睡蓮の池のほとり

出兵セズ

(あまりに読みにくい場合、先に後書をご覧ください)

    国王陛下ヨリ軍ニ賜リタル「ヒッタイト」方面出兵ノ是非御下問ニ対スル奉答案

  (現時点ニ於ケル戦況)
 諸情報ヲ綜合シタル結果、今次ノ「ヒッタイト」ニ対スル「海ノ民」ノ侵寇ハ、一時的、局地的ノモノニ非ズシテ、永久的、全面的ナル「ヒッタイト」領土奪取ヲ企図シタルモノノ如ク判断ス。
 侵寇軍ノ勢力編成等ハ未ダ詳カナラズト雖モ、従来推定セラレタル程度ノ弱体ニハ非ズ、偶発的ナル暴動ノ程度ヲ遥ニ凌駕シ、其戦力ハ「ヒッタイト」正規軍ニ勝ルトモ劣ルベカラズ。
 此ヲ邀撃シツツアル「ヒッタイト」軍ハ、編成上ハ従来ノ規模ヲ維持シアリタレドモ、近年ノ内憂並ニ財政事情ノ悪化ニ伴ヒ、其充足率極メテ低ク、兵ノ技量士気モ低下ヲ極メアルベシ。
 現時点ニ於テ伝ヘラレタル戦況ハ、全方面ニ於テ概ネ「ヒッタイト」ノ劣勢ニシテ、殊ニ「アルザワ」方面ニ在リテハ、寇軍既ニ橋頭堡ヲ完全確保、永久築城ニ着手シアルモノノ如シ。
 「ヒッタイト」ハ、当初企図シタル水際作戦ヲ断念シ、内陸部各城塞ニ拠ル守勢ニ転ジ、「ハリス」河以東ノ内「アナトリア」ヲ中心ニ絶対国防圏ヲ設定シテ此ヲ死守スベク、「カルケミシュ」方面ヲ主タル兵站線トシテ防備ノ再編成ニ努メツツアリ。
 斯ノ如ク、「ヒッタイト」皇帝ハ徹底抗戦ノ意志ヲ言明シアリテ、断ジテ降伏アルベカラザル決意ナリト雖モ、勝機ヲ得ベキ要因更ニ見当ラズ、其限界ハ遠カラザルベシ。遅クモ自今一年以内ニハ「ハットゥサ」陥落アルベキモノト予測セザルベカラズシテ、其時点ニ於テ「ヒッタイト」ハ壊滅ヲ逃レ得ザル事明白ナリ。 
 「ヒッタイト」ノ抗戦終結シタル後ノ寇軍ノ行動ニ就テハ、固ヨリ王国ノ安危ニ関ル重大事ニテ、軽々ノ楽観ヲ許スベカラズ。寇軍ノ従来示シタル習性ヲ惟ルニ、其行動ハ停止スル事ナク継続スベク、次段作戦ノ目標ハ正シク王国ナル事疑ヒアルベカラズ。

  (自今王国ノ採ルベキ戦略)
 今次「ヒッタイト」皇帝ヨリ国王陛下ニ対シ奉リテ要請アリタル内「アナトリア」防衛作戦ニ対スル兵力派遣ニ付テハ、此ヲ拒絶スル事妥当ナリト認ム。
 仮ニ、「ヒッタイト」皇帝ノ請ヲ容レ、王国ノ兵ヲ派シテ寇軍駆逐ニ成功シタル場合、王国ハ「ヒッタイト」ニ対シ断然優位ナル立場ヲ確保シ得ベシ。殊ニ王国軍ヲ「マラティア」ヨリ「キッズワトナ」方面ニ展開、内「アナトリア」ニ来襲セル寇軍ノ後方ヲ衝キテ其企図ヲ放棄セシメルト同時ニ、寇軍占領地域ノ奪回ニ当ル時ニハ、其戦勝後モ王国軍ノ撤退ヲ許サズシテ占領地ニ駐留セシメ、既成事実ヲ掲ゲ以テ「ヒッタイト」皇帝ヲシテ南沿岸地域ノ割譲ヲ受諾セシムル事ヲ得ベシ。
 然レドモ、此ノ如キハ目先ノ利益ニ過ギズ。従来王国全面的ニ此ヲ「ヒッタイト」ニ仰ギアリタル鉄ノ供給ニ付テモ、近年王国内ニ鉄鉱床発見サレ、独自ノ製鉄技術既ニ確立シツツアル現況ニテハ、爾後必ズシモ「ヒッタイト」ヲ頼ルベキ要ナシ。
 寧ロ王国ハ、「ヒッタイト」ヲシテ来ルベキ寇軍ニ対スル王国ノ盾タラシメ、其抗戦ニ依ル出血ヲ以テ寇軍ノ進撃遅滞セム事ヲ利シ、王国本土ノ防衛態勢ヲ強化スベク努ムベシ。
 同時ニ、今次寇軍来襲ヲ奇貨トシテ、王国軍ハ一兵ヲモ損ズル事ナク、多年ノ宿敵「ヒッタイト」ノ滅亡ヲ見ル事能フレバ、此ニ勝ル好機二度トアルベカラズ。
 而シテ、「ヒッタイト」滅亡ノ暁ニハ、其徹底抗戦ニ依リ疲弊シ尽クシ非ザル事ナカルベキ寇軍ニ対シ、王国ハ完全編成ヲ保チタル精兵ヲ以テ先制攻撃ニ当リ、一挙ニ寇軍ヲ撃滅シテ「ヒッタイト」領域全部ヲ占領、王国領ニ編入スベキヲ可トス。

 本奉答ノ肝要ハ、「ヒッタイト」皇帝ノ望ム出兵要請ヲ拒絶スルニアリ。
 古来王国ニハ、「ヒッタイト」ノ不遜ナル奸智謀計ニ翻弄サレ、切歯扼腕ヲ余儀ナクシタル例数限リナシ。
 アッシュル・ウバリット一世陛下ノ御代、王国ハ滅亡シタル「ミタンニ」国旧領ヲ、公正ナル信義ヲ以テ「ヒッタイト」ト分割セリ。然ルニ、「ヒッタイト」皇帝ハ私ニ「バビロニア」ニ蟄居シアリタル「ミタンニ」廃太子ヲ招キ、「ミタンニ」再興ト称シテ一方的ニ傀儡国家ヲ捏造、王国ニ脅威ヲ与ヘタリ。
 此暴挙ニ対抗シ、王国ハ国内ニ遁レ来タリアリタル「ミタンニ」旧王族ヲ擁シ、併合シタル「ミタンニ」旧領ニ於テ正当ナル「ミタンニ」王統ノ再興ヲ援ル事ヲ得ベシト雖モ、懼多クモ徒ナル事態ノ緊張ヲ憂慮シ給ヒタル王陛下ノ御叡慮ヲ以テ其実現ヲ見合ハセシメ給ヒタリ。
 次デ、和親ト太平ヲ旨ト為シ給ヘル王陛下ノ御厚情ニ発シテ、未ダ正妃ナカリタル「ヒッタイト」皇帝ニ対シ懼多クモ御美貌、御聡明類ナクアラセラレシ王女殿下ノ御降嫁ヲ仰セ出デ給ヒシ事アリ。然ルニ倣岸不遜ナル「ヒッタイト」皇帝ハ此ヲ拒絶、其正妃トシテ王女殿下ニ替ヘルニ出自不詳ノ賎女ヲ以テスル迄ノ侮辱ヲ王国ニ与ヘタリ。
 而シテ、此無礼ナル皇帝ノ死スル後、「ヒッタイト」ニ於テ其記録文書編纂サレタル事アリ、其写本ハ王国文庫ニモ収メラレアリ。
 此文書中、「都市・国家見聞記」ナル一章アリ。「両陛下ノ御威光ノ及ブスベテノ地ヲ訪ネ見聞キシタコトヲ著ス」トアリタル後、「ヒッタイト」国内ノミナラズ、「エジプト」「バビロニア」ハ固ヨリ、「マラティア」ノ如キ国トモ称スルニ足ラザル程度ノ都市ニ至ル迄言及シアル一章ナリ。此ノ一章ニ於テ、ワガ王国ニ付テハ一切無視サレアリタルモノナリ。
 同文書ノ著者「アルマダッタ・バーニ」ハ、往古「ヒッタイト」ヘ遷リタル王国臣民ノ裔ナレバ、王国ニ関スル記述ヲ失念スベキ故アルベカラズ。
 然ラバ、此遺漏ハ明カニ恣意ノ所為ニテ、後世ニ亘リテ史上ニ輝カシキ王国ノ存在ヲ無視亦ハ抹殺スベキ意図ニ依ルモノト断ジザルベカラズ。
 斯ノ如キ破廉恥国ノ滅亡ヲ防グニ、何ゾ王国ノ兵ヲ以テセムヤ。滅亡スベキハ勝手ニ滅亡セシムベク、王国ニ対シテ多年重ネ来ル傲慢無礼ノ数々ハ、国ノ消滅ヲ以テ償ヒテモ到底足ラザルモノト知ラシムベシ。

 臣希ハクバ至尊ナル王陛下ノ御聖断ヲ戴キテ、「ヒッタイト」皇帝ノ厚顔ナル要請ヲ拒絶スルノ栄ヲ賜リタシ。
 
 


 原典第28巻・32ページにあるヒッタイト帝国滅亡、その前夜のお話です。
 このお話は、「海の民」の侵寇に抗しきれなくなった時のヒッタイト皇帝がアッシリア国王に援軍を要請、王から「さて、どうしたものか」と相談を受けた将軍が、王に対して自分の意見を述べるために書いた答弁趣意書、という形です。
 おそらく、楔形文字で書かれたお堅い粘土板文書であったと思われますので、ここでは軍隊調の文語文にして、その雰囲気を演出してみました。
 ただ、本当は漢字も全部旧字体だったのですが、実際にサイトに上げたところ、ブラウザ上ではなぜか文字化けして判読し得ないことが判明、現行の字体に改めました。また、文体そのものも少し平易に書き改めました。
 この将軍はなかなか激情家で、毛嫌いしているヒッタイトの皇帝には敬語表現すら惜しんでいますが、早い話が
 「ヒッタイトは負けるでしょう。とはいえ、昔ならわが国も鉄をヒッタイトに仰いでいたから大変な事だっただろうが、今は鉄の国内生産の見込みもついたから別に困りはしない。
 第一、昔、ヒッタイトは滅亡したミタンニ旧領をわが国と仲良く分けたはずなのに、勝手にその国を再興して自分の傘下に入れてしまった。
 次いで、わがアッシリア国王が遣わした申し分ないご正妃候補を袖にしておいて、あろうことかどこの馬の骨とも判らない賎しい女を正妃にするというあてこすりまでやった。
 その上、ヒッタイトの書記官が記録文書(原典「イシュタル文書」)を著した際、その中でわざとアッシリアを無視して記録から削除した。
 そんな憎たらしい国を援けてやる義理がどこにあるか。どうせヒッタイトに勝ち目はない。勝手に滅びてくれるなら、こちらは滅ぼす手間が省ける。アッシリアはそうしてヒッタイトが無駄な抵抗をしている間に軍備を増強して、ヒッタイトが滅びてから、戦に疲れた「海の民」を撃滅し、国のなくなったヒッタイト領土をそっくりいただくことで意趣返しにしようではないか。だから、援軍など断りましょう。」
 という趣旨です。
 この進言を王が容れたとすれば、アッシリアはヒッタイトを「見殺しにする」訳ですが、百数十年も前の屈辱がその判断の遠因になっているというのは、少し執念深過ぎるかも知れません。
 しかし、一旦受けた悪印象というものはなかなか払拭できず、その後、何か小さな摩擦でもあれば、大抵はまた悪い方へ傾いてしまう、国際感情というのは、現代に至ってもそうではないでしょうか。
 原典を読んでいると、ヒッタイトはアッシリアへの不信を示すような行動を再三示しています(「キックリの一日」の中で、ムルシリが対アッシリア通商規制を目論んでいます(第28巻・50ページ)が、ことによると、これにも国内の麦価維持という以外の思惑が働いていたのかも知れません)。中でも、「イシュタル文書」の「国家・都市見聞記」(「ファンブック」・199ページ)には、アッシリアの記事がすっぽりと欠落しているのですが、この著者・アルマダッタ・バーニはイル・バーニの息子、自分の本貫地を忘れて書き落とすことなど考えられないのです。
 この人も「宮仕え」だったようですから、あるいは執筆中、何かの都合で上層部からかかった圧力に抗しきれず、泣く泣くアッシリアについての記事を割愛したか、または王宮にいて、とてもアッシリアのことなど書ける空気ではないのを体感して自制したか、そんなことがあったのかも知れません。
 例によって、アッシリアでの探鉱や製鉄技術開発の点等も含め、実際にはどうであったか、筆者は知りませんが。


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