧からさっきと同じように水が落ちていて。
 ついさっき、わたしたちが浮かべて差し上げた花びらが浮かんでいて。
 わたしがその花の香りとのコーディネイトに苦心して、下っぱ女官のくせに4回も納入業者のおじさんにダメを出して、ようやく納めさせた6種類の中から、3日も迷って選んだ極上の香油の匂いが立ちこめていて。

ユーリさまだけが、いない。

ユーリさまは、水の中に消えてしまったのだ。
 やっぱり。
 やっぱりわたしの予感は、現実になるのだ。
 この国は、滅びるのだ。 
 膝の力が抜けた。
 目眩がした。

 ぐるり
 と、天井が回った。
 太い円柱と
 なぜかたおれている衝立と
 四角の浴槽と
 豪華なじゅうたんが
 歪んで
 ねじれて
 かすんでいった。

わたしが目を覚ましたのは、女官詰所のカーペットの上だった。
 そうだ、あまりの驚きで、わたしは失神してしまったのだ。
「ああユデテ。だいじょうぶ? …無理もありませんわ。 わたくしだって、失神しそうなぐらい驚きましたもの」
 ども…
 お手数おかけします。
 わたしは、ぶるぶると頭を振りながら、身を起こした。
「で、ユーリさま、みつかったんですか?」
「しっ!」
 女官長は、口元に指を当てて、うむを言わせずわたしをにらみつけた。
「ユーリさまは、お支度も無事整って、もうすぐお出ましなのです。だからあなたも予定通り、ユーリさまをお守りする、最後のお勤めに出るのですよ。
 それから、ちょっと予定が変更になって、カルケミシュの女官も何人か、エジプトへおともすることになったのです。ああ、あなたは居残りですよ。
 よろしいこと? もう、何があっても驚いたり、変なことを口走ったりしてはなりませんよ!
 大切な『ユーリさまの』御輿入れなのですからね!!
 わ、わかったわよ! 
 そりゃ、失神しちゃったのは女官としてあるまじき失態だったけど、予定がちょっと変わったぐらいで、そうそう取り乱したりしないわよ。
 馬鹿にしないでくれる? 
 そりゃあ、女官長にくらべればひよっこだけど、わたしだって仮にも、もう5年も女官を勤めてるんだぞ!!

 わたしは、超特急で着付けと髪とお化粧を直して、ドダダダダという音をしょってろうかをつっ走り、お支度部屋の次の間に駆け込んだ。

 そこでは、いつになく緊張した表情の同僚たちが、遅れてきたわたしのことなんて見向きもせず、もうお化粧道具の片付けにかかっている。
 なによ、みんなっっ!!
 無視することないじゃん!

 うちからもエジプト行きの女官が決まったんだって?
 だれよ、だれが行くことになったの?
 あれ……… 
 無視してるんじゃない。ほんとに緊張してるんだ。

 ま、ぜったい手落ちの許されない場合だってのはわかってるけど。
 だからって、緊張しすぎじゃないの。
 みんな、昨日や今日、女官になったわけじゃないでしょ!?
 この程度の儀式なら、何度もこなしてきたでしょうに。

 女官長だって。
 「驚いたり、変なことを口走ったりしてはなりませんよ!」ってさ。
 わかってるわよ。
 わたしは、とがらせた口をすぼませて、業務用のつつましやかな表情に戻った。
 そして、片付けものをすませて戻る同僚たちに混じって、上の間に入った。
 ふん。驚いたりするものか。

―――驚いた。

頭からつま先まで、エジプトの豪華な花嫁衣裳を完璧に着付けていたのは、エイミさまだったのだ。
 しかも、みんな聞こえよがしに「ユーリさま」「ユーリさま」と呼びかけている。
 わたしは、何も言えなかった。
 何もできなかった。
 何、これ?
 何があったの?
 おでましの時間になって、わたしたちも花嫁さまの後に従って部屋を出た。
 でもわたしは、そ知らぬ顔で後をついて歩くだけで、せいいっぱいだった。
 かんじんのお仕事は、わたしが失神している間に打ち合わせをすませたらしい同僚たちが、つん、とすました顔で、てきぱきと進めてくれている。

 大広間。
 エジプト王陛下が、お出ましになる。
 わたしたちは、いつもより10倍ぐらいしとやかに、ひざまずいて陛下をお迎えした。
 どうせこうゆう場では、女官なんて半分アクセサリーみたいなものだ。
 1人ぐらい、ぼうぜんとしたヤツがいても支障はない。
 エイミさまが、嫣然とした微笑みをたたえて、エジプトのお迎えに応じた。
 そして、わたしが我に返ったときには、その場にはわたしたち、居残り組の女官と、ヒッタイトの警備要員だけしか残っていなかった。
 わたしの耳には、なぜか王陛下のしわがれた声のエジプト語だけが残っていた。
「ほう、これは美しい姫だ。余は満足である」
 

ご主人がお嫁に行ってしまわれて、わたしたち居残り組のお付き女官は、仕事がなくなった。
 わたしは、ユーリさまが消えてしまわれたお湯殿の責任者だから、女官長といっしょにアサティルワ・バー二さまに呼ばれて、極秘の事情聴取を受けた。
 王宮から今回の件について調査を命じられたというアサティルワ・バーニさまは、意外にさめた表情でわたしたちの話を聞き取ると、あっさりわたしたちを解放してくれた。
「なるほど。おまえたちの責任ではないようだな。二人とも、今回のことは忘れていい。」
 おいっっ!!
 そんなにあっさり、すませちゃっていいのか?
 そりゃあ、アサティルワ・バーニさまのポーカーフェイスはいつものことだけど。
 でも、わたしたちはその後、なぜかハットゥサ組もカルケミシュ組も全員まとめて、ハットゥサの王宮内の、小さな神殿付を命じられたのだ。

 わたしには、5年ぶりのふるさとだ。
 帰って来たんだ、ハットゥサへ。
 でも、そんな感傷に浸ってはいられなかった。
 カディシュを発って以来付ききりの、ぎらりと光る槍を立てた衛兵たちにエスコートされた行列のまま王宮に入ると、そのまま神殿に連れて行かれて、とうとう実家に立ち寄ることすらできなかった。
 そしてそのまま、お勤めが始まってしまった。
 これまでとは打って変わって、堅苦しい、退屈な職場だ。
 外出さえ許してもらえない。
 わたしには、何も説明がなくても、事情は飲み込めた。
 ユーリさまが消えてしまっては、婚姻はポシャってしまう。
 そうなれば、ヒッタイトはエジプト王との約束を破ったことになって、また戦が再開されてしまう。
 だから、エイミさまはユーリさまの替え玉として、花嫁になられたのだ。
 とはいえ、本物の皇女ではない、公女の身分のエイミさまでは、王陛下の花嫁としては明らかな格落ちだ。
 約束を破ったことに変わりはない。
 だから、エイミさまはユーリさまを名乗って、お嫁に行かれたのだ。
 どうせ、エジプト王陛下はユーリさまに会ったことがあるわけではない。
 事情を知っている数少ないエジプト側の関係者にしても、花嫁を迎えよとの王命を拝しながらそれを果たせず、あまつさえ偽者を仕立てる片棒を担いだのだから、口が裂けても真相は明かさないはずだ。
 そんなことがばれたら、確実に全員打ち首だ。
 もちろんヒッタイト側の関係者も、同じだろう。
 
 ユーリさまとちがって、エイミさまはストレートの黒髪をしておられる。
 いつもその黒髪をカットしてさしあげているわたしとしてはその点が心配だったけど、相手がエジプトでよかった。
 わたしが失神している間に、エイミさまは急いで、その豊かな黒髪をおろされたらしい。髪をきれいに剃っているのは、エジプト王家の女性としては当たり前なのだそうだ。
 目立つ髪の色の違いさえごまかせば、顔立ちなんてまあ、会ってみるまではわからない。
 エイミさまなら、お美しさといいお上品さといい、じゅうぶん皇女で通せるはずだ。
 エイミさまはこれから一生、ユーリ・ナプテラとして、マーホル・ネフェル・ラーとして、お暮らしになるのだ。
 だから、一番近くで真実を見てしまったわたしたちは、秘密を守るために、体よく幽閉されてしまったのだ。

それから半年が過ぎた。
 神殿の静謐を守るために、とかいって、ちょっとおしゃべりが聞こえただけでも、すぐ神官さまに睨まれる。
 やっとのことでそんな環境にも慣れ始めたような気がする。

 きのう、神官さまに勅命が届いた。
「ジュダ・ウルヒリン公の息女、エイミ・ハクピッサ姫が、急の病でネルガルの下に召された。遠くカルケミシュに向けて、祈りを捧げるように」
 カルケミシュでは、大々的な葬儀も営まれたという。
 しかも、カディシュ行きを命じられなくて、ほんの何人かでその後もカルケミシュに残っていたわたしの同僚たちは、全員殉死したとまで伝えられたのだ。

 そんなっっ!!
 いくら忠臣でも、今どき殉死なんてするヤツがいるもんかっっ
!!
 あまりにも不自然だ。

 みんな、死にたくて死んだんじゃないことぐらい、聞かなくてもわかる。
 きっと、斬られたのだ。
 あまりにもかわいそうだ。
 せめてわたしたちと同じように、どこかの神殿付きにしておいてあげればいいじゃないかっっ!!

でも
 これで、すべてのつじつまが合うのだろう。

 エイミさまの棺に納まったのが誰だったとしても、ううん、棺の中は空っぽだったとしても、だ。

 わたしは知っている。
 その昔、泉から現われ出でた小柄な女神によってもたらされた、花の如きヒッタイトの栄光は、終わりを告げたのだ。
 ユーリ・イシュタルさまの孫娘、ユーリ・ナプテラさまが、豊かに湛えられた水の中に消えたことによって。

 テシュプの神は、ヒッタイトを見放したのだ。
 今度こそほんとうに、イシュタルさまを召し返してしまわれたのだ。
 もう、この国は未来も希望もない。
 後は、緩やかに滅びの道を歩み続けることだけが、この国の宿命なのだ。

わたしは、女神官になるための修行をさせてもらえるよう、女官長に申し出た。
 ここへ来てから、めっきり老け込んでしまった女官長は、「ユデテはまだ若いのですから、せめてそんな志を持つのもいいことですわね」といって、神官長さまに取り次いでくれた。
 その望みは、かなえられるらしい。
 ただし、この神殿で、という条件つきになりそうだけど。

これでいいのだろう。
もし、わたしが生きているうちにこの国が滅びることになっても。
何かの都合で風向きが変わって、カルケミシュの同僚たちと同じ目にあうことになっても。
わたしはここで静かに一生を終えよう。
 

イシュタルさまが暮らされた、この王宮で。
イシュタルさまをお祀りする、この神殿で。


「オロンテス恋歌」全編と並行するお話です。
 原典作者先生の膨大なご作品群の中、唯一の小説として「還ってきた娘」というご作品があります。先生のファン各位には既にお気付きのことと存じますが、今回はこのご作品、特にその初巻(「還ってきた娘」小学館パレット文庫・平成3年)をもとにしたパスティーシュ(文体の模倣)を試みました。
 併せて、従来の拙稿では避けていた、独自に設定した登場人物に固有名を与えるという措置も試みましたが、この「ユデテ」という名も、ご作品に登場するヒッタイト帝国宮廷女官の名をお借りしたものです。

 「ファンブック」4ページに、<わたしの中ではヒッタイトは滅びゆく国家で>という、作者先生のコメントが掲載されていますが、そのモチーフが最も端的に取り上げられたのが「オロンテス恋歌」であるように思えます。
 そう考えると、「オロンテス恋歌」の中、第28巻・183ページの「ユーリの消えた湯殿」の絵が、ヒッタイトが黄金時代を迎えるきっかけとなった「イシュタル再臨」の絵(第16巻・96ページ)と対照をなし、決定的な凋落の道を歩み始めたヒッタイトの命運を暗示していることに気づきました。
 象徴的な二つのエピソードのうち、後者に深い関係を持つアサティルワ・バーニも、二人のユーリの関係と同じく、前者に深く関ったイル・バーニの孫という関係です。この点についても、また改めて考えたいと思っています。
 なお、今回試みたパスティーシュという技法、一般にはもとの作品を揶揄する意図で用いられることも少なくありませんが、出来はともかく、ここでは作者先生並びにご作品に対する敬意と愛着をもって文体をお借りしたものであることはいうまでもありません。


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