睡蓮の池のほとり


継承の行方


 ナキアがわが息子を皇位に就けるための、長年に亘る策謀は潰えた。わが母の、異常なまでの執拗さに嫌悪を感じた当の息子自身が、自らの皇位継承権を永久に放棄すると宣言してしまったのである。
 この宣言は、国政の中枢を担う皇帝ムルシリ二世をはじめ、元老院議員一同、近隣諸国の使節らまで居並ぶ場で行われたものであったから、いかにナキアと雖も不知を決め込む事はできなかった。
 この宣言により、一般にナキアの子ジュダ・ハスパスルピが、ムルシリの皇位を脅かすことはなくなったと解せられ、ムルシリを支持する者は一様に胸を撫で下ろした。大ヒッタイト帝国はこの賢帝の下、完全無欠、理想の御代を迎えることとなるものと信じたのである。
 ナキアは、母たる自分の悲願を打ち砕くハスパスルピの宣言に呆然とした。しかし、呆然としたのはナキアだけではなかった。辛うじて日頃の威厳を保ち通したものの、余りの唐突な事態の連発に内心で溜息をつき、頭を抱えた者が、二人いた。

「ジュダのやつ、この大切な儀式の最中に… ただでさえ厄介な事態が起きてしまった時にだぞ。」
 「全くですな。しかし先程のご宣言も、ジュダ殿下としては一生懸命熟慮なさった上でのご結論なのでしょう。」
 「熟慮して出たのがあの浅知恵か。あいつ、母子揃ってこの帝国を崩壊させるつもりなのか。」
 「決して、そんなことはありますまい。皇帝陛下にとってどんなことがあっても信頼なさらねばならないお方といえば、ユーリさまとジュダ殿下、このお二人なのです。」
 「ああ… そしてもう一人、イル・バーニ、おまえだ。」
 「勿体なきお言葉、恐悦至極に存じます。」
 「今さらおまえに恐れ入られても仕方がないのだが… しかし、ジュダもせめて、事前に相談してくれればいいものを。あのような場で突然言い出されては、こちらは取り繕いもできん。」
 「全くですな。この間のご自害騒ぎといい、今回の唐突なご宣言といい、恐れながら、やはりまだお考えが浅くていらっしゃいますな。」
 「だから、これをどう収拾するかだ。
 イル・バーニ、わたしも考えたのだが、皇位継承権と言う物は、本人が放棄すると宣言した程度で、そう気易く放棄できるものなのか?」
 「その点なのですが、法典のどこをどう読み返しても、本人が予め皇位継承権を放棄する場合についての明文規定は見当たりません。ですから今回の宣言についても、有効だという根拠はないのです。
 とは言え実際には、全くやる気がないと公言なさった殿下が次代の皇帝になられるとも、そんな皇帝に信を寄せる臣民などありますまい。誰も、ついては行かないでしょう。」
 「ついて行かないでは困るのだ。
 わたしとて生身の人間だ。いつ、どんな事故や病に見舞われないとも限らない。わたしに万一の事があれば、今のこの帝国、正当な皇位継承権者はジュダしかいないのだからな。」
 「御意にございます。殿下のあの宣言に効力を認めるなら、現時点に於いては陛下が、大ヒッタイト帝国最後の皇帝だと言うことになりますな。
 少なくとも、超法規的な措置が採られない限り、と言うだけの事ですが。」
 「うむ。だがその超法規的措置という物、わたしは決して採って欲しくないのだ。これからの皇位は、混乱なく、抗争もなく、正しく継承して欲しい。間違っても、次の皇帝を決めるために争いが起きるような事態は、わたしの時で最後にして欲しいのだ。
 しかし、この危機的状況、諸官はどう考えているのか。」
 「幸か不幸か、問題に気付いてもいない者が大多数を占めましょう。それでなくとも、国にはご大婚を奉祝し、金甌無欠にして揺ぎなき帝国の弥栄を寿ぐ声が満ち溢れていますし、仮令気付いている者がいたとしても、ご結婚と同時に立后なさることが決まっているユーリさまがそのうちご懐妊になり、陛下のお子をお産みになるだろうと希望的に観測している、それが普通の見方でしょうな。」
 「普通でない見方をしている者もあるだろう。今、わたしを亡きものとしてしまえば、本人がどう思おうと、ジュダに即位してもらうしかこの国体を保たせる方法はないのだからな。」
 「だからこそ、ナキアさまは御身をお捨てになって陛下のお命を的となさった。どんな原因にしろ、今陛下が崩御なされば、この帝国にはジュダ殿下を皇帝として戴く以外に選択の余地はないのですからな。ユーリさまも今日の時点では単なるご側室に過ぎないのですから。
 しかし、ナキアさまの事がなかったとしても、問題になるのはそこなのです。
 陛下。ジュダ殿下のあの宣言に対して、誰もが言葉を失ってくれていたのは幸いでした。陛下も、何もご反応をお見せにならなかったのはさすがですな。 
 ジュダ殿下の宣言に効力を認めてしまうような形になってしまっていては、陛下はおん自ら、この帝国の皇位継承権者を根絶させてしまった事になります。陛下にまだお子がおわしまさないのは、陛下ご自身よくご承知の筈ですからな。
 そのお子にしても、いずれ生まれるだろう、では困ります。今、現に確たる皇位継承権者があってこそ、内には将来に向けて皇室への信頼を保ち、外には国としての信用が得られるのです。
 今上が崩御したが最後、断絶する皇室。それで瓦解しないまでも、次の皇帝が決まるのに必ず波乱の生ずる国。誰がそんな物を信頼しますか。」
 「その通りだ。…だからといって、殊更にあの宣言の効力を否定してしまうのはどうかな。わたしとジュダの間に不一致が存在する事を公言するような物だ。それに、下手にこちらから後継者としてジュダの名を挙げては、わたしに皇子が生まれた時に話がややこしくなる可能性も高い。本人の意思はどうあれ、皇族と言うのは兎角利用され易い立場だ。なまじ優し過ぎる所のあるジュダが、そんな場合に毅然として身を律する事ができるかどうか。
 それなら初めから、明確に皇位継承権を喪失した方が本人は楽だろうとは思うのだ。」

 「その辺の撞着、ご賢察の通りです。
 現に、アレキサンドラ王女がジュダ殿下のご正妃となられる事になったのですから、アルザワからの圧力も予測できます。あちらとて、どうせならわが王女をヒッタイトの皇妃に、という思惑は当然の事ですからな。
 ですから当面は、今日の宣言については何も言及なさらぬがよろしい。まあ、何といってもあれだけのお歴々の眼前での明確な宣言です。なかった事に、とは参りますまいが。」

眉をひそませていたイル・バーニが、ここで何かを思い立ったようにその表情を改めた。
 そして、大袈裟に胸を張ると、徐に口を開いた。
 「ううむ… 左様でございますなあ。
 明日、ユーリさまが皇妃にお立ちになれば、仮令陛下に万一の事があっても、当面はユーリさまが国事を代行なさるでしょうし、その後はユーリさまにご再婚願って、新しい皇帝を迎えることと致しましょうか。実現しなかったとはいえ、ザナンザ殿下の前例もありますから、それで押し通しましょう。まあ、その時の手回しはわたしにお任せ下さい。
 …そうなればどこかの国で将軍を勤めているオッドアイの青年貴族が、喜んでユーリさまにご求婚なさるのでしょうなあ、きっと。」
 にやりとしたイル・バーニの顔を見るまでもなく、強引で自惚れが強く、腕の立つだけが取柄の癖に何故か少しはユーリの気を惹き得ている無神経なエジプト人の顔を即座に思い浮かべたムルシリは、真っ青になった。
 「そ、それは困る! ユーリは、ユーリは断じてわたしのものだ!」
 「でしたら早く、文句なく皇統を託せるお子を授かられますよう、ユーリさまと仲よくお励みになることですな。
 もっとも、仲のお睦まじさは人後に落ちぬお二方の事、別に心配も致しませんが。」
 「お、大きなお世話だ。…しかし、本当にそれしか方法はないのか。それでは、わたしは万一のために、ユーリに予め再婚相手を決めさせなければならないのか? た、例えばあのエジプト人とか…」
 「いいえいいえ。わたしは特にエジプト人の事等申し上げているのではありません。ただそういう可能性もある、というまでの事。普通であれば、ジュダ殿下に後をお委ねになるのが妥当という物です。丁度、兄上様たる先帝陛下の後を嗣がれた陛下ご自身のように。
 第一、王妃が外国から入婿を取ってその方を王座に据えようという構想は、あくまでもエジプトに於ける例ですからな。

 …どうも陛下は、ユーリさまの事となると露骨に動揺をお見せになり過ぎる。」
 図星を指されたムルシリは、わが狼狽を取り繕うように姿勢を改めた。
 「い、いや、そういう訳ではないのだが…」
 イル・バーニは、悪戯っぽくムルシリの顔色の変化を眺めている。
 「いやいや、そういう訳としか拝察できませんなあ。この大切な時期、そこまでユーリさまのご機嫌をご軫念あそばされるとなると、わたしがこれからご献策申し上げる事にも、おそらく難色を示されるのでしょう。…ユーリさまのお気持ちをお汲みになって。」

「何だと? よい、申してみよ。」
 「はい、では。…この度のナキアさまの暴挙、陛下にとっては千載一遇の好機とお心得遊ばしませ。何しろ、あれだけ多数の重要人物が証人となってくれる状況の中で、恐れ多くも皇帝陛下を害さんと剣を揮い、かけまくも畏きテシュプの大神の大前を穢し奉ってくれたのですからな。
 それも、実害といえば近衛の幹部が一名殉職しただけで済みました。ルサファの事、悼ましくはございますが、帝国全体としては取るに足りない被害と思し召しいただきます。
 それでも、ナキアさまには前の罪により刑が確定している所を脱走しての、重ねての暴挙です。充分、極刑を科する理由となるのです。この際、将来に禍根を残すことのないよう、ナキアさまには確実に死んでいただきましょう。
 …と、申し上げるのですが。」
 ムルシリは、憮然として天井を見上げた。そして、いつもながら見事だ、この男に隠し事はできない、と思った。

「いや、参った。おまえの見込み通りだ。
 わたしには、ナキアに極刑を科する気が失せた。」
 「やはりそうですか。何しろナキアさまは、ユーリさまが御身を挺してお庇いになった方なのですからな。そのユーリさまのお気持に反して、改めてナキアさまのお命を絶とうとは、陛下にはお思いにはなれますまい。」
 「あ、ああ。実は、そうなのだ。皇帝として、甘過ぎるかも知れない。しかし、あれだけナキアに煮え湯を飲まされたユーリ自身が、咄嗟にああいう挙に出たのだからな。
 あれは、ジュダを制止しようという構えではなかった。ユーリは自分の胸でジュダの刃を受け止めて、ナキアを守ろうとしたのだ。わたしがジュダを制圧していなければ、いくら未熟なジュダの剣でも、確実にユーリは、ナキアの身代わりになっていたはずだ。あのナキアを死なせたくないと言うだけの為に、好んで…」
 「はい。しかし、ナキアさまさえ死んでくだされば、ジュダ殿下とて陛下の皇位継承権者としてのお立場にお悩みになる事はありますまい。」
 「それはその通りだ。それに、いかにナキアとて、死んでしまえば怪しげな魔力を振り回す事もない。それも解っている。しかし、ユーリの思いが…
 なあ、イル・バーニ。ナキアの処分、少し先送りにしてはどうか。明日は結婚式だ、そう慌しく断罪する必要があるかな。」
 「なりません。陛下は先ほど、元老院を召集なさいました。今、あちらも急遽合議の最中です。この上、優柔不断な態度をお取りになっては、陛下は今後必ず、元老院に軽視される事になりますぞ。」
 「うむ… しかし元老院は、おそらくナキアの極刑を進言するだろうな。」
 「はい、十中八九は。」
  「わたしがそれに対してナキアの助命を主張しても、一対一では結論は出ない…
 それにな、そもそも、ナキアはあれでもバビロニアの王女だ。わが国は、バビロニア王から王女をお預かりしているのだ。ナキアの兄に当たるバビロニア王とて、これだけ明白な証拠がある限り、王女の罪自体を否定する事はできないだろうが、殺されてしまっては黙ってもいるまい。それでなくても、わたしはイシン・サウラ王女の件で、バビロニア王に大きな借りを作ってしまっているのだからな。ただ、偶々わが国の方が優勢な国力を持っていると言うだけの事で、辛うじて王を黙らせているに過ぎないのだ。
 やっとの事でエジプトとの和平が成った今、バビロニアと事を構える愚だけは、絶対に避けねばならない。」
 
イル・バーニが、またにやりと笑った。
 ムルシリも、その意図に気付いて、笑い返した。
 「ほう。わたしはてっきり、陛下におかれましてはユーリさまのご機嫌だけがご宸襟を悩ませ奉っているのかと拝察申し上げておりましたが、お気づきでいらっしゃったのですか、そこに。
 さすがは賢明なる皇帝陛下ですな。」

「馬鹿者。主君を嬲って遊んでいる場合か。
 それなら、まずおまえから話せ。元老院の極刑論を抑える策は?」
 「はい。御意の如く、元老院と陛下の意見が食い違っては、結論は出ません。また、議論している時間の余裕もありません。
 問題は、帝国三権のうちの一つ、皇妃の意見が出て来ない所にあるのですが、これはやむを得ませんな、何しろ皇妃は空位なのですから。
 予め、先帝陛下のご正妃さまにお出ましいただく事も考えてはいたのですが、あのお方は政治に口を挟むようなご意欲はとんとお持ちではありません。
 そこで、既に先程、元老院の主だった議員には耳打ちしておきました。今回は時間がないのだから、万一皇帝陛下と元老院が対立した場合、議論や調整をしている暇はない。だからそうなった場合には、ユーリさまのご意見も伺ってはどうか、と。
 元老院では、ナキアさまのために最も酷い目に遭ったユーリさまの事、今日の沐浴式の場で、ユーリさまが咄嗟にナキアさまをお庇いになったのは、偏にジュダ殿下に取り返しのつかない不敬行為を犯させないためだと理解している様子です。仮にも皇太后を害するよりは、ただの側室を害することになった方がジュダ殿下の罪は格段に軽いですからな。さすがはユーリさまだと嘆賞する声が多数を占めています。しかし、ユーリさまが冷静に判断なさるなら、ご意見は間違いなく極刑だと言うのが元老院の観測です。
 ですから、この後の席で、元老院がユーリさまにご発言を促すような風向きになれば、陛下にもその方向でお進めいただきますぞ。
 とはいえ、いざその場になれば、ユーリさまの事です。相手が何人たりとも、ご自身から死に追い遣るようなご意見を出される事はありません。それは、陛下が一番よくご存知でしょう。
 かくて、結論は二対一、ナキアさまは助命、と言うことになる。そういう筋書です。
 もっとも正式にはこの結論、明日、ユーリさまが正規の皇妃としての権限をお備えになった瞬間に発効する事となるよう、既に法解釈も用意してございます。
 いかがですかな。…で、次は陛下の策を拝聴致したいのですが。ナキアさまを死なせず、かつ全てを円満に解決する方法が、ありますかな?」
 ない訳がない。イル・バーニは、それをよく知っていた。

「ふふん。…よし、元老院に対してはその手で行こう。だから、わたしの策にも同意してもらうぞ、イル・バーニ。
 要は、ジュダの宣言について、そのまま認めもせず否定もせず、そして一方では、万一の時に問題なくわたしの後を襲ってもらえるように、そして同時に、ナキアが国政に容喙できないよう押さえ込めばよいのだ。
 ナキアには、前の判決に加重する形で、神官としての立場も取り上げ、幽閉などと言う中途半端な名目も用いない。明確に『流罪』とする。
 ただ配流先は、カタパよりも遥かに遠い、カルケミシュだ。遠いと言っても、ナキアの故国・バビロニアの近くだから、一応お立場を考慮した事にもなるだろう。ただ、ナキアの事だ、そんな土地に漫然と流しておいたのでは、また何を始めるか判った物ではない。
 それでな。ナキアの監視責任を、ジュダに負わせることにする。併せて、マリが戦死してから欠員になっているカルケミシュ知事に、ジュダを発令するぞ。もちろん、今のような遥任は許さん。ちゃんと赴任してもらう。
 そうすれば、ジュダはハットゥサを離れる事になるから、皇位継承権第一位の皇子としては異例だ。ジュダの宣言を容れてやったようにも見えるだろう。
 また一面では、カルケミシュ知事と言えば立派な皇子の仕事だからな。あそこはカネシュと違って、わが領土に編入してから日も浅い国境の都市だ。長く知事を欠員にしておく訳にはいかん。他に手の空く皇子はいないのだから、皇位継承権とは関係なく、やむを得ない措置だとも見えるだろう。
 こうして、ジュダの宣言をわたしが認めたか認めないかは玉虫色にしておく。今わたしに万一の事があれば、ジュダが即位する事も不可能ではなく、またわたしに子が生まれれば、ジュダの皇位継承権は自動的に劣後して行く事になるから、ジュダの宣言の効力等次第に問題ではなくなる筈だ。
 勿論、平穏にわたしの子を皇太子として立てる事が叶った暁には、わたしは突然今日の事を思い出したかのようにジュダの地位を確認してやって、あいつの名誉を守ってやる。
 まあ、あいつだってバビロニアの王孫には違いないが、わたしは、あいつに限ってバビロニアに通じることなどないと信じている。逆に、その立場を活かして、わたしの対バビロニア外交を助けてもらいたい。手始めに、ナキアの処分について、ジュダには伯父に当たるバビロニア王に説明しておく仕事も出て来るのだからな。

 そして、ナキアだ。こちらはまだまだ信用できないが、少なくとも、あれでも人の親だ。あれだけ帝位に執着を見せたのも、結局はジュダが可愛くてならないからだと言う事は否定できまい。これからも、我が身がどうなれ、ジュダの活躍を楽しみにしていてくれる筈だ。
 ならば、この期に及んで不穏な行動も起こすまい。受刑者が不穏な行動に出れば、監視怠慢を理由にまず罰せられるのは監視責任者なのだからな。それはナキアも望まぬ筈だ。
 精々、異母姉上とも相談して、魔力の発揮できない地を卜し、庵でも建ててやるさ。そして念の為に、帝国の正規軍を新しくカルケミシュに分駐させる。
 無論、この辺は皇帝の専決事項だ、元老院も文句は言えまい。」
 ムルシリは、どうだ、とばかりにイル・バーニの目を見詰めた。
 「いいでしょう。…そろそろ刻限です。議場にご出御ください。上首尾をお祈り致しますぞ。議場でのわたしは単なる事務方、大人しく議長の隣で黙っておりますれば。」

イル・バーニは、自ら分厚い扉を排し、密談のため遠ざけておいた警護の兵を呼んだ。
 「よし、御警護! 陛下のお渡りだ。出でよ。」
 ムルシリは威儀を正してその戸口に立った。 
 警護が到着するまでのほんの僅かな時間、イル・バーニは小さく囁いた。 
 「後は、陛下のお子ですな。どうぞお励みの程を。」
 「おまえの知った事ではないわ。…おまえ、涼しい顔をして、実はその方面にばかり興味があるのではないだろうな。」
 「何をご無体な。わたしはただ、万世一系の皇統の無窮をお祈り申し上げているだけなのですが。」
 「ふん。心配せずとも、ユーリと二人、ナキアよりは長生きをして、子供も沢山作って見せるさ。」
 「何でしたらナキアさまのご寿命、予定しておかれますか?」
 「つくづく物騒な男だな、おまえも。」
 二人とも、会心の笑みを浮かべていた。


27巻・156ページ、思わぬ突発事態に見舞われた沐浴式を切り上げ、急遽召集した元老会議に臨むムルシリの様子を想像してみました。
 沐浴式の後、元老議会の開会まで、時間など殆どなかったでしょう。それでもムルシリは、鮮やかな指導力を発揮して、即日事態を収拾しています。
 多人数の意見を、とにかく一つにまとめねばならない元老院が進言した当面無難な結論。全ての責任を一身に負って判断を下すべき立場のムルシリが主張した、穏便にして巧妙、そして一見突飛な結論。限られた時間の中での判断に現われたこの対照は、非常に興味深い物です。
 なお文中、「…法典をどう読み返しても…明文規定は見当たりません」、「法解釈も用意してございます」と書きましたが、当筆者はヒッタイトの法典にどんな規定があったか、原典に現れる以上のことは知りません。それでも皇位継承法に関しては、概ね現代のわが国の規定に似た形だったと思われます。
 原典には、ジュダ以外に明らかな皇位継承権の保持者が描かれていない(トゥダリアも皇位継承権者かも知れませんが、判然としません)ので、ここではそのように解しましたが、テリピヌの例のように、皇子であっても庶子は皇位継承権を持たないという規定がどこまで一般性のある規定なのか、これも判りません(これも、嫡子を3人得たシュッピルリウマが特に定めたものなのかも知れません。でなければ、一般に側室というものの意義などないように思えるのです)。

 ナキアとの相克について、第27巻・27ページの、果てしない争いに辟易としたユーリは<皇太后と決着をつけないかぎり同じことのくりかえしだよ>と訴えていますが、原典から読み取れる皇位継承法に拠って普通に考えれば、ユーリがとにかく皇帝の正妃となり、ムルシリに嫡子が生まれれば、少なくともハスパスルピまたはその子孫が皇位を得る可能性は次第に低くなり続け、ナキアの立場は不利になり続けるのです。そうなると、ナキアとて実質上はハスパスルピの即位など断念せざるを得なくなるでしょう。ムルシリやユーリがどんな死に方をしようと、皇位を継承するのはムルシリの嫡流なのですから。
 なお、一見英断のように見えながら、実は皇統に断絶の危機をもたらしたハスパスルピの宣言の効力を「玉虫色」として、ハスパスルピの皇位継承権保持に含みを持たせたのは、一つには第27巻・176ページの<ヒッタイトはカルケミシュを中心として国家を存続させることになる>という記述に合わせたものです。ジュダの皇位継承権が消滅しなかったと解することができたからこそ、アナトリアの皇室宗家が断絶した時点で、カルケミシュに在ったハスパスルピの末裔も、たとえ第何百位であろうと辛うじて皇位継承権を保持しており、この国の皇位を正当に継承したのだ、という解釈です。
 そうすると、一旦は潰えたかに見えたナキアの悲願は、百数十年の星霜を経て、堂々と実現したことになります。ナキアにも、以て瞑すべきことでしょう。


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