王の豆
偉大なナイルの恵みに抱かれたエジプト。百門の都・テーベ。 この都に君臨するエジプト王ツタンカーメンは幼くして王太后の娘を妃に迎え、王位に就いた。もとより自ら政務に当たるにはあまりに幼く、王太后が摂政として、この国を事実上支配していた。 朝堂の真正面にはツタンカーメンと妃アンケセナーメが座を連ね、重臣らに輔弼させて政務を聴く。そして朝臣らが入れ替わり立ち代りに政務を抱えて拝謁を願い出ては勅裁を請う。 しかし、王の脇には常に王太后ネフェルティティの姿があった。奏に応じるのは常にネフェルティティであった。ネフェルティティは、朝臣らが奏した政務について事細かに下問しては或いは奏を容れ、或いはそれを退けるべく意見を述べる。そしてその最後になって玉座に向き直り、「王よ。どうかご勅裁を。」と、恭しい礼を取る。王の答は決まっていた。「臣よ。そのように為せ。」 ツタンカーメンは、玉座に在ってもネフェルティティに教えられた通りの科白を発し、堂々とした態度を保ち続け、そうしてネフェルティティに褒めてもらうことだけに努め続けていた。 幼いツタンカーメンにとって、よき王であるということは、ネフェルティティに「よくできました」と褒めてもらえる王であることであった。 ツタンカーメンは、ネフェルティティの言うままに神を祀り、ネフェルティティの言うままに名乗り、ネフェルティティの言うままに勅を発した。 しかしツタンカーメンも、日々に成長していた。思惟に努め、身を律し、王たるに相応しかるべく懸命に学を修めた。 そうすると、これまでと同じように玉座に座っていても、今奏上されていることが何を意味しているかを次第に理解できるようになり始めた。ネフェルティティが下す判断についても、その意味する所を察し得るようになり始めた。 ここに至って、ツタンカーメンは漸くネフェルティティが下す判断に疑念を抱くことがしばしばとなった。 今の財政状態で、そのような不急の事業に国費を投じる必要があるのか。 この者の献じる策は、明らかに私欲に出ずる策である。認めてよいのか。 民の負担を軽からしむるべきこの良策を、なぜ退けなければならないのか。 民の過ちに対してはあれだけ峻烈な処罰を以て臨みながら、この貴族が犯した涜職に対してはここまで寛大に許さなければならないのか。 ツタンカーメンが堪りかねて口を開くと、ネフェルティティは決まって刺すような強い眼光でにこりと微笑み、ツタンカーメンの言葉を遮った。 「王よ。王にはお若くあらせられて未だご叡慮が熟されぬご様子。国を平らかに治めるには、百年の大計が必要なのです。この年寄の長い経験に基づく判断を、お信じ下されぬのですか。」 「この者は、粉骨砕身代々の王に仕えた忠臣。この者の献策に間違いはありませぬ。」 「仰せの通り、民の負担は少なくとも当座、重くはなりましょう。でもその恩恵は将来、必ずや民を潤すことでしょう。王ともあらせられるなら、視野をもっと大きくお持ちにならなければ。」 「愚かな民は、きつい仕置を味わわなければ懲りませぬ。されど教養高い貴族ともなれば、少し諭せば自らを省みることができるのです。徒に厳罰を弄するばかりではなく、寛大なるべき時には寛大であってこそ、王の威光が保たれるのです。」 何を言っても、結局はネフェルティティに押し切られてしまう。当の朝臣らが、王の顔色より王太后の顔色の方を窺っていることに気付くのにも時間はかからなかった。 今の政は、国の為のものでも、王の為のものでも、民の為のものでも、神の為のものでもない。結局は、この人と貴族や重臣らの利益だけの為に奉仕するだけのものなのだ。その利権は、王の名を以てしても侵し得ないほど深く、この国に根付いている。 己が名で渙発した数々の詔勅も、読み返してみると結局、諸侯や有力者、そして王太后ら、それぞれの利権の調整確認書と何ら異ならない。 ツタンカーメンは、「権威」と「権力」との違いを毎日のように思い知らされ続け、自らの無力さに焦燥を感じて思い悩むようになった。 「朕は、この手で麦と豆を播く。」 ある日、いつものように碌に口を開く機会もないまま王太后と廷臣らのやり取りをきかされているだけの朝議がようやく果てようとする頃、ツタンカーメンは自ら口を開いた。これまでになかった王の自発的な意思表明に耳を疑い、どう応じてよいか思い至らない群臣を代表すべき立場上、一大臣が奉答した。 「豆… でございますか。また、何ゆえ豆など。麦でも豆でも、お望みとあらばいくらでも御許へ運ばせますが。」 「そのように気易く言うが、汝は考えたことがあるのか。その麦や豆は、汝が作ったのか。」 「はい。掛けまくも畏く言わまくも尊き偉大なるナイルの御恵と恐れ多くも勿体なき陛下のご聖徳により、臣が所領に於きましても毎年豊作、よろしければ臣が所領より産しましたる麦や豆を献上いたしましょう。」 「それでは、汝がその手で鋤を握り、鍬を取り、耕した畑で収穫した麦と豆を、朕に献じよ。」 「それは…そのような業は専ら下賎の土民の業、臣は鍬など手にしたことはございません。」 「なれば何ゆえ、その麦や豆を汝が作ったと奏するか。」 「この国は、農の国である。朕は、この国を統べる王である。 この国の民は全て、朕が赤子である。その赤子が日々勤しんでいる生業を賎しきものと見下していては、本当に民を慈しんでいるとは言えない。 朕は、民が種を播くなら種を播き、民が実りを収めるなら実りを収め、民と苦楽を偕にしたい。 わが王宮外苑は、水の便がよい。ここに朕の畑を作り、毎年神に捧げ、民が飢える時には民に施すべき作物を作る。」 「誠に勿体なき仰せながら、王陛下御自ら畑仕事に手を染められるなど、神たる王陛下のご威光に泥を塗るばかりにございます。お留まり遊ばしますように。」 「汝、神たる王の命を拒むか。朕は神である。 命ずる。王宮外苑を朕の畑とせよ。朕は、母なるナイルの恵みに感謝し、赤子らの勤しみをわが勤しみとし、豊穣を願い、世の平らぎを祈るために自ら麦と豆を作る。 臣ら速やかに朕が意を体せよ。」 大臣は、返すべき言葉を失った。神たる立場からの勅諚と明示されては、もう抗う大義名分はなかった。 大臣は、そして群臣は縋るような目で王座の脇に在って黙っているネフェルティティを見た。ネフェルティティはその視線を受け止め、渋面ながら小さく頷いて見せた。 否応はなかった。 程なく、王宮外苑に敷きつめられた石畳を全て剥がし、客土を入れて畑地に拓く工事が着手された。 「まあ、已むを得ますまい。王陛下おん自ら神たるお立場を明らかにされての仰せを畏まらぬのでは、我々が拠って立つ権威そのものをさえ否定してしまうことになる。 王陛下には前々からのお考えであったのでしょうし、用地も先の国見の折におん自らご選定になり、播くと仰せの麦や豆までちゃんとお手元にご用意し給うていたのですから。 …それにまあ、誰に迷惑がかかるものでもない。畑作りに下僕を増員した所で大した経費でもない。畑ごっこで王陛下のお気が済むのなら、安いものでしょう。」 「なるほどその点は、猊下の仰せ通りですが… それよりも、王陛下には、随分ご成長遊ばしましたな。ああまで御身の思し召しを強く押し出されるようになられたとは。」 「そこなのです、大臣閣下。わたしも、王陛下にはまだまだほんの童であられることと油断していたが、これからは …少し、やりにくくなるかも知れぬ。」 「ごもっとも。いくら王太后陛下と申し上げても、大臣と申しても、王の権威を真正面から振りかざされては… 誠に僭越ながら、ちょっと目障りかと。」 「実に全く。老先短い我々とは違い、王陛下にはこれから益々ご壮健にご成長になることでしょう。それに若い官僚や貴族の中には、この度の詔を拝して快哉を叫ぶ者も少なくないようですぞ。…あれが、王の支持勢力に育つとなると…」 「しかし、王はただの王でしょう。尊きご血脈をお嗣ぎのアンケセナーメさまさえご健在なら、あの青二才でなくとも王の代わりはありましょう。」 「ふふ… 何と思い切った仰せ。もしや大臣閣下、閣下にはご自身をその『王の代わり』とやらに擬して…」 「いやいや、とんでもない。私はあくまで臣たる節度は弁えておりますぞ。はははは。」 「ねえ。何でそんなにご機嫌なの? 王妃。」 「ふふっ。…ひ・み・つ!」 「いったいどうしたの? さっきから、わたしは気になってならないよ。」 「じゃあ、申し上げましょうか。 あのね。今日のご政務のね、王陛下がとても頼もしかったから。」 「政務って… ああ、畑のこと?」 「はい。だって、王陛下がおん自らの思し召しをしっかりと仰せ出だされたことなんて、初めてですもの。 王陛下も、もう立派な大人の王でいらっしゃるのだわ。もう、お母さまのいいなりになっているだけの飾り物の王ではいらっしゃらないのだわ。 わたくしも、しっかりしなくちゃ。この頼もしい王陛下の妃として。」 「大袈裟だな。…わたしの方が照れくさくなってしまう。 でも、本当だよ。王太后陛下や臣らのように、自分たちの都合でばかり国を治めていては、この国はどんどん荒れてしまう。わたしの理想はね、民らが王を恐れ畏むばかりではなくて、王の姿を見て、自分たちのお手本にしようと思ってもらえるようになることなんだ。 王というのは、貴族や廷臣たちの利権漁りの調整役なんかじゃない。本当に汗水たらして働いている民の理解者でなければならないんだ。民のための神として、民のために神々に奉仕するものなんだ!」 「素敵なお考えだわ。王陛下がそうして模範をお示しになれば、自分たちの都合で民を搾取することしか考えていない貴族たちだって、少しは民の痛みに目を向けて、民を慈しむようになると思うわ。 お母さまが、王太后陛下が何もおっしゃらなかったのだって、王陛下の思し召しが正しいことだから。それに違いありませんもの。」 「うん。これからは、わたしがこの国の政を決める。今すぐに全部、とはいかないだろうけど、だんだんにね。そうすれば、王太后陛下にも今のようにご苦労をかけなくても済むようになるし。」 「そうですわね。王陛下や、そしてわたくしがもっとしっかりすれば、お母さまに安心して悠々自適をお楽しみいただけるわ。 …ね。アンケセナーメは、あなたを信じていますわ。これからも、いつまでも。」 「うん。頼りにしているよ、アンケセナーメ。」 王宮外苑は、畑に姿を変えた。王自らが耕作すると言っても、王一人で全てをこなせる訳もなく、専従の畑守も任じられた。 王ともあろう者が野良仕事をするということ自体前例を見ず、しかもそれが民の目にも触れる外苑の畑だというので、宮務当局でも王の威厳の保持に遺漏なきよう、王による手ずからの耕作を、神たる王が民と偕に豊穣を祈るため、おん自ら聖なる神饌を調え給う神事の一環であり、誠に有難くも忝き思し召し、などと説明をつけ、流布させた。 ツタンカーメンは自ら宣した通り、時季が到ると新しい畑に神を祀って豊穣を祈り、わが手で種を播いた。そして、日程を繰り合わせては自ら畑に出、謙虚な態度で農家出身の畑守に教えを請い、畑守らに混じって丹念に草を引いては、健やかに芽吹き、育つ作物を慈しんだ。 近隣の農民らの中からも、王さまがおん自ら畑を作られるのなら、と、奉仕を願い出る者が現れ始めた。当初は「土民の分際で恐れ多くも王陛下と肩を並べて聖なる畑を踏み汚そうとは以ての外」と色をなしていた当局も、ツタンカーメン自身の意向により、渋々ながら内々にこれら篤志の民を受け入れるようになった。 やがて、麦も豆も、見事に実った。ツタンカーメンはアンケセナーメを伴い、畑守や奉仕の民らと共に収穫の喜びを分かち合った。 収穫された麦と豆は、新たに定められた新嘗の神事に於ける神饌として神々に献じられ、お下がりは分かたれて一部は奉仕民らに下げ渡され、また一部は備荒倉庫に納められ、残りはツタンカーメンの手元に納められて、アンケセナーメが手ずからパンに焼き、スープに作って、二人水入らずの食膳を賑わせた。 「あなたが焼いてくれたパン、おいしいよ。」 「いやですわ。おいしいのは、王陛下があんなに丹精なさった見事な麦のおかげではありませんの。」 「そんなことはないよ。あなたは、パン作りが上手なんだ。 それにこのスープも。おいしくて舌が蕩けてしまいそうだ。…あなたの、味がする。」 「もう! 恥ずかしい! そんなこと、おっしゃらないで!」 「だって。…おいしくない?」 「それは、おいしいですわ。…でもね。おいしいのは、王陛下がお育てになった豆だからでしょ。」 「いや、違うよ。あなたが作ってくれたスープだからだ。」 「違いませんの! 王陛下の豆だからおいしいのです!」 「あなたのスープだからおいしいんだ!」 「いいえ。あなたの豆だからっ! …ぷっ! ふふっ!」 「ぷっ! ふふっ、はははははは!」 ツタンカーメンが初めて自ら立案し、先頭に立って実施した政策は成功を収めた。王自らが土を耕し、その営みの苦労を理解をしてくれている、ということで、民は己が生業に誇りを持ち、そしてこれまで懼れるばかりの存在であった王に敬愛の念を抱くようになった。 ツタンカーメンは、翌年以降も恒久的に王による親耕を正規の王室行事に組み込むことを宣した。 ツタンカーメンは、自信を深めた。もとよりツタンカーメンは聡明にして徒らにわが主張に固執して頑迷に陥ることはなかったし、長年はびこり続けてきた有力者の恣意による政策はそう簡単に根絶できるものではなかったが、朝議に於いても、ツタンカーメンは朝臣や貴族らの建議に対して堂々と下問を発し、わが意思を明確に示すようになった。そして、王太后による助言に対しても、納得が行かなければ恐れることなく異議を唱えた。 議場が紛糾すると、「勅は、朕こそが下す。」と一喝してわが意思を押し通す場面も見られるようになった。 そんなツタンカーメンの背伸びに、取り巻く王太后や重臣らが表情を引き攣らせることも度々であった。 「今日のスープもパンも、あなたの手作りだね、王妃。」 「まあ、お判りになりますの? 仰せの通りですわ。」 「判るよ。だって、あなたの味がするもの。」 「もう、いやですわ。 ふふっ、もしかして。『大膳のスープよりもおいしくない』とおっしゃりたいのかしら?」 「何を言っているの。玄人の膳夫たちが作ってくれるよりも、わたしにはおいしい、と言っているんだよ。」 「まあ、お上手なこと。…でも、嬉しいですわ、わたくし。」 この国に於いては、王の権威は絶対神聖なものであった。にも関らず、これまで何代かにわたり、この国は弱王をしか戴けなかった。 王が国全体に睨みを利かせる実力を持たないのであるから、国を国として束ねるにはそれに代わる有力者が必要である。されば我こそは、と、諸侯は競って王宮進出を図る。そして王の権威を背景に、財を蓄え、権力を揮う。 この王宮で有力者が有力者たり得る道は、如何に巧みに「王の権威」を利用するかにかかっていた。 だから有力者にとっては、権威だけが高く、実力を持たない弱王の治世はむしろ歓迎すべきことであった。王自身に王の権威を振りかざされては、何かと都合が悪いのだ。 年端も行かないツタンカーメンが王座に就かされたのも、ツタンカーメンがこのような諸侯や実力者らの思惑にぴたりと合致したからに他ならない。 だから、いざ王自身に真正面から王の権威を振りかざされては、抗う大義名分を持つ者はこの国には誰もいなかった。 やがて、このようなツタンカーメンの姿勢に支持を表明する者も現われるようになり、専ら王宮内での権謀術数のみによって国政を左右する実力者らを名指しして批判する声も、小さいながら随所に挙がるようになっていた。 「王よ! ツタンカーメン王よ、目をあけて!!」 アンケセナーメには、信じられなかった。あれほど若い王が、今朝も、日が昇ると共に元気で畑に出て行った王が、そしてその疲れも見せず、胸を張って朝議に臨んだ王が、あっけなく崩御するとは。 そんな… ウソです!! あの日、ご自身の力強いご意思を表わされて以来、自信に満ち溢れたご健康そのものの王陛下が、こうもあっけなく崩御なさる訳がない。 きっと、きっと毒殺されたのです。 わたくしの王陛下が、どうして。あれだけ真剣に国を憂い、民の上を偲んで理想の治世を目指した王陛下が、どうして。新鮮な王者の風格をまとい始めていた頼もしい陛下が、なぜ。 若々しい玉体は、故実に則ってミイラとされた。そしてその作業と併行して、陵墓の建設が急がれた。 ネフェルティティは、冷酷なまでの冷静さを見せてアンケセナーメに接し、その悲嘆を制して王統の存続のための再婚を迫った。 王妃たる立場、王太后たる立場の非情さを知り抜き、間違えてもその威厳を損なうが如き態度など寸毫も現す訳にはいかないネフェルティティも内心、余りにも大きなわが娘の悲嘆に接し、哀れを感じずにはいられなかった。 ネフェルティティは、取り乱して嘆き続けるばかりのわが娘に代わって、大葬の手配を一手に取り仕切った。特筆すべき事績も残し得なかった若い王には不釣合いなほどの葬儀を営み、夥しい人員と財を注ぎ込んで副葬品を用意し、陵墓を調えた。 悲しみに明け暮れ、眠ることもできず、食さえ拒んで泣き続け、その華奢な身体の全てを涙として搾り出すかのように、日に日に痩せ衰えてゆくわが娘のために、ネフェルティティがしてやれることは、これぐらいしかなかった。 陵墓でわが娘の悲しみを癒すことが、いや、ただ紛らわせることだけでもできるなら、エジプト中の黄金全てをこの陵墓に投じても惜しくはない。ネフェルティティは、そう思った。 ツタンカーメンとの対立が日に日に明らかになりつつあった有力者らも、競うようにしてネフェルティティに協力を申し出た。 若く、次第に力を養いつつあったツタンカーメンではあったが、遂に直接の後継者を得ることはなかった。ならばどの道、次はまた傀儡王を迎えることになるのだ。ならば有力者らにとっては、ここしばらくは実権を揮い続けるであろうネフェルティティに協力して、誠意を示しておくに如くはなかった。 卒哭の日が、来た。 最高の技術と資材を注ぎ込んでミイラとされたツタンカーメンの玉体は幾重もの棺に納められ、玄室に安置された。 いよいよ永久に鎖される運びとなった当日の玄室に、アンケセナーメの姿があった。 この時この場所に王妃の姿が在ることなど、長いエジプト王室の歴史を通じても異例中の異例であったが、ネフェルティティが特に命じ、最愛の夫との最後の別れの時を望むわが娘の願いを叶えしめたのである。 アンケセナーメは手ずから用意した花束を抱き、灯火を掲げた神官に導かれ、女官を従えて狭い陵墓に入った。アンケセナーメの直後には、重そうな土器を担いだ下僕が従っていた。 神官は、アンケセナーメを既に玄室に奉安された棺の前に導くと、女官や下僕を促して前室に退った。アンケセナーメがツタンカーメンと二人きりで過ごす最後の時間を得たのも、頑迷な前例墨守に拘泥する神官らにも有無を言わせない、権力者ネフェルティティならではの心尽くしであった。 外光の入らない玄室に灯された僅かな灯火の下、アンケセナーメは夫の棺に向かって跪いた。その姿勢は、朝だというのになかなか目を覚まさない夫をいつも優しく揺り起こした、その姿勢そのものであった。ゆっくりと目覚めた王が、その日最初に目にするものは、愛するアンケセナーメの顔に決まっていた。 そう。いつもあなたは、わたくしの声で目覚めてくれた。いつもあんなに遅くまで、灯を消してからもじゃれあっていたのだもの、わたくしだって眠たくないはずがない。でも、わたくしはあなたを起こすのが楽しみで、いつもがんばって早起きしていたのよ。 あなた、知らなかったでしょ。 毎朝、大変だったんだから。あなたのお目覚めの時間までに、ちゃんとお化粧まで済ませられるほど早起きするなんて。だって、あなたの目が開いたとき、アンケセナーメは今日もきれいだ、って思ってほしかったのですもの。 なのにあなたは、目を覚ますといきなりわたくしに抱きついて、お褥の上に引き倒してしまわれるの。せっかくきれいにしているのに、あなたにじゃれつかれているうちにぐしゃぐしゃになってしまって。…でも毎朝、それが楽しみだったの、わたくしは。 …なのに、なのにあなたは、もう起きて下さらないのね。わたくし一人に早起きさせて。あなたは永遠に、眠り続けられるのね。 アンケセナーメが特に命じて下僕に運び込ませた土器は、惜しげもなく投じられた黄金の輝きも眩い数々の副葬品の中に置かれると、少々みすぼらしくすら見えた。土器に納められているのは他でもない、ツタンカーメン自らが、自らの畑で丹精した麦と豆であった。 アンケセナーメは、豆の器を開けた。そして、中に手を入れると、ひと掬いの豆を掌に乗せた。 掌の上に小さな豆の山を作ったまま、アンケセナーメは立ち竦んだ。そして、自らも副葬品の石像になってしまったように、その豆の山を見詰め続けた。 これからも、わたくしはあなたの豆で、飛びきりおいしいスープを作らせていただきたかったのに。そのために、一生懸命お料理をお稽古したのに。わたくしそれまで、お料理なんてしたことなかったのよ。それでも、あなたが畑へ出ておられる間、侍女たちに笑われながら必死でお稽古してたんだから。 でも、嬉しかった。あなたが、わたくしのスープを「おいしい」って言って下さることが。 「あなたの味がする」なんて、本当においしそうにお上がりいただいて。 なのにもう、あなたはわたくしのスープをお上がりになっては下さらないのね。 わたくしはこれから、もっともっと、もっと上手になるのに。あなたの豆を、もっとおいしいスープに作って差し上げようと思っていたのに。 つい去年までは傷一つなかったなかったはずの、今はいくつか小さな火傷の痕がある小さな白い掌の上で、豆の山が小さく震え始めた。そしてその上に、ぽたりと涙が零れ落ちた。 涙は、豆を濡らした。後から後から零れ落ちる涙が、乾燥しきって白茶けた豆を染めた。 おやすみなさい、偉大なる王陛下。 おやすみなさい、わたくしだけのツタンカーメン。 「王妃陛下。お時間でございます。」 不意に、玄室の外から神官の冷たい声が響いた。 アンケセナーメは我に返り、大きく息をつくと、しゃんと背を伸ばして掌の豆を土器に戻し、蓋を閉じた。そして、自らの胸に抱いてこの場に持ち込んだ花束を棺の上に荘ると、入ってきた神官らの目から己が涙を隠すように平伏し、型通りの祈りの言葉を唱えた。 神官は、平伏するアンケセナーメの背後で、同じように王の棺に向かって礼拝した。 長い平伏の後、アンケセナーメはすっくと立ち上がり、くるりと神官の方を振り向いた。 そのアンケセナーメの姿を見上げた神官は、はっと息を呑んだ。 そこにあったのは、昨日までのただなよやかなばかりの、か細い姫の姿ではなかった。 アンケセナーメは、毅然として背を伸ばし、強いまっすぐな眼差しで神官を睥睨していた。 神官はそんなアンケセナーメの姿に、今はすぐそこにある棺に納められているはずの、ツタンカーメンの若々しい力と輝きを、見た。 アンケセナーメは、神官をねぎらい、後を託す短い言葉を残して、しっかりとした足取りで玄室を後にした。 神官らによる簡単な祭儀がつつがなく終わると、玄室は重い扉で鎖された。 三千数百の星霜が、過ぎた。 さしもの栄華を誇ったエジプト王国も滅亡して久しく、代々の王陵もあるいは朽ち果て、あるいは盗掘の憂目に遭い、満足に保たれているものは皆無と言ってよかったが、どういうものかツタンカーメンの陵だけは、誰の手も触れさせることがなかった。そして安らかな玄室の中は、あの日のままに時間の流れを止めていた。 それでも次第に、あたりが騒がしくなった。長い長い間、音というものの存在を忘れていた玄室の中にも、遠く近く、槌や鍬の音が響くようになっていた。 やがて、長らく光というものの存在を忘れていた玄室に、鋭い光が差し込んだ。。 無作法な闖入者が目にしたものは、豪華を極めた夥しい副葬品と、完璧なまでに保存され得た王の棺であった。 学術研究の名の下に、公然と運び出された数々の副葬品の中に、豆があった。 アンケセナーメにはその存在をさえ知る由もなかった遥かな異国からやってきたある研究者が、試みにこの豆の一部を故国に持ち帰り、土に播いた。豆は、三千数百年の眠りの間にも、その生命の火を消してはいなかった。豆は芽吹き、花開き、そして実を結んだ。 「ファラオの豆」。実に三千数百年の間を眠り続け、なおもその生命を保ち続けた豆の強さは、諸人をして驚嘆を禁ずることを能わざらしめた。関心ある人々は、競って穫れた豆の頒布を願い出た。豆は、ツタンカーメンがその存在さえ知らなかった大陸にまで運ばれ、またその子孫を殖やした。そしてその一部は、今度はまた新たな大洋を越え、はるか対岸の島国に達した。 豆は、ここでもまた子孫を殖やし、志篤い人々に、探究心豊かな子供たちに頒たれた。 この島国の中で最も気高い霊峰を望み、大きな半島に抱かれた海辺の町に、この豆を手に入れた母娘があった。母は古代エジプトに限りない夢を馳せ、幼い娘の強い生命を育むことに惜しみない慈愛を注いでいた。 母娘は、この豆を播いた。そして若々しい芽生えを見るや、母は多忙な日々に僅かな時間を見つけてはせっせと水をやり、肥料を施して丹精した。幼い娘は冬の冷たさにつけても風の強さにつけても豆の成長を案じ、いとおしんだ。 そして、豆はついに実を結んだ。遥かなる古代のエジプトで、ツタンカーメンが手ずから育て、アンケセナーメの涙に濡れた豆の、末裔であった。 母は、この豆をまた、同好の士に頒つことを思い立った。豆の数を考えると、二名分。そこに、四名の者が名乗りを上げた。 やむなく抽選で頒布先を決めようとした母に、娘が提案した。「みんなにあげようよ。」 豆はさらに分かたれ、四つの包みに収められて、四名の希望者の許へと送り出された。 そのうちの一包が、潮の香ゆれひく内海と、紫陽花咲き初める緑の山並みに挟まれた坂道の町へと運ばれた。そして、名だたる海港の一端を見下ろす高台にある賎家の郵便受に投じられた。 豆は、この家の主の手で播種期を迎える秋まで大切に保管された。 主は貧相な草花や、碌に世話をしなくとも勝手に育つ無愛想な植木ばかりを作っていて、豆など育てた経験は全くない。にも関らず「少なくとも連作障害の心配だけは、ない。」と、古代オリエントにかける夢だけを頼りに、この豆を育てるつもりであった。 ツタンカーメンの高い志が、アンケセナーメの深い愛が、この地にも根を下ろすことになった。 |
第7巻・58ページに描かれた、ツタンカーメン崩御前後のお話です。 |
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平成24年、当筆者により収穫された上記「豆」の一部を京都のパーカッショニスト・ミウラ1号様に呈上しました。 ミウラ1号様はご自身の菜園でこの「豆」を栽培なさっています。 その様子が、こちらのブログに紹介されています。 |