睡蓮の池のほとり



救国の烈女
(参考のための漢字仮名混じり・現代仮名遣い文)

 

  (第1段)
 なつめを買いに出かけてよかった。本当は買物なんて、わたしのお仕事ではないのだけれど。
 わたしは、本当の使命を思い出した。この使命を果たすために、わたしは生まれてきたのだわ。
 畏くも皇太后さまを陥れ奉ろうなんて恐れ多い企みをする者があるなんて、信じられない。そんな悪だくみは何としても阻まなくては。この大切な時に、国を乱すようなことはやめさせなくては。
 そうすれば、皇太后さまもお心置きなく皇帝陛下のお留守をお守りになれるし、皇帝陛下もご軫念なく大御軍をお統べになれるのだわ。
 なんという誇らしい務めでしょう。なんとしてもこのお務めを果たさなければ。
 どんなことをしてもエジプトから持ち込まれた怪しい物を見つけ出そう。そして、神官さまにご報告しよう。

  (第2段)
 わたしだって、貴族の娘なのよ。だからこそ宮廷女官にならせていただけたのだわ。
 なのに、お勤めといえばお端下仕事ばかり。こんな仕事は賎しい身分の婢にでもやらせておけば充分なのよ。こんなの、貴族の娘の仕事ではないわ。
 その上、なによ、あの女。いくらイシュタルさまのお気に入りかも知れないけれど、たかが平民の田舎娘じゃないの。どうして貴族の娘のわたしがこんなお端下仕事に明け暮れて、あんな賎しい女に使われなくてはならないの。どうしてあんな女が女官長なのよ、絶対おかしいわ。
 イシュタルさまや陛下が大切なお話をなさる時にも、わたしは遠ざけられてしまうのに、あの女だけは妹たちまで引き連れて、お側にいさせていただけるのよ。
 だいたい陛下がイシュタルさまなんかを可愛がるからいけないのよ。どこの馬の骨とも知れないつまらない女をお側におかれるから、ハディなんかまでが威張っているのだわ。妹たちにまで大きな顔をさせて。
 でも、神官さまはわたしの気持ちを解ってくださっていたのだわ。さすがは皇太后さまのお付きをお勤めになる尊いお方だわ。貴族の誇りがお解りなのよ。
 だから、わたしにもお国を危機から守る、重要なお仕事をくださったのよ。たとえ目立たない使命でも、立派に国の平和と秩序を守る誇らしいお務めよ。
 もう、ハディなんかの指図を受けるのはごめんだわ。
 そうよ。このお務めを果たせば、わたしだって皇太后さまの女官長になれるのよ。
 そして、今度はわたしの足許に、ハディをひざまづかせてやるわ。皇太后さまは、皇帝陛下のお母さまだもの。もうハディなんかに偉そうな口はきかせないわ。

  (第3段)
 ほら! やっぱりわたしの見込みに間違いはなかったわ。やっぱり怪しいのはイル・バーニさまだったのだわ。
 そうよ、きっとこれがそうだわ。書簡をこんな所にしまっておくなんて、怪しすぎるもの。
 きっと、うしろめたいのだわ。正しい者に見られては具合が悪いことが書いてあるのだわ。
 ああ、誇らしい! わたしが、君側の奸を討つのだわ。わたしの働きで、国を覆す悪だくみが打ち砕かれるのだわ。
 イル・バーニさまに気付かれないように、そっと元に戻しておいて、早く神官さまにお知らせしよう。
 さあ、行きましょう! 神官さまのもとへ。皇太后さまのもとへ!

  (第4段)
 さすが、神官さまだわ。こんなに大切なお務めなのに、決して無理なことはお命じにならなかったわ。書簡を持ち出せ、なんて無理強いはなさらないのね。なんてお優しい神官さまなのでしょう。
 ただ壊せばいいのなら、わたしにもできるわ。
 生命に代えても、なんて仰せだったけれど、そんなに大袈裟なことではないわ。
 でも、本当に生命だって惜しくはないわ。だって、お国の平和を守る大切な使命のためだもの。
 お国のために生命を擲てるのなら、貴族として悔いはないわ。わたしは、あのハディなんかのように賎しい、虫けらのような身ではないのよ。いざとなれば、貴族として気高く、生命を擲つわ!
 ほら、ここにあった。早速、お庭の隅ででも打ち壊して、埋めてしまいましょう。
 これでず…

  (第5段)
 あ、あ、あ!
 こんな時間に、イル・バーニさまがお戻りになるなんて思っていなかったわ!
 おちつきなさい! おちつくのよ、アダ! 
 ほら、いつものように、にっこりと笑顔で、イル・バーニさまにご挨拶して、もの静かにここを退って、そっと書簡を壊すのよ。書簡はもう、わたしの懐にあるのだから、あわてなくてもいいのよ!

  (第6段)
 どうして兵士が追ってくるの!? わたしは、正しいことをしているのよ! そんなにこの書簡を壊されては困るの!? あの兵士も、この兵士も悪者の仲間なの!?
 あなたたちも、目を覚ましなさい! あなたたちは、知らず知らずに、お国を乱す悪だくみのために使われているのよ! そんな悪者の手先になってもろくなことはないわ。
 わたしを逃がして! わたしを行かせて! それが、あなたたちにできる、お国のためのお務めなのよ!
 放してよ、わたしには大切な使命があるのよ。捕まえてもだめよ! 絶対、書簡は渡さないわ。この書簡は、神官さまにしかお渡ししないのよ。死んでも放さないわ!
 捕まる! 捕まってしまう! 
 よし、死のう… 死のう! あのバルコニーから、書簡を地面に叩きつけて、この身も投げて、書簡もこの身も粉々にしてしまおう!
 死のう! 死んで、神官さまの手で神と祀られよう! 「救国の烈女・アダ。神となりてぞ国を護らむ」…
 放せ! 汚らわしい! わたしに触れないで! 
 兵士がもの凄い力で、わたしの腕を、身体を押さえつける!
 よし、ここで壊そう。壊してしまえば、わたしの使命は果たされる。
 えい!
 これでいいわ… この、硬い石の床に叩きつけられた書簡は粉々になる。皇太后さまを陥れてお国を乱す悪だくみも粉々になる!
 あれは、だれ? …アルザワの王女さまだわ! 書簡を受け止めるつもりなの?
 無理よ、無理よ!…ほら、無理だった。
 粉々になったわ。これで、思い残すことはないわ。
 イル・バーニさまが怒っている。こちらへ来る。わたしの襟首を捕まえる。
 何よ、殴るつもりなの? 殴りなさいよ! もう、いくらわたしを責めても書簡は元には戻らない。
 もう、何をされても怖くはないのよ。さあ、殴りなさい! 殴り殺しなさいよ、わたしを!

 うぐっ! うう… わ…わたし…? 何を!?


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