睡蓮の池のほとり

回 天



 王宮の手狭な一室に、ナキアは座っていた。がらんとした室内には、タワナアンナの権威をうかがわせるものは何もなかった。ただ、慇懃に槍を捧げた、それでも隙のない構えと、鋭い眼光の衛兵が二人、扉の前に直立していた。

 ナキアは一人になりたかった。一人になって考えたかった。決して泣きたいのではない。間違えても泣きたいなどと思うものか、と、泣きそうな気分で思っていた。

 一体、わたくしのどこが悪いというのか。わたくしとて、望んでこの国に嫁いだ訳ではない。しかし、来た以上はその立場なりの努力 −皇帝の側室としての権力争い− も、怠りはしなかった。そして、皇子をお産み参らせ、わが身を削ってご養育申し上げた。
 皇子をお預かりした以上、わたくしが正妃を目指すべき務めは、より重くなった。わたくしが正妃になれなければ、せっかくの皇子にも皇位継承権は生じない。それはすなわち、次代の皇室を危うくすることなのだ。何しろ、あの時、陛下には皇統を託せる皇子はお二人しかおられなかったのだから。流行病でもあれば、たちまちこの国体は崩壊するのだ。
 幸いこの国はわが夫、先々帝陛下のお働きにより、目覚しい躍進を遂げてきた。早い話が、陛下は周辺の手薄そうな諸国から、謀略と武力で富と領土を切り取って回られたのだ。それも悪くはない。むしろ当然のことだ、乱世なのだから。力のある者が世を統べるのだ。
 それは国内でも同じではないか。ヒンティさまなど、カイル殿下に皇位継承権を進ぜられたことで、正妃としての役目を終えられたのだ。愛するだの慈しむだの、下賎の母親と変わらぬ能しかないお方になど、いつまでも正妃であられるご資格はない。タワナアンナは為政者なのだ。役目を終えた者が、次の大いなる役目を果たすべき者に取って替わられるのは天命ではないか。タワナアンナの交代とは、即ちタワナアンナの死。権謀術数は宮廷人の常識だ。手当も位階もないに等しい兵士たちでさえ、腕が劣れば戦場に命を落とす。栄誉と富を手にしたわたくしたちが、それに見合った役目を果たせなければ死ぬ事は当然であろう。
 
 わたくしはヒンティさま以上の、いや、全く違うタワナアンナを目指した。わたくしにはその力があった。
 わたくしの故国は、ユーフラテスの豊かな、そして時に恐ろしい力と共にある国だった。水を活かし、水を鎮めて発展してきた故国から、わたくしは最高の、治水と灌漑の技術を導入した。この乾燥した高原の国に、水の活用とはどういうものか、実地に教えてやったのだ。民衆は、わたくしの指図のまま、炎天下に畑の隅々まで行き渡る水の躍動に、驚きの声をあげた。
 文を以て農民を導く、などと称して偉そうにしていた文官どもも、同様に声すら出せなかった。あやつらは鼻をあかされた悔しさ紛れに、密かにわたくしを非難して「異国の悪い風習を持ち込んだ」などとほざいているという。民の飢えを満たし、国を富ませることを「悪い風習」だという国がどこにある。あの阿呆ども、実体のない風習と、確固たる技術の区別さえつけられぬ程度の頭しかしていないのだ。
 いつしか、わたくしを正妃に立てた皇帝陛下は、国中の農民たちから「水の王」と讃えられるようになった。そしてわたくし自身も、「水を操る神官」と崇められた。
 いうまでもない、わたくしは神官だ。俗人には説明のしようもない魔力も、多少は使って見せる。また、説明はつくのだが、それを理解できる者などこの国にはいない、特殊な薬剤を扱っても見せる。だから、わたくしを恐れる者もある。
 しかし、わたくしの本領はそんなところにあるのではない。わたくしは、水に恵まれないといいながら、その僅かな水の利用技術もろくに知らず、あたら垂れ流していたに等しいこの国の民衆に、豊かな実りをもたらしてやったのではないか。
 この「水を操る神官」たる資格は、わたくしにしかない。
 バビロニア王陛下が、世界最高の治水・灌漑技術の持ち出しを許し、夥しい技術者をわたくしの宮付きとして送り込んでくれたのは、わたくしがバビロニア王女だからだ。その技術の提供と引き換えに、ヒッタイトの援助を引き出せる立場だからだ。
 そして、前例もなく、わたくしや技術者たちの説明を理解できるものすらいないこの国で、それでもあれだけの土木工事に国費を投入できたのは、わたくしがタワナアンナだからだ。
 さらに、すぐには効用が目に見えず、やらされている仕事の意味合いすら解らないはずの民衆が、喜んで働いてくれたのは、わたくしが神官として、神の恵みを説いてそれを命じたからではないか。
 水を操る力というのは、つまる所は魔力ではない。しかるべき調査、計画、測量、しかるべき工事をさえ行えば、水はおのずから溜まり、流れ、大地を潤す。あたりまえではないか。だからその大事業を指導しうる力、これこそが本当の「水を操る力」なのだ。
 
 わたくしが、ジュダを帝位に就けたいと思うのは、私利私欲ではない。それを解ってくれていたのはただ一人、ウルヒだけだったのだ。
 あの子が少々気弱で、優柔に過ぎることは母親のわたくしが一番よく知っている。自害を図るにしても、何なのだあれは。あのように効き目の遅い薬では、市場の薬師を呼んで、一から解毒薬を処方させても充分間に合うわ。飲むなら飲むで、何でもいいからもっと即効性の毒を選べばよいものを。すぐ上の棚には気づかなかったのか。いかにわたくしが薬学を教えなかったとはいえ、そのあたりの間が抜けているのだ、あの子は。
 しかしわたくしとて、おのれがいずれ権力の座を追い落とされる覚悟ぐらいはできていた。
 そして今日、現にその日がやってきたではないか。早晩、その現実がわたくしの身を押し流すはずだ。
 この時点にこそ、ジュダには皇帝でいてもらわなければならなかったのだ。
 わたくしが立后して以来推し進めたこの国の水政は、まだ緒についたばかりだ。何十年、百年という将来を見据えて取り組まねばならないこの大事業には、まだまだバビロニアからの技術導入が必要なのだ。その点を誰も解っていない。
 カイルは、もう戦はしないと言っている。さればこそ、なおこれからは国内の、民を富ませる事業にこそ国力を注ぐべきではないか。わたくしが権力の座を追われ、わたくしの、バビロニアの血を引くジュダが皇帝ではないとなれば、もうバビロニアからの技術支援など望めない。
 なるほどジュダは、戦には不向きであろう。だがあの子は、カイルとは違って天文に興味を持っている。天文を学ぶことは、季節の移ろいを確実に知り、災害を予知し、豊凶を占う、為政者には欠かせない素養なのだ。
 あのユーリに何ができるというのだ。異様に民衆の人気を集める素質は認めざるを得ない。だからといって、あれはこの国に何をもたらす力もない。ヒンティさまと同じだ。
 わたくしには解らない軍事の方面にも素質はある。女の身で本当に近衛長官を勤め了せたのには驚いた。政治感覚も悪くはない。しかし、タワナアンナというものは違う。自ら剣を執り、戦塵に塗れるなど、タワナアンナというものの威厳を損なうだけではないか。それに、感覚だけで政治はできない。発言に重みを持たせ、政策を通すのは、後盾となる確かな力だ。
 皇帝と同格の国事決定権を持つこの国の皇妃というものは、堂々と皇帝と対立する意見を立てるべき存在だ。必要なら皇帝を見限ることも吝かではない、と周囲に思わせるだけの後盾があってこそ、独立の立場で三権の一翼を担えるのだ。
 ユーリはどうだ。カイルを見限ることなどできはすまい。仲の睦まじさはしばらく擱いても、あの女には頼る実家はないのだ。少なくとも傍はそう見る。しかも、カイルは次の元老院議長に、己が乳兄弟のイル・バーニを据える腹らしい。何のことはない、三権分立を形骸化する、独裁体制への布石ではないか。
 わたくし自身には、アッシリアなどの肩を持つ義理はない。しかし、この国を思うなら、アッダ・シャルラト姫のどこが不足だったのか。カイルは、おのれの欲望に走り過ぎる。
 あの二人は、民衆の支持を得ているといい気になっているが、嬉しがっているのは、都市に住む一握りの民、土を耕すことを知らぬ商工の民、そして兵士らだけではないか。
 この国の大多数を占める農の民が、今この時にも、わたくしの指図を待ちわび、水の王たる先々帝陛下を偲んでいることに、あの二人は気づかないのだ。

 第一、ユーリはその母国さえ明らかではない。あれをこの世界へ導いたわたくしでさえ、そこまでは判らない。むろん、全力を挙げて密かに調べさせた。あの女が語った所を聞き込ませてみると、アッシリアのはるか東の地の果てにあるというインとかいう強国のまだ先の、海に囲まれた国らしいことだけしか判らなかった。しかも、その国は、時間の流れすらこの国とは違うらしい。
 そんな得体の知れぬ国、その国から来た女を皇妃に据えることの危険さが解らぬのか。
 あの女が身につけている、七日熱にかからぬという術を見よ。あれは奇跡などではない。あれは明らかに、ニッポンとかいう国の防疫技術の賜物だ。わたくしには見当がつく。伊達に多年薬剤をいじっているわけではないのだ。ユーリの述懐を調査してみると、あの女の国ではその高度な、何らかの防疫措置を、王から民衆の一人一人全てに賜っているらしい。わたくしとて、そのための薬の開発にどれほど努力してきたことか。それでも、手のつけようもなかったのだ。
 それにあの女、「病の神は清潔を嫌う」という、わたくしがついこの間、やっとのことでいただいた神託を、初めから当然のように知っていた。ワスガンニでは、それを臨床に応用しさえしたらしい。わたくしが七日熱の時に「安息の家」を設けたのも、ちょうど神託が得られたからだ。それを、たまたまユーリの方が先に、ワスガンニで実践していた。別に神意を得る力があるようでもない。いったい、あの年齢でどれほど高度な知識を得ているのだ。
 あの女を皇妃に据えた後、皇妃の父なり兄なりという者がこの国に乗り込んで来たらば、拒むことは出来まい。そうなれば、この国などあっという間にニッポンの属国にされてしまう。軍事のことは知らぬ。しかし、わたくしに解る技術の点だけを見ても、ニッポンという国は恐ろしい技術と、富を持った国なのだ。ならば、この国など足元にも及ばぬ強国であることは明らかなのだ。
 加えて、あれだけ軍事に適性を見せる娘の国だ。増して男たちがどんなに軍事に長けているか、およそ想像はつく。ニッポンは戦のない国だそうだが、それは相見えるべき相手にすら不自由するほどの強国だという証ではないのか。
 さらに、だ。ユーリの家は「スズキ」という家名だそうだが、ユーリめ、女官との四方山話に、ニッポン人の中でも最多を誇る家名がスズキであり、歴史にもスズキという大臣や大将、大商人などが出てくる、と語ったことがあるようだ。すると、スズキという家は王家ではないにせよ、ニッポン最大の豪族だということではないのか。その恐るべき一族の女を、訳も解らぬままに次代のわが国母に迎えるということになるのだ。

 皇妃に据えるのは皇族か、他国の王族に限るというのは、当然の慣習だ。そういう血筋の者なら、母国の情勢もこちらでちゃんと把握できる。この国にとって不利な国とは婚姻関係を結ばない。そういう判断の機会を確保するための慣習なのだ。
 現に、わたくしが皇妃に立ててもらえたのも、友好の証として、と同時に、今のバビロニアにはヒッタイトに食い入るだけの国力がないことを見込まれてのことであっただろう。
 カイルは、この国の将来を、ニッポンとやらの王に委ねる気なのか。いや違う。いざという時、こちらから駆け込める国でなければ、頼る意味はない。どこにあるのかさえ明らかでない国を頼るほど、カイルは呆けてはいない。
 安全保障は、カイルの専門分野ではないか。どうして得体の知れぬ強国に、この国への容喙を許すような婚姻の危険さに気づかないのか。

 その点、あまりの幼さが見ていて苛立つとはいえ、あれでアレキサンドラなど、生まれた時から一国の王妃たるべき心得を叩き込まれている。そして、故国とこの国の力関係も、ちゃんと知っている。その点が、得体の知れないユーリなどとは訳がちがうのだ。
 あの小娘、手放しでユーリを慕っているのを見ると虫酸が走るが、先に、人形が飾ってあるのと変わらないような正妃を亡くしたジュダとは年恰好も似合っている。それにできることなら、わたくしには今日まで得られなかった本当の幸せとかいうものを、ジュダに代わりに味わっても欲しい。 第一、小国とはいえ海上での活躍目覚しいアルザワの王女がこの国のタワナアンナとなれば、陸上の世界しか知らないに等しいこの国に、今度は海の、計り知れない恩恵をもたらしてくれるはずだ。あの二人、何とかならないものか。望み得るなら、本人らの意志で。

 ともあれ、わたくしは政争に敗れた。よくここまでやってきたものだ。わたくし自身の立場にも、命にも未練はない。
 しかし、この国の百年の大計のためには絶対に譲れない。まだ経験に乏しいあの子が何と言おうとも、ジュダの立太子、そして即位だけは。ユーリがただの側室で、しかもカイルに子のない今なら、まだ間に合う。わたくしは、わたくしなりのやり方で、この国を守るのだ。

 そうなのだ。ウルヒが、死して策を遺してくれたのだ。もう誰にも頼らぬ。

 いつしかナキアの双眸には、再び闘志が宿っていた。



 原典の第26巻・93ページのナキアの心中です。
 終始仇役に徹したナキアでしたが、時代は激動の乱世だったようですから、物語の進行に関係しないから描かれなかっただけで、ナキア程度の権謀術数を弄していた人は国内外に珍しくもなかったのではないでしょうか。
 しかし、この人の夫たるシュッピルリウマ一世という人、なかなか剛直な人物だと思われます。ヒンティ亡き後の皇妃の選定にも、ナキアの陰謀や籠絡が通用したとは思えません。なのになぜ、ナキアなどを正妃に立てたのでしょう。
 ナキアにも、物語には描かれていない、正妃として見込まれて然るべき理由があったのではないでしょうか。そして、自分とは全く違った手法で民を導きつつあるユーリに怖れも抱き、時には内心買い被りもしたでしょう。そして、ナキアなりに真剣に国を憂い、理想と望むところがあったのではないでしょうか。
 そこで、ナキアにも一度、言い分を明らかにさせてあげたい、と思いました。かなり強引な設定の追加を伴いましたが、その故国の事情が明らかではない点、皇帝たるカイル自身が皇妃の後盾となっているという点など、ユーリが皇妃たるに「相応しくない」政治的理由は、大筋では間違っていないと思います。
 ムルシリ二世、そしてユーリを熱狂的に支持する民衆は、なぜか都市住民と兵士ばかりです。僅かに出てくる牧畜民は意外に醒めていたようですし、明らかに農民だと判る人はほとんど出てきません。
 なお、アナトリアの水利の悪さというのは、「ねね'sわーるど」(参照)の「トルコ旅行記」に公開されている遺跡の写真の印象によるもので、実際にはどうだったのか、筆者は知りません。
 その他、両国の技術水準や、「水の王」という名の由緒なども、一切が想像の産物であり、根拠はありません。ただ、原典の記述と齟齬がないようにだけは、鋭意こじつけてみました。

>「回天」というのは、「天をめぐらす」ということで、時勢をひっくり返す、特に異常な世を正しく戻す、というほどの意味でしょうか。「一発逆転!」とでもいうニュアンスかも知れません。
 このお話の後、ナキアはウルヒが遺した策を実行に移し、そして、持ち慣れない剣を握りしめて単身、沐浴式場へ斬り込みます。
 最後の、一縷の望みに全てを賭け、捨て身でわが信念を通そうとしたこの時のナキア、まさに「回天」の決意に燃えていたのであろうと思うのです。
 (以上、「回天」という語の意味について、お問合わせのメールをいただいたので補足しました。)
 

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