睡蓮の池のほとり


親 友


 日もとっぷりと暮れた。
 クニの入口に当たるこの峠には、留守を守る少年等の手で、赤々と篝火が焚かれている。その熱さを背中に感じながら、肝煎は暗い山道に眼を凝らしていた。
 すると、闇の中からまた、人影が現われた。二人連れだ。痩せた男が、がっしりとした大男に肩を貸し、脇腹から流れる血が脚に伝い、山道に点々と滴らせながらよろめき歩く大男は、それでも後生大事に、血糊の付いた褐色の剣を抜身のまま握り締めていた。
 松明を握って駆け寄った肝煎の姿を認めると、痩せた男が泣き声を出した。
 「き、肝煎ぃ… 兄貴が、兄貴が斬られたんだよぉ… 頼む、治してやってくれよぉ。死んじまうよぉ!」
 「ああ、もう心配はないぞ。…ご苦労だったな。さ、早く長老の家へ。医者先生が待ってくれているぞ。」
 「すまん、肝煎ぃ… あんたの見込んだとおりになっちまったぁ。負けちまったよ。折角のアリンナを、皆追い出されちまったんだ…」
 「ああ、構わない、構わない。兄弟して生きて帰っただけでも大手柄だよ。
 おい、坊たち。早く戸板だ。早く兄ぃを医者先生の所へ運ぶんだ。」
 肝煎が、谷間の村の長と交代してここに立ってからでも、百四十三人目の帰還者、そして三十五人目の怪我人だった。いや、三十五人の中の八人は、この峠に着いた時点でもう事切れていた。
 もっとも中には、敵が射た矢を一抱えも拾って来たり、見覚えのない馬を十頭程も連れて帰ったりする者もいる。敵の戦車に麦の袋を積み上げ、その状態で、到底戦車の行動には適さない山道を遥々と乗って帰って来た者まであった。本人は意気揚々としていたが、こうなると、一体何をしに行ったのか解らなくなる。そんな物資等、将来のある若者達の命と引き換えにして貰わなくとも結構だ。肝煎は、そう思った。
 惨い。だから肝煎は止めておけと言ったのだ。しかし、民はおろか、主だった長たちまで一緒になって、死んでもいいからアリンナの神殿へ、と熱に浮かされだしては、長老にも抑え切れなかった。肝煎が、いかに理を尽くしてその無謀を説いても聞いては貰えなかった。
 皆カシュガの大切な働き手なのだ。いや、それ以前に、皆親があり、女房があり、子供がいる者ばかりなのだ。
 何もこんな無用の戦まで起こさなくとも、あいつが今、こつこつとアリンナへの道を切り開いてくれていると言うのに。

 クニの方から、ばたばたと足音が聞こえて来た。振り返ると、谷間の村で一番の腕白坊主だった。
 「き、肝煎ぃ。どうしよぉ、先生が、薬草を探して来いってよぉ。…この夜中に、どこを探しゃいいんだよぉ。」
 「薬草だと? 何の薬草だ。」
 「傷薬に決まってるよぉ! 手負いの兄ぃが多すぎてよぉ、あちこちの村から集めてあった藜をよぉ、みんな使っちまったんだよぉ。」
 「そ、そうか。いや、落ち着け。落ち着いて手を打て。」
 「暢気な事言わないでくれよぉ。うちの父ちゃんの分もないんだよぉ、死んじまうよぉ!」
 「暢気なものか! 何人か連れて、わたしの村の差配の家へ走ってくれ。納屋の軒下一杯に熊葛が干してある筈だ。あれも傷薬になる。全部貰って来い。それが済んだら、崖っ縁の婆さんの家、あの裏手に生えている吾亦紅も刈れるだけ刈り取って来い。あれも傷に効くし、精がつく。婆さんが文句を言ったら、後で肝煎に訴えろ、と突っぱねていい。」
 泣きながら走ってきた少年は、返事も忘れてまた、松明を掲げながらクニの方へ取って返して行った。
 またもうすぐ、今度は傷に当てる布が足りないと言って来るはずだ。事前に調査しておいた備蓄量では、目箒草も直に底をつく。クニにただ一人の、あの医者先生の事だ、もう助からないと判っている者にも、律儀に薬を練っては手当をしているのだろう。そういう医者先生だからこそ皆慕っているのだが、このクニには初めから、一度に多数の戦傷者を治療できる態勢等、整ってはいないのだ。
 肝煎は、溜息をついて天を仰いだ。明朝までに、全員戻ってくれるだろうか。いや、それは望めない。もしかすると、送り出した男達の半数以上は戻らないかも知れない。
 長の一人が、日が昇れば、ヒッタイトの奴等がここまで攻め込んで来るかも知れない、と言って、無傷で戻った男達を連れてこの峠にやって来る手筈を整えたと伝えて来た。それでも、疲れ切った男達と、まだ腕も細い少年達とでは、到底ヒッタイトの精兵とは渡り合えないだろう。
 もっとも肝煎自身は、今、ヒッタイトがここまで来襲する恐れはない物と踏んでいた。

 肝煎は、カシュガでは数少ない識字者の一人だった。若い頃、遠くメソポタミアからやって来たと言う隊商について旅をした事がある。その時に、文字を学び、そして商業を経験し、見聞を広めたのだ。自分でも、カシュガでは第一の知識人だと思っていた。そう、あくまでもカシュガでは、だ。
 肝煎には、現在の己がクニの状況がよく解っていた。
 古来、この地域には「国境」等なかった。それぞれの一族がそれぞれの村に拠り、同族の村がいくつかまとまったのを漠然と「クニ」と称び、そのクニ内での自給自足で素朴に暮らしていた。たまにクニ内で争いが起こっても、精々血の気の多い若者が得物を振り回した挙句に怪我をして帰って来る、そんな程度だった。戦と言っても、狩をしても獲物も少ない農閑期だけの物だった。種蒔きの時期ともなれば自然休戦だ。そのうちに知らぬ間に仲直りができていた。
 それが、変わったのだ。ヒッタイトが、勝手に「帝国」と称して、大国気取りで周囲に睨みを利かせ始めたからだ。それも、メソポタミアあたりの強国に憧れての事だろうが、少なくともカシュガでは、そんな事を認めたとは誰も思っていない。
 なのに、ヒッタイトは一方的に、誰の物でもない地面に線を引き、「国境」だと称した。その頃のカシュガの長老が、国境線の画定に同意した事にはなっているが、もともと国境だの国境地帯だのと言う明確な概念もないクニに、完全武装の軍隊がやって来て、予め自分等が用意してきた条約への調印を迫ったのだ。訳も解らないまま事を穏便に済ませようとすれば、要求を呑む以外になかった。そんな物は交渉とは言わない。脅迫だ。

 クニの方から、どやどやという足音と、騒々しい喋り声が聞こえてきた。振り向くと、点々と不規則に前後する松明の群が近づいてくる。
 「肝煎ぃ。守りを固めに来たぞぉ。」
 「おう、長。何だ、戦帰りの若い者は、まだ戦えるのか? 疲れていないのか。」
 「何の。皆、元気な物だぁ。討ち死にした衆や、手負いの者らの分まで、存分に戦ってやるわぁ。なあ、みんなぁ。」
 長の呼び掛けに対して、手に手に得物を握った若い者らが、「おうっ!」と鯨波の声を上げて見せた。
 「そうか。結構な事だ。…まあ、がんばってくれ。」
 「任せろぉ。去年の戦でも、ここから内へは敵を一歩も入れなかったんだぁ。だから肝煎ぃ、おまえみたいな生っ白いのは、危ないから退ってくれぇ。
 …実はなぁ、長老からの言伝だぁ。肝煎には、討ち死にした者の弔いで捧げる挽歌を詠んで貰って、後は何だったかなぁ… ああ、これからのなぁ、戦の後始末の算段をぉ、今すぐにでも考えて貰わんといかんからぁ、峠の番はわしが代われとよぉ。」
 「判った。では長、その算段、わたしは家で考えるとしよう。もちろん、挽歌も思い切り立派なのを詠んでやる。 …すまんが、おまえ、誰かを長老の家に走らせて、そう伝えてくれ。わたしは家に帰っている、と。」

 肝煎は一人、松明を掲げて家に戻った。道々、何人もの男と擦れ違った。控の弓弦がどうの、拾った矢の修繕がどうのと声高に話し合っている所を見ると、やはりこの者等も戦う心算らしい。我が家に辿り着くと、もう夜中だと言うのに、女房も娘たちも、出払って蛻の殻だ。恐らく皆長老の家へ、炊き出しや怪我人の手当に駆り出されたのだろう。あれだけの怪我人、ただでさえおっとりとした医者先生一人で手が回る筈がない。
 松明の火を灯台に移して、肝煎は書院に腰を落ち着けた。そして、暗い天井を見上げると、大きな溜息をついた。
 あの長もよくやる物だ。あんな連中を引き連れて、まだ本当にヒッタイトと渡り合う気でいる。若い者等が、半裸の野良姿その物なのはいいとしても、歩調も取れず隊伍も組めず、隣近所同士で何となく固まっているだけの部隊編成。それだけでもヒッタイト軍とは格差がありすぎる。
 第一、このクニの「軍勢」には、定まった指揮官すらいない。偶々居合わせた長か年嵩の者が、その都度悠長に相談しては行動を決定している始末だ。そういう集団を「烏合の衆」と称ぶのだ。
 そんな肝心な所さえ、このクニの者は碌に自覚していない。
 何でもこの度の戦では、事もあろうにヒッタイト軍に正面から会戦を挑んだらしい。挙句、何やら判らないが子供騙しのような奇策を仕掛けられ、手もなく蹴散らされた様子だ。情ない。
 このクニの兵は、皆残らず土民兵だ。普段は畑を耕し、鳥獣を狩り、漁をする暮らしの者が、戦の時だけ兵として剣を執るに過ぎない。人間を斬る訓練等、やっていないに等しいのだ。まあそんな訓練、しなくて済むならその方が長閑でいい。
 しかし、ヒッタイトは違う。生産性の高い農地と、商業による活発な物資の流通を背景に、軍人は軍務に専従し、年中、朝から晩まで戦の稽古をしている。当然、普段から有事即応の戦闘序列も構成でき、維持できる。その上、畑仕事等は農民に任せておけばいいから、どんな農繁期でも戦ができる。武器や軍装にしても、必要なだけ生産し、潤沢に買い入れて貰える。 …玄人だ。こちらの素人兵では太刀打できる訳がないのだ。
 といって、カシュガに常備軍を創設する余裕があるか。ない。そんな事をして、野良に出る男の数が減ったら、ただでさえ固い、痩せた土の畑は、忽ち元の荒地に戻ってしまう。ここは、四通八達の商業地でも、大河に抱かれた肥沃な地でもないのだ。そんな土地で、カシュガは天から与えられた物だけを有難く享受して、慎ましく暮らして来たのではなかったか。
 一人一人を見れば、このクニの男達とてヒッタイトの兵に負けてはいない。皆、女房子供や年寄を養う為に、毎日、畑で鋤や鍬を振るっては力をつけ、石斧一丁、槍一本で熊や野牛を狩っては実地に腕や度胸を鍛えているのだ。
 だが、狩猟と戦は違う。単なる腕自慢の集団と軍隊とも別物なのだ。
 
 だから、戦になるのは目に見えているアリンナ行きを止められないと悟った時、できる事なら勝って、皆元気で帰って来て欲しい、責めて少しでも軽い敗け方で帰って来て欲しいと、わたしは皆に、狩で鍛えた感覚をそのまま活かせる戦法を奨めたのだ。
 夜陰に紛れてでも、物陰に潜んででもいい、敵の様子をよく見て、根気強く、気を抜いた敵から順に、一人一人討ち取ってゆく。いわば「人間狩り」だ。それなら、普段の狩とは違って、獲物を村まで運ぶ心配をしなくていい分、反って手間も少ない。こういう戦法を、「ゲリラ戦」という。そうしていると敵の間には個人的な恐怖感が蔓延し、神経を擦り減らして戦意が低下する。そのうち、何かの拍子に敵将その人が油断を見せてくれれば儲け物だ。敵将を討ち取れば敵軍は瓦解する。そう助言してやったのに。 …馬鹿者共め。
 
 カシュガの連中の気の荒さに引き換え、ハッティ族の連中は見上げた物だ。ハッティは、カシュガと比べても桁違いの少数民族だし、本拠地のアリンナは早々にヒッタイトに併合されてしまったが、徹底して隠忍自重し、自分たちの産業の強味を最大限に活用して、ヒッタイト治下に於いても立派に、民族としての独立した自治権を確保している。
 とは言え、ヒッタイトの手先の市長を相手にして、長のタロス殿も苦労が絶えないようだ。跡取り息子を第三皇子に仕えさせて、いずれはその皇子を後盾に得ようと画策しているらしい。きっと、元気で頑張っているのだろうな。赤ん坊の頃に一度顔を見たことがある、あの跡取り息子も…
 
 そうだ。同じような目論見ではないか。
 ズワがクニにいてくれたら。アリンナ行きの相談等、腕ずくででも捻じ伏せてくれただろう。
 あれでもズワは、昔から物解りが良かった。
 もう、あれから何年になるかな。共に少年だったズワとわたしは、偶々クニを訪れた、メソポタミアからの隊商に憧れて、その見習に加えて貰った。わたしは、少しでも広い、深い知識が欲しかった。ズワは、冒険に憧れてうずうずしていた。そして、何年もかけて世界中を巡ったのだ。まあ、今から思えば大変な重労働だった物だが、あの頃は若かったから、旅の厳しさ等苦にもならず、行く先々で出会う人々の話や、田舎者には珍しいばかりの風物に夢中になれた。
 わたしは特に、国ごとに違う言葉や掟、貧富の差という物に関心を抱いた。そして、それぞれが余裕のある物を処分し、足りない物を調達し、互いが満足しあえる手段である商業というものに、そして、その媒介となる金というものに関心を持った。金を通して世の中を見ると、これまでは気付かなかったいろんな駆け引きや、力関係が眼に見えて来た。
 勿論、あらゆる方面の知識や情報も、貪欲に頭に詰め込んだ。しかしそれ以上に、クニにいては決して見えなかった、「世界の仕組み」という物が理解できた気がする。
 ズワは、そんな七面倒な勉強は嫌いだとそっぽを向いていたが、あいつはあいつで自分なりの大発見をした。
 腕っ節という物に、「商品価値」がある事を知ったのだ。金はないが腕には覚えがある、と言う者が、金はあるが腕力はないと言う者の身の回りで用心を引き受ける。
 カシュガのクニ内でなら、弱い者がいれば近所の者が用心をしてやる位は、当然の事だ。それは、商売でも経済活動でもない。
 都会では、この用心という物が金になる。そうすれば、互いの強味を活かし合い、互いに満足できる。結局は二人とも、覚えたのは同じ事だったのだ。

 もっともわたしは、ズワと違って狩や喧嘩は生まれつきの苦手だから、品物等碌に持っていなくても、自分の腕っ節を本気で売物にしようと志せるズワを、羨ましく思った。
 ズワはズワで、相当高度な知識や、難解な物事の仕組みでも、少し考えれば大抵は呑み込めたわたしに一目置いてくれた。あいつがいろんな武術に汗を流している間に、わたしが読み書きを習得した事を知ったズワは、素直にわたしを賞賛してくれた。互いに、いい友達だった。
 
 クニに帰ると、ズワは、その腕っ節と度胸と、クニでは珍しい外遊の経験を買われて、自分の村の長になった。わたしはちょっと気が弱くて、村の長など勤まりそうもなかったが、同じく外遊の経験と、そしてその中で身につけた学識を買われて、まずは長に準じた格と言っていい、村の世話役に推された。それがこの「肝煎」という役だ。それ以来、わたしは村の、そしてカシュガのクニ全体の、書記のような役も兼ねている。
 ズワは、長とは言っても、細々とした判断をそつなく下して行くという性格ではない。それを自覚しているから、村の決め事は皆で話し合って纏めさせ、自分は体を張ってもその責任だけは取ってやる、と言う、豪放な姿勢を通していた。
 やがて、ヒッタイトからの外圧が強くなり始めると、ズワは自分の村の仕事をわたしに兼ね勤めるように頼みに来た。そして、自分はクニ中から威勢のいい若者を募り、大胆にも直接ハットゥサへ乗り込んで行った。わたしにはとても思い切れない豪胆さだ。
 今、ズワは、ヒッタイトの皇妃とやらに取り入って、昔、旅で学んだことを実践している。この物騒な世の中だと言うのに自前の兵力を持ち合わせない皇妃と契約を結び、皇妃に兵力を提供しているのだ。そして、その報酬として受け取れるだけの金を受け取り、クニに送ってくる。実の所、ズワの仕送りは、貨幣経済が未発達のこのクニでは最大の現金収入だ。
 その金は、ヒッタイトからの侵略に対抗する為の、兵器類を整える財源として立派に活用させて貰っている。この度の戦支度も、この金に拠る所が大きい。ヒッタイトの奴等も、我等の兵器が、元はと言えば自国の皇妃の手元金から出ている事には薄々勘付いているようだが、こちらが恥じ入る謂れはない。それはズワとその配下が、正当な勤労の対価として受け取った金なのだから。

 それに、金を持って帰ってくるズワの配下の者は、ヒッタイトの最新情報、しかも、宮廷の中枢でしか知り得ない重要な情報をも伝えてくれる。わたしが、訊かれれば賢し気に微妙なヒッタイトの現況を分析して見せられるのも、そういう貴重な情報があっての事だ。
 それでもズワは、敵の皇妃の手下になったからと言って、クニの誇りを忘れる男ではない。その証に、若い頃からやっていたように、自分の獲物の皮を剥いで着衣とし、己が腕を誇るという勇壮な習慣を今も守り続けている。まあ、獲物といっても熊や野牛ではなく、あいつが皇妃の注文を受け、「狩って」いるのは人間なのだ。自分の着衣にするのにその皮を剥ぐと言うのは、わたしとて少々不気味な気がしないではないが。
 
 そう言えばこの前、あいつがどんな抜け道からか帰省してきた時、この書院で夜通し語り合ったことがあった。
 あいつが、皇妃に自分を売り込んだのは、ただ傭ってくれそうだからと言うだけの理由ではなかったらしい。
 このクニの者は、昔からアリンナの神殿に詣でることを心の拠所として来た。なのに現在では、ヒッタイトが強引に画定した「国境線」とやらのお陰で、カシュガの者はその神殿詣でができない。
 このクニの者がヒッタイトに敵愾心を燃やしているのは、直接にはこの宗教的迫害に対する反発感が原因なのだ。そしてこの度、クニの男達が大挙して「国境線」を強行突破し、アリンナの神殿周辺を占拠するという挙に出たのも、今年こそは恒例の神殿詣でを叶えたい、という宗教的情熱が動機なのだ。
 一般に、統治者として何が怖いかと言って、民衆の宗教的反発ほど怖い物はない。それは、歴史上いくつもの実例で証明されている。ヒッタイトの為政者も、その位の事は知っている筈だ。なのに、敢えてアリンナへの入境を認めないのは、偏にあちらから見れば辺境のカシュガを、見下しているからに他ならない。
 ズワにしても配下の者達にしても、ハットゥサの気取った連中に比べれば、垢抜けもしないし、荒々しい事は否めない。それで、向うでは随分と嘲笑を買っているらしい。それに、ヒッタイトの習俗とは異質の、カシュガの習俗を野蛮呼ばわりされ、白眼視されている。
 ズワも配下の者等も、当初はそんな侮辱にいちいち拳を振り上げていたから、益々ズワは、いやカシュガ族その物が、乱暴な質だと評判を立てられている。
 そんな物、構う事はないのだ。どうせ都会人気取りで、ハットゥサが世界の中心だとでも思い込んでいるような世間の狭い愚か者の戯言ではないか。世界には、ヒッタイトの理屈など通用しない国の方が多い。寧ろズワの方が、それを肌で知っている「国際人」なのだ。
 
 ズワは、日頃の直情径行をぐっと抑えて、地道な活動を志した。
 あいつは、ヒッタイト有数の高位の神官でもある皇妃に目をつけたのだ。いずれは皇妃の権威を借りて、少なくとも宗教上の目的に限ってでもカシュガ族のアリンナ入境を認めて貰おうと画策しているのだ。
 神官として権威ある有力者と言えば、他にも何人かいる。特に、一時は第三皇子とかいう者に仕えようとも考えたらしいが、思う所あって差し控えたと言う。
 まあ、第三皇子は元々軍事を専攻した男で、既に独自の本格的な軍を組織しているから、田舎でちょっと腕自慢だという位の者がそんな所へ入っても、際立った手柄も立てられそうにない、との算用もあったらしい。
 しかしそれよりも、ヒッタイトでは、第三皇子の部隊は外征部隊として位置づけられている。と言う事は、カシュガへの侵攻にも動員される可能性が高いのだ。ズワも、さすがにそれだけは恐れていた。間違えても、同族に刃を向けることだけは絶対にしたくない。さりとて金で傭われた以上、敵が何者であれ、倒せるだけ倒すのが筋と言う物だ。そんな板挟みだけは、何としても避けたかったらしい。あれで、驚くほど義理堅い男だからな、ズワは。
 だから、警護が主任務で、傭い主自身が武将ではないから外征には駆り出されなくて済むであろう、皇妃の私兵になったのだ。
 しかし、ナキアとか言う皇妃、なかなか大物なのかも知れない。その、皆に白眼視されている田舎者の真価を、ただ一度の謁見で見抜き、即座に召抱えたと言うのだからな。
 聞く所によれば、今や皇帝に次ぐ権力の座に上り詰めている皇妃も、元は売られるように皇帝の許に嫁がされた側室の一人に過ぎなかったらしい。そういう苦労人だからこそ、少々異質の人材をも適正に評価する度量を持ち合わせているのだろう。
 腕っ節だけが自慢の男だが、そんな打ち明け話を聞いた時、わたしはズワに脱帽した。あいつも旅を通じて、ちゃんと考えるべき事は考えていたのだ。
 
 この度の敗け戦、処理には手間取りそうだ。それでも、その手の算段ならわたしや、各村の長たちで何とかする。長老だって、あの年齢だと言うのに表に出て来て、よろよろしながらも采配を振るって御座る。斬った倒したばかりが戦ではない。むしろこれが、わたしたちの戦いなのだから。
 それでも、ほっとしているのだ、この度の戦には。何しろズワ、案の定、ヒッタイトの軍勢の中には皇妃の部隊、そしておまえの姿はなかったらしいからな。
 そればかりか、嘘か真か、戦の最中、ヒッタイトの要人らしき女を追い回しているおまえの姿を見たと言う者が何人かいる。俄かには信じ難いが、皇妃と皇子の間に不和があると言うあの国の事だ、考えられない事でもないだろう。おまえは傭い主への義理も果たしながら、結局はクニの者と共に戦ってくれているのだな。
 おまえの事だ、傭い主からの指図を受けた以上、絶対に獲物を取り逃がすような真似はしないだろう。いや、狙っていた相手は女だったと言うから、おまえには造作もない、馬鹿馬鹿しい仕事だったのかも知れないな。
 そのうち、またおまえの配下が、どこでどう「国境線」を突破するのか、仕送りの金を山ほど持って帰って来るだろう。その時には、おまえがこの度、どんな手柄を立てて、どんな褒美を貰ったか、わたしにも聞かせて貰える筈だ。
 そして、この度の敗け戦で、疲弊し尽くしたクニの建て直しに、おまえからの金を使わせて貰うぞ。おまえや、配下の連中が、クニのために身体を張って稼いでくれる金だ。決して、無駄にはしないよ。
 それからな。また一度位、帰って来いよ。カシュガ族にはそう気易く出入りできる「国境」ではないのも、皇妃からの仕事が忙しいのも判っているが、たまには昔話を、しようじゃないか。
 
 「肝煎ぃ。今しがた担ぎ込まれた若い者がなぁ、何か字が一杯書いてある粘土板を拾って来てるんだぁ。敵が書いた物に違いないから、読んでくれぇ。」
 「肝煎ぃ、道に迷ってた敵の兵隊を引っ捕えて来たんだがよぉ、喚き散らしてるのがどこの言葉か、見当もつかないんだぁ。聞いてやってくれよぉ。」
 突然、長老か、どこかの村の長かに派せられて来たらしい男達の怒鳴り声が、肝煎の思索を中断させた。はっ、と我に返った肝煎は、席を立って声に応じた。
  「判った。すぐ行く。」
 戸口に出て、怒鳴っていた男の顔を見た。手にした松明から爆ぜ落ちる火の粉を浴びて立っていたのは、二人とも、ズワの村の男だった。

第2巻・130ページ、ムルシリの軍が、アリンナ市街の一部を占拠していたカシュガ族を駆逐した直後のお話です。
 終始ヒッタイトの立場からの記述に貫かれている原典では、ただ<北方の蛮族>とのみ説明され、その「クニ」の事情には全く触れられていないカシュガの様子を、その「代表選手」たるズワの、親友という人物を設定して想像してみました。

 もとより、論理や正義という物は決して万国共通ではありません。「強国」による、己が論理や正義の他国への押し付けが国際紛争の発端となり、また、元々は極めて素朴な宗教的慣習に政治が絡み、複雑な問題となって紛争を引き起こす例は現代でも枚挙に暇がありません。
 なお、文中に述べたカシュガの習俗等については、専ら原典の記述を元にこじつけたもので、実の所は当筆者は知りません。第一、カシュガ族の居住地というのは、具体的にはどの辺りだったのでしょうか。


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