睡蓮の池のほとり

決 断

 バビロンの邸宅街の片隅に、小さな館が建っていた。王宮をつつがなく勤め終えた文官あたりの隠居所とも見えたが、主は意外に若かった。しかも、一見して判る外国人である。寄り添うように暮らす妻は、明らかにこの国の、良家の出身と見えた。
 この異様な取り合わせに気づいている者は多くない。時折思い出したように、王宮からと思しき人物がぽつりと訪ねてくる以外、人の出入りもないこの家に注意を向ける者などなかった。
 殊にここ数日来、主は書院に籠ったまま、ひたすら何かを考えている。机の上には一通の書簡。それだけを見つめて、主は座っている。食事を運ぶ妻にも、主は振り向こうともしない。
 妻も、強いて話しかけることをためらっていた。この間、見覚えのない外国人が、あの書簡を持ってきた。その時、一瞬にして強張らせた表情を、主は未だ崩さない。ただ一言、主に「旧知の者の使いだ」とだけ告げられた時、ちらりと見た書簡の文面は、妻には読めない言語で綴られていた。

 何故今頃… ムルシリは何を考えているのだ。あの男、わが旧領を手に収めながら、新たに王を立てるでもなく、併合してしまうでもなく、カルケミシュに弟を寄越しただけで、あとは占領直後の軍政をそのまま続けていると聞いていたが、このためだったのか。このために、わたしが去った時の、国の形をずるずると保たせていたのか。
 確かに、わたしが国を出てから、長くは経っていない。今ならまだ、民衆も兵士たちも、わたしの威光を忘れてはいないだろう。国へ戻っても、成算はある。マッティアラも元気でいるらしい。しかし…
 別に、今の暮らしに未練が出来た訳ではない。いうまでもなく、わたしはここへ来て、初めて平穏な家庭生活というものを知った。他人に気を配り、顔色を窺うことも覚えねばならなかったが、やってみればさして難しいことでもなかった。むしろそうしてみたことで、寝所で剣を枕にしておくような心得の、窮屈さに気づいた。
 といって、わたしとて武人の魂を忘れた訳ではない。王太子の矜持を捨てた訳でもない。今一度、わが旗を掲げ、兵を率いて戦場を馳駆できるのなら、今すぐにでも起ちたい。
 しかし、わたしは一度敗れたのだ。あの時、討たれているはずだったのだ。
 なのに今、ここにいる。ここは、妻の郷里だ。
 妻といっても、貰ってくれというから貰っておいただけの側室だった。別に愛しくもなかったし、まともに相手にしてやったこともなかった。
 なのに妻は、もう討たれると決まったわたしを、身を挺して庇ってくれた。そして、もう何の権力もなくしたわたしを、命がけでここへ落としてくれたのだ。
 ここの王陛下も、渋々ながらわたしを保護してくれた。王陛下にしてみれば、わたしを捕らえてムルシリに引き渡し、あの国に恩を売っておく好機だったはずだ。しかし、こんな情ない末路をたどる男に、無理やり娘を嫁がせたのは己が不明だ。その娘自身に泣いて懇願されては、許さざるを得なかったのだろう。
 別に、優遇されている訳ではない。不憫な王女の熱が冷めるまで捨扶持を宛てがって、ままごとのお相手として飼って置くしかないな、というのだろう。まあ、それでも大恩には違いない。
 どうして、妻がここまで尽くしてくれるのか、わたしには解らなかった。ワスガンニが陥ちた時、それまであれほどわたしに媚を売っていた側室どもも、あっさりどこかへ散ってしまった。
 その中で、妻だけが、敵陣のど真ん中を突破して、袋小路のカルケミシュ城内までわたしを追ってきたのだ。もっとも、妻の姉は敵の皇妃だから、万一捕らえられても斬られはすまいと多寡をくくっていたのかも知れぬし、事実、その通りになった。しかし、場所は戦場だ。質の悪い雑兵どもに捕らえられることも、流れ矢に当たることもあっておかしくはない。幼児にでもその位のことは判るはずだ。
 それだけなら、万に一つの、わたしの起死回生を期待して、あるいは姉の権勢を恃んで、自分が国を手に入れるつもりで大穴狙いの選択をしたのかとも思った。でなければ、わたしが他の女をものにしようと夢中になっているのを知っていて、好んで道化のような役に身を落としてみせる女などあるものか、そう思っていた。
 しかし、わたしの見込みは誤っていた。自分が命を落としては、そんな野望も水の泡ではないか。妻は、不埒な下郎が剣を振りかざした時、己が身を盾にわたしを守ってくれたのだ。まさに、他の女を犯そうとしていた、そのわたしをだ。
 あの時、わたしは敗けた、と思った。ムルシリにでも、下郎どもにでもない。その時まで気づかなかった、わたし自身の心のひねくれに敗けたのだ。

 わたしが、軍事を専攻しようと志したのは、思えば他愛のない理由だった。
 大好きだった姉が、追い立てられるようにエジプトへ輿入れさせられた時のことだった。姉が、異国の人となってしまうなど、我慢がならなかった。幼かったわたしは考えた。いずれわたしはこの国の王になる。王になったら、エジプトへ攻め込むのだ。そして、アケトアトンの宮殿に、ミタンニの旗を立てるのだ。姉上のいる国がミタンニになれば、会いたい時にはまたいつでも会えるようになるではないか。
 父上の許しを貰って、わたしは軍事の道へ進んだ。しかし、そんな夢物語が叶わぬものであることには、すぐに気づいた。それでも、姉上のことは忘れられなかった。父の命で、側室も貰ったし、自分の宮も建てた。しかし、正妃だけは断り続けた。姉上以外の女を自分と同格に置きたくはなかったのだ。
 それよりも、ミタンニの名を上げたくなっていた。ミタンニの名が高まれば高まるほど、エジプト人も姉上を粗略にはできなくなる。わたしが戦に勝てば勝つほど、ミタンニから嫁いだ姉上の権勢も高まるのだ。わたしは、無闇矢鱈に口実を設けては、戦を起こした。そして勝ち続け、ミタンニの版図を広げた。
 そして、ついにヒッタイトと対峙することになった。もっと若かったわたしなら、「シュッピルリウマは決して殺すな。あやつの首はハットゥサで、わたしが刎ねる」と布令を出したかも知れない。しかし、そうはしなかった。
 姉上が、変わっていることを知ったのだ。別にわたしが意気込むまでもなく、姉上はエジプトを支配している。間諜の通報によれば、信じられぬほど汚いやり方でだ。武人を志すほどの者には、決して考えられぬ汚いやり方でだ。謀略には謀略の、やり方というものがあるはずなのだ。
 あの戦い、わたしには初めから大義などなかった。ただ、とにかく戦いたい、戦う以上は敵を叩きのめしたい、それだけだった。なぜ戦うのか、勝ってどうするのか、そんなことは考えていなかった。ただ、戦いのための戦い、それだけの戦いだったのだ。
 ワスガンニを失陥した後も、それは変わらなかった。だから、帰るべき首都を失ってさえ、わたしは撤退を選ばなかった。それでもなおハットゥサへ肉薄しようと、何が何でも西へと血路を開き、カルケミシュへ入ったのだ。
 しかし、それでは敗けて当然だった。ムルシリには、確固たる信念があったのだから。
 それはもういい。私が憧憬する姉上は、もういないのだ。あれは、少年のわたしが見ていた、幻影だったのだ。

 わたしは、この国でやり直そうと思ったのだ。妻の思いに報いるために。もう、正妃でも側室でもない、本妻でも権妻でもない、ただ一人のわが妻・ナディアのために。
 いずれ、このバビロニアの将の一人として、迎えて貰おうと思っていた。いや、将とはいわぬ。一介の戦士としてでも、召しがあれば出て行こうと思っていた。落ちぶれたとはいえ、剣を一振与えてくれれば、その辺の雑兵の五人や十人分は戦えるだけの腕に覚えはある。
 しかし、今日まで声はかからない。王陛下とてわが王女の、一兵をすら従えぬまでに落ちぶれた夫など、反って使いにくいのだろう。それは解る。
  
 しかし… こんな誘いがあるとは。あのムルシリが、ヒッタイトへの藩属を条件に、ミタンニ王としての即位を誘ってくるとは。確かに、二度とはない好機だ。
 だが、わたしは妻の国で養って貰っているのだ。ヒッタイトは、その潜在敵国なのだ。名利に目を眩ませ、今までの恩を忘れ、ここを夜逃げしてヒッタイトの陣営に走る。あまつさえ、ユーフラテスの上流から、この国に向けて戦車の馬首を並べることにもなるはずだ。
 それも、今の世の習いかも知れない。案外誰でもやっていることだ。その上、わたしは王太子だ。王になるのは当然の義務なのだ。
 しかし、それには妻は伴えない。この国の王女たるわが妻を裏切ることになるのだ。今のわたしには、それが堪えられないのだ。


 妻が膳を手にして、そっと書院の扉を開けた。昨日と同じように、手近の台に膳を置いて、黙って立ち去ろうとした妻は、何日かぶりに夫が自分を振り返ったのに気づいた。悲痛な表情だった。
 ナディアは、にこりと笑ってみせた。
 「いいお天気ですわ。たまにはお庭で陽の光にも当たられませ。あなたのお顔が生白くなってしまっては、おかしいですもの。」
 マッティワザは、椅子を引いて妻に向き直った。妻の心づくしの労いに、応じてやらねばならないと思った。
 「わたしは、陽に灼けていなければおかしいか。」
 「そうではありませんの? 初めてお目にかかった時から、ずっとそうでいらっしゃったではありませんか。」
 マッティワザは、自分の頬に手をやってみた。妻の言う通り、わたしの顔は生白くなったかも知れない。さもあろうな。ここに来てから、戦にも、武芸にも縁遠くなったからな。腕も鈍っているだろう。これでは国王など、勤まらぬかも知れぬ。
 「毎日、済まぬな。苦労をかける。そなたの手こそ、荒れてしまった。」
 「何をおっしゃいます。これでもね、ここへ来てから、主婦らしい仕事も一通り、身につきましたのよ。今日も、パンがうまく焼けましたわ。さあ、たんと召し上がって、そうですわ、お庭で棒でも振るってみられてはいかが?」
 どきりとした。わが心中を見ていたのか、と思った。今になって、久しく控えていた武芸の稽古をせよとは。
 「ははは、馬鹿なことを。今のわたしが、にわかに棒など振るい始めてみよ。たちまちこちらの王陛下の部隊が、この館を取り囲むであろう。わたしの素性も、そなたの素性も知らぬ近所の者が腰を抜かすわ。」
 「ほら、あなただって、そんなお気遣いがおできになるまでになられて。」
 ナディアは、ころころと笑った。
 「おたより、何でしたの? たいそうご熱心にお読みになっておられるから、驚きました。ううん、よほどお親しい、戦友の方からかしら?」
 マッティワザは、言葉に詰まった。まだ迷っていた。
 「戦友、か。そうかも知れぬ。これからは、戦友になるかも知れぬ、恐ろしい男からだよ。」
 「えっ?」
 ナディアは、夫の眼を見つめた。どなたか、夫のことを父王陛下にご推挙くださったのかしら。
 「実はな…」
 マッティワザは、口を開いた。そうだ、わたしはこの妻に、隠し事はしないことにしたのではないか。
 マッティワザは、全てを語った。二人の間では、長年の習慣で、フルリ語が共通語になっていた。しかし、マッティワザは、妻の読めない書簡の、「他言無用」とある内容を、バビロニア語に訳して聞かせた。訳しているうち、ふと可笑しくなった。今まで、なぜわたしはフルリ語ばかり話していたのだろう。この国でやり直すと決めたのなら、バビロニア語で話すようにすればよかったのに。話せないわけではなかったのに。
 その後は、バビロニア語で続けた。妻も、時折バビロニア語で相槌を打ってくれた。 
 王太子として、即位の機が至ればそれをやり遂げる義務を忘れてはいない。やり遂げる自信もある、成算もある。しかし、それにはそなたを道連れにはできない。今のわたしには、そなたを捨てることなど到底できないのだ。
 いつしか、マッティワザの語りはフルリ語に戻っていた。語りには涙が混じり、震え始めていた。誇り高くたくましいその身体は椅子から滑り落ち、妻の足許に、すがるように丸まっていた。妻も、冷たい床に膝をつき、夫の手を握っていた。
 マッティワザの、訴えるような語りが途切れた時、ナディアは、いつもそうして来たように、フルリ語で応じた。
 「おめでとうございます、あなた。早速にもお国へ戻りましょう。お供いたしますわ。」
 「それが出来ぬというのだ! おめおめとそなたに救われてこの国へ来て、そなたの父上に生かせてもらって、挙句の果てに、後足で砂をかけるように出てゆこうというのだぞ。そなたまで伴うことなどできぬのだ。
 笑え。本物の王者なら、国のためなら妻など離縁すればよい。離縁できぬなら、斬ればよい。以前のわたしなら、そうできた。それが、今のわたしにはできぬのだ。…そなたを捨てるぐらいなら、ミタンニなど再興しなくとも結構だ。わたしは、国を再興し得なかった無能な王太子として、史上に永久の汚名を残して悔いはない。」
 ナディアは、微笑んでいた。まるで、幼い愛児が口にした清新な批評を聞いて、その成長をいとおしむような微笑みであった。
 「あなた。ナディアは嬉しいです。ナディアのことを、ミタンニのお国とお比べくださっただけでも。まして、ナディアの方が、お国より大切だとまで…
 あなた、王太子殿下。ここを抜け出して、ワスガンニへ向かわれませ。わたくしをお連れになるのです。
 わたくしを連れておられれば、万一バビロニア領内で兵に見つかっても、手出しは出来ませぬ。それに、ヒッタイトの勢力圏に入ってしまえば、これでもわたくしは皇太后の妹、また使い道がありますのよ。ね、便利な妻でしょ?」
 「だから!」
 マッティワザは、妻の言葉を遮った。それぐらいのこと、ナディア本人に言われなくとも思いついている。しかし、だからこそ思い切れないのだ。
 「わたしは、もうそなたをそんな形で利用したくないのだ。だからこそ悩んでいるのではないか!」
 ナディアに迷いはなかった。もう迷っていなかった。
 ミタンニへ嫁した頃には、国のため、という使命感だけがナディアを支えていた。夫の歓心を買うことこそが、国のためであった。
 それがいつか、変わっていた。夫のために国を、王女としての立場を利用できるのなら、躊躇はなかった。
 「王太子殿下。お供させていただきます。帰りましょう。わたくしたちの国へ。」
 マッティワザは、真っ赤に泣き腫らした目を瞠った。帰る? わたくしたちの国? ナディアの国は、このバビロニアではなかったのか。
 「しかし… この国を裏切ることになるのだぞ。いつかこの国に向けて、攻め込むことになるのだぞ。」
 ナディアは、殊更に表情を改めた。
 「お耳に入りませんでしたか。わたくしは、あなたを、王太子殿下、とお呼びしたのです。
 王太子であられる以上、王陛下亡き今、どんなことをしてもご即位になるこそお勤め。こんな所で、若隠居の真似をしていることなど、許されぬのです。
 ワスガンニの城に、あなたの旗をお立てになるのです。
 そして立派な、とはいきませんけれど、正真正銘のバビロニア王女を侍らせて、堂々と、幾万の民をお統べになるのです。」
 うつむいたまま全身を震わせ、床に涙の水溜りを作りながら返事をしないマッティワザの顔を覗き込み、ナディアはくすりと表情を緩めると、言葉を続けた。
 「あのね。今まで、我慢していたのですけれど、わたくしのわがままを叶えてくださいません?
 わたくしの願いはね、あのワスガンニへ帰って、今度は王の妃として、思いきり豪華なお衣裳を賜って、わが夫の威光を笠に着て威張り散らすことですの。
 ね、いいでしょ? どうか、わたくしのわがまま、お聞き届けくださいませ。」
 何を言うか、この女。嘘をもつくにも程がある。威張り散らしたいとなど、露ほども思っていないくせに。わたしを王にしてくれるために、王女の身分はおろか、命すら投げ出すつもりのくせに…
 マッティワザは、また妻に教えられた。迷い抜いている決断を力強く後押ししておいて、それを自分のわがままのせいにしてしまう優しさを。謀略と、誠意ある嘘の違いを。
 マッティワザは、己が手を包み込んだ、妻の手をさらに包み返した。白魚のような指をしていた妻の手は、本当にかさつき、皸さえも見せていた。
 その手を包み込んだマッティワザの手からは、剣を握った胼胝も、弓弦の走った胼胝も、消え去っていた。二人の手を、二人分の涙が濡らしていた。
 「判った。そなたの願いを聞き届ける…供を許す。
 …いや、ナディア姫。改めてあなたを、わが妻としてミタンニへお迎えいたしたい。」
 ナディアは、嬉しげに、そして今度は、ちょっとお茶目に、応じた。
 「はい、王太子殿下、いえ、ミタンニ王陛下。 …ただし、とうぶんはわが父、バビロニア王陛下には内緒ですわよ。」
 
 数日後、腰まで伸ばした長い髪を後で束ね、切れ長の目をした、アッシリア系と思しき旅の楽士が、恋歌を歌いながらこの館の門をくぐった。
 しかし楽士は程なく、やかましい、楽など要らぬ、という主人の一喝に追い出されて来た。その懐に、一枚の粘土板を潜ませて。
 楽士は、何とか門付にありつける家を探すように、なおも恋歌を歌いながらしばらく町をうろついていたが、いつか姿を消した。

 その翌日。この小さな館からは、もうパンを焼く匂いはしなかった。

 さらに旬日を経て、しばらく忘れていたと見える王女のご機嫌伺いに、気のなさそうな表情でこの館の門をくぐった王宮の事務官が、無人の館から泡を食って飛び出して来た。
 その手には、バビロニア王に宛てた、女文字の小さな粘土板がひっ掴まれていた。
 その頃、かつてのこの館の主人夫妻は、カルケミシュへ向かうという隊商に混じって、アッシリアの警備区域を離脱していた。
 
 マッティワザは、もうすぐ目に入るであろうワスガンニ城の方角を凝視しながら、物を思っていた。
 姉上の面影を追いかけて、遮二無二戦った。そして敗れた。ナディアに救われて生き延び、そしてまたナディアに励まされて帰って来た。戦うことしか知らなかったわたしが、このナディアの愛に気づくことが出来たのは、そう、あのユーリのおかげだった。
 何のことはない。わたしはいつも女に動かされて来たのだ。ならばこれからは、あの不思議な魅力のイシュタルに、わたしの、ミタンニの命運を預けることになるのかも知れない。
 なに、もうエジプトの太王太后にも、ヒッタイト皇帝の妃にも、血迷いはしない。
 心配は要らぬぞ、ナディア。

 夫の内心の思いには気づいていないナディアが、はしゃぐようにマッティワザの袖を掴み、それでも殊更にひそひそと、話しかけた。
 「ねえ、ワスガンニへ帰ったらね、小さな館を一つ、家臣の方々には内緒で手に入れてくださいません? そして時々、二人きりで王宮を抜け出して、その館で羽根を伸ばすの。あなたは日がな一日書見三昧、わたくしは自分でパンを焼くのです。きっと楽しいですわ。」
 「そうだな。…小さな館がいいな。」
 遠く行く手を見つめたまま、マッティワザも、少し頬を緩めたようだった。
 原典第7巻の40ページから、第23巻の74ページまでの間に当たる出来事です。
 ウガリットへ馳せ参じた時、マッティワザはユーリに<…恩赦令で…帰国と即位を許されたのだ>(第23巻・74ページ)とあっさり語っていますが、亡命の経緯を考えると、とてもそう気軽な道程であったとは思えません。
 しかも、一旦瓦解したであろう国と軍隊を、どう長く見ても2年(<恩赦令>というのがアルザワ・ウガリット二正面戦後のもの(第14巻・135ページ)だとすれば、実に半年程度)と推測される短期間に再建してのけたのですから、いかにヒッタイトの支援があったとしても、マッティワザ自身にも並ならぬ能力と人望があったのでしょう。
 原典では、後半にはナディアの消息は全く窺えませんが、こんな感じになっていてくれたらいいな、と思います。
 ところで、外国人同士でも障碍なく会話を交わしている登場人物たちの言語、いったい何語が使われていたのでしょう。まあ、原典に登場する人物といえば、大多数は一定水準以上の教養を持っていて然るべき人たちですから、皆幼時から、必要な語学も正しく教え込まれていたのでしょうが。
 ユーリにしても、国内出身者の訛りまで聞き分けながら、自身はどこへ行っても訛りで怪しまれたことはありません。カイルに言語を「吹き込まれた」以上、カイルが操る言語なら皆わが物とできていたのでしょうね。


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