睡蓮の池のほとり


間 諜

 

 「じゃ、もう一度王宮へ行ってくる。当分戻れんが、後は頼んだぞ、ゾラ。」
 「はっ、ミッタンナムワ隊長!」…ミッタンナムワ隊長も大変だな。また当分はカイルさまのお供だ。またおれが隊を切り回さなきゃな。やれやれ。
 
 「…剣の手入れはわが魂の手入れだ。剣もまともに研げない奴に、一人前の兵たる資格はない! 早く一人前になりたければ、もっと技量を磨くのだ。やり直し!
 …貴様はどうか。…何だこれは? 研ぎ過ぎだ、馬鹿者。散髪でもするつもりか!剣というものはやたらと研ぎすましてあればよいというものではない、と言ったのが解らんのか。もう一度刃引きしろ。あまり研ぎすまし過ぎていると、実戦ではすぐに刃こぼれしてしまうのだぞ。
 よし、全員注目!
 今、貴様らの武器手入れを見せてもらった。しかし、何だこのざまは! 未だに己が剣さえ満足に研げる者は一人もいない! そんなことで実戦に臨めると思っているのか! 戦場では満足な働きをするのも、貴様ら自身の身を守るのも剣なのだ!
 皆、今夜は徹夜してでも剣を万全に研ぎ上げろ!
 いいな。明朝もう一度、貴様らの剣を見せてもらう。
 各教官はもう一度、いや何度でも、皆が飲み込むまで指導に当たれ!」…そりゃ難しいよな。このおれだって、鉄剣が満足に研げるようになったのはつい最近のことなんだから。

 「…このように、斥候の動作はその任務、敵情並びに地形に応じて異なるものである。
 ええ、であるから、斥候は進退動作に深く注意し、静粛にして喧騒なるべからざるものである。また、行動中はしばしば駐止して音響を聴取し、よく地勢を暗識する。これは、地形について解説を為し、かつ時宜によっては味方を誘導せねばならないからである…」…ええと、次は何だったかな… まるで毎日、陣中要務令の暗誦試験を受けさせられてるようなもんだよ、全く。
 新兵らは誰も字が読めないから、みんなおれが考えた講義だと思って尊敬してくれてるようだが。

 「おう、ご苦労ゾラ。どうだ、何か変わったことはないか。」
 「あ、ミッタンナムワ隊長。…ええ、お留守中異状ありません。」

 「うむ、そうか。
 しかし、今朝新兵らの行軍を見せてもらったが、あれじゃ土民の一揆勢と変わらんぞ。姿勢は悪いし歩調は合っていないし隊伍は間延びしてるし… ちゃんと教育してるのか?」
 「してますよ! おれだっていろいろ考えて…
 ただ、全隊の指揮もありますからね、そうそう新兵の子守ばかりしてられませんよ。」
 「泣き言をいうな。おれだって好きで隊を留守にしてるんじゃない。おれには幕僚任務もあるんだ。おれが隊にいられない以上、次席指揮官の貴様がしっかり隊をまとめるんじゃないか。」

 あーあ。次席指揮官も楽じゃないよ。ミッタンナムワ隊長なんて、ほとんど王宮に詰めきりで、隊にいることなんて滅多にないんだもんな。隊の方は何から何までおれが走り回って切り回さなきゃならない。
 …いっそ、ミッタンナムワ隊長は『参謀』に昇格して、幕僚任務に専念してもらって、隊の方はおれに任せてくれれば、もっとすっきりするんだが… その方が実情に合ってるよな。
 ま、いいか。一区切りついたから、後は当直将校に任せて、久しぶりにあの酒場へ行ってみよう。
 たまにゃ、一人になりたいよ。

 「もしもし。お隣、よろしいですか。」
 「あ、ああ。どうぞ。」

 「失礼します… こうして、酒場で隣に座るのも何かのご縁だ。お近づきの印にどうですか、ビールをもう一杯。」
 「えっ? いや、すみませんね。 …あなたは?」
 「私は宝石商です。柄にもなく皇太后さまの宮に出入りさせていただいてましてね。宝石を納めにちょくちょくハットゥサへ出て来るんですが、いやあ、やはり田舎とは訳が違う。こんな酒場だってどこも人だらけ。やっと空いた席を見つけましたよ。」
 「そりゃ、咲く花の匂うが如く今盛り、ってぐらいの、大ヒッタイト帝国の首都ですからね。何が穫れるってんでもないけど、人だけはわんさといる。
 でも、あなたも酒にありつけてよかったじゃないですか。…ああ、よかったらこの肴、つまんで下さい。」
 「おお、これは珍しい料理だ。田舎じゃとてもお目にはかかれない。さすがはハットゥサの酒場は違うなぁ。
 …おや、剣を? あなたは軍人さんですか。飲み屋にまで剣を佩いて来ておられるとは。さすがにお心がけが違いますな。」
 「ええ、まあね。…心がけなんてもんでもありませんがね。」
 「いやいや。何と言ってもこの乱世だ、軍人さんの天下ですからね。」
 「あいにく、そうでもなくてね。…楽じゃないですよ、軍務ってのも。
 隊にいちゃ、なかなか息も抜けなくてね。」
 「そうですか、ご苦労ですなあ。見ればあなたもなかなかの体格だし、何よりその辺を巡邏しているだけの兵隊さんとは眼光の鋭さが違う。さぞかし、名のある軍人さんとお見受けしましたが。
 いや、私のような民間人が生意気なことを言っては笑われましょうが、今の物騒なご時世、国防の強化は国の最重要課題でしょう。有能な軍人さんはどしどし登用して、活躍してもらうべきだと、常々願っているのですよ。
 実は、私も若い時分には少し、兵法をかじったことがありましてね。まあ生兵法もいいところでしたが… それでも、ある程度見る眼はあるつもりだ。あなたを見ていると、酒を飲んで寛いでおられても隙がない。
 あなたのような軍人さんにこそ出世してもらって、どんどん活躍してもらわないと。
 しかし、こういう場でお噂を申し上げるのも恐れ多いが、こう戦が続くと、皇帝陛下も大変でしょうなあ。」
 「そうでしょうね。皇帝陛下ともなれば、ただでさえ毎日、物凄いばかりのご政務が山積みなんでしょう。なのに今は連日軍務に追われて、始終軍を直率なさって戦に駆け回っておられる。それでいてご政務が滞っている様子もありませんからね。一体いつお休みになっているのか、心配なほどですよ。陛下がご体調を崩されたりしては、お国そのものの安危に関りますからね。」
 「ほう。やはりそうですか。
  しかし軍人さん、お詳しいですな。…近衛ですか。」
 「いや、おれなんてただの私兵ですよ。」
 「しかしその割には… あ、もしかして皇帝陛下の軍のお方でいらっしゃる。」
 「ええ、まあ… 実はね。」
 「いやあ、さすがだ。そりゃあもちろん、我々一般の臣民にとっても、お国をお統べになる陛下のご健康は何よりの関心事です。しかし、あなたのはそんな、他人事のようなご心配じゃない。あなたは本当に、陛下の御身をわが身の如く心配していらっしゃる。大した物だ。
 陛下には、そうお諫め申し上げたりもなさるんですか。」
 「いやあ、おれなんか滅多に陛下にお目にかかることもないし、申し上げたって陛下どころか、お付きの侍従あたりに『陛下にご意見申し上げるなど百年早い!』なんて一喝されるのが落ちですからね。」
 「まあ、失礼ながらあなたにも、分際というものがありましょうからなあ。あなたが直接陛下の幕僚にでもおなりならいざ知らず。」
 「そこなんですよ。いえね、おれの上司、隊長なんですが、この隊長ってのが名ばかりで、普段から幕僚任務で陛下に近侍して、いつも隊を留守にしてましてね。何から何まで全ておれが仕切らなきゃならないんです。そのくせ、外向きに手柄顔をするのはいつだってうちの隊長と来てる。やってられませんよ。まあ、隊長は陛下と幼馴染ですからね。何かと目をかけてもらえるんです。 それに引き換え、後からぽっと軍に入ったおれなんて…
 その上ですよ、このほどうちの歩兵隊でも部隊が二つに区分されて、おれに第二の方の隊長が回って来たんですが、別動を前提にして隊を分けるならはっきり二個部隊に分けて、先任順ってのはあるにせよ、どちらの隊長も同格にするもんでしょう。ところが名前は隊長でも、おれなんて相変わらず本物の隊長の下、便宜上の隊長に過ぎない。使える兵は皆上官が抱え込んで、うちの方はひよっこばかり押し付けられて。戦力としちゃあ、実の所怪しいもんでね。そんな部隊を…」
 「しっ! 待って。あなた、そんなことを話していいんですか、軍事機密じゃないんですか? 相手が皇帝陛下や皇太后陛下でもあらせられればともかく、私はただの商人、全くの部外者なんですよ!」
 「あ、これは…! いや、迂闊でした。民間のお方に注意をいただくとは…」
 「いやいや、酒の席のこと、私も聞き流すだけですからご心配なく。ただ、こういう場所では壁に耳あり、あなたのような将来ある若い軍人さんが罪に問われて免職にでもなったりしたら、国防の大損失ですからな。」
 「面目ありません。おっしゃる通りです。
 しかし宝石屋さん、あなたはこんな酒の席でもちゃんと分別を弁えておられる。信用できるお方ですな。」
 「何をおっしゃいますか、けちな商売人を捕まえて。
 …そうだ、誉めていただいたからと言うわけではありませんが、これこそお近付きの印だ。ここに、ちょうどまだ買手のつかない真珠が一つある。

 ほら、八方転がりの真円真珠ですよ、見事でしょう。これを武運長久のお守りとして、あなたに進呈しましょう。」
 「いや、それは辞退します。」
 「どうしてですか、ご遠慮なく。」
 「ご好意はありがたいが、おれは軍人です。民間のお方から、無闇に金品を受領する訳にはいかない。申し訳ありません。」
 「なるほど、これは出過ぎた事を申し上げてしまいました。…ううむ。あなたも信用できるお方だ。これだけの真珠を目の前にして、毅然としてご自分を律することがおできになるとは。
 どうかまた、どこかでお目にかかりたいものですな。この真珠はもう引っ込めますから、どうぞ以後、気楽な友人としてお見知りおきを。」
 「それなら、こちらこそ。おれはこの酒場の常連なんです。もしまたここでお会いできたなら、今度はおれがご馳走しますよ。」

 「あ、この間の軍人さん。またここで、お会いできましたな。」
 「おお、これは宝石屋さん。ご商売はいかがですか。」
 「まあ、ぼちぼちですなあ。今日もご相伴しますか。」
 「願ってもない、楽しい酒盛りになりそうです。」
 「ははは。…それよりもあなたはお人が悪い、ゾラさん。」
 「えっ、どうしておれの名を。」
 「実はね、あれからまた、皇太后宮に宝石をお納めに上がったんです。こう申しては何ですが、私は皇太后陛下のご贔屓に与っていましてね、陛下直々のお目通りを賜れるんですよ。
 でも、皇太后陛下ともなれば、そうそうお気軽に町へ散歩、なんて訳にはいかないでしょう。
 それで、四方山話に町で見聞した面白い事や、下々の様子などをお話し申し上げたりするんですが、つい話が弾みましてね、『地道な任務に黙々と精励している毅然とした軍人さん』に会ったことを申し上げたんですよ。

 すると、何と。陛下はあなたのことをご存知でいらっしゃるじゃないですか!
 何と言っても皇太后陛下の御事、ご自身も女人の御身ながら、立派な軍を保有しておられるほどだから、常々軍事にも国防にも心を砕いておられる。
 だから、有能な軍人さんにもちゃんとご関心をお持ちでね。あなたのことだって、上に派手な人がいて目立ちたがるからなかなか評判にもならないが、あれこそ本当の勇士だ、この切迫した時局、自分の軍にあんな人材がいてくれたら、文句なく部隊長だ、なんてね。」
 「そ、そこまで… 本当ですか?」
 「私が嘘をついても仕方がないでしょう。何でも、陛下の兵隊さんには外人が多くて、誠意ある有能な指揮官にご不自由しておられる由で…
 あなたがそこまで有能で立派な軍人さんだったなんて、お見逸れしましたよ。」
 「いやあ、まいったなあ! 皇太后陛下にまで、おれの名が聞こえてるなんて。」
 「いやいや、それは当然ですよ。砂利の中に宝石が一粒混じっていてご覧なさい。大抵の人は見過ごして踏みつけて通っても、見る目のある者なら見逃しはしない。
 皇太后陛下は、軍事のことだってちゃんとご研究なんですから。」
 「そんな大袈裟な。おれなんて…」
 「またまたご謙遜を。そのことで、あなたを探していたんですよ。お仕事場へお邪魔するのも悪くて。」
 「そんなわざわざ… おれなんかを誉めちぎろうと思って、ですか?」
 「そうじゃありません。実は、皇太后陛下からね、頼まれたんですよ。一度、噂に聞くゾラという勇士に会ってみたくなったから、膳立てをしてくれぬか、とね。何でもゾラさん、あなただって戦といえばその度に出陣なさって、大層なお働きだそうじゃないですか。ただ、その隊長さんとやらが目立ちすぎて、なかなか評価されない、と… 恐れ多くも皇太后陛下は、それが気の毒だと思し召しなんですよ。
 でも失礼ながら、あなたは貴族でも何でもないでしょう。まあそれは私だって同じですが、何しろ皇太后陛下の御事、正式に人を召すとなると、大層大袈裟なことにしない訳には行かないんだそうですよ。皇室のことですから、殊に相手が平民となれば、手続だ慣例だとなかなかやかましくて、直接引見できるのなんて、正規の手順を踏んでいては何か月、下手をすれば何年もかかってしまうそうなんですよ。
 そこへいくと、私なんかは陛下が個人的なご趣味で宝石をお蒐めになるだけのための出入商人だ、勝手口からならいつでも出入を許してもらっています。まあ身分柄、陛下の私的なお買物だけしか仰せ付けはいただいていませんがね。
 だからこそ、資格も身分もお持ちでないあなたを気軽にお召しになるには、私のような者を使うのが便利なのでしょうよ。」
 「なるほど… しかしなあ、ちょっと気後れしちまうんですが…」
 「何をおっしゃってんですか、お願いしますよ。私もついお得意様の頼みをお引き受けしてしまった以上、あなたに来てもらわないと信用問題だ。これからの商売に差し支えるんです。ね、お願いしますよ。助けると思って。」
 「ううむ。…まあ、あなたがそうおっしゃるなら…」
 
 ゾラは、皇太后宮の勝手口というものを初めて見た。日頃、大通りに面した豪壮な正門前を通りかがる折はあったが、勝手口などわざわざ裏手に回って見物してみるような物好きでもなかった。
 その勝手口は、正門に比べればはるかに小さく簡素ではあったが、使用人や業者が頻繁に出入りする人間臭さの分、ゾラにはむしろ親しみの持てる佇まいの門であった。
 ゾラを導く宝石商が、門衛の兵にぺこりと頭を下げたので、ゾラもつい、つられて頭を下げた。相手は若い下っ端兵士であったが、今のゾラは、単に宝石商の同行者に過ぎないのだから仕方がない。
 宝石商は別に案内を請うでもなく、ゾラを伴って勝手知った態度で皇太后の応接間へと向かった。そして、部屋にいた女官に簡単な挨拶を一つするだけで、中へ招じ入れられた。本人の言う通り、この宝石商は皇太后とも相当懇意らしい。
 応接間と入っても公務に使用するものではなく、皇太后が私的な交際に使うに過ぎない部屋ではあったが、造りはなかなか華美なものであった。ゾラとて、わが主人でもある皇帝ムルシリの応接間になら上げてもらったことがあったが、質素で機能性重視、悪く言えば無愛想で武骨とも見えるわが主人の応接間の様子ばかりを想像していただけに、ゾラはこの部屋の煌びやかさに目を瞠った。
 やがて、女官が俄かに居住まいを整えると、二人の男にも最敬礼を促した。皇太后のお出ましである。
 「おお、今日はご苦労です。あの噂の勇士ゾラに会わせてくれると聞いて、王宮から急ぎ戻ってきたのですよ。」
 「皇太后陛下にはご機嫌麗しく、恐悦至極に存じます。仰せ付けを拝し、このほど手前が知り合いました、勇士ゾラを伴いましてございます。」
 「いや、待ちかねた。…ほほう、そなたがゾラですか。よく来てくれました。」
 「はっ! この度は畏くも皇太后陛下おん自らのお召しを賜り恐懼至極に存じ奉り…」
 「ああ、もうよい。『畏くも』や『恐悦至極』はもうたくさん。ここはわたくしの息抜きの場所、堅苦しい挨拶は鬱陶しい。この部屋では遠慮は要りませぬ。わたくしのことも町方のおばさんだと思って、ざっくばらんに寛いでよいのですよ。」
 「は、はっ。恐れ入り奉ります。」
 「ほほほほ。さすがは皇帝陛下の重臣。きちんと礼儀を弁えておられるのですね。
 それよりも、殿方にはお酒がよろしいでしょう。さあ…
 
これ、おまえ。早う殿方にワインと料理を。このお方はわたくしがお招きしたお客様、帝国随一の武人であられます。失礼があってはなりませんよ。」

 宝石商は、これがいつもの調子なのだろう。皇太后が商売相手だというのに、町のお内儀相手と変わらないようなざっくばらんな口調で追従を言いながら、担いで来た包みを開いて、中から数々の宝石を取り出し始めた。
 「これ。そなたは商売熱心が過ぎますよ。せっかく今日は大切なお客さまを連れてくれたのでしょう。今日だけは宝石など後回し、わたくしはゾラと話したいのです。」
 「は、はあ。こりゃどうも…」
 宝石商が頭を掻いて、商品を元通り包みに納めると、皇太后はゾラに向き直り、あれこれと話しかけ始めた。皇太后は、軍隊での生活、特に給養に関心がある様子で、野戦での食事の内容や調理法などについて熱心にゾラの話に耳を傾けては大仰に感心していた。
 「わたくしは女の身。形ばかりの軍を持っているとは申しても実際の戦の様子などは知りませぬ。けれどそなたのお話を聞いていると、ほとほと軍務とは大変なものなのだということは、解るような気がしてきましたわ。
 食事一つにしても、戦の最中では調理も満足にできないでしょう。指揮官ともなれば、兵らの健康管理にも大変な気遣いをなさるのでしょうね。」
 「はっ。仰せの通りでございます。いざ敵と組討ち、とでもなった時にひもじくて力が出ないというのでは戦になりませんし、まだ戦には出せない新兵らにしても、しっかり食べて、しっかり身体を作ってもらわねばなりません。
 それに、指揮官として怖いのは食あたりですね。何しろ軍隊では、多数の兵が同じ物を食べる関係上、悪くなった食物が混じっていたりしたらたちまち隊一つ、丸ごと戦えなくなってしまいますから…」
 皇太后は、大きく頷くと、眉を寄せて唇を噛み、そして小さな溜息をついて見せた。
 「その通りですわね。そなたたち指揮官にとっては、兵といえばわが子と同じ。いろいろとお気遣いがありますのね。わたくしも人の母ですもの、そのお気持ちは解る気がいたしますわ。
 …そう言えば、兵らだけではありません。皇帝陛下におかれても、戦ではご無理を重ねておられるのではないかしら。何しろ戦場でのこと、女には口も出せませぬが、これでもわたくしはカイルの… 皇帝陛下の義母です。皇帝陛下のご健康については、誰よりも気がかりなのですよ。
 なのにあのカイルときたら、わたくしがご体調のことをお尋ね申しても、『ご心配痛み入ります。ですがわたしも己の健康管理ぐらいは自分で注意しておりますので、どうぞお気遣いご無用に』なんて、虚勢を張りますのよ。
 わたくしなんて、戦については何のお役にも立てませんけれど、せめて陰ながら皇帝陛下のご健康にぐらいはお役に立ちたいのです。その必要があるのなら義母として、陛下がどう強がりを仰せになっても、お薬ぐらいは作って差し上げたいですもの。」
 「恐れ入りましてございます。恐れながら小兵も、皇帝陛下のご精励ぶりを拝し奉り、いつか御身に障ることがあっては、とご心配申し上げてはいるのですが…」
 「そう。そなたまでがカイルの身体を心配してくれているとなれば、わたくしも嬉しく思います。やはりそなたは忠臣、心からカイルを気遣ってくれているのですね。でも、いつも強気のあの子のこと、そなたのような軽き者の忠言になど、耳も貸さないのでしょうね。…ごめんなさいね。」
 「いや、滅相もございません! 小兵如きが陛下にご意見を申し上げること自体…」
 「ああ、そうですわ! いい考えがある!
 勇士ゾラ。お願いがあります。斯様に皇帝陛下は剛毅なお方、ご自分のご体調のことなどで、わたくしに心配をかけてはならないと思し召しになって、わたくしには何も話しては下さいませぬ。
 だから、そなた。今後、そなたが気付いたことだけでよろしいから、陛下の御身の障りや、ご心配事などができたようでしたら、わたくしにそっと教えていただけないかしら。」
 皇太后は、縋るような目でゾラを見た。
 「はっ。…しかし、おれの…いや小兵如きの立場では、大したことは…」
 ゾラは突然の、思いもかけない皇太后の申し出に当惑していた。決して、これまで軽んじていた訳ではなかったが、仮にも相手は皇太后、そしてタワナアンナ。帝国最高の地位にある女性である。
 その上ゾラには、これまで遥か雲上に拝し仰ぐばかりであった皇太后にここまで近づくことを許されたのは生まれて初めてであったし、その権威からしても、相当な年配の女性を想像していた。そして、わが主人にとっては政敵だという噂も聞いてはいたから、何やら知らず知らずに醜悪な印象が擦り込まれてしまっていたのだが、間近に拝してみると、皇太后は意外に若い。
 考えてみればジュダ殿下のお母上だもんな。精々が三十そこそこだろう。それにまた、なかなかお美しい。華奢な、それでいてなかなか豊かなお体つきであられる。先々帝陛下が、数多のお妃方の中から特にこのお方にお目を留められたのも解る気がする。
 まいったなあ。そんな目で訴えられちゃあ、断るに断れない。もしこの方が、どこか町家の未亡人なら、おれだって… いやいや恐れ多い。恐れ多すぎる。

 何やら当惑したようなゾラの表情を覗き込んだ宝石商が、助け船を出した。
 「恐れながら、お話に口を挟ませていただきますが…」
 「ああ、苦しゅうない。何ですの?」
 「はっ。あのぉ、皇太后陛下には誠に忝い思し召しとは存じますが… ゾラさんも、お困りなのではないでしょうか。ゾラさんにとっては、皇帝陛下は直接のご主人、そのご主人の極めて個人的なことや、ゾラさんご自身の職務にも関る微妙な話を外へ漏らすなどとは… それでなくともゾラさんは、人一倍の正義漢なのですよ。」
 「漏らすとは何ですか、人聞きの悪い。わたくしは皇帝陛下の義母なのですよ。なさぬ仲とは言え、息子の健康を気遣う母の気持ちが、そなたには解らないのですか。」
 「あ、なるほど。それはごもっともなことで…
 そう仰せをいただいて気付きましたが、ゾラさんには皇帝陛下のご家臣であられる前に、この大ヒッタイト帝国の臣民でもいらっしゃる訳ですよね。ねえゾラさん。」
 「えっ? …それは、もちろんです。それが何か。」
 「それなら、皇帝陛下と同じ権威をお持ちの皇太后陛下たってのお望みとあれば、恐懼して畏むのが正しい臣たる者の道かも知れない。ねえ皇太后陛下。」
 「ゾラがそのような忠臣であってくれるなら、わたくしも嬉しいです。
 でも、主人思いのゾラの迷いももっともなこと。何しろあの子は、わたくしには心配をかけまいと、ただの疲れさえも一生懸命隠そうとするほどなのですから。
 ああ、いくら皇太后だなんて祭り上げられたって、所詮女の身ですもの。殊に戦の最中ともなれば、いつだって殿方は女なんかの言うことは少しも聞いて下さらない。そんなものなのですわ。
 そなたにも、わたくしの望みを聞けなどと、無理強いはいたしませんのよ、ゾラ。」
 「そんな、恐れ多い。…ねえゾラさん。私も今考えたのですが、失礼ながらあなたは皇帝陛下の、と言うよりも、カイル・ムルシリさまの私兵なんでしょう。ということは、あなたとカイル・ムルシリさまの主従関係は、こう申しては何ですが、私的なものじゃないですか。
 それに引き換え皇太后陛下は、尊いお血筋の上から、そしてお国全体のために皇帝陛下の御身をご心配しておられるのですよ。となれば、そのご心配は、お国の命運と一体の、皇室そのもののご心配と申し上げてもいいんじゃないですかね。
 仮に、あなたがカイル・ムルシリさまの私兵でなくなったとしても、この国の臣民である以上は死んでも断ち切れない、皇室に対する忠誠の義務に関る思し召しではありませんか。この際、皇太后陛下の思し召しを畏むことこそ、ヒッタイト臣民としての務め、そうは考えられませんかなあ。
 もっとも、カイル・ムルシリさまが皇帝陛下としてのお立場から、御身の体調やら何やらについてお口留めのご諚を下されているというなら話は別でしょうが… もしかして予てそんなご諚でも?」
 「い、いや、別にそういうことは…」
 「これ。そう無理強いしてはなりませぬ。
 ああ、本当にゾラは頼もしい軍人ですね。仮にも皇太后たるわたくしの前にあっても、ご自分のお守りになるべき節度というものを第一に考えていらっしゃるのですもの。
 …つくづく、ゾラをわたくしの軍に迎えたくなりました。わたくしの軍なんて、そなたの軍に比べればおもちゃのようなものかも知れませんけれど、それも女主人の悲しさ、荒々しい兵士たちから舐められているのではないかしら、なんて、悔しい思いをする事も度々なのです。ああ、わたくしの軍にも、わたくしに代わって兵士たちにきちんと睨みを利かせてくれる頼もしい部隊長がいてくれたら、どんなに素敵かしら。
 そなたのような人材が得られたなら、その日からでも部隊長にお迎えするわ。」
 「ほう! 聞きましたかゾラさん。やっぱり大したものですよ、あなた。部隊長ですよ部隊長。本物の隊長ですよ。あなたのような逸材が部隊長なら、皇太后陛下の軍だって立派に第一線へ出て、華々しい活躍ができる。何しろあなた、そんじょそこらの私兵隊長なんかじゃない。皇帝陛下と同格の、皇太后陛下の私兵隊長なんですから。
 事によると、皇帝陛下の軍で隊長になられるよりも格上といってもいい地位だ。何せ軍の中に三人もいる隊長の一人に過ぎない、というのではなくて、皇太后陛下の軍なら隊長はただ一人。その上、皇太后陛下ご自身が直接軍をお統べになることはないのだから、軍の実権は全てあなたのものだ。
 いやあ、私もあなたを見込みはしたが、ここまで皇太后陛下のご信頼を戴かれるとは。
 ねえゾラさん。よく言うでしょう、『宝石も磨かずば玉の光を放つまじ』って。
 私は宝石屋だから、心当たりがあるんです。磨けば光るというのはね、その石自体がもともと、宝石の原石なればこそなのです。そこいらのつまらない石は、いくら磨いても光りなんかしない。…あなたは、宝石の原石だ。皇太后陛下があなたがお持ちの真価にお気付き下さって、磨いて下さるんだ。いやあ、実に忝い思し召しじゃありませんか。」
 成り行き上、というものか、宝石商も俄かに皇太后の応援に回り始めた。
 この男の言う通りかも知れない。別におれは、生まれながらにカイルさまの下にいたというわけじゃない。軍人になろうと思ったのはおれの志だけど、それがどういうめぐり合わせか、たまたまカイルさまの軍に入っちまったってだけなんだ、よく考えれば。
 …悪くないかも知れないな。この男の話も頷ける。ここで引き受けたからって、別に裏切者って訳でもない。ヒッタイト臣民として当然の忠誠を尽くすだけなんだ。皇太后陛下のおっしゃる通り、カイルさまは常々、部下の血を流すぐらいなら、喜んでご自分の血を流す方を選ぼうとさえお考えの方だ。ご政務にも軍事にもあれだけ奔走なさって、御身に無理がない、と言う方がおかしい位だよ。我々の進言などはお聴き入れ下さらなくとも、いくら何でも皇太后陛下の仰せなら、少しはお聴きになるだろう。
 皇太后陛下って、何だかいつも悪し様に言われていらっしゃるが、案外このお方も何とか義理の息子と打ち解けたくてお悩みの、当たり前のご婦人でいらっしゃるのかも知れないぞ。
 それに、おれにとっても千載一遇の好機だ。これを逃せば、おれなんかにはもう、出世の機会はないかも知れない。おれなんかが皇太后陛下直々に招かれたってこと自体、夢のような話なんだからな。
 その尊いお方に、いや、尊いお方じゃなくたって、女人にここまでお悩みを打ち明けられて懇願されて、それを断るなんて、男が廃るってもんだ。
 一つ、思い切るか! 改めて志願しよう。
 「皇太后陛下。先ほどからの仰せ、改めて誠に忝く存じ上げ奉ります。小兵如き、如何ほどのお役に立てるや心もとなくはございますが、どうぞ皇太后陛下の御為、そして皇帝陛下の、お国の御為に、奉公させていただきたく存じ上げ奉ります。」
 「きゃあっ、ほんと!? ゾラ、やってくれるのですね? ああ、すてき! 夢じゃないかしら!」
 「ちょっと、あの、陛下。そしてゾラさん。ちょっと聞いて下さいよ。
 いえね、私は、ゾラさんの友人として、ゾラさんを陛下にお引き合わせした訳ですが、その責任上、ちょっと念を押しておきたいんですよ。
 陛下、ゾラさんにはもしかしたら、いくらお国のためとはいえご主人さまのご意向に反して不興を買って、それこそ一生出世できないか、もしかしたら免職になってしまうかも知れないお役目を引き受けられたんです。別に悪い事をしようって訳じゃなくても、宮仕えのお立場なんだから、普通ならご主人や上役のご意向が第一なんですよ。
 そんな訳で、恐れながらここで改めて、ゾラさんに約束してあげていただけませんか。今の、皇帝陛下のご宸襟を悩ませ奉っているこの度の戦に一区切りついたら、ゾラさんを陛下の軍の部隊長に迎える、って話を…」
 「何を言うのです。約束も何も、私の方からお迎えしたいと申しておるのではありませぬか。
 ね、わたくしのこの望みも、叶えてくださいますわね、ゾラ。」
 「は… はっ。謹んで!」
 「ああ、頼もしいわゾラ! こんなに凛々しい勇士をわたくしの軍にお迎えできるなんて!
 でも差し当たっての心配は、カイルの、いいえ、皇帝陛下の御身についてのこと。そなたも、そうそうこんな所へ出入りするのは気詰まりでしょうし、わたくしとて皇太后として宮に縛りつけられたような身、気易くそなたの許へ出向くことも叶いませぬ。
 さすれば、そなたからの報告も、わたくしからの返事も、算段はこの者に任せたく思うのです。この者はわたくしの信頼する者、よろしいですわね。」
 「はっ。この宝石屋さんなら、おれ、い、いや小兵も、異存はございません。」
 「えっ、私が、ですか?」
 「そなたに決まっているでしょう。そなたはつい先ほど、ゾラをわたくしに引き合わせた責任があると申しておったではありませぬか。」
 「まあ、それは確かに…」
 「そら、ごらんなさい。ならば、そなたはゾラの負担にならぬように、わたくしの許へ報告を伝える手筈を整えること。わかりましたね。」
 「ちょ、ちょっとそれは敵いませんな第一私には商売が…」
 「何を言うのです。どうせ暇さえあれば酒ばかり飲んでいるのでしょう。それならその時間、責めて少しでもお国の役に立とうとは思わぬのか?」
 「これはまたお手厳しい。まるで私がどうにもならぬ呑助のような…」
 「その通りではありませぬか。
 それとも何か? もうわたくしには宝石を買ってもらわなくともよい、と…
 そういえば宝石屋など、そなたでなくともいくらでもおりますものねえ…」
 「ご冗談を! 陛下に宝石がお納めできなくなっては、私方は店仕舞させられてしまうのも同然です! …わ、解りましたよ、やればいいんでしょう、やれば!」
 「ほほほ。そなたも随分物解りがよい。確と申しつけますよ。」
 「は、はっ! …敵いませんな… ただ、あのう、私はハットゥサの人間ではありませんので、そういつまでも家を留守にしている訳にもいかないのでして… 誰か、代理を申し付けることだけはお許しいただけぬものでしょうか。」
 「おお、それは苦しゅうない。わたくしも臣下の中から一人選んで、その係を申し付けましょう。…ゾラも、異存はありませんわね?」

 相当親しげな二人の掛け合いを、噴き出しそうになりながら聞いていたゾラは、突然水を向けられてはっとした。
 「え、ええ。もちろんです。いや、もちろんでございます。」
 ふうん。この宝石屋さん、皇太后陛下とは相当懇意と見える。任せておいて間違いないだろう。 しかし気の毒だな。おれなんかと連れて来たために、余計な仕事が増えちまって… まあ、いいよな。この人だってますます陛下のお気に入られて、ますます商売繁盛だ。
 …人ってのは、会ってみるまで判らないもんだ。カイルさまやイル・バーニさまなんかの話ばかり聞いていると、皇太后陛下がこんなに気さくで、陰ながらに皇帝陛下のことをご心配なさってて、その上おれなんかの立場にまで気を遣ってくれるなんて優しいお人だなんて、想像もつかなかったよ。
 よぉし、カイルさまのため、ひいてはお国のためだ。がんばるぞ。
 と言っても、大した手間でもないけどな。 
 
 「結局、今日は宝石もお目にかけそびれましたな。いい品が揃っているのですが… まあ、たまには仕方がない。出直して参りますよ。
 さ、ゾラさん。そろそろ失礼しましょう。」
 「おや、もう帰ってしまうのですか。ご苦労でした。宝石は、次の機会の楽しみにとっておきます。
 ゾラ。そなたも恙く軍務に精励するように。カイルのこと、お願いいたしましたわよ!」
 宝石商は、ゾラを促して応接間を辞した。
 自分が皇太后に向かって最敬礼をしている僅かな間に、皇太后と宝石商が目を見合わせ、にやりと笑いあったことに、ゾラは全く、気付いていなかった。

 「ゾラさん、お疲れさまでした。あなたのおかげで、私も面目が立ちましたよ。陛下のご不興を買って宮へのお出入りを差し止められでもしたら、私の商売は上がったりですからね。いやあ、助かった。」
 「いやいや、宝石屋さん。おれこそお礼を言わないと。まさか、皇太后陛下ともあろうお方が、あんなに親しくおれなんかと話してくれて、しかもあそこまでおれを見込んでくれるなんて。全て、あなたのおかげですよ。あなたには、余計なご用を背負い込ませてしまいましたが。」
 「何をおっしゃいますか。陛下は、あなたをこそ評価なさっているのですよ。
 さ、私の宿へ行きましょう。これからの手順をしっかりと打ち合わせとかないと。何しろ、あなたの輝かしいご出世がかかっているのですからな。
 この際、商売抜きで一肌脱ぎますよ。大切な友人のためですからね。
 ああ、それでね。
 わたしは商売の都合で明日にもハットゥサを発って、在所へ帰らなくてはならないが…
 それでなくとも、わたしはご覧の通り宝石商、高価な商品を扱う立場です。そんな者とあなたが頻繁に会っていては、あなたが宝物に目を眩ませてよからぬことに手を汚しているように勘ぐられかねない、それが心配なのですよ。あなたは、高価な真珠を眼前に置かれても目が眩んだりなどしない、剛直な軍人さんなのに。」
 「いいじゃないですか、そんなこと。」
 「いやいや、世間にはね、軍人と言ったって金銀宝石に目が眩んで汚職に走る、汚職とまではいかなくともお金儲けに現を抜かしている、そんな人も少なくありません。あなたが万一そんな不真面目な輩と同じように見られるようになって、痛くもない腹を探られたのではわたしも友人としていたたまれない。
 なに、直接会わなくたって、連絡の算段ぐらいは簡単なことです。すぐにでも信頼できる知人に使いをやって、後の手順を決めましょう。」
 
 やがて宝石商は、皇太后が配下の神官を一人指名して、ゾラの世話をする係に任じてくれたと伝えて来た。そして宝石商も、自分と同郷だという件の酒場の女給に自身の代理を勤めさせる話をつけたらしく、ゾラと女給を引き合わせた。
 ゾラは張り切って、ムルシリの様子を皇太后の元へ報告する活動を始めた。
 当初は、たまたま気が付いたことを報告しているだけに過ぎなかったが、そのうち、皇太后の方から報告内容に注文がつくようになった。ゾラもこれには少し訝しみを感じないでもなかったが、そんなことも言っていられない状況が現出した。
 ゾラの同年兵で、第二弓兵隊長を勤めていたシュバスが本物の弓兵隊長に昇格、ムルシリに近侍する幕僚にまで出世してしまったのである。
 いつも仲のよかった同年兵に先を越されたゾラは焦った。そしていつしか、主の体調よりも、皇太后が約束してくれた「本物の隊長」という地位が、ゾラの心中を大きく占め始めた。
 幸い、シュバスは隊長になっても、ゾラとはざっくばらんに友達付き合いを続けてくれていて、何でも話してくれる。特に問いたださなくとも、幕僚として見聞きした皇帝の様子などもその都度話してくれる。
 ゾラは、皇太后への報告にもより精を出した。

 「どうだ、ミッタンナムワ。ゾラから事情を聴取した結果、この粘土板に録取してある通りの経緯らしい。全く、教科書通りと言っていい抱き込まれ方だな。」
 「ふうむ。…しかし、よくここまで吐かせましたな、イル・バーニさま。」
 「当たり前だ。おまえのようにすぐ怒鳴りつけたり机を叩いたりしていては、相手も縮み上がってしまって事情聴取にならぬではないか。だからわたしが代わったのだ。」
 「は、はい、ごもっともで… しかしゾラの奴、こんな見え透いた手に乗せられていたとは… 全く以てわたしの監督不行届、申し開きの仕様もありません、イル・バーニさま。」
 「うむ。ちょっとおまえも部下の指導に手を抜き過ぎたな。」
 皇太后の要請を受け、ゾラが提供した情報は、思わぬ所にまで流出していた。皇太后はゾラから得た情報を、密かに通じていた敵国エジプトの太王太后ネフェルティティに提供していたのである。
 その情報漏洩の事実は、拠所ない事情でエジプトに在る皇帝妃ユーリ・イシュタルに従っていたもののこの度帰国して来た近衛副長官ルサファにより指摘され、その漏洩源が調査された結果、ゾラの活動が明るみに出たのである。
 ゾラは即時、上司ミッタンナムワによって身柄を拘束され、主であるムルシリと、その家令イル・バーニの尋問を受けた。
 さらに、改めて歩兵隊長ミッタンナムワが、二人の許に呼び出されていた。
 ミッタンナムワとイル・バーニの遣り取りを黙って聞いていたムルシリが、この場で初めて口を開いた。
 「いや、わたしもゾラの主として、少し配慮が足りなかったと反省している。已むを得ない事情とは言え、能力にも実績にも甲乙つけがたいシュバスとゾラの間にあからさまな待遇格差を作ってしまったのだから、本人には面白くなかっただろう。シュバスに追い付きたいという焦りも、理解はできる。」
 「はっ、ご温情はありがたく存じますが… だからと言って事もあろうに敵国への情報漏洩に手を貸すなど言語道断です。
 それで… ゾラに対して厳重な処分が下されること、わたしにも異存はありません。ただ、ゾラの上官として、一つだけお願いがあります。」
 「ほう。何だ?」
 「ゾラを買い被り、陛下にお取り立てを願い出たのはわたしです。この度の不始末はわたしの責任でもあります。
 どうか… ゾラにどんな処分をお下しになるにせよ、どうかわたしにも、同じ処分を賜りたいのです。」
 ミッタンナムワが深々と頭を下げると、ムルシリとイル・バーニは顔を見合わせ、互いに小さく頷いた。
 「いやいやミッタンナムワ、それは少し大袈裟だと思うぞ。なあイル・バーニ。」
 「とは申しましてもなあ。やはり本人がこうして申し出ているのですから、ミッタンナムワの希望通り、処分してやってはいかがですかな。」
 「は、はい! 如何様のご処分にも、謹んで服します!」
 「そうか。二人がそう言うなら、ミッタンナムワにもゾラと同じ処分を申し渡すか… よし、イル・バーニ。ゾラの処分ならもう決まっているのだから、この場でミッタンナムワにも同じ処分を申し渡してやれ。」
 「有難き幸せ!」
 ミッタンナムワが、姿勢を正した。
 イル・バーニは、大きく頷いてミッタンナムワの前に立ちはだかると、重々しく口を開いた。
 「では、歩兵隊長ミッタンナムワ。申し渡す。」
 「はっ!」
 「…従来通りの勤務を命じ、これまでにも増して、カイル・ムルシリさまに忠誠を捧げることを命じる。」
 「えっ?」
 ムルシリも、大きく頷いた。

 「あ、あの…」
 ミッタンナムワが呆然として、目をまん丸に見開いた。
 「今、今何と仰せ付けられましたか…」
 ムルシリが、改めてミッタンナムワに言葉を下した。
 「お構いなし、と言う事だ、ミッタンナムワ。…おまえ、ゾラと同じ処分を受けたいのだろう。それなら、これからも精々忠勤を励んでくれ。頼りにしているぞ。」
 「では… ゾラも…?」
 「ああ、お構いなし、だ。」
 「しかし、しかしあんな不心得を仕出かした奴を… 軍人の風上にも置けないあの馬鹿者を…」
 イル・バーニが、ミッタンナムワの戸惑いを受けて返した。
  「まあ、ゾラのおかげでえらい目に遭わされたのは事実だ。しかし、な。
  ゾラの供述を検討してみたのだが、どうもどこにも罰すべき理由が見つからなくてなあ。皇太后陛下直々の思し召しを畏むのもヒッタイト臣民として当然なら、カイルさまの御身をお案じになるナキアさまのお心遣いに感激するのもカイルさまの家臣として当然だろう。
 それに、今回問題になった情報というのも直接軍事機密とは言いにくいし、何しろ通報した相手はわが皇太后陛下だから、利敵行為とも言えない。
 悪いのはただただ、ゾラの善意に発した情報を悪用したナキアさまだ、ということだな。」
 ムルシリが、言葉を続けた。
 「それに、ゾラはわたしの兵だとは言っても、おまえやカッシュら幕僚のような重い立場ではないから、これまでナキアやウルヒが弄して来た陰謀について、詳しく知らせもしていない。そんなゾラの善意の行為が今突然罪とされては、わが兵らは何をするにも竦んでしまって、緊急時にも臨機応変の独断専行などできなくなってしまう。士気にも甚大な影響を及ぼすしな。
 また内部処分と言っても、ゾラより重い立場であって、しかも漏洩情報の直接の出所でもあるシュバスをさえ既にお構いなしとしてしまったのだから、尚更ゾラだけを厳しく罰したのでは処分に均衡を欠く。
 もちろんゾラに明らかな違法行為があったのなら、わたしは否応なく厳しく罰するつもりだったし、場合によっては元老院に引き渡す覚悟もできていた。
 しかしわたし自身、わたしの健康状態について、たとえ皇太后陛下おん自らのご下問に対し奉る場合でも絶対に口外するな、などと達した覚えはないのだ。…まあ、これはわたしの迂闊だったかも知れない。考えてみれば、わが家中というのは機密保持にはとんと無頓着のまま、これまでやって来たのだからな。」
 「恐れ入りました。」
 ミッタンナムワは、その場に平伏した。

 「しかしな、ミッタンナムワ。
 今回は、罰しようがないからお構いなしとするが、理屈の上ではどうあろうと、現にわたしとナキアとは明らかな政敵同士なのだ。もっともそんな事は、一般の兵に対してあからさまに言って聞かせる訳にはいかないが、もうちょっと気を利かせて行動して欲しいものだ。そういう気配りという物を、皆に教えておくんだな。
 無論、結果がここまで重大になった以上、改めてゾラに己が行動の軽率さを理解させて、今後の戒めとすることは必要だろう。…そういう場合は独断で行動したり返答したりせず、まず上司に報告して指示を仰ぐ。当たり前のことなのだがな。」
 「はい。改めまして、部下らには徹底します。
 しかし、ウルヒの暗躍は今に始まった事ではないにしても、その宝石商とやら、けしからん奴ですな。そっちを締め上げる手はないのですか。」
 「おまえに言われるまでもなく、陛下のご指示でその者についても調査した。大方ナキアさまの手の者なのだろうが、どう調べても尻尾を出さない。あくまでも皇太后宮へ出入りして宝石を納入している業者、というだけだ。酒場で軍人と意気投合したからと言って法に触れる訳もないし、商人が得意先の歓心を買うために余分な骨折りをする位は珍しくもない。もちろん、宝石の取引についてもあくまで合法的にやっているようだ。身辺が奇麗過ぎて怪しいなどと言い出せば、真当な商人全てが怪しくなってしまうではないか。
 ゾラの供述にあった女給という者も、早くも行方を眩ませている。何やら急に嫁入りが決まったとかで暇を取って立ち去ったということだが、これも怪しいと言えば怪しい、としか言いようがない。
 もっとも、人を介して情報の伝達経路をぼかすのは諜報活動の定石だ。宝石商についてはしばらく密かに監視してみるつもりだが。…有能な諜報関係者の身辺というのは、奇麗にしてあるものなのだ。」

 翌朝、歩兵隊全将兵が集められ、ミッタンナムワの訓示を受けた。

 「この度、いつもおれに代わって、貴様らの指導に当たってくれているゾラ隊長に着せられたとんでもない濡衣は、すっかり晴れた。ゾラ隊長には、一途に陛下の御身をお気遣い申し上げ、ひたすら忠節を尽くす熱意の余り、今回の災難に遭ったものである。忠勇無双のわが軍に不正な行為を行った者がいた事実など、当然、全く判明しなかったのである。
 ゾラ隊長には実に気の毒な事であった。隊長にかかる濡衣が被せられて、軍務に大変な支障が生じたことは全く遺憾である。しかも、当人が全くの清廉潔白なのであるからそれは尚更である。
 皆も、忠誠の熱烈なる事にかけてはゾラ隊長に勝るとも劣らぬ筈ではあるが、もし、かかる濡衣の着せられる虞のある事態に遭遇した場合は、決して独断専行せず、上司に状況を報告の上、対応についての指示を受けるように。
 ともあれ、今日から皆はまたゾラ隊長の指導を仰げることとなったのだ。しっかりやれ!」
 居並ぶ将兵らから、時ならぬ歓声が上がった。
 「ゾラ隊長、ばんざぁいっ!」


20巻・177ページに到るまで、並びに第21巻・11ページ以降のゾラの事情です。
 歩兵隊に限らず、ムルシリの軍に於いて<隊長>と称せられる人物は常にムルシリの身辺に近侍していますから、肝心の部隊にいる暇などほとんどなかったのではないでしょうか。そこで、常に隊に在って指揮を執る立場、それが日頃のゾラの立場であったのではないでしょうか。
 13巻・168ページでは、歩兵隊・弓兵隊共にそれぞれ<第2歩兵隊長><第2弓兵隊長>が部隊の指揮を執っています。原典中、この職名は当巻・150ページで初めて見られるのですが、こういう職名が出てくる以上は、このアルザワ・ウガリット二正面戦の時点でムルシリの歩兵隊は二個部隊に区分されていたのでしょう(もちろん弓兵隊も同様、そして原典には描かれていませんが、おそらくは戦車隊も同様だったでしょう)。
 とはいえ原典中、<第2歩兵隊>という部隊そのものの性格や編成の経緯については触れられていません。しかし、ミッタンナムワがゾラについて<上官として>(第20巻・188ページ)と言っている点から、ここではこの部隊をミッタンナムワ率いる<歩兵隊>の中、対エジプト戦に伴う動員を睨んで<第2歩兵隊>という部隊が区分され、ゾラにその「隊長」が命じられたものとしてみました。
 そのうちで、ムルシリは有力な方をユーリに預け、近衛隊や他の軍で戦力の不足を補完できる自分の手元には新たに区分した部隊を残したのではないかと思われます。
 先の拙稿「救国の烈女」でも、善意の人物が諜者として利用される経緯について考えましたが、アダの場合は心神耗弱または心身喪失下に於てとはいえ、本人もその違法性を認識した上で文書を窃取するという明白な「犯罪行為」を行っています。

 これに対して、ゾラの行為について原典の記述を検討してみると、どの段階においてもゾラには明らかな違法性や有責性が認められる行為は見当たらないように思えるのです。
 もっとも、原典には当時の具体的な法令の規定や、本人がどこまで己が行為の違法性を主観的に認識していたかという点は描かれていませんので、今回はできる限りゾラに好意的な想像を試みました。この事件に限らず、当時のヒッタイトという国は過ちを犯した者に対する処分の極めて寛大な国であったようですから、原典中にもその後のことが述べられていないゾラも、きっと引き続き活躍の機会を与えられていたことでしょう。
 間諜などというものは、使う側にとっては道具の一つに過ぎません。本人ですら諜報活動に関係させられていることに気づきもしないまま、機嫌よく仕事をしてくれるのがもっとも都合がよいのです。今回想像したような状況の下では、ゾラにしても首尾よくナキアの軍に迎えられてしまえば(その後の待遇は別にして)、自分が諜報活動に関係したことなど一生知る由もなかったでしょう。
 ゾラではなくとも、我々とて何かの目的のために、知らず知らずのうちにこのような利用のされ方を、現にしていないとは限らないのではないでしょうか。
 また今回も、ゾラをはじめ各登場人物の身分上の立場については、先の拙稿「お・く・さ・ま」ほかで読み取った事情を敷衍しました。


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