睡蓮の池のほとり

奇 襲



 班長は、灯台にそっと貝を被せ、灯を消した。
 粗い石の寝台に横たわり、目を閉じる。
 あと三日か… 今回が、おれの最後の監視哨勤務だ。三日経って交替の監視班がやって来れば、おれはベイジェルに戻れる。司令の所へ、辞令が来ているはずだ。後任者も決まっているはずだ。おれは、イスケンデルンへ異動するんだ。
 部下たちともお別れだな。みんな癖も強いが頼りになる、いい奴らだった。
 イスケンデルンへの転属願なんて、珍しいだろうな。おれは、故郷へ帰るんだ。
 イスケンデルンでは、営外居住の許可も貰える。余程の事態が起きない限り、おれは家で寝起きして、足腰の立たない親父の面倒を見てやれるんだ。これからは家内にも楽をさせてやれる。…出世街道のベイジェル勤務だったが… いいじゃないか、昇進が遅れるぐらい。
 四年ぶりのイスケンデルン。子供らも、大きくなってるだろうな。おれの顔、覚えてくれてるかな…
 街道筋からも離れた、ヒッタイト帝国の西の果て。ベイジェル西郊の荒漠たる草原の中にぽつりと浮かんだ、ひびだらけの白い石の塊の中で、単調な一か月の派遣期間を終えようとしている班長は、豊かな気持ちで眠りに落ちた。

 「おい、起きてるか? 眠っちゃいかんぞ。」
 「起きてるよ。起きてたからって、何がおっぱじまるわけでもないがな。」
 「それでも、その何もないのを見張ってるのが任務だよ。あと三日我慢すれば、ベイジェルへ戻れる。…休暇はどうするんだ? ひとつ、羽根を伸ばさないか。」
 「いや、ぼくは家でのんびりするよ。」
 「ああ、そうだったな。君は新婚だもんな。
 いいなあ。おれにも早く、いい嫁さんが見つからないかな。」
 「そのうち、君もいい娘と遇えるさ。いいぞぉ、嫁さんってのは。
 今回、ここの部隊では輪番で監視哨派遣が回ってくるんだ、って嫁さんに説明してやってな、ちょっと一か月行ってくるよ、って言ったら、あの子、何て言ったと思う?」

 「知るもんか! またのろけるつもりなのか? 
 ハチミツパンの話もサンダルの話も耳に胼胝ができてるんだ。この上まだ…」

 「いや、そんな訳じゃないんだが… ははは」
 満天にさんざめく星たちの淡い光を浴びた望楼に立つ兵の心も、既にベイジェルへと飛んでいた。

 穏やかな風に吹かれて、夜の闇が西へと払われてゆく。やがて陽光は、見渡す限りの西の野に満ち渡った。
 望楼では、背伸びをしながら新婚の兵が立ち上がった。そして、光の微粒子をたっぷりと含んだような、爽やかな朝の大気の中、西の地平線に向かって長く伸びる己の影に向かい、大きく深呼吸をした。
 と、大きく開いた両腕の動きが、びくりと停止した。
 「おい、見ろ!」
 相棒の兵が、大きな欠伸をしながら、槍を杖に立ち上がった。

 「ふうっ。何だ? ああ、隊商か… えらく急いでいるようだな。」
 「いくら急ぐと言っても、あんな妙な…
 違う、軍勢だ! おい、目を離すな。班長に報告してくる!」
 報告を受け、起き抜けの腰布一丁のまま望楼に駆け上がった班長は、わが目を疑った。
 「西からやってくるとすればアルザワ軍ぐらいだろう。旗印の識別がつくか。」
 「いえ、まだ遠すぎてちょっと…」
 演習や行軍の通報は受けていない。しかし、その軍勢は明らかにヒッタイト領内にある。そして、東へ向かっている。
 「物見っ。行ってどこの軍か確かめてこい! 指揮官の官姓名、行動目的もだ! 何なら一人、連絡将校を連れてこい!」
 間髪を入れず、即時待機の戦車が二両、西へと出動する。
 まさか、敵でもあるまいが。敵ならここへ到達する前に、アルザワが邀撃して通さないはずだ。アルザワを飲み込んでくるほどの敵など、この辺りにいる訳がない。
 また、ここへの連絡手続を忘れて演習をおっ始めやがった部隊がいる。司令部も、こんなちっぽけな監視哨のことなんか忘れてやがるんだ。
 「班長。あれは行軍の陣形ではありません!突撃態勢です!」
 「あっ、戦車が!」
 ついさっき西へ出した戦車に向かって、夥しい矢が射掛けられている。二両の戦車はあっけなく、地に飲み込まれるように消えた。
 兵力数千と見えた隊列の中から、一部が分かれて一直線にこちらへ向かってくる。
 「なにっ! 馬鹿な… あれは、アルザワ軍! アルザワの侵攻だ!」
 「非常呼集っ! 全員配置につけっ! 烽火台急げ、『ワレ「アルザワ」軍ノ攻撃ヲ受ケツツアリ。』だ! 『演習ニアラズ、「アルザワ」軍ノ奇襲攻撃ナリ』だ!」
 アルザワの旗印を掲げた軍は物凄いばかりの勢いで監視哨に迫り、これを包囲して矢の雨を降らせ、形ばかりの鹿砦を排除すると、瞬く間に門内に乱入して望楼に旗を掲げた。別の一隊が烽火台に突入占領、今上げたばかりの烽火を全て掻き回して叩き消す。
 多勢に無勢、監視班には有効な抵抗の術もなかった。班長は、望楼に駆け上ってくる敵兵を二名、槍にかけた。が、その次の瞬間、班長の背に剣が浴びせられ、のけぞったその身体は胸壁を越えて宙に転び出し、草生す地面に叩きつけられた。
 人跡も稀な草原の監視哨は、瞬く間に占領されてしまった。
 アルザワ軍の主力は監視哨に立ち寄ることもなく、そのまま東へと去っていった。

 「まさか。貴様、寝ぼけてるのか? どこかの農民が、焚火でもしているんじゃないのか。」
 「いえ、間違いありません。『ワレ「アルザワ」軍ノ攻撃ヲ受ケツツアリ』です!」
 「ふん。それから?」
 「それだけです。」
 「そんな思いつきのような、中途半端な通信があるか。通信には通信の規則というものがあるだろうが。
 第一、アルザワが攻めて来る訳などない。馬鹿な報告もいい加減にしろ。貴様はまた通信略符を読み違えたんだろう。この間だって、おまえが『馬』の略符を『鹿』と読み違えてくれたせいで…」
 「あれはその…、しかし今回こそは…」
 「解った解った、ご苦労。一応聞いておいてやる。
 …そういうのを『狼少年』というのだ。誤報ばかり出していると、いざ本当にエジプト軍でも攻めて来た場合、誰も本気にしなくなってしまうのだ。よく覚えておけ。
 ああ、それから一応な。ちゃんと解信できなかった場合の規則だ、『解信不能、再送セヨ。』をやって確認してみろ。
 そもそも規則上、そのような場合はまず発信局の方から照校を求めて来るべき筈なのであってだな、その旨の略符の付し方と言えば…」
 「あ、あの… ご説明の途中ですが…とりあえず、再度通信を…」
 「おお、そうか。」

 草原の監視哨からの緊急発信は、程なくヒッタイト軍のベイジェル駐屯地通信隊に受信された。が、当直将校はこの報告に全く信を措かなかった。
 この時点で、当の監視哨はもとより、通信を逓送してきた二個所の中継局まで既に総員玉砕していたことも、知られる由はなかった。アルザワ軍の鮮やかな電撃侵攻であった。
 当然、ベイジェルからの発信に応答する烽火は上がらなかった。

 アルザワ王国は、エーゲ海に面した海洋国家であり、小国ながら豊かな国であった。ヒッタイトとは事を構えることもなく、ただ静かに国境を接していた。小国とはいえヒッタイトの傘下に入ることもなく、独自の発展を遂げてきた。アルザワの関心は、専らその西と南に広がる海上にあり、ヒッタイトの関心は専らメソポタミア、シリア方面にあった。長閑に行き交う隊商の出入を除けば、互いの屋敷の、門もない裏庭同士を接しているというだけの関係に過ぎなかったのである。当然、互いに恨みもなければ利害もない。戦の火種も皆目ない。
 それだけに、ヒッタイトの中ではアルザワに最も近い城邑であるベイジェルにも国境の緊迫感など感じられなかった。
 駐屯軍、の名だけは物々しいヒッタイト帝国陸軍ベイジェル警備隊も、警備隊司令が提唱する「市民に愛される警備隊」を合言葉に、土木工事や許認可事務、そして警邏、地理案内が毎日の仕事になっていた。

 監視哨からの報告が警備隊司令に達せず、当然順序として市庁にも回付されていないベイジェルの街は普段と同じ活気に満ち溢れていた。
 アルザワから東へ辿り、ヒッタイト領に入って最初の城市であるベイジェルは、隊商の出入りが多い。この入国審査も軍の任務とされてはいたが、とにかく出入りの多い街だけに審査は頗る簡略化されており、それよりも軍は連日、狭い門や街路を通行する隊商や市民らの交通整理に忙殺されていた。
 特にベイジェルは良質の地中海塩の集散地として名高く、海洋資源に恵まれないヒッタイトの「塩蔵」とさえ称される「塩の街」であったから、市庁は塩商人の誘致政策に積極的で、軍も市庁からの、塩商人に対する優遇の要請を受け、塩商人の鑑札を示す隊商には無条件で城門の通行を許していたのである。
 そして今日も、塩の隊商がベイジェルに着いた。頭が城門でアルザワ当局の発行した真正の鑑札を示すと、警備の兵も鑑札に一瞥をくれただけで通行を許可した。
 隊商は塩市場へは向かわず、雑踏する街路を一直線に内城へ進んで行った。
 城内へ入った以上、どの隊商がどの道を通行しようと特に規制はない。それに塩商人とは言っても、塩以外の商品を携えていることは多く、またベイジェル市内外の誰彼宛の通信を託されて来ていることはむしろ当然であったから、警備に当たる兵らも全くいぶかしみはしない。
 隊商は関門を潜り、北街区へと向かったようであった。

 ベイジェル市内北街区に、突然悲鳴が上がった。
 列をなして街路を通行していた荷車の覆いが跳ね上げられ、中から抜剣した多数の兵が躍り出して市街を占拠し始めたのである。抵抗する市民は手当たり次第に斬られた。
 この事件の第一報は、市庁にもたらされた
 早速通報者に案内された市職員が現場へ向かったが、現場一帯は既に兵らによって制圧されており、東街区と北街区とを区画する城壁の関門は完全に封鎖され、門楼の上にはアルザワの旗印が翻っている。

 単なる暴力事件などではない。周到な計画による攻略作戦だ。
 どうしてアルザワが。いぶかしんでいる余裕はなかった。
 北街区に軍は配置されていない。関門を封鎖されてしまっては、東西二箇所の軍施設から兵が出動しても、街区へは進入できないのだ。西関門でも、同じような状況であろうことが容易に推定された。

 挺進隊を直率して城内に突入したアルザワ軍の隊長は、戦闘を開始するや目に付いた建物の屋上に上り、戦況を見渡した。
 たまたまこの街区を巡視していたらしいヒッタイト軍の巡邏が、わが兵と戦闘に入っている。しかし、敵ははじめから戦う気構えなどできてはおらず、次々と討ち取られてゆく。
 おもしろいように街が落ちてゆくな。さすがのヒッタイト帝国の兵士もかたなしだな。
 隊長は、傍らに立った神官の労をねぎらった。この度の奇襲作戦を立案するに当たっては、この神官が提供した城内の配備情報が大きく役立っていたのだ。
 我々の任務は、速やかにこの都市を攻略、次段作戦のために拠点を構築することだ。時間と流血は最小に! そして効果は最大に! 隊長は、予てよりのそんな戦術思想を実践すべく今回の奇襲作戦を立案、大胆にも自ら先陣を切って城内に潜入したのである。

 ベイジェル城内の北街区は、たちまちアルザワ軍の手によって占領確保された。
 この街区を占領してしまえば、敵城の中にわが城を築いたようなものだ。
 街道筋に沿って一列に並ぶ、東、北、西の三街区で構成されたベイジェル城は、たとえ東西いずれかの一街区が占領されても、城壁で区画された街区間の関門を固く鎖し、非敵側の城門によって城外との連絡を確保、反撃に出るべき構造になっている。街道に面しない両側面の城壁には、不便を承知で門一つ設けられず、延々と切り立った石積みが続いている。
 しかし、直接城外に向けた門を開いていない北街区が最初に陥落することなど、全く想定されてはいなかった。
 ベイジェルは、東西二つの、いずれも不完全な機能しか持たないただの人口密集地に分断されてしまったのである。
 隊長は、兵を叱咤した。
 さあ、兵隊ども。ヒッタイト帝国を落とせばわが国の名があがる!! 領土もふえるぞ!!

 通報を受け、北街区西関門外に到着した軍の部隊も手が出なかった。
 北街区は、東西いずれを侵された場合にも直接敵を支えるべき陣地として位置づけられ、特に敵を迎える公算の高い西関門は、城外へ向けて開く城門に準じた構造となっていた。西街区から北街区への攻撃は困難なのである。
 敵は、堅固な関門に拠って西からの反撃には専ら守勢を保ちつつ、東街区に位置する市庁に向けての攻撃を開始した。無論、東街区にも軍の一部隊が配置されているから、決して無抵抗に侵入者を迎えた訳ではなかったが、主力との連絡を遮断された状態での混乱は否むべくもなく、守勢に立たざるを得ない。
 警備隊の主力は国境側に当たる西街区に配され、司令部も西街区に位置していたから、敵地区の向こう側で何が起こっているか、状況の把握さえ満足には進まなかった。城外を経由して連絡を図ろうにも、迂闊には城門を開くことさえできない。
 軍は、とにかく城内の東西打通を企図して関門に殺到し、同時に城壁上にも兵を送り込んだが、敵の配置は巧みであった。軍が日頃から計画していた作戦計画の裏をかき、完全に動きを封じ込んでしまっていたのである。
 どこまで軍の手の内を読んでいるのか。不思議な程に巧みな用兵であった。

 軍は、満足に動きが取れなかった。そもそも軍の作戦計画には、市民が全く避難していない状況で城内戦を戦う想定など全くなかった。敵の侵攻は、まず郊外各所に配置した監視哨からの烽火で察知されるはずなのである。そうなれば軍は市庁と協力して即座に市民を非敵側の城門から避難させ、最も近い城市に受け入れさせることになっている。これを大前提として防衛作戦が計画されているのだ。
 その上敵は逃げ惑う北街区の市民を、街区を区画する城壁上に追い上げている。城壁の上に市民が鈴なりになっていては危なくて矢を射かけることもできない。
 甘かった。帝国でも南東方面の城市なら、こんなのんびりした状況ばかり想定してはいない。しかし、まさかベイジェル城が奇襲攻撃を受けるとは、軍でも市庁でも、ハットゥサの王宮でも、誰も考えていなかったのである。
 しかも、北街区を占拠した軍はアルザワの旗印を掲げている。軍の想定では、あくまでも仮想敵はアルザワ王国を占領した後のエジプト軍であった。そのアルザワ自体が、いきなり侵攻してくるなど、夢にも考えてはいなかったのだ。
 そのうち、駐屯地通信隊が新たな緊急発信を受信した。今度は、ベイジェル西郊の小さな湖に面した一寒村に置かれた監視哨からの烽火であった。
 「ワレ攻撃ヲ受ク。敵ノ国籍不明。兵力二百ト見ユ。」「敵ハ村内ニ突入セリ。ワレ湖水上ニ舟艇(以下通信途絶)」
 この混乱の中、当初もたらされた緊急発信などどこかへ消し飛んでしまっていた。最初にその報告を受けた将校自身、兵の先頭に立って鎖された関門に向かって突貫を敢行、城壁上で待ち構えた敵が射おろす矢を全身に受けて戦死してしまっていたのである。

 敵は、確保した北街区の西口に於いては依然として持久戦術を採っていた。侵入した敵の兵力は決して大きくなかったが、同じく警備隊も大した兵力は持っていない。その上この軍は警察活動を主任務としていたから、本格的な戦闘に適した重装備はしていない。慌てて兵器庫を開いて兵に武装を整えさせようにも、兵器庫は市庁の隣に置かれている。現に今、交通が遮断されている東街区なのだ。その東街区にいる少数の兵らにしても、落ち着いて武装を整えている余裕など、もうないだろう。それでなくとも、わが城内で攻城戦を戦う準備など、できている筈もない。
 とにかく軍装を整え、兵を率いて駐屯地を進発した司令は唇を噛んだ。
 北街区を占拠しているのは敵の挺進隊だろう。とすると、主力が後続しているはずだ。これだけの城塞都市を攻略することを企図しているなら、荷車に潜む程度の小部隊の単独作戦である訳がない。今しがた聞いた報告は、明らかにアルザワ軍の攻撃だ。
 ベイジェル城の内外を隔てる城門も、敵主力の出現に備えて固く鎖された。市民の避難など、望むべくもない。今出しては、好んで敵の餌食にするのと同じことなのだ。
 敵は、その主力を街道伝いに西から進めてくる。そして間道を使って、東からも来る。
 司令には、敵の企図がはっきりと察せられた。攻城戦の常識だ。

 東街区では、一方的な戦闘が演じられていた。市庁の文官らや腕に覚えの市民が名乗り出、兵器庫から剣や弓を借り出して戦闘に参加してくれてもいた。しかし、市街のあちこちで恐慌を起こした市民が逃げ惑っている状況では、やはり危なくて矢も射出せない。反対に既に敵手に委ねてしまった城壁上から市民らの間を縫って射下ろしてくる矢が、戦に慣れない丸腰の市民を次々と倒している。司令からの命令も受けられないまま東街区に居合わせた軍は、やがて来るべき敵主力に備えて東城門を固く鎖し、周辺に兵を配した。そして同時に、北街区に通じる関門を奪還しなければならない。
 しかし実際には、軍は戦闘よりもとにかく市民の恐慌を鎮め、どこでもいいから屋内に退避させるのに相当の兵力を割かざるを得なかった。
 市長は市庁舎のバルコニーに立ち、少しでも安全な場所に市民を退避させる指揮に当たっていたが、状況は絶望的であった。無辜の市民らが、まるで枯れ草のように薙ぎ倒されてゆく。そのバルコニーの床にまで、敵の矢が突き立つ。
 どうしてアルザワが。市庁舎の眼前に迫った兵の、彫の深い顔立ちを見て取った市長は思った。しかし、事がここに至っては考えてどうなるものでもなかった。
 北街区の城壁上に追い上げられた市民の中にも、アルザワ兵に抵抗を試みる者があるのが見て取れた。しかし、そのような者は次々と斬られている。逃げようというのか、高い城壁から飛び降りる者までいる。気持ちは解るが、自殺と同じだ。
 ついに、兵らは市民に溢れ返る城壁上に向けて、矢を射かけ始めた。多少市民を犠牲にしようとも、少しでも敵に出血を与えるつもりなのだ。
 作戦としては理解できる。しかし。
 唇を噛んだ市長の背後から、悲鳴にも似た報告がもたらされた。案の定、城外に相当の勢力を持ち、戦車を伴った敵らしき軍勢が進撃して来ていると言うのだ。
 市長は、強く頷いて了解の意を示した。そして大きな溜息をつくと、傍らに伏せてあった壷に腰を落とし、天を仰いだ。
 西街区の状況も概ね察しがつく。もう打つ手はない。
 これ以上の抵抗は、無駄な死傷者を増やすばかりだ。降伏しよう。これ以上、罪のない市民を巻き添えにはできない。
  市長は、市庁舎に入って戦闘の指揮を取っていた先任将校を招くと、降伏を提案した。先任将校も、絶望的な戦況を悟っていた。
 涙を呑んで、命令が発せられた。アルザワ軍に対して使者が立てられ、バルコニーからはヒッタイト語とルウィ語、アッカド語で、降伏の意思表示が行われた。
 間もなく、剣戟の響きも矢風も、鳴りを顰めた。しかし、敵に占拠された北街区の向こう側からは、依然として喚声と怒号が響いてくる。どしん、どしんと響く音は、アルザワ軍によって封鎖された城門を打ち破ろうとする音だろう。
  兵を従えて進み出てきた、白い髭を蓄えたアルザワの隊長を、市長と先任将校は市庁舎の正面玄関に出て迎えた。
  市長と先任将校は、隊長に対して剣を差し出し、改めて恭順の意を示した。そして、なおも抗戦を続ける西街区に向けて、直接市長から降伏の説諭を発する許可を得た。
  開け放たれた街の東門の外には、既に夥しいアルザワ軍部隊が到着しており、武装を解いたヒッタイト軍将兵が呆然として見守る中、ベイジェル城内に入った。
 市長は急遽各施設への道案内の手筈を整えたが、アルザワ軍からはその要求すらなかった。アルザワ軍は、まるで住み慣れた街を歩くように整然と隊伍を整え、散発的に抵抗を試みる市民や敗残兵を掃討しながら、市庁舎、兵器庫をはじめ主要施設の接収に取り掛かり、各家屋を捜索して市民らを神殿前に集め始めた。

 西街区の戦闘は続いていた。弓兵隊が、城壁上に溢れ返る市民を槍や剣で追い回し、盾にする敵兵に対して無理な狙撃を試みているが、危険なばかりで効果は上がらない。敵は、おそらくは街区内の街路の敷石を剥がし、家屋を取り壊しているのだろう。盛んに投石してくる。
 警備隊も、若干の投石器を装備してはいた。市民の中にも、ありあわせの縄を利用して投石器を急造し、振り回し始める者も出た。
 しかし、弓ほど精密な照準の定まらない投石器では、彼我の人影が入り混じる城壁上には標定できない。下から上への射出では、大して威力も期待できない。
 それなら、と、逸る兵は城壁越しに北街区内に向け、推測による間接射撃を試みる。しかし、これも危険この上ない。封鎖された街区内には、敵兵よりも市民の方が多いのだ。
 とにかく市民を守り抜く。それが軍の使命だ。司令は、弓兵による慎重な狙撃以外の乱射を厳禁した。市民の犠牲を厭わずして、何が市民に愛される警備隊か。そう一喝して見せた。
 甘い。それはよく解っていた。
 それよりも、関門の突破だ。北街区に突入できさえすれば、制圧できる。敵の兵力は未だ大きくない。敵主力が出現するのが早いか、眼前の敵を制圧する方が早いか。時間との戦いだ。
 しかし、戦況は非情であった。程なく、案の定城外にもアルザワ軍の部隊が迫り始めたため、既に大きく消耗したなけなしの兵力を城外に向けても割かなければならなくなった。既に鎖されていた城門では、内側に付近の家屋から持ち出した家具や材木を積み上げ、補強する作業が始まった。
 屋内に退避していた市民らの中からも、見かねて飛び出す男女が少なくなかった。土嚢代わりに大切な商品であるはずの麦袋や塩の袋を担ぎ出して、城門の補強作業に協力する商人たち。勇敢にも兵に混じって丸腰で城壁上に立ち、取り囲んだ敵兵に向けて石を投下する男たち。石を包んだ布を抱えて城壁上に駆け上り、男たちの足元まで運ぶ作業を繰り返す少年たち。石屋の内儀の音頭で街路の敷石を砕いて礫を作り、少年たちに託す女たち。誰に指示されるでもなく、それぞれがそれぞれに立ち働いている。
 決して富裕とはいえない階層が多い西地区であったが、市民らは比較的豊かな層の市民が集中している東地区の恐慌ぶりとは対照的な粘り強さを見せていた。
 矢を受けて路上に倒れ込んだ兵を、飛び出した老人が引きずって来て屋内に収容する。すかさず、背中に乳飲み子を負った主婦が寄り添い、手当てを始める。
 ばしばしと矢の落ちる音がする屋根の下で、竈に火が入れられた。腹が減っては戦ができぬからのう、と、寄り合った老婆たちが悠然とパンを焼き始めたのだ。
 それを見た娘連中が、飛び出して行く。矢の雨の中、粉と水を探してくるつもりらしい。
 誰言うとなく、泉の前に集まった若者の一団が、鯨波の声を上げた。銘々、鍬や棍棒、石斧、ありあわせの得物を手にして、独自に戦おうと息巻いている。
 みんな、この街を愛しているのだ。この街に抱かれて生きているのだ。訳の解らない侵略者に、この街を蹂躙されることに堪えられないのだ。
 お国のため、皇帝陛下のため。そんな大層な動機ではないだろう。とにかく、みんな自分たちの平穏な暮らしを守りたいのだ。そのためには驚くほどの動きを、この街区の市民らは自ずから見せていた。
 今は関門の突破を第一とし、自ら街路の一角に立って軍を叱咤し続ける司令の周りで、そんな光景が展開されていた。
 すまない。日頃、市民の守りだと大きな顔をしていたはずの軍が非力なばかりに、軍の方が市民に助けられている。そうして活動している市民にも、続々と死傷者が出ている。わが目の前で、夫の脳天を投石にかち割られた妻が、絶叫しながら飛び出す。その背中にも容赦なく礫が襲い掛かる。もう息のない夫を守るように覆い被さった妻の首がへし折られる。
 迷子になった幼児が、異様な雰囲気に押されて泣きながら駆け出す。その顔面に矢が突き立つ。
 死傷者は、わが身を守る訓練のできている軍人の方にむしろ少なかった。
 と、先ほどからこの周辺を走り回り、敵が放った礫や矢を拾い集めては兵士に配って歩いていた娘の首筋を、敵の矢が突き抜けた。娘は、ひゅう、という声にならない悲鳴を気管からほとばしらせて、しっかりと矢の束を抱いたまま、司令の目の前に斃れた。
 もういい!
 もうどうしようもない。わしも軍人だ。勝てる戦かそうでないか、状況判断はつく。
 市民の犠牲はもうたくさんだ。警備隊が総員玉砕したとて、もう勝てる戦ではない。その後に市民を襲う運命も、目に見えている。それなら、これ以上の犬死を少しでも食い止めるのだ。負け戦の責は、わしがこの首で負ってやる!
 司令は手勢をまとめると、軍の主力が肉弾で猛攻を続けている関門前へと向かった。 

 司令は眉を寄せた。なぜか、東街区が静かになったような気がするのだ。
 北街区西関門に攻撃を集中し、建築現場から持ち出した石材を搭載した荷車を体当たりさせ、ぴたりと鎖されて内部から補強されているらしい門扉の突破を試みていたヒッタイト軍の頭上で、異変が起きた。門楼の上から矢を放っていた敵兵が姿を消し、変わって、黒い口髭を蓄えた長袖の男がすっくと立ち、門外のヒッタイト勢に向かって手を上げた。
 あれは。…市長だ。捕えられたのか? 何か呼ばわっている。
 司令は咄嗟に、うちかたやめいっ、と下令した。ヒッタイト軍の動きがぴたりと止まり、門扉への体当たりも中断された。
 門楼上の市長の、怒鳴るような訴えに耳を傾ける。
 何だと? …やはり… そうか。降伏したのか、市庁が。
 …市庁職員は総員殉職の覚悟を捨ててはいない。しかし、これ以上無辜の市民が斃れ、傷つくことは、市長として到底堪え難い。ベイジェル市は、涙を呑んで寇軍に降伏することを決定した。これは市長命令である。全市民は速やかに抵抗を止め、これ以上の犬死を避けて生き延びてほしい。アルザワ軍指揮官からも、無抵抗の市民に対する殺傷は中止すべく確約を得た。
 市が防衛の意図を断念した以上、願わくば軍にもこれ以上の無益な流血を避け、抗戦を中止していただきたい。この度の降伏は、軍の責任ではない。全ては市長の独断による降伏であるから、負け戦の責は市長が一身に負う…
 市長の割れた、涙交じりに絞りだされる声が司令の耳に降ってくる。
 市長に先を越されたわい。いざとなれば、文官の方が腹をくくっている。
 市長は、怖気づいて降伏したというのではあるまい。あの男、本当に市長の役職を背負ってわが命を捨てるつもりだ。
 ふん。碌な戦もできず、百姓町人にまで手伝ってもらった上、負け戦の責を文官に負われたのでは、大将のわしは格好がつかんわい。
 
 司令は、兵をかき分けて門前に進み出た。そして、大音声に名乗りを上げた。門楼の上から、アルザワ軍の指揮官らしき白髭の士官が姿を見せ、名乗りを返して来た。
 「市長の口上、了解した。小官も、全く同じ考えである。駐屯軍は、市長の英断に全面的に従う。しかしながら!
 アルザワ軍指揮官に告げる。戦の勝ち負けは、あくまでもベイジェル警備隊司令たる小官の責任である。文官である市長に、敗戦の責を負う権限はない。市長に代えて、どうか小官に免じて、市長並びに全市民の生命を保証して欲しい。
 ヒッタイト帝国、ベイジェル警備隊並びに駐屯地隊全隊に命令。軍は速やかに武装を解除、アルザワ軍指揮官の指示に従って身を処せ。軽挙妄動は固くこれを禁じる!
 そして、市長。後は万事、よろしくお願いする!
 皇帝陛下、ばんざあいっっ!」
 喉も裂けよとばかりの大音声で口上を述べた司令は、ばっ、と肌脱ぎするや右手の剣をわが首に当て、ずばりと斬り下ろした。首が、宙を跳んだ。
 司令は、わが手で自らの首を刎ねて見せたのだ。
 敵将の壮烈な自決を目の当たりにしたアルザワ軍指揮官は、無言のまま門楼を降りてきた。そして、今息絶えた武人の亡骸に対して、粛然と敬礼を捧げた。

 やがてアルザワ軍主力が内側から開かれた西城門を潜り、北街区を確保し通した挺進隊がこれに合流した。
 指揮下の兵二千を城内外に配置し終えたアルザワ軍隊長は、接収したベイジェル市庁舎を「アルザワ市庁舎」と改称させ、緒戦の勝利に沸く軍の士気振作を図った。
 そして、ここに司令部を置き、ベイジェル市およびその周辺に軍政を布いた。

 ベイジェル陥落の報は、市長の命を受け、辛うじて脱出し得た市庁の一職員によってハットゥサにもたらされた。
 同じ頃、ハットゥサにはもう一つ、エジプト軍によるウガリット攻撃の報も届いていた。
 これによりヒッタイト帝国は東西二正面、同時に敵を邀え討つことになったのである。

 第12巻・120ページから、同・137ページに当たるお話です。
 この戦闘は、ユーリもムルシリも知らない所で決着がついてしまった点、そしておそらくはヒッタイト軍の完敗であった点で、原典に描かれた数々の戦闘の中でも特異な戦闘です。
 原典中、この攻撃は隊商に偽装して城内に潜入したアルザワ軍によって開始されていますが、こういう方法で投入できる兵力など知れたものですから、アルザワ軍の隊長は二千とされる主力の突入を導くに大胆にも自らこの挺進隊を指揮したのだと思われます。
 原典中では、だらしない場面ばかりを大きく描かれてしまった隊長ですが、奇策を以て鮮やかに城塞都市ベイジェルを攻略した武勲は特筆されていいでしょう。
 王宮へ届いたこの戦闘に関する第一報は<城塞都市ベイジェルが落とされたもようです>という、相当遅れた、しかも頗る冷静なものだったようです。ハットゥサから見れば辺境の一城塞の戦闘とはいえ、現にその敵を迎えた街の混乱たるや大変なものだったでしょう。
 終始ユーリやムルシリからの視点で描かれている原典の記述の上では、この戦闘は「一片の報告」に過ぎません。しかし、<落とされた>という以上、落とされないように全力を尽くした人たち、落とすために命を賭けた人たちがいたであろうことは想像に難くありません。そしてその戦いの中では、非業の死を迎えざるを得なかった人たちも確かにいたはずなのです。
 原典中、名前のついた人物といえば例外的にウルヒ・シャルマがいるだけというこの攻防戦ですが、原典に述べられたあまりにも無味乾燥な報告の裏にあるその「誇り高きベイジェルの善戦」を、そして「アルザワ軍勝利の栄光」を、当筆者はこんな形で想像してみたものです。
 なお本文中、このベイジェルについて「塩の街」とした点には全く根拠などありません。ただ、打ち続く内憂外患の折から、緊張状態であったはずの国境に程近い<城塞都市>が、アルザワ軍の城内侵入を易々と許してしまった理由をこじつけるためだけの想定です。
 そういえば本文中、近代の無線電信になぞらえた烽火による通信システムも、原典の中では整備されていた様子は読み取れませんが… また、筆が滑りましたかな。


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