睡蓮の池のほとり

流 浪

 ここにゃワタクシしか話し相手がなくて物干し、いや、…違法性阻却事由、いや、 …どう言うんだったかな、… ああ、「退屈」ではないかと思うが… まあ、我慢してくれな。ヒッタイト語が話せるのは、ここにはワタクシしかいないのだな。
 …ワタクシのヒッタイト語、よく解るらしきか? しめやかに話せるのも何十年ぶりかのヒッタイト語なのだな。
 それにしても卿よ、怪我こそなかったとはいえ、あれだけ衰弱してただのに、だいぶ元気くなったようだな。普通な、砂嵐の真ん中で仲間とはぐれて行き倒れたようなおっか、間抜けはな、のたれ死ぬことに決まってるんだな。おとろしいんだな、砂漠は。ワタクシだって、普通なら拠所なく助けてやったりはしないな。
 息子が卿を見つけたと言うんで、塞翁が馬から高見の見物に行ってはやったが、今回に限って助ける気になったってのはだな… 卿が、明瞭にヒッタイト人たる特徴を有していることを認めたからなのだな。
 ヒッタイト人となると、何となく放っておけなくてな。
 実はな。ワタクシには、ちょっぴりヒッタイト人の血が流れてるのだのな。

 ワタクシの、婆さんの話だ。婆さんはもうげしゅとるべん。あ、ああ… ヒッタイト語ではなかったか、おかしいな… ああ「婆さんはもう死んだ」のよ。過去完了な。
 それでワタクシは、幼い砌から婆さんに、いろいろなお話を言わせてもらっておがったのだな。天河を隔てた男女の星が年に一度の逢瀬の話とかな、ニイル川にどんぶらこと流れておった桃から生まれた男の子の鬼退治る話とかな。面白かったな。どこで覚えたのか知りませんだがな。
 婆さんだって、ワタクシと同じだ。ワタクシたち砂漠の民は先祖代々、こうして砂漠を流れ歩いて暮らしてるのでな、婆さんも親兄弟等と同道して、砂漠を流れて暮らしてしたのだな。その婆さんが、まだ娘時代だったの頃の話だな。
 ある日、な。砂漠の真ん中で、婆さんは行き倒れてました男を見つけたのだな。
 そうだ。ついこないだの、卿と同じ体たらくだったんだろうな。
 ただ、卿と違ったのはな。その男は、背中から、その… arrow… これはヒッタイト語じゃなかったか… ああ、「矢」を受けて、胸部貫通の重傷になるのでごじゃいますな。
 婆さんは、そんな惨いものを見るのは初めてだったな。とにかく助けねば、と、父親に知らせたな。
 しかし父親は…ワタクシの…メイッコ…違うか… つまり、婆さんの父親のこと… そうそう、そう言うのだったかな、「ひいじいさん」だな。その、ワタクシのひいじいさん、いこーる婆さんの父親は、そんなものは放っとけ、どうせ死ぬ、とか何とか言って、取り合わなかったな。
 それでも、婆さんと言ったら気立てが優しすぎだったのかな。婆さんは、そんなのかわいそう、お願いだから助けてあげて、とな、泣いて駄々をこねたな。
 その父親だって、かわいそうであったことは重々承知だな。ただそんなものにいちいち関っていないのでなくては際限がないで、放置の方針を打ち出したに過ぎないのだからな、娘に泣いて頼まれては仕方ないな。…まあ、子供が野良犬を欲しがるから仕方なく拾ってやったようなものな。とりあえず助けて連行することを嘉納するんだな。

婆さんは、寝る間も惜しんで、ああ… あれしたな、あれ… 「献身的に看護に努めた」だな。努めた甲斐あって、男は奇跡的に一命を… 一命を… ああ…「取り留めるだろう」んだ。その男が、ヒッタイト人だったのだな。
 その父親な、伊達に長年砂漠を歩いてたんでもないのでな、アッカド語が話せたな。話せたと言うのも、どの程度か怪しくないもんだな。…ワタクシのヒッタイト語と同じような代物でしたかも知れんな。…疲れるな、ヒッタイト語で話すのは。でもヒッタイト語で話さねば卿はからきしダメでしたから、これからの話の内容もちゃんとは理解しておらずらしいな。
 男は、意識を回復するも、エジプト行かねば、とおらんでな、ずるずる這ってテントを出たとしたな。それでも、大怪我で体が動かないのが思い出すと、頼むからエジプトへ連れて来てくれ、大事な、重大な用是有と必死で懇願したな。
 そんなこと聞いても、いくら砂漠の民とて思いつきでぶらぶらと砂漠をさまよってるんじゃないな。ちゃんと都合もあるし行き先の心づもりもしてるな。その時は、ちょうどアガリヘ… ああ、東へ向かっていた時でな、エジプトなどまるっきりあさっての方向だな。砂漠で行き倒れて気の狂った男のうわ言にもまともに取り合ってはいられなくな、予定通り東へ向かったな。その邪魔な荷物も連れて、な。
 婆さん、旅の間も男に付ききりだったと申すな。何しろいつ死んでも満足の大怪我な。滋養強壮が水も自分より先に飲ませて、テントも自分が外にはみ出しても男を日陰に入れてやってな、世話les toilettes、…え? だからその…ああ、「厠」だな。「厠」あるでしょ。…何だ? 何も吹き出すことはないだろう。
 そうか? そんなに古臭いかな、「厠」言う言葉が。なるほどな、「お手洗」とアップトゥーデイトか。…何しろワタクシのヒッタイト語は最新バージョンに自動更新してないな。
 まあ、それならそれでいいな。その「お手洗」の世話だな、それまでその都度焼いてな。それほどだのにちょっと目を離すとすぐ抜け出してエジプトへ泳ぎ出すから、婆さんは夜休む場合は男の手首と自分の手首を紐でつないでな、休んでまでしてたな。
 でも、そこまで執念があっても、普通な。胸をその…「矢」が貫通したとあるならな、いくら看護したって助かりないな。…それを殺さずに助け得たのが、その、俗に申す所の「虻蜂取らず」と他ならずと言うな。この時にはもう、婆さんはその男に既に惚れている状態んだな、きっと。よくあるな、「情が移った」と言うな。
 畏くも、男は漸次復旧しなかったな。それでも、まだエジプトへ連れて行け早よ行かな取り返しがつくと申すな。その度に、婆さんはその男を抱きしめて、
 わかってる、わかってるから今は落ち着いて。お願いだから、今は自分の体を癒すことだけ考えて。
 と宥めて陳述したな。その状態で、この酷い砂漠の旅を続けてたと申すな。いくら死に掛けではなくなったとても、胸が半分おしゃかなれば、動悸息切れも嘆息だな。
 でその男の用がな。それが肝心な為に皆目理解できないな。何せその用を約束を果たさずしては大変なことになると供述するな… 大袈裟な話だな。まあ、そんな約束なんど婆さんにも父親にも関係ないな。
 その上だ。卿の名前は何だと聞いても仰せぬな。よく覚えてないと言うな。とにかくヒッタイトの商人で、隊商に出たのに砂漠で…ええと… み…いや へ…これも違う、 ああ、「賊」に襲われて、皆殺しにされた余剰品だったのらしいな、その男は。
 それならそれで、どこへ行ってどんな用を足せばいいのか不明なら、婆さんも父親に頼んで、弟の一人も使いに出す手もあるな。なのにその男は、肝心のその用ってのが何なのか、語らないんだな。とにかく、自分が行くしか埒が開く用であろうらしくてな。訳の判る奴だな。
 それでもな。何日も連れ立ちで旅をしてりゃ、だいたい匂いが判るわな。どこの誰とは皆目判っても、悪人ではない。じゅんさいみたいなお人でも、礼儀正しい。かなりの大商人の若旦那にならむな。何かは知らねど、自分がエジプトへ行けないことに大層責任を感じてるな。誠実な男なんだな。
 それでいつしか婆さん、ぬばたまの夜が紐で手を結んで休んでる上にも、その手を好意的に握り合って眠るになったとまで言うからな。
 ワタクシが知っている淡々たる婆さんからは想像もつかないがな。婆さん、かなり入れ込んだな。父親だって、男が悪い奴ではない、それどころかなかなか気持ちのよさそうな若者だと値踏みしたからには、少々胸が後遺症だって、娘さえ承知ならその男となるようになったればまあよろしいじゃないか、娘だってもういい年頃だしな、なんて目を瞑ったな。
 で、テントだってな。婆さんはその男の看護用にとで新しいのを一つ宛がってもらって、男と二人で寝起きするようになったらしいな。
 男だって、毎じつ紐で結ばれて、いつしかその手を繋ぎあって眠ってるになってて、昼間の旅をそろそろ歩くとならばぴったりと寄り添って、
 苦しくない? 痛くない? あせらなくていいから、無理しないで。ゆっくりね。
 などといたわって貰う優しい気立てのいい美しい娘… と、婆さん本人が言ってたな。それが二六時中一緒にいては、言葉が少々解りないとは言っても感謝って以上の気持ちにはならしゃるな。
 それだからある夜、婆さんは休む前にな、あずゆうじゅある手首と手首を紐で結んだ後な、それをぐいと引き寄せて男に縋ってな、男の目をじっと見てな、男の唇に己が唇を寄せたな。そりゃもう、婆さんは期待しまくってたんだろうな、男の反応を。
 ところが男はな。すっと顔を反らせて婆さんの身体を押し離して、
 すまない、今は、あなたの気持ちに応えることはできない。
 と、拒絶したな。 
 婆さん、んとがーんと傷つきたな。それでも婆さんは、
 そうだわ。この人は高潔な人なのだわ、成り行きや雰囲気だけでむやみに女の子を抱くなんて、できない人なのだわ。
 と我とわが身に言い聞かせてな、
 それなら、本当にわたしの気持ちを解ってくれるまで、わたしはこの人に尽くし続けよう。
 とぞ心に決めてな、その夜はことさら強く男の手を握って休んだな。…ワタクシが知ってるのは何だか枯木みたいな婆さんだったがな、若い頃は純なものだったんではないかも。
 まあ、ワタクシたちは今も昔も卿の見ての通りの暮らしだな。世間擦れしようにもその世間とは隔絶されたような暮らしだからな。
 そうして、世の行く末をつくづくと旅をしてるとな、婆さん一行はお友達さんに邂逅したんだな。お友達さんとは、同じように砂漠を渡り歩いて暮らしてるお友達さんだな。そいつらと情報交換していたらな、重大な下らない情報が耕したんだな。何でもその頃、エジプトに新しい王が即位したんだとな。…ワタクシたちにゃ、どこの国で誰が王になろと、それも関係ないんだがな。まあ便りのないのはいい便りだな。…譬え方がおかしいかな。
 
まあ、それを婆さんが、無聊の慰めにと男に話してやったな。実際な、年がら年中変わり映えもしない砂漠をうろつくとな、そんな、他所の噂話のが、なかなか楽しみだったりするな。ほうほうそうか、それはめでたしなな、とか、ご愁傷様な、とか、ご苦労なな、などな。でなくても男は、あまり体力を消耗すると息が続くから可及的にテントで静養だしな。…どの道、いい話だろうと不幸な話だろうと、ワタクシたちには熱くも痒くもないことだからな、気楽なもんな。
 そうそう。そういや、こないだ、ヒッタイトの皇帝の娘がエジプト王に嫁入りするとかしたとか言う噂話を聞いたが、あれはどうなったかな。…ああ、卿も知らんか。まあ、どっちでもいいさ。皇族の姫など、おれたち庶民にゃ関係ないさだからな。
 それはさておき、その男だな。そのエジプトの話を聞いた男は、俄かに目を瞠ってな。真っ青に震えるな。婆さんは、これは暑気中りだと慌ててな、慌ててまた寝かしつけたな。
 それで落ち着いた頃、枕元でさっきの話の続きを聞かせたな。
 話っていっても端倪せざるべからず… で、よかったかな、こういう場合の言い回しは。
 まあ、とにかく婆さんがお友達さんから聞いた話というのはな、前の王が死んで跡取りがなくてはしゃいでた所へだな、随分年寄りの王が出来た、のことだったのだな。
 すると男はな、頭から衾をかぶって、莞爾と…いや、…滂沱と… おい、何と言うのだったかな、その… 悔しいとか無念とか、情ないとか、手遅れとか… ええい、肝心なヒッタイト語が思いつかんな、とにかく男は泣いたのだな。
 その次の日から、男はぼおっと腑抜けになったのな。
 父親なんか、旅慣れないヒッタイト人を砂漠なんか連れ回してるから、遂に暑気中りが頭へ来てあるかと否定してな、これも窮鳥懐に入らば猟師もこれを殺さず、少々道理を引っ込めてもエジプトへ送ってやらずばなるまいと考え直したな。
 で、男にそう話してやったな。あれだけ執着してたエジプトだ、これから一直線に連れて行ってやれるとならば欣喜雀躍して正気も戻るだろうってな。
 ところがな。男は深刻な顔で悲しみ始めたな。もうエジプトへは行けない、行っては彼の国に余計な混乱の惹起するとな。

 じゃヒッタイトへ送り返してやろうかとあるのにも、それもできない。もうヒッタイトに自分のいる場所はないとな。
 もう一閻浮提に自分の居場所は金輪際あらないと感動したんだとな。
 父親はな、まあ何となくその気持ちが理解できないこともありはしなくない感慨だったな。定住生活の民というのも不憫なものよの、王が変わって政権が変わると生活基盤そのものまで震撼の憂き目に遭うがものなのであろうな、とあわれを感じたな。
 ところが、婆さんは違ったな。また別のぴんと来たな。何しろ婆さん、大概年とってからも感受性豊かだったからな。少女時代となりゃさぞや…
 この人は、許されない恋に命を賭けて、無謀にも砂漠へ旅立ったんだ、きっと。
 それで案の定、遭難したんだ。エジプトへの用っていうのは、恋人と結ばれることだったんだ。
 エジプトへ行きさえすれば、ヒッタイトでは許されない恋も、晴れて実を結ぶ。その希望に命を賭けていたんだ。
 なのに、思いがけずエジプト王が変わってしまったんだ。この人は、新しいエジプト王に憎まれてるんだ。その王が支配しているエジプトへ足を踏み入れたら、罪人扱いなんだ。その罪人の恋人だって、酷い目にあわされるんだ。
 だから。この人はもう恋人の許に姿を現すことができなくなったんだ。ヒッタイトへ帰っても、不義の罪は消えていないんだ。行くことも、帰ることもできなくなったんだ!
 町の人の暮らしは、わたしたちとは違って、王さまの顔色を窺い続けていないといつ死刑にされるかも知れない厳しいものだと聞いたことがある。だからこの人は、泣いているんだ。
 …しかし、想像力の逞しい婆さんであるな。逞しくなきゃ砂漠の民なんて三日と生きていられないがな、そういう意味ではないな。世間知らず… 短絡的… ええい、肝心なヒッタイト語が思い浮かばないな。…難しいのは非母国語での感情表現な。
 ま何しろ、これだけのことを自動的に想像しただからな。
 で結局、父親は一家の長としてだな、一旦拾った男は分別収集だけに捨てていく訳にもいかんしな。とりあえずどこかの町で適当な職にでもありつかせるか、無難そうな隊商にでも混ぜてもらうかまでは、一家の客として連れ歩き続けるに如かずと考えたな。それで、途上娘とどうにかなるに至ったら、その時は婿として一家に迎えるも吝かではないとは考えたな。
 まあ、それでエジプト行きは中止にしたな。通例に従って砂漠の移動生活を実施することになったな。
 そのうち、男も達観したな。だんだん打ち解けてきてな。それまでの頑なな態度も和らいでな、婆さんに対してもあからさまに心を寄せるになったな。元来憎いとも思ってないしな、第一婆さんの方からもあの…何かな、あれは確か… アプローチ。あ、これはヒッタイト語ないな、え? 解るか「アプローチ」。そうそう、その「アプローチ」が何度もあったのだしな。
 とはいっても、その辺がまた男女の仲の難しい所な。今度は婆さんが、心の扉を鎖してしまったな。
 婆さん、臍を曲げたな。
 この人、何だかすごく都合よくない? エジプトに恋人がいて、そこへ行かなきゃ行かなきゃって焦ってた時にはわたしのことなんか目もくれずに、死ぬほど恥ずかしいのを思い切って、女の子の方からモーションかけたっていうのに、あっさりかわして恥かかせて。その恋人と会えなくなったと決まったとたんに色目を使ってくるなんて。
 その恋人さんの代用品に、わたしで間に合わせようってことなの? 馬鹿にしてるわ!
 そんな物語を自動生成してな、勝手に怒ったな。若い娘ってのは無邪気なな。ワタクシの娘もな、もう扱いにくくてな。…そんなことはどうでもいいな。
 男の体調が復してからもな、婆さんと男は二人きり一つテントで寝てたけどな。婆さん、それからもう紐でつながるは止めたな。それでも飽き足りなくて、次第に毎晩男が隣に寝てるだけでも、ちょっと動いたら身体が触れるような暮らしが堪らなくなったな。一時は自分の方から随分と入れあげたとあるのにな、勝手と言えば勝手な話なんだな。
 それで、ある夜、男が寝ぼけて習慣的に隣に寝てる婆さんの手を握ろうとしたとき、婆さんは起き上がって男を叩き起こしてな、そんなことを男に激白したな。
 あんた。エジプトへ行く大切な用って、…もしかして、結婚することじゃなかったの?
 それがな。図星だったな。
 何よ。エジプトが新しい王さまになったから、もうエジプトへは行けなくなったんでしょ? もう、そのお相手とも結婚できなくなったんでしょ? いくじなし! 本当に好きなひとだったんなら、たとえどんな王さまの国だろうと勇気を出して、行ってそのひとを助け出して来るぐらいの覚悟はなかったの? ヒッタイトじゃ許してもらえないけどエジプトでならそのひとを自由にできるから、なんてその程度の思惑で旅に出たの? それでいざ恐い王さまの噂を聞いたら、もう怖気づいて恋人との約束なんてどうでもよくなって、たまたま手近にいたってだけの、下らないけど都合のいい女で間に合わせようっての? 
 そうね。確かに都合のいい女よね、わたしって。砂漠の中で死にかけてるところをご親切に助けてくれて、無料で看病してくれて、しな作って言い寄ってくれて。
 その上、行くところも帰るところもなくなったっていえば、婿に迎えてまでくれるって。こんなお買い得な女、そうそう見つかるもんじゃないわよね!
 おあいにくだったわね。わたし、行き倒れ男の恋人の代用品で妥協しなくちゃならないほど、困っていないの。
 砂漠にだって、男はいるのよ。あんたみたいな生っちろい軟弱男じゃなくて、もっとがっちり逞しいのが、いくらでもいるのよ!
 このテント、あげる。わたし、父さんのテントで寝るから。
 広くていいわよ、一人なら。一人でうじうじ、恋人さんとの思い出にでも浸ってなさいよ。
 …最低!
 これだけのことをな。一気にまくし立てたというのだからな、よっぽどプライドを傷つけられたんだな、婆さんは。
 それがまた面白いのがな、この婆さんの妄想が、大筋では当たってたのだな、おい。
 男はな、
 その話… いったいどこで聞いて来たかは知らないが…
 エジプトへは婿入りの旅だったのは、事実だ。わたしは、どんなことをしてもエジプトへ行こうと決心した。しかし、これはあなたが想像してるような簡単な話じゃないんだ。わたしと、その女個人だけの問題じゃないんだ。
 わたしはその女から、国のためにと招かれて、会ったこともないその女の婿になることを決心したんだ、国のためなんだ。両国の民衆みんなのためだったんだ。わたしは、まだ見ぬその女がたとえどんな者であったとしても、心から愛して見せると誓って、国を出たんだ。
 でも、もう何ともできないんだ。
 軟弱者だと言うなら、その通りかも知れない。だからといって、行きさえすれば何とかなるというような、単純な話じゃないんだ。
 なんて、申し開きにこれ努めたらしいな。
 そのくせ、その詳しい状況となると、
 すまない、それは言えない。あなたたちが事実を知ってしまえば、あなたたちにまで災難が及ぶのだ。どうか、聞かないでくれ。
 の一点張りだったな。恋人ってのがどんな女だったのか、それも口を割らないんだな。
 そう。会ったこともない女? 国のため? ご大層なお話ね! そんな大義名分さえつけば、女なら誰でもよかったのね、やっぱり。…よっぽど女に相手にされなかったのね、国じゃ。
 そんなでは婆さんも、余計臍を曲げるわな。それでなくたって… なまじ一旦は惚れちまっただけに、…ええと、ジェラシー、か? …そうそう、それ。ヤキモチに火がついてるような婆さんなのだったな。
 …おい、卿。解って聞いてるんだろうな? 婆さんと言っても、この時はいい年頃の娘だったんだのな。そこの所は、暮々もよろしくな。
 それでしまいには、男はな。
 解った。あなたの父上に救ってもらってから、わたしはあなたに甘えすぎていた。わたしがここに転がり込まなければ、あなたにだって思い人の一人ぐらいはできていたのだろう。
 すまない。…今度町が見えたら、わたしはここを出て… いや、とにかくここからは出る。
 しかし、これだけは信じてほしい。あなたに愛を求めたのは、あなたが都合のいい女だからではない。助けてくれたからというのでもない。決してあなたのいう、間に合わせの代用品なんかだとは決して思っていない。

 もしもわたしが、あなたの父上に助けられたのではなくて、元気な身体であなたたちと道連れになって旅をすることになった者であったとしても、わたしは、あなたに惹かれたと思う。
 わたしは、あなたの、見も知らぬ行き倒れへの細やかな心遣いに、そこに何の欲得もないことに、惹かれた。
 そんな者を、真剣に守り、いたわることができるあなたの強い優しさに、素直に好意を感じた。…それだけは、信じてほしい。
 とな。
 はいはい、煽て上げていただいてうれしゅうございますわ、ふん!
  …いや、これはワタクシが言うのではない、婆さんが言ったのであるな。

それでな。婆さんは父親のテントに戻ったな。毎じつの旅だってな、男は婆さんとは別の駱駝を宛がわれてな、テントをくくりつけて、とぼとぼと一人、一家について歩くようになったんだな。婆さんは、もう男の方を見向きもしないな。口も利かんな。飯だって、家族には一人一人手渡して回ってもな、男の分は口も利かずにぽんと置いてぷいっと離れてしまうのであるな。
 父親は、喘ぎながら付いてくる男にゆっくり歩調を合わせてやりながらな、秋の空か女心かと苦笑してたのだな。ま、もともとどうしても婿にと言うほどのことでもなかったんだろうしな、そりゃどうせ婿が来るなら、同族の方が来年のことを言えば鬼が笑うというものな。
 でも、町なんてそうそう見かけるもんじゃないからな。男はそれからも、何となく一家にくっついて、不器用に羊や駱駝の世話を手伝いながら、飯だけ恵んでもらってるような旅を続けたんだな。
 
 そんなある日の、夕方な。
 ちょっとした疎林のあるの所で、またお友達さん一家と出会ってな。時間が時間だったんだな、合同で野営することになったな。…こんな薄汚いテントだってな、たくさん並べりゃけっこう壮観な。木の葉敷きてうついしてな、松明明く照らしつつ、宴ほがい賑わしやにやることになったな。
 それで父親が婆さんに、みんなを呼び集めて来い、と言いつけたんだがな、婆さんはわざと、男のテントには声をかけなかったんだな。仕方がないから父親が、男のテントへ誘いに行ったらな、男は
 せっかくのお仲間同士久闊を叙する機会と存じますので、異民族が混じってはお相手さまの気詰まりになるかと存じ、遠慮させていただきます。
 なんて慇懃に辞退したんだな。
 父親も、ありようは娘も男も顔をな、合わせたくないのは知っているな。お友達さんには、あのテントにもう一人、砂漠で拾った行き倒れの余所者がいるが、まだ弱った体が治りきらないので横になっています、気にせずおくつろぎになってくださいなんて挨拶したな。
 そ
れで、同胞と言っても普段は滅多に出会うこともない、総勢十何人の宴の始まりな。燃ゆる火を囲みつつ、管絃の響き賑はしく連れ立ちて舞ひ遊ぶってな次第でな。
 で、向うの一家の中にな、噺をさせれば面白いことは天下一だと名物男がいてな。そいつに、ぜひ何か一席って、皆が噺をねだったんだな。
 するとな、そいつはついこの間、一家から離れて、どこぞの隊商に紛れさせてもらってエジプト見物に行ってきたばかりなんだ、とな、その時の噺を始めたな。
 
 この中には、エジプトの都へなんか行ったことのある人はいないだろう。そりゃ、我々のようなのにはそうそう気安く行って来られる場所じゃないからね。俺だって最初はおっかなびっくりだったんだけど、そういう無茶ができるのも若いうちの特権だと思って、ある町の近くで行き合わせた隊商に混ぜてもらって、そこの頭の下僕ってことにしてもらったんだ。おかげで、俺たちの、普段の旅じゃ到底望めねえ、いろんなものも見物できたし、いろんな話も聞けたんだ。
 …そうだな。今日は仲間うちだけの宴だから、思い切って、取って置きの話をしようか。いいか、取って置きだぜ。というより、この話は、ヒッタイトやエジプトで口に出したらたちまち手が後に回るってほどの、ご法度の噂話だ。「恐れ多い」ってな。でも、この砂漠じゃそんな遠慮はいらねえよな。何てったって俺たちはどこの王さまにも媚は売らねえ、誇り高き自由の民だもんな。
 だからみんな、この先エジプト人やヒッタイト人に会うことがあっても、この話は聞かせちゃならないんだぜ。相手さんに迷惑がかかるってもんだ。
 で、その話だ。
 今度エジプト王になった男ってのは、随分な爺さんだそうだ。…え? …馬鹿言え、会ったことなんかないよ。俺なんかがそんな偉い人に会えるもんか。噂だよ、噂。
 でよ。その年寄りの王さまには王妃がいてよ。それが、子供みたいな若い王妃なんだとさ。年寄りの王が若い王妃を娶ったんじゃなくて、王妃ってのは前の王の王妃でな、その王ってのがまだ二十歳前だったとか言ってたが、頓死しちまったんだとよ。それで、まだ跡取りのなかった王妃が、婿に迎えて王に据えたのが、父親だって言っても年を取り過ぎてるような爺さんだったんだそうだ。
 いいよな、その爺さん。そんな孫ほどの若い美人と堂々と祝言を挙げて、その上、神さまだとまでみんなに尊敬してもらえるエジプト王の座がついて来たってんだからな。
 そんな爺さんを婿に選んだ王妃の方も、蓼食う虫も好き好きとか何とか、大変な噂のネタだったらしいぜ。
 でもな、本当は王妃だって、もっと若い婿が欲しかったんだよ。と言っても王妃の婿っていえば王になってもらうんだ、王妃の気に入った若い男前なら誰でもいいって訳にはいかねえよ。
 王たるに相応しい威厳と実力ってのかな、そういうのがなくちゃ失格だ。それも、うっかり滅多なとこから婿を取ったりしたら、それだけで政治勢力の均衡が根底から覆る、ってな大層な事情だろ。
 そこで、最初はな。
 王妃は母親の入れ知恵でな、ヒッタイトの皇帝に書簡を出して、向うの皇子を婿にくれって頼んだんだそうだ。よその国の皇子なら、とりあえずエジプト国内のしがらみとは無関係だからな。
 そりゃ、ヒッタイトにしたっていい話にゃ違いないんだが、それでもこいつは二の足踏むぜ。何しろ、ヒッタイトとエジプトってのは、今、戦の最中だってんじゃないにしろ、何かって言えば始終睨みあってる敵国同士なんだ。
 その敵国の王家に、婿が一人で乗り込むってことだぞ。…難しい地位だ。平和の礎、になれればいいが、失敗すれば本人が殺されるだけじゃすまなくて、両国間に戦争が起きる。
 それでもヒッタイト皇帝は、何とかかんとか、まあ当てになりそうな皇子を一人都合つけて、こいつが王妃の婿だ、ってエジプトへ送り出したんだそうだ。
 その皇子っての、皇子ったって妾腹で、うだつの上がらない二流皇子だったらしいが、たまたま独身の皇子ってのはそいつしかいなかったんだってよ。だからまあこの際、こいつで間に合わせりゃいいか、ってなもんで、皇帝に目をつけられちまったんだ。
 でも、その独身皇子にもな。国にゃちょっと思いを寄せてる女がいたらしいんだ。一時は、その女と駆け落ちまでやらかしたってんだよ。でも結局は兄貴にばれちまって否応なく連れ戻されたってんだが、仮にも皇子さまってほどのお方がだよ、まともな祝言も挙げずに駆け落ちしようってんだから、おおっぴらにゃ結ばれちゃならねえ関係だったんだろうな。それでも、そこまで思い詰めた、女がいたんだぜ。
 でも、皇子ともなりゃそんな、個人的な好いたの惚れたの我を通してる訳にもいかないんだな。皇帝に婚姻を決められちまったら、もう文句は言えないんだ。
 そりゃよ、下々から見りゃ、いい年齢まで独身で遊び回った挙句、向こうから頭を下げて頼み込んできた縁談で、やんごとない若い美人の妃を貰って王にしてもらえるってんだから、それこそ「逆玉」ってもんだよ。権力だって財宝だって望み次第だ。
 でもな。…おい、そこの若いの。おまえだって男だろ、こんな話が舞い込んできたら、そりゃ願ってもない、なんて、ほいほい乗れるかい? 
 まあ、「少年よ、大志を抱け」なんて言うしさ、男と生まれたからには王者を夢見る、平和の礎だなんて理想に燃えるってのは、いいことだよ。その気になりゃ、てめえの舵取り一つで世界を動かせるってな、でっかいシゴトもやれるんだ。
 けどな。
 王になるったって、てめえの腕と度胸で伸し上がるんじゃない。ただ親の七光りだけで選んでもらった入婿だぜ。…こりゃあんまり様にならねえよな。
 それに、向こうで待ってるのはいくら若くて美人だなんて評判だって、お高く止まった再婚の家付き娘だ。おまけに、おっかない姑さんまでついてるってんだ。王位の方も保証付きだが、嫁さんの尻に敷かれるのも保証付きじゃねえか。相性がいいとか悪いとか、話してみる機会もないとなりゃ… 二の足、踏むよな。
 それより何より、てめえには好きな女がいるんだぜ。そっちの方はどうすんだよ。一度は駆け落ちまでやらかしたほどの女と、生木を裂くような別れを強いられたんだぜ。辛いじゃねえか。せつないじゃねえか、え!
 俺、自由な民でよかったよ。家来なんて持てなくても、宮殿なんかにゃ住めなくても、…好みの女の子を見つけたら気軽に声かけて、それで気が合ったら心許しあって、なるようになるならなるようになって、ひっそりとでもいいから仲間の前で祝言あげて。その方が、納得いくよな。
 …おい若いの、そんな大層なご身分に生まれなくてよかったな、お互いに。
 ま、俺たちのことはどうでもいいとして、だ。
 何せ皇子の婿入り行列が、エジプトへ向かったんだとよ。
 ところが運悪く、砂漠の真ん中で遭難しちまったらしくて、いつまで経っても約束の場所へは姿を見せなかったんだと。そりゃヒッタイトからエジプトの道中だ、砂漠を通るなったって無理な話なのは、お宅さん方もよく知ってるだろ。でも、仮にも大切な皇子さまの婿入りだ、少々遠回りでも、確実な道を考えるわな。それも皇子さまのことだ、食糧や水だって不自由はねえ。それに季節も天気も悪くねえ、って中で、わざわざみたいに行方不明になったってんだ。
 そうなると、普段からあんまり仲のよくねえ国同士じゃねえか。それまではうまく話が進んでたからいいようなものの、ちょっと何かあったら、もう日頃の不信が噴き出すんだな。お互いがお互い、こりゃあ相手の陰謀だと思い込んじまったんだよ。
 それでどこかの、最初の婚礼が予定されてた国境とやらに、両方の将軍やら皇帝やらが出張ってよ、兵隊同士が睨みあって罵り合ってよ。こうなりゃ間違いなく、お互いの沽券を賭けて全面戦争だ。
 とうとう、どっちのか知らねえが、血の気の多い方の大将が、やっちまえ、って号令をかけた!
 そこへ、だ。
 「その戦、しばらく待った!」って。両軍の間に馬で割って入った奴が二人、いたんだよ。
 格好いいじゃねえか。もう突撃にかかってた双方何千ずつかって大軍勢を、たった二人が気合と大音声でぴたりと押し留めたってんだからな。
 そいつら一体何者か、ってな。
 実は実は、片やヒッタイトの、花婿に随行してた家来の一人。それもなぜか背中に矢を突き立てたままと来てる。片やエジプトの若き軍人、そのヒッタイト人を護衛して、そこまで送ってきたんだというんだよ。
 それで全てが明るみに出たんだ。
 何でも花婿が遭難したのはヒッタイトの内輪もめでな、皇子に婿入りされちゃ具合の悪い何とかいう奴が、刺客を送り込んで随員全員もろともに、皇子を暗殺しちまったんだっていうじゃあないか。
 その中で、何たる奇跡かただ一人、命拾いした随員が、茫々漠々果てしなき、砂灘の中にただ一人、背中にぶすりと矢を突き立てたまま天を仰いで神に祈った。
 おお、わが神テシュプよ大神よ、皇子殿下の一大事、皇帝陛下の御許へ、お知らせするこそわが使命。これ果たせずばよもや我、二度と生きては帰るまじ。重き使命を果たすまで、仮令わが身の朽ちるとも、せなの矢傷は手当てせじ、なんて誓いを立てて、背中の痛みに打ち耐えて、傷つく愛馬を叱咤して、単身北へと向かったんだな。
 たまたまそこを、ちょいと粋なエジプト兵が一人、通りがかったんだ。で、背中に矢を立てた奴がよろよろの馬でさまよってるってんで、こりゃ気の毒にと近づいて、もしもしそこの旅人さん、その矢傷では難儀だろ、旅は道連れ世は情、どれどれその傷、見せてみろ、ってな。
 なのに手負いの旅人は、固く手当てを辞退する。これはさぞかし深い訳、なくはあらじと事情を聞いた。
 聞いてしまったエジプト兵、あな敵ながら忠臣よ。ここで出会うも他生の縁、及ばずながら助太刀せん。偉大なホルスよわが神よ、この忠臣のこの誓い、御許に届くにあらざれば、われまた生きては帰るまじ、なんて、自分も誓いを立てたってんだな。
 …いい話じゃねえか。国と国とはいがみ合ってたって、赤の他人の意気に感じてわが命まで賭けてやるってな、これが義侠ってもんだよな。何しろ、そんな死に損ないに付き合ってたら、自分の方が日干しになりかねないって砂漠だぜ。
 でも、その忠勇と義侠が相俟って、天を衝き動かしたんだ。二人の誓いは、見事に神に届いたんだ。

 ま、結局はヒッタイトの国内問題だったんだから、判ってみれば大したことでもないわな。ヒッタイトは自分のとこのいざこざで王妃との約束が果たせなくなったこと、潔く頭を下げたんだ。エジプトの方でも、国内にも外国から王を迎えるなんて話にゃ反対の奴もわんさといるから、こんなことになっちまったってのにどうでもヒッタイトの皇子を、なんて言ってもいられなかったんだろう、今回の話はきれいさっぱり御破算、後腐れなしってことで、円満にけりがついたってよ。
 ってのも、皇帝への報告にわが命を引き換えようって忠臣を、義侠のエジプト軍人がこれまた命賭けで送り届けたって美談に、皆感じ入ったんだな。今の今までに剣に手を掛けて睨み合ってた双方のお偉いさん方も俄かに手を取り合って友好ムードだ。その勢いで、これまでの恨みつらみは水に流して手打ちにしようって話までまとまったんだ。
 そんなわけで、新しいエジプト王には経験も人脈も豊富で、偉い神官だってんで人望も厚いその爺さんが適任だってことになったらしい。何でも、前の王が死んだってのには暗殺だなんて噂もあってな。世情は騒然としてたから、結局は若くて威勢ばかりのいい王よりも、そういう睨みも利きゃあ貫禄もある、大物の方が頼りになったんだろうな。
 でもまあ、皇帝だ王だなんて奴らはな、なんたって面子が第一だよ。一旦決めた縁談がポシャったなんて様にならねえ話自体をご法度にしちまってな。この美談だって、大っぴらには口にも出せないんだとよ、あっちじゃあ。
 でもな。
 その皇子、背中からまともに矢だか槍だかを受けて死んだんだそうだが、下手に生きてなくて幸せだっただろうな。何でも皇子は、婿入り支度にどこかの知事か何かって割のいい仕事もやめて、身辺奇麗に片付けちまったし、鳴物入りのお祭り騒ぎで送り出して貰ったんだ、今さらどの面下げてヒッタイトへ帰れるかよ。帰ったって、もう居場所なんかありゃしないんだ。
 だからってエジプトへ行っても、再婚した王妃の元婚約者なんか、王妃にも王にも迷惑がられるだけだ。それどころか、その爺さん王に敵対する勢力に担がれたら、今度はエジプトの内戦の元になっちまう。臭い物には蓋、いいとこ、改めて抹殺されるのが落ちだな。どっちの国にしても、死んだことにしちまった以上、何かの間違いでどこかで生きてるってんなら、どこまでも追い詰めて、密かに闇に葬っちまわなきゃ、格好がつかねえんだよ。
 ま、無事に死んで、悲劇のヒーローでいられるのが、せめてもの救いだろうよ。…もっとも、砂漠の真ん中のことだからな、砂嵐にでも沈んだか、屍骸は出ずじまいだったそうだがな。
 きっとそいつ、男の中の男だったんだろうな。国の期待に応えて、てめえの気持ちをぐっと抑えて、言ってみりゃ貧乏籤を引き受けて、たった一人、見知らぬ国へ乗り込んでったんだ。
 でも俺にすりゃ、やんごとない皇子さまなんてのは、しょせん雲の上のお方だ。それよりも、やっぱりそのエジプト兵だよ。話を聞いて、その男気にぐぐっときたねえ…

 この話をよな。婆さん、最初はみんなと鯨飲馬食しながら、ほうほうって岡目八目聞いてたな。でもしまいに呆然として、椀も匙も取り落として、わなわな震え出したんだな。
 父親も、そこまで聞いてまったらわが娘が何を考えぬか、ぴんときたな。一家の者も、訳が解らんも異様に気がして、当惑顔で父親を見たな。それで父親は、何食わぬ顔で、
 ははは、娘ときたら調子に乗って、飲みつけない酒を過ごしたようだ。寝かせてくるから、ま、皆さんごゆっくり。
 全く、手間のかかる娘だ、ははは。
 とか何とかお友達さんの手前を取り繕って、婆さんを自分のテントに引っ張り込んだんだな。
 その噺上手の男もな、ただでない婆さん一家の奏でぶりを見てな、しまった、と慌てたな。ここになって初めて、宴には出て来ずでも、すぐそこのテントに行き倒れがへたってるって聞いたのに思い至ったんだな。それかなのに、生きてなくて幸せだったよな、なんて、その行き倒れを皮肉するような言い方をして回したんだからな。
 で、さしもの噺上手もばつが悪くなってな、何やらぼそぼそ噺に下げつけてな、すごすご引っ込んだな。
 で、父親はテントの中で、わなわな震えておる婆さんを座らせて、諭したんな。
 滅多なことは口に出すな。知らぬ顔でおれ。知らぬ顔ができないなら、あいつらと別れるまで顔を出すな!
 翌朝、東空が白んでな、夜の姿がかき失せた頃、鳥もねぐらを離れて鳴いてな。
 お友達さん一家はまた、別の道を旅立って行ったな。残ったのは、婆さん一家だけだな。
 婆さんは、待ちかねたように男のテントに飛び込んだんだな。
 びっくりして立ち竦んだ男は、婆さんを見詰めたな。いくら余所者だって、ちったあワタクシらの言葉も判るようになってるのだ。夕べの話も、大抵聞こえてたんだな。
 婆さんは、口を開いたな。
 あなた… 生きていては、いけない人なの?
 
男は、うろたえてな。突然な、ちょうどその辺に束ねて置いてあった細引をひっ掴んでな、だっ、と、飛び出そうとしたな。…枝振りのいい木でも探そうとしたあるな。
 婆さん、はっとして、男の前に立ちはだかって、自分よりも二周りも大きな男に体当たりして、男の意図を阻んだな。そして、二人ながらにどうっ、と、地面に倒れたな。

 男は、やがて顔を上げて、何か言おうとしたな。それを阻むように、婆さんは叫んだな。
 言っちゃだめ! 言わなくていい! 言わないで!
 婆さんは、男に馬乗りになったまま、縋りついたな。

 いいの! 何も言わないで!
 
大変だったのね。
 つらかったね
 せつなかったね。
 でも、生きようとしたのね、せいいっぱい。
 なのに、ごめんね。わたし、何にも知らないくせに、ひどいこと言って。
 もう、いいよ。もう、生きていていいのよ。
 どこの国で何があったって、わたしがあなたを死なせはしない。
 死なせるために、介抱したんじゃない。
 あのとき、あなたが死の淵から逃れられないのなら、わたしも同じ渦に巻き込まれようと思った。それが、運命だと思った。
 なのにあなたは、こうして今まで、生きていてくれた。
 それが、運命だったのよ。

 こんな 砂漠のまんなかで
 宝石も、御殿も何もないけれど
 王さまには、してあげられないけれど
 生きて。

 わたしがここに いるから。

 で、後はよくあるラブストーリーのハッピーエンドな。婆さんの方も、一生懸命ヒッタイト語を覚えて、男と意思疎通に遺漏なきを図ったよ。
 その男も、たぶん男前だったのなろうがな、…何しろその孫がこの男前なのだからな…婆さんだって、案外明眸皓歯だったんだろうな、若い砌は。何しろどの頃、ベドウィンの女は美人が多いってのが評判になるでな、わざわざ作務をないがしろにして、ないすばで〜の見物にやって来た軍人までいたらしいからな。婆さんだって、そのベドウィンの女に違いないな。
 そして、程なく生まれた一粒種の娘がおがって、ワタクシのママとなりたな。
 え? ワタクシのママか? …ワタクシが生きて生まれたのと引き換えに、その時死んだな。故にワタクシが「おばあちゃん子」になったな。
 
 とまあ、斯くの如き話な。
 だからワタクシ、卿の主君筋に当たるやんごとない砂漠の民な。…はは、ぎょっとするなくてもいいな。これは冗談な。
 ワタクシはな、何かの都合でよその皇室の血なんて混じっていようといまいと、何の値打ちも感じはしないんだな。
 えっ? どこかで似たような話を聞いたことがある? そんなことがあらないわな。あんなロマンチックな目に遭った奴はそんなにごろごろおいでまさないな。
 …信じないかな… 第一、ワタクシがこないして、ヒッタイト人の卿とも… ううむ…「十二分に意思の疎通が叶う」ほどヒッタイト語の話せるのがな、正に婆さんの霊験あらたかの確認事項だな。疑うなかれな。…ワタクシのヒッタイト語、そこはかとなく皇子譲りらしい気品漂わんかな?
 しかし、長い長い人間の歴史の雷な。こんな話も案外、あちこちに転がってるのかも知れないな。
 え? どこまで本当かって? さあ…? ワタクシが生まれる前のことな。それはあの世の婆さんに聞いてくれな。
 どうだっていいな。ま、一つのfantasyだと思えはいいな。…婆さん、おとぎ話は得意だったからな。
 ワタクシだってこの齢だな。孫にもこの話を聞かしてやるけどな、如何せん、羽衣をなくした天女の話とかと同列にしか理解してくれんな。
 ああ、その爺さんもな、ワタクシが生まれるちょっと前に死んだな。何しろ、胸が片方潰れてだからな、孫の顔を見ようかなというまで生き延びた方が不思議の平左だな。
 でも爺さんはな、最期に言ったな。婆さんに看取られながら、ワタクシたちの言葉でな。
 …風が舞いあがる
 乾いた砂を巻き込んで
 熱い風が舞いあがる
 
 ヒッタイトを忘れたわけじゃない
 だけど…
 わたしの生きる天はここにあった
 この天の下にわたしは生きて
 いま この砂の海に還るんだ。
 わたしの生きた天は この広い砂漠
 そしてこの 砂の大地!!
 
 あなたがいたから
 わたしはこの砂漠に残った
 あなたが この世界のすべてだった。
 …とても しあわせだ。
 その後、婆さんはもちろん、一家にいたママも、兄弟たちも、男の素性の話は一切するな、って、父親に固く固く口止めされたまま、みんなもう、死んでしまったのな。
 婆さんに直接会ったことがある最後の人間であるこのワタクシが死んだら、この話も、完全に「伝説」になっちまうんだろうから、な。

 
…さ、そろそろ晩安なよ。明日はここを畳んで、また旅だからな。
 町? ああ、当分そんなものは聴取できずと思わるるな。
 心配するな、なんくるないな。そのうち、どこかの隊商と出会ったら、ちゃんと卿のことを頼んでやるな。そこから先は、どこか町に住み付くもよし、ヒッタイトへ帰りもよし、卿の好きにするな。
 ワタクシなんかは、町の人ではあらないからな、一つ所へへばりついて一生過ごすなんて、とても性に合わないがな、卿にゃ卿の習性が存するであろうから、な。
 でも、せっかくの驚天動地な。この機会に、卿もワタクシたちの言葉、少し覚えて行くといいな。卿はまだ若いな、昨年、役立たぬかも判ったな。
 …ただな、国へ帰ってもこんな話、仲間には聞かせざる方がいいな。気が狂ったと思われる汗牛充棟だからな。…もしかしたら、まだご法度が続いてるかも知れんしな。
 ヒッタイトの諺にもあるんだろ、「商いは牛の涎」とな。
 …え? 違う? …やっぱり難しいな、ヒッタイト語は。


このお話は、語り手がふと触れている「ヒッタイトの皇帝の娘がエジプト王に嫁入りするとかしたとか」という「噂」から、原典で言えば「オロンテス恋歌」に描かれている頃のお話であろうと思われます。
 今回の語り手は、第7巻・156ページでハットゥシリが話の引き合いに出している<砂漠の民>の古老なのですが、砂漠で見かけた遭難者を救助した、それがたまたまヒッタイト人だというので、少年時代、祖母に教えられたヒッタイト語で、その祖母から伝え聞いた話をたどたどしく披露しています。
 この古老、祖母から「ヒッタイト語」を習ったとは称しても、実際にそれを話したり聞いたりする機会などほぼ皆無だったようで、その後断片的に覚えた他言語と混淆してしまっている様子も窺われます。それでも大体の事情は察することができる、というのは、我々が「たどたどしい日本語」を聞いているのと同じことなのでしょう。
 そのため、本稿起案に当たっても、「噺」の部分以外には敢えてことばの誤用や混用を織り交ぜ、聴き取りにくい「たどたどしさ」を演出してみました。伝聞の中にさらに伝聞を織り込んだ構成を「鉤括弧なし」で流してみたのもその一環なのですが、それでも一応話の筋は通してありますから、「読み返す」ことができるところが「文字による記述」の便利な所です。
 また、原典中には極めて簡単にしか触れられていない<砂漠の民>や<ベドウィン>などという人たち、当筆者はこれがどういう人たちで、当時の現地でどんな暮らしをしていたか、原典の記述から窺える以上のことは知りません。

 それはそうと、原典第7巻・181ページに、背中から槍を受けたハットゥシリが倒れている場面が描かれています。しかしその死亡を確認した者があるという話は… ついぞ聞きませんな。それがこの古老の話と関係あるのかないのか、これも当筆者は知りませんが。


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