睡蓮の池のほとり


矜 持

ウガリット王宮の城壁に設けられた望楼からの眺めは、荒涼たるものであった。つい数日前まで眼下に広がり殷賑を極めた城下の町は跡形もなく、その全てが灰燼に帰してきな臭い風を望楼まで運んでいる。
 人影など、全くない。
 今、この狭苦しい望楼上で武装した兵らを従え、この広漠たる城下に鋭い監視の目を向けているのは、一夜にしてこの異様な光景を現出させた当事者であった。

 「やあ、工兵隊長。王陛下直々に仰せ出された王宮挙げての宴の最中だというのに、ご苦労だな。どうかね、眺めは。」
 「あっ、軍司令官閣下。…まあ、始まったばかりですからね、戦は。」
 「うむ。皆は出陣の宴だというので歌い騒いでいるが、君の戦いはもう、始まっているのだな。」
 「はい。光栄です。宴の三日間の間にも、敵はここへ来襲するかも知れない。ぼくはここで警戒を続けます。今回のこの作戦、ぼくの立案がそのまま通ってしまったんですからね。」
 「ああ。精々がんばってくれ。
 工兵といえば、道なき方に道をつけ、敵の城壁打ち壊し、雨と飛び来る矢の中を、物ともせずに橋掛けて… そうして一番の苦労をしながら、華やかな手柄はいつも歩兵や戦車に持って行かれるのが常だからな。今度ばかりは、君が主役だ。」 
 「ありがとうございます、閣下。この上は工兵総員玉砕しても、この王宮は死守し通します!」
 「ああ。しかし、よくこうまで徹底的に焼き払ったものだ。大変だっただろう。」
 「ええ。でもこの辺りの民家は大抵泥と木でできていましてね。樹木などは言うに及ばず、火さえ点けば後は放っておいても燃え尽きてくれますから。それに石造建築とは違って、焼けてしまえば遮蔽物として敵に利用される恐れのある瓦礫も殆ど残らない。文字通りの焦土作戦ってもんですよ。」
 「うむ。攻城側としてはやりにくかろうな。
 …しかし、地雷、とはよく言ったものだ。正に敵軍は、残らず地から雷に打たれるというものだろう。この、猛毒のクサリヘビの大群の中を突撃して来なければならないのだから。

 クサリヘビの多いわが国の風土を活かした伝説の作戦、やっと日の目を見たな。」
 「はい。この日のために、長年営々とヘビを飼育し、専門家を育て、技術を伝承し… 感無量ですよ。どうして工兵は毒ヘビなんか繁殖させているのか、なんて白い目を向けていた連中を、見返してやれる。」
 「だが、工兵隊の飼育場で、これだけのたくさんのヘビを飼っていたとは思わなかったな。まさか、国中の藪を突付いてヘビを出して回ったというのでもあるまいに。」
 「ははは、まさか。実はね、前々からこの近くにある家屋がクサリヘビの巣になっているから何とかしてくれ、という苦情が市庁に寄せられてましてね。例によってうちに駆除要請が来てたんです。何でもその家は元々何とかいう学者の家らしくて、実験用に飼われていたクサリヘビが逃げ出して、家の地下で大量に自然繁殖してたんですよ。
 
この機会に、害獣駆除も兼ねてそれをごっそり捕獲してきて、役立ってもらってるって訳です。」
 「ううむ。どこかで聞いたような話だな。もしかして、床板の破れた所からその地下に落ち込んでヘビにかまれかけた少女がいたという話はないか?」
 「さあ、そこまでは。うちが踏み込んだ時には、何やら胡散臭い女先生が怪しげな研究に利用してたようですが。何でも人間がヒョウに変身するとかしないとか… 何だか剣呑な研究みたいだったから、軍命令ってことで中止を命じておきました。この忙しい時に変なヒョウなんかに逃げ出されたら、害獣駆除なんてやってる暇はありませんからね。
 あそこのヘビの巣に落ち込んだ少女が、いたんですか。」
 「噂を聞いたことがあるぞ。大方その胡散臭い女先生にでも追われていたんだろう。もしかしてその少女というのが、ヒョウの化身というやつだったのかも知れないぞ、ははは。
 何にしてもその少女は折れた根太にしがみついて這い上がり、間一髪逃れ出たと聞くが。」

 「ははは。それは無事でよかった。しかしここへ迎える敵には、そんな幸運は与えませんよ。現にこうして常に地雷原を監視し、予備のヘビも充分備蓄してある。必要なら、この城壁からヘビを撒布してでも敵に仕掛けることができます。
 そうして圧倒的に優勢な敵に出血と損耗を強いて漸減、然る後に開門、決戦です。
 敵の背後も、わがゲリラ部隊が間断なく撹乱し続けて、最後は挟撃による殲滅戦ですよね。これは痛快ですよ。
 今回は、是非にも我々工兵に先陣を命じて下さいよ、軍司令官閣下。気が荒いばかりで無神経な歩兵なんかが不用意に打って出たりしたら、わが地雷にかまれて全滅しちまいますからね。 歩兵ばかりじゃない。かまれたら馬だって危ないですよ。」
 「ああ、解っている。…そんな段階が、来たらな。」
 「来ますよ。間違いなく。」
 軍司令官の返事に、何となく気のないものを感じた工兵隊長は、大きな声で断言した。
 あ、そうだ。いつも温和な閣下の事だ。ぼくみたいにいきり立ったりはしないか。
 これだけの大作戦を前に、気がない、なんてはずはないもんな。

 「宴が果てたら、戦闘の前に王宮内の非戦闘員を後送しなければならない。軍司令部はもとより、宮廷や政庁の職員らは残ると言っているが、それ以外の者と言っても、中には何しろ娼婦の集団までいるのだからな、結構な人数だぞ。
 その上戦況によっては、宮廷や政庁を丸ごと離宮へ移すことも想定しておかねばならない。もっとも今の所、王陛下にはご動座を仰せ出だされることなどおありでないご様子だが。

 …安全通路は確保してあるのだろうな。勝手に這い回るヘビの地雷原の中に、どうやって任意の安全通路を確保するのか、わたしにはよく解らないが。」
 「はい。ヘビの嫌う香草や薬草なんかを撒いて、畔のような形にしてあるんです。随所に行き止まりや分かれ道のある、迷路のような配置でね。
 と言っても、素人目に判るものではありません。素人に見分けられるような通路では、敵もそこを通って突撃して来てしまうでしょう。
 逆に、よく目に付く本来の道路周辺なんかにはもう、地雷の大盤振舞ですよ。」
 「なるほどな。
 ではこの地雷原、もし必要がなくなった時には、ちゃんと撤去できるのだろうな。」
 「もちろんです。うちの処理隊が出動します。いつも、住民からの要請でヘビ駆除に出動しているでしょう。お手の物ですよ。ヘビを放すのも捕えるのもね。」
 「うむ。大したものだ。皇子逮捕を決めた軍議に君を呼んだ時、君が生きたクサリヘビを掴んで説明にやって来たのには、皆真っ青になって浮き足立っていたな。おかげで、いつもは軍など見下して、まともに話を聞く気もない文官どもも、真剣に注目してくれた。いやあ、あの皆の引き攣った顔、実に滑稽だったな。」
 「ははは。あれはね、クサリヘビそっくりだけど、本当は無毒のヘビなんですよ。ただの見本ですからね。」
 「そうだろうと思ったよ。賎しくも専門家の君が、そんな危険なものを重要人物が参集している中へ持ち込むような軽率な真似をするはずもないからな。
 しかしああやって、地雷というものの現物を見せてやったおかげで、移転補償額算定の事務量が膨大だの、収用手続が間に合わないだの、避難民の受入先決定がどうのと御託を並べていた文官どもも市当局も、この城下の疎開に同意してくれたのだ。
 住民がいようがいまいが今にもヘビを放しかねない剣幕の、あの効果的な演出は君の作戦勝ちだったな。」
 「閣下にそう言われると、お恥ずかしい限りです。ぼくがあんな芝居を打たなくたって、閣下がちゃんと話を通してくれたでしょうに。そもそもヒッタイト皇子逮捕だって、閣下が同意なさらなければ誰も賛成できなかったでしょう。
 でもおかげで、ヒッタイトの奴らに積もる恨みを晴らしてやれる!」

「そうだな。最近の君は反ヒッタイト論者の中でも急先鋒だからな。仮にも宗主国を向うに回して…」
 軍司令官は、にやりと笑って見せた。
 「だって。わがウガリット王国としては共に天を戴くべからざる憎むべき国ですよ、あれは。
 考えてもみて下さい。エンドラ殿下のこと。ぼくだって最初は、わが王陛下唯一の王女さまがヒッタイトの皇妃に迎えられると聞いて、万歳を叫んだものです。でも、よく聞いてみると何ですか。世界中から目ぼしい姫を十把一絡げに集めておいて、その中から気に入ったのを選り取り見取りにするとほざいたんでしょう、女狂いのヒッタイト皇帝は。仮にも皇帝の母たる立場の皇太后の招きとなれば、正式の縁談だと思って間違いないはずだ。なのに、その縁談を他のあちこちの姫にも同時に持ち込んでいたんだ。家畜市場で馬や駱駝の品定めをするのと間違っているんじゃないのか、あの皇帝は。わがエンドラさまを何だと思ってやがったんだ!」
 「うむ。それはそうだな。」
 「しかも、しかもですよ。エンドラさまを弄んだ挙句に手打ちにしたとは、わがウガリットに兵を向けたも同然じゃないですか!
 仮にも一国の皇太后が公式に招いた賓客、国を挙げて責任を持って安全を確保するのは、国家として最低限の義務でしょう。なのにあの皇帝は、選りにも選って己が手で…
 しかも、エンドラさまのことがなかったとしても、ですよ。皇帝は、バビロニアから招いた王女をも死なせてしまったというんだから。それもやったのは招いた側の、あっちの皇族の一人だ。皇帝と言えば、仮にも皇室の当主ですよ。本来なら、わが一族の不始末の責任を取って退位してもいい所だ。
 いや、それよりも詫びの印に、いっそバビロニア王室の縁者に帝位を譲り渡してはどうだったんだ。あの国には、バビロニア王孫に当たる皇子がいるのだから、皇帝が本当に責任を感じているのなら簡単なことじゃないか! わが一族の者が、己のために招かれた賓客を殺してしまったというのに、全く責任も感じていなければ一片の誠意も見せない!
 他人様から借りた犬一匹だって、血迷ったわが縁者が殺してしまったとなれば、どんなに無教養な愚民でも、当然飼主の所へ謝りにぐらい行くのが常識ですよ。」
 「うむ。確かにその通りだな。」
 「ええ。それなら気紛れにもその姫の選り取り見取りを途中で止めちまった後、どうしたんですか。本来なら取るものも取りあえず、わが国とバビロニアに謝罪に出向くのが当然じゃないですか。なのに奴は、無事に生きて帰るアッシリア王女の世話にだけ、かまけてたってんですよ。馬鹿にするにも程がある。アッシリア王の機嫌は気に掛かっても、うちやバビロニアのような弱い国なんて、屑のようにしか思ってないんだ、あの愚帝は!」
 「まあまあ、そういきり立つな。」
 「いきり立たないでおれますか! 現にわが王陛下も、一時の利害に惑わされてヒッタイトの藩属国などになったのは間違いだったと仰せでしょう。当然ですよ。
 その間違いを、今から正すんです。逮捕したヒッタイト皇子を見せしめに弄り殺して、わが国の意地と矜持を世界に示すんです!」
 「だからちょっと待て。皇子の処置については、君が口を挟むことではない。王陛下にも政庁にも、考えはあるのだ。頼むから過激な行動には出ないでくれよ。」
 「もちろん、解ってます。ぼくは何も、王陛下の思し召しに逆らってまで個人的に意趣返しをしようなんて思いませんよ。
 でもあの皇子、何ですか。その前に皇帝が来た時もそうだったけど、自分が進駐するからっていきなり兵を引き連れて王宮に入って、わが物顔に占拠するとは何事ですか。
 進駐すること自体には、予てからの安全保障協定って物があるんだからぼくだって不服はない。でも進駐するなら進駐するで、どこかに宿営地を設営すれば済むことじゃないですか。そう申し出たってんなら、わが国だって村の一つや二つ立ち退かせてでも、用地を提供したはずでしょう。
 しかも今回は皇帝が来たんじゃない。皇帝の虎の威を借るただの青二才に過ぎないんですよ! そんな無礼者、逮捕して当然だ。明日にも戦場になるかってこの土地に、ほんの手勢しか連れずに、進駐準備の先遣隊にひょこひょこ同行して来て、まだほんの子供のくせに偉そうな物の言い方をする、完全にわが国をなめきっているんですよ!」
 「うむ。それもそうだな。」
 「もう! 閣下はさっきから生返事ばかりじゃないですか。わが国の誇りがここまで踏みにじられて、国家存亡のかかった危急の時局だっていうのに。」
 「そう突き上げないでくれ。わたしだって、ちゃんと国のことは考えている。君よりも、高い見地からな。それだけは信じてくれ。これから、何があっても…」
 軍司令官は、わが息子よりも若い工兵隊長をたしなめた。

 「ああ軍司令官閣下、今日も来てくれたんですか、ここへ。」
 「君がこんな望楼で寝泊りしているんだ。いくら王宮挙げての宴だって、直属上官が浮かれ騒いでいる気にはなれないよ。
 各地の部隊からも報告が届いている。街道筋は概ね住民の疎開を完了、ゲリラ部隊も沿道各地に展開を完了している。もっとも、村落の破却処分は全てにまで手が回らんようだな。」
 「それは仕方がないですね、もう時間がない。うちだって、王宮周辺以外には地雷原を構築する余裕はなかったんですから。」
 「しかしまあ、村の形が残っているというのもいい事だ。戦の後、住民らも速やかに元に戻れるからな。」
 「まだ早いですよ、戦後処理の心配なんて。」
 「君の立場なら、戦うことだけに専念していればいいだろう。しかし、わたしなどはそうもいかんよ。」
 「街道筋から離れた山間部に疎開した住民らは、皆無事ですか。」 
 「今の所はな。まあ、一箇所や二箇所、敵に踏み込まれる事はあるかも知れない。しかし、住民らの疎開先はどこも非武装の非戦闘員ばかりだから、抵抗しなければ危害を加えられることもないと判断している。それに、住民を対象とした広報活動も効果を発揮し始めている。敵に発見される危険さはよく理解してもらえたようだから、各村とも厳重な注意を払ってくれているだろう。

 …そこが、わが国のような小国の悲しさだ。住民を守る姿勢は見せると言っても、いちいちに護衛や係官を付けてやれるほどに余裕がない。」
 「圧倒的な劣勢なのは、覚悟の上ですよ。でも、粘り強い持久戦を戦って時間を稼いでいるうちに、エジプト軍がやって来る。その時点でわが国はエジプトの傘下に入り、本当にヒッタイトと袂を別つ。その辺の算段は、外交当局がちゃんとやってくれているんでしょう?」
 「あ、まあ… まあな。」
 「それなら、勝算は充分じゃないですか。
 エジプトだって、ぼくは気に入らないんですけどね。ご存じでしょう、エジプト軍は公式の命令の中でさえわが国のことを『ヒッタイト領ウガリット』と呼称してるんですよ。わが国の事なんか、まともな国だとすら思ってない、ヒッタイトと同じですよ。
 どうせそんな国のことです。仮令エジプト軍が恃むに足らずとも、我々は勝てないまでも決して敗けない。我々が最後の一兵まで玉砕しても、わがウガリット王国は悠久の大義を掲げ続けたまま名誉ある滅亡を選ぶ。本望じゃないですか。」
 「ははは。君だって。まだ戦端を開いてもいないのに、玉砕の心配なんて早いじゃないか。そう敗ける時の算段ばかりしてくれるなよ。」
 「あ、いけね…」
 「まあ大局的な判断は、暮々も上に任せてくれ。君ならそうしてくれると信じているからこそ、今回の作戦案を承認したのだからな。」
 「はい、もちろんです。軍人たるもの、あくまで己が本分を守ります。」
 「うむ。頼むぞ。政庁は政庁で、最善を尽くしてくれているのだから、な。」
 軍司令官の目が、きらりと光った。

 突然、見張りに立っていた兵が鋭い声を挙げた。
 「前方稜線、馬影。街道上。」
 「何っ!? 敵か。」
 狭苦しい望楼上が、すわとばかりに色めき立った。
 「まずいな。まだ宴の最中、非戦闘員の退避が間に合わないぞ。」
 「構いませんよそんなもの! 城壁外で片をつけてやる。
 おい、敵は騎馬だな、数は?」
 「はい、三騎。偵察兵の如し!」
 軍司令官も工兵隊長も、その馬影を視認した。工兵隊長が即座に傍らの兵に命じる。
 「おい、司令部へ! 歩兵隊に通報しろ!」
 「工兵隊長、来るぞ。」
 軍司令官が、胸壁から身を乗り出した。
 「ええ、間もなく地雷原に進入しますね。…見てろよ、ヒッタイトの奴らめ。」

 間もなく、歓声が上がった。
 「やった! 敵の馬、狂奔しています。敵兵落馬!」
 「まんまと地雷に触れやがった! やったやった!」
 時ならぬどよめきが、望楼を包んだ。
 軍司令官が、溜息をついた。

 「工兵隊長、おめでとう。これで君の苦労も、報われたな。」
 「やだなあ、閣下。まだまだこれからですよ。これから城外の部隊が、どんどんヒッタイトの主力をヘビ地獄に追い込んで来るんだから!」
 平原の彼方を睨みつけたまま気勢を上げる工兵隊長の背後で、小さな無言の頷きを何度か繰り返した軍司令官が、わが従兵に何かを耳打ちした。

 「ああっ!」
 監視の工兵が、悲鳴を上げた。
 「鷲が、鷲が集まってきます。ヘビを突付き回ってる!」
 「うろたえるな!」
 工兵隊長が兵を叱咤した。
 「鷲がヘビを食べるのは当たり前じゃないか。弓、前へ! 鷲を片っ端から撃墜するぞ。
 鷲ぐらい、ここには昔からいるんだからな。そんなのは初めから想定済みなんだよ。」
 待機していた兵が弓矢を携え、城壁上に展開した。工兵隊長の号令を待って、胸壁の陰に身を伏せる。敵に手の内を悟らせない訓練が、見事に活きていた。
 「いいか。間もなく敵の処理隊も出てくるはずだ。そちらが射程に入ったら躊躇せず目標を変更するぞ。一瞬の迷いが千載の悔いの元なんだからな。
 それから地雷管制班。予備地雷用意。場合によっては強行補充に出るぞ。」
 「おい工兵隊長、この鷲は人為的に集められたもののようだぞ。あの丘に、鷹匠らしい人影が見える。…やるじゃないか、敵も。」
 「あ、ほんとだ。…くそっ、地雷原処理に鷲を使うのはうちの秘術じゃないか。敵にも、ちょっとは馬鹿じゃない奴もいるんだな。
 よしっ。敵の地雷原処理妨害にかかる! 対空射撃用意。目標、地雷原上空の鷲! それから敵の鷹っ。
 うちかたあっ」
 ぴんと空気の張り詰めた望楼の上、突然軍司令官が一喝を発した。
 「待て!」
 今正に工兵隊長の口を衝こうとした「始め」の号令を抑え込むかのような厳しい声であった。
 「か、閣下!」
 工兵隊長の抗うような声にも動じず、軍司令官は次の命令を発した。
 「工兵隊に命令! 対空射撃しばらく待て!」
 「ですが軍司令官閣下!」
 「待てといったら待て! 命令だ!」
 その時望楼上に、先ほど下りていった軍司令官の従兵が戻って来た。従兵は、長袖の宮廷職員らしき男を一人、伴っていた。
 「何だこの忙しい時に… あ、じ、侍従長!」
 血走った目をして振り向いた工兵隊長が、声を挙げた。
 「いかにも、侍従長じゃ。邪魔をする。」
 「今ここは戦場です。邪魔だと解ってたら帰って下さい!」
 軍司令官が、工兵隊長を一喝した。
 「こらっ! 控えろっ。…勅使であられるぞ。」
 「えっ…?」
 日頃は内心軽蔑している長袖とはいえ、勅使となれば無視もできない。軍司令官も居合わせた兵らも、工兵隊長以外はきちんと、勅使に対する敬礼を取っている。
 そんな中、平常と変わらない落ち着きと重々しさの侍従長が、手にした粘土板を捧げた。
 唖然として敬礼の姿勢を取った工兵隊長の耳に、侍従長の声が届いた。
 「『軍ハ即時全テノ戦闘行動ヲ停止スベシ。』以上、勅を奉じる。」
 「そんな馬鹿な!敵が、敵が眼前にいるというのに!」
 満面に朱を注ぐ工兵隊長の肩に、軍司令官が重い掌を置いた。

 「そういう事だ、工兵隊長。」
 「なぜ、なぜ…!」
 「実はな、畏くも王陛下におかれては、もうヒッタイトとの決戦を断念しておられるのだ。」
 「嘘だ! ならなぜ今の今まで、ぼくらは地雷原を、ぼくの地雷原を…!」
 「本当だ! 王陛下だって、臥薪嘗胆のお覚悟であらせられる。ここまで抗戦態勢を維持遊ばされたのは、君が憤慨している、そのヒッタイトへの責めてもの示威のためではないか。ここまでやらせていただいただけでも、我ら軍人の苦衷をお気遣いいただいた、忝い思し召しなのだぞ!
 君は、よくやってくれた。これで必ずや、ヒッタイトも自らの傲慢さを省みるだろう。」
 「しかしそんな! 皇子はどうするんです!? もう、矢は放たれてしまったんです!今さら矛を納めなどできません!ここは戦場です。『将、外に在らば君命も受けざる所あり』と言うではありませんか、今は何としても…
 ああっ、こうしている間にもほら、ああして、ぼくの地雷原が食い荒らされてるんだ!」

 「謹めっ。 詔勅には必遵だ!
 皇子は、敵に引き渡すことになる。間もなく王宮は門を開いて、ヒッタイト軍を迎え入れるはずだ。もちろん、ヒッタイトが事を荒立てるようなら、皇子は人質として役立てることにもなろうが。

 下にいる君の部下たちにも、勅命は伝達されている。しばらくは君に代わって、参謀長が工兵隊の指揮を執るはずだ。」
 「そんな、そんな馬鹿な…」
 へたへたと膝をついた工兵隊長の双眸から、悔し涙が溢れた。
 大きく頷いた軍司令官が、工兵隊長に代わって兵に命じた。
 「改めて軍司令官命令だ。工兵隊は地雷戦を中止、地雷戦要員は全員兵舎に戻り、参謀長の指揮に服すべし!」
 夢にも考えなかった展開の中、威厳に満ちた軍司令官の命令に抗う兵は、なかった。その厳正な軍紀にも、工兵隊長が日頃心血を注いだ錬成の成果が現われていた。

 はるか彼方からヒッタイトの大軍と、ヒッタイト軍が捕えて連行して来たらしいウガリットの避難民らが遠巻きにする茫漠たる平原の中へ、城門から白旗を掲げた騎馬隊が駆け出した。工兵の一隊であった。
 やがてその一隊は、ヒッタイト軍を先導して安全通路を引き返して来た。そして入れ替わりに別の一隊が、まだ処理しきれずに残存している地雷のヘビの捕獲収容に出動、一斉に作業を開始した。作業には一件の事故もない。驚くべき技量であった。
 「さ、工兵隊長。一息、入れないか。わたしの私室に、飲物を用意させてある。」
 望楼上には、たった二人が残されていた。軍司令官は、胸壁に身を預け、身を震わせて嗚咽し続けている工兵隊長の肩に手を回すと、素早く工兵隊長の腰にもう一方の手を伸ばすと、帯剣の下緒を解き、剣を預かった。
 そして、労わるように階段へと導き、工兵隊長をわが私室へと招じ入れた。

 「閣下。あなたは何もかも、知っておられたんですね。」
 「ああ。知っていた。皇子逮捕の決定直後からな。
 実はもう、ヒッタイトが進駐を通告してきた時点でな、王陛下におかせられては退位をご決意遊ばされていたのだ。そしてどうせ退位するなら、責めて御自らの責任で、ヒッタイトとそして全世界に向けてわがウガリットの矜持を示したい、との思し召しだったのだ。
 そして、ヒッタイトの指揮官を通じて真正面からヒッタイト皇帝に質問状を突きつける、そして、こちらの質問を黙殺できないように、ヒッタイトの皇子を人質に取るのだ、とな。
 ところが、実際に皇子を逮捕してしまってからも、大臣のヘロン閣下が強硬に反対して譲らなかった。そんな質問を突きつけるなど、はじめから最後通牒を突きつけるのと同じだ、あまりにも冒険が過ぎる、というのだ。あのお人は元々慎重居士、穏健派で有名なお人だからな。
 まあ結局王宮も、人間の集団だ。そうびしり一枚岩、とはいかないままにこの事態を迎えたことは、否定できないだろう。」
 「でも… エジプト軍到るを待って、その傘下に移って断然醜敵ヒッタイトを膺懲することに決定したんじゃなかったんですか。」
 「うむ。表向きは依然、そういうことになっていた。そうでも言って徹底抗戦の態度を見せなければ、最後まで軍を掌握し続ける自信など、誰にもなかったのだ。」
 「じゃあ、エジプトとの同盟ってのは、はじめから嘘だったんですか。」
 「はじめから、ではないよ。当初軍は、わたしたちはそれで一致して、エジプト軍の編成に対応すべく全軍の改編まで準備していた。それに、もとよりエジプトと直接交渉に当たる外交当局は既にこちらから提示すべき条約案の用意も終えていたし、商工当局だって、ヒッタイトと断交してエジプトの傘下に入った場合の物動の維持には自信を見せていた。農林も、運輸逓信も、本当に皆その実現に自信はあったのだ。
 しかし、な。肝心の王陛下には、もうエジプトの傘下に入るおつもりなどなかったのだ。ヒッタイトだろうとエジプトだろうと、大国が小国を援助してくれるのは、所詮自分らの利益を図るために過ぎないのだからな。相手がどこであれ、ウガリット王として大国に頭を下げ続けるのはもう懲り懲りだ、ということだな。」
 「なら、なぜここまで全面的に、ぼくの作戦を… ご存じだったのなら、その時点でぼくにも知らせてくれればよかったじゃありませんか。」
 「わたしだって、一旦ヒッタイトを敵と定めた以上、戦わずして屈することを予定するなど釈然としなかったからな。
 とは言っても、どうせ君たちには、戦いの直前に停戦命令を出さねばならんことに変わりはないんだ。それなら悪い知らせは、遅い方がいいじゃないか。
 それに、君の意気込みに打たれた。わたしが王陛下直々に賜ったご命令は、敵の進出を見ても交戦には入るな、というのだったから、…進出して来るまでの防備だけなら、固めたままだっていいということだろう、ははは。わたしも意地を張ってやった。
 何しろ君の、一世一代の作戦案じゃないか。いつも、縁の下の苦労を重ねている君から、こんな機会を取り上げるには忍びなかった。…君にはやれるだけ、思い切りやらせてやりたかったのだよ。君には演習の状況としてもまず想定してはもらえない、正面作戦の指揮というものをな。」
 「そう… だったんですか。
 所詮、工兵主導の決戦なんて、夢だったんですね…」
 「いや、そんなことはない。もしヒッタイトが思ったより戦下手で、馬鹿正直に君の地雷原の餌食になっていてくれたら、王陛下だってご翻意遊ばして、本当に決戦を仰せ出されていたかも知れないしな。わたしにしてみれば小手調べ、敵を値踏みしてやろうという気もあったのだ。ま、消極的な威力偵察、とでも理屈がつくかな。
 王陛下も同じであられたかも知れない。ただ、いざやってみたら向うもなかなか手強かった、ということだ。

 それでも君は、立派に殊勲を打ち立てた。
 そうじゃないか? わたしが戦闘の中止を命じる前に、君の地雷は確かに、敵を倒したじゃないか。わたしが、この目で現認した。大手柄だ。
 なに、決戦にまで到らなかったのは君のせいではない。君は、わたしが下した『待て』の命令に服従しただけなのだからな。軍紀厳正だった。…責任を取らねばならないとするならば、君が地雷戦の指揮を執っている正にその場にいながら、なぜか停戦の大命伝達に後れを取って、敵に被害を与えるのを看過してしまった、わたし一人だ。
 ああ、もしそんなことになったら、わたしは解任されるかも知れないからな。その前に、と思って、さっき君と工兵隊に対する軍感状を出して全軍に布告するよう、手続を命じておいたよ。
 君は、この戦いの英雄だ。ご苦労だった。
 次の戦いの時も、頼りにしているぞ!」
 「次、って… わが国は、わが軍はもう…」
 「ははは! 痩せても枯れてもこのウガリット王国、そう簡単に崩壊したりするものか。恐れ多くも早晩、王陛下が本当に退位遊ばされても、我々には畏くもニクメパ殿下がおわしますではないか。後の算段は殿下と、我々年寄に任せておけ。亀の甲より年の功、と、言うだろう?
 君のヘビの次は、我々古狸の出番だよ。ヒッタイト人もエジプト人もまとめて手玉に取って、この国を守り通してやろうじゃないか。

 君は、まだ若い。なに、わたしを見てみろ。この年齢でまだこうして生きて、軍司令官をやっているのだぞ。名誉の戦死なんて、君には早いよ。いつかきっと、まだまだ活躍の機会はやってくる。
 わたしももうじき老いさらばえて、軍司令官など勤まらなくなくなってしまうのだ。その頃には、軍の指導に当たるのは君らの世代だ。君にも生きていてもらわねば、わたしは安心して隠居もできんではないか。
 ヒッタイトに受けのいいニクメパ殿下を守り立て奉って、明日のウガリットを築くのは、君たちだ。…な。

 これからも、頼むぞ。」

 ヒッタイト軍は、宴のまだ果てないウガリット王宮に入り、指揮官は酩酊醒めやらぬ状態の王と会談した。ヒッタイトは、宗主国に対して叛旗を翻すに到った王の退位を待たず、その王子ニクメパを王の名代に指名して王から実権を取り上げたものの、以下の関係者に対しては何ら処罰を行わなかった。それよりも、刻々と迫るエジプトとの戦いに気を取られていた。
 そしてその指揮官も、やがて進出してきた皇帝も、工兵隊長の憤慨には全く気付くことなく、依然としてわが傘下に留まることとなったウガリットの王宮に居座り、この国を掌握して完全に自らの戦略の中に組み込んだ。


17巻から第18巻にかけての、ヒッタイト対エジプトの駆引の舞台となったウガリット王国のお話です。
 宗主国ヒッタイトへの協力を拒絶して王宮での籠城戦を試みたウガリット王国軍は、周辺に毒ヘビを放すという作戦を実施しています。これは、近代に於ける防禦戦闘での地雷戦と同じ発想ですが、緒戦からこのような守勢を取ったウガリット王国の事情を想像してみました。
 そういう訳で、ウガリット軍が放した大量の毒ヘビを「地雷」になぞらえ、その名を与えてみました。原典にはその「地雷」自らが目標を捕捉して飛び掛かっていく様子さえ描かれ(第17巻・127ページ)ていますから、ここで使われたクサリヘビ、天然の「アクティブホーミング式対人地雷」だとも言えるでしょう。
 その「地雷」を集中的に敷設(?)した区域が「地雷原」、そしてその「地雷」を扱うのは工兵隊の任務、と言う訳です。
 
ウガリットにこういう強硬な態度を取らせたものが何であったか、そして、ウガリットがかくも思い切った作戦にどのような勝算を見ていたかという想像は本文中に盛り込んだ通りです。
 ウガリットに対するヒッタイト関係者の態度が、当のウガリット人からみればいかに鼻持ちならないものであったか、ということですが、原典中、ユーリでさえウガリット国王に対し、自国と同格扱いに近い語感の<友交国>なる用語を多用しつつ、その王の面前でウガリット側の頭越しに城内に避難命令を下し、ウガリット王その人をさえ退去せしむべく命令を下しています(第18巻・9ページ)。
 ヒッタイトの近衛長官の作戦事項としてここまで認めねばならなかったとすれば、ウガリットの心ある人たちにとっては国辱以外の何物をも感じ得なかったことは想像に難くありません。
 それでなくとも、エンドラ王女の一件など、ナキアが皇太后たる立場で王女を招いたというのが間違いないとすれば、その遭難に対しては理由の如何に関らず、同じくヒッタイト皇室の要人であるユーリやピアシュシュリには不知を決め込むことなど許されるものではありません。
 終始ヒッタイトの、そしてムルシリやユーリの視点から描かれた原典の中でも、ムルシリの「正妃選び」(第14巻・138ページ以降)より後の物語には特に、随所にヒッタイト関係者の傲慢な態度が目に付きます。このウガリットの反抗を制した後のユーリも、反抗の理由を漠然とナキアの陰謀であろうという以上の認識は全く示していない上、リュイ、シャラまでが場所柄を憚ることなくウガリット王への批判を口にしています(第18巻・10ページ)。仮にも王に対するリュイ、シャラ程度の者の態度として、これが甚だ僭越なものであることは、第26巻・58ページに於ける、宗主国の皇族にして近衛長官という立場で藩属国の王たるマッティワザに対して取っているユーリの態度を参照しても容易に理解することができます。
 また、今回のお話の後、ウガリットを拠点として作戦を展開するにしても、ヒッタイトは終始ウガリットを戦略拠点としてのみ認識し、一般の国民を前に示す宣撫的な態度の一方で、ウガリットの国や王室の立場については特に顧慮した様子がなく、終始自国及びヒッタイト皇帝周辺の都合だけがあらゆる行動の基準となっています。
 宗主国から見た藩属国の値打ちなど、戦略的価値が最優先されるべき戦時には特にこの程度であったのかも知れませんが、当のウガリットにも必ずや少なくなかったはずの愛国的な人々がどのような感情を抱いていたか、という点、概ねこのようなものではなかったでしょうか。
 また、藩属国に於ける一般の対ヒッタイト感情の他、工兵隊長がヒッタイトに悪感情を抱く端緒となったムルシリの「正妃選び」に係る問題点についても言及しましたが、これらについてはまた、他のいろいろ違った立場からも検討を要するでしょう。


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