睡蓮の池のほとり

落 胤

 父さまが、初めてわたくしにくださったご諚を、覚えていらっしゃいますでしょうか。
 それは、父さまを「陛下」とお呼び申し上げていたわたくしを制されて、「今後、そなただけはわたしのことを父と呼んでほしい。」というものでした。「父と呼べ」ではなく、「呼んでほしい」という、恐れながら皇帝陛下らしからぬ父さまのお口癖に触れたのも、わたくしにはこの時が初めてでした。
 「わたしが皇帝となったのは、先帝陛下の太子であった、それだけの理由だ。この国には、もっと有能な人材がいくらでもいるのにな。
 そなたは、わたしにとって初めての子だ。意外に思っただろう。わたしは身体が弱くてな。いくら妃はいても、この年齢まで、子を授かることなどないものと諦めていたのだ。
 おかしなものだ。そなたのような立派な子がありながら、今まで、それを知らずにいたのだからな。クルクとやらの言上、間違いはない。確かにわたしは、そなたの家に泊まった。そなたの母には、どれほど礼を言っても足りないと思っている。それなのに、とうとう何も言えないままに、不憫なことをしてしまった。」
 そうおっしゃった父さまは、わたくしに向かって深々と頭をお下げになったのでした。神聖なる皇帝陛下が頭を下げられるのは、神々か、皇祖皇宗の御前に限られると漏れ承っていましたから、わたくしは驚いてしまいました。
 「わたしは、一度でいいから父と呼ばれてみたかった。そなたの前でだけは、皇帝ではなく、父親の真似事をさせてほしいのだ。」
 
 わたくしは、小さな頃から母から、おまえの父さんは死んだのだよ、と聞かされて育ちました。ところがある日、突然厨の入口で倒れてしまって、それ以来、満足に歩くこともできなくなった母の枕辺で、本当のことを聞かされたのです。

 おまえには、隠していたことがあった。まだ若いつもりなんだけど、あたしももう、ネルガルの声が聞こえ始めたようだから、思い切って話しておくよ。驚かないで聞いてくれるかい。
 わたしが、おまえぐらいの年齢だったよ。その頃、もうあたしには父さんも母さんもいなかったから、父さんが遺してくれた畑で、そう、この裏の畑だよ。畑で花を育てて、神殿に納めて暮らしてたんだよ。その頃からね。
 ある日、畑で草取りをしていると、がさがさと物音がしたんだよ。何だろうと思って立ち上がってみると、男が一人、畑の中に立っているじゃないか。
 若かったあたしは驚いて、声も出なかった。立ち竦んでしまってね。
 すると、その男がにこりと、笑ったんだ。「この夥しい、美しい花は、そなたが育てたのか?」といってね。
 よく見ると、なかなかいい身なりの男だった。物の言い方もおっとりしてね。見るからにお坊ちゃま育ちの男だよ。その割には、こんな百姓娘にだって、別に偉ぶりもしないんだ。むしろ、何だかおどおどしたような素振りでねえ。
 あたしだって、どぎまぎしたよ。若かったんだねえ。第一、商売相手が神殿じゃ、神官以外の男と口をきくこともなかったし、父さんが死んでからは、市長さまが何かと目を光らせていてくれたからね、変な男だって近づいては来られなかったから、純なものだったよ。市長さまが、そのうちいい婿を見つけてやるから、独りでも心強く生きなさい、なんて言ってくれるのだけを頼りにしてね。もっとも、あたしだけじゃない。市長さまともなれば、みなし子の世話だってお仕事のうちなんだよ。
 その日はね、それだけだったんだ。じきに、市庁の旦那方が慌てて、やけに丁寧な物腰で男を迎えに来たからね。あたしは、誰か知らないけど、市長さまの親戚か何かだと思ったよ。
 ところが、次の日も、また次の日も、その男がやってきて、花畑を見ているんだよ。と、思ったけど、花畑で仕事をしている、あたしを見てたんだ。
 あたしは、困ってしまってねえ。思い切って、声を掛けたんだ。「あの、お花がお入用ですか?」なんてね。だって、それ位しかいいようがないじゃないか。
 そしたらその男は、「あ、ああ… 欲しいことは欲しいのだ… 花というものが、こんなに毎日丹精されて育つものとは知らなかった。 …しかし、わたしが自分で花など購って帰っては、侍女に迷惑がかかる。あの者らの不行届で、部屋にわたしの望む花を欠かしていたような形になってしまうからな。」だって。
 あたしは、何のことだか解らなくて、黙っていたんだ。そしたら、男の方も間が保たなくなったんだね、「ああ… もし苦しゅうないなら、ワイン、いや、水を一杯、もらえぬかな。」って、ぎこちなく言い出したんだ。あたし、それまでどぎまぎしてたのも忘れて、思わず噴き出しちゃったよ。だって、あんまり唐突なんだもの。何だか、この男がかわいく思えて来て… どう見てもあたしより年上だったけどね… よしよし、喉が渇いたのね、って感じで、男を家の中に待たせて、泉へ飲み水を汲みに行ったんだ。今思えば、大胆なことをしたよ。第一、こんなむさ苦しい家にね。
 水瓶を抱えて家へ帰ると、男は突っ立ったままでね。そうそう、あんたが今座っている、その背中あたりだよ。珍しそうに家の中を見回してるんだ。あたしが帰ったのに気付くと、「ああ、こんな家でも、よく片付いていると気持ちのよいものだな。その、主の人となりが判るというものだ。」なんて、いうのよ。失礼じゃないか、初めて訪ねた家をさ、「こんな家でも」なんてねえ。
 でも、精一杯の誉め言葉だったんだよ、あのひとには。家を誉めたんじゃなくて、あたしを誉めてくれたんだ。どうせなら、もうちょっと女の子が喜びそうな誉め方もありそうなもんだけどねえ。
 それでもあのひと、本当に気持ちよさそうだった。
 それで、あたしはあのひとを座らせて、狭い家だ、膝を突き合わせてお水を飲みながら、訊かれるままに、花の名や育て方、使い方、しまいには自分の身の上まで、話してしまったんだよ。あのひとは、そんなくだらない話のいちいちを、じっと聞いていてくれたんだ。
 気が付いたら、窓の光が赤く染まっていてね。夕暮れだよ。あたしが、いつまでいる気だろうと思って首を傾げていると、「いや、今日は、実はな… 行き先を偽って、抜け出してきたのでな…」って。いい年齢をして、あたしと変わらないような不器用さなんだ、全く。ここまで来たら、さすがにあたしだって、このひとが何しに来たのか、うすうす気付いたよ。もっとも、そんなことをされるのは初めてだったけどね。
 おまえにももう、判るだろう。それから何があったか。…いいんだよ、無理に口に出さなくても。あたしだってその時は、恥ずかしくてもじもじ、ずっと黙ったままで、何もかもあのひとに任せていたんだから。
 いいひとだったよ。手慣れてるとはいわないけど、やさしくて、ゆったりしてて。ずっとあたしのことを気遣ってくれてて。まあ、他に比べられる男なんて、あたしにはいないんだけどね、未だに。
 あのひとは、夜明け前に帰って行ったんだ。大きな瑠璃のついた額飾りをはずしてね、あたしの手に握らせて。それも、「いや、これは、別にこのようなものでそなたの身体を購ったという意味ではない、その、何と言うのか、思い出のために…」なんて、言わなくてもいいことまで言ってね。
 あたしはねえ。こんな家に、男に贈るような物なんてありはしないよ。でも、表の垣根に咲かせていた、てっせんの花を、一番見事なのを切ってね、あのひとにあげたんだ。てっせんだから、神殿に納めれば高く買ってもらえるだろう。でも、その時は惜しい気なんてしなかったよ。どこの誰とも、最後まで教えてはもらえなかったのにね。

 日が高くなっても、あたしはぼおっとしてたよ。夢でも見たんじゃないかと思ってね。でも、夢じゃないことぐらい、寝台を見れば判るよ。何より、あたしの身体が覚えているじゃないか。
 お昼を過ぎても、畑仕事も手につかないで、畔に座ってぼおっとしてると、市長さまがね、一人でどたどたと、走って来るんだよ。あたしははっと我に返って土の上に跪いてご挨拶をしたんだ。でも市長さま、やたらと慌ててて、きょろきょろと周りを見回して、他に人影がないのを確かめると、いきなり訊くんだよ。「おまえ、昨夜、男を泊めたのか?」。
 この人もこの人だよ。そんなこと、まともに訊かれたって、胸を張って「ハイ!」なんて言えるものか。もじもじしてると市長さま、あたしの腕をぐいっと掴んで、「とにかく来てくれ。何食わぬ顔をしてだぞ!」って、市庁じゃなくて、お邸の方へ引っ張って行ったんだ。
 あたしはもう絶対叱られると思った。淫らな娘だって責められて、町を追い出されると思って、歩きながら泣き出してしまったよ。大袈裟だって? だって、その時のあたしは、本当にそう思ったんだから。第一、市長さまがだよ。お供も連れずに、慌てて走って来たんだ。只事じゃないじゃないか。
 それで、市長さまのお邸で、聞かされたんだ。あのひとが、皇太子のサリ・アルヌワンダ殿下だったってことをね。
 今もそうだけど、この近くには離宮があるだろう。だから、皇族の方々もよくカタパへはお越しだし、あたしだって皇太子殿下の御名ぐらいは知ってたよ。でも、そういうお方って、もっと堂々としてて、偉そうにしてるもんだと思ってたから、あのひとが、なんて信じられなかったよ。
 でも、あたしがいくら信じられなくても、それは本当のことだった。
 殿下は、お身体が弱いらしくって、お妃さま方にはおやさしいけど、お子には恵まれない方なんだって。それに、普段は女に執着のないお方らしいんだけど、たまたま町をお忍びで歩かれてて、その日に限って何のきっかけか、神殿から出て来たあたしに目をお留めになって、そっと後を追っていらしたんだって。
 いったい、こんな小汚い百姓娘の、どこにお目が留まったんだろうねえ。今でも不思議でならないんだよ。気まぐれったって、その後、何日も通って来たんだからね。
 それが、どうして市長さまにばれたかっていうとね。あのひとが泊まって帰った日、市長さまはいつものように離宮へ御用伺いに上がったんだって。すると、その日に限って、殿下からご自室へお召しがあったんだ。そんなの、滅多にないことだから、市長さまもおそるおそる、参上したんだよ。
 すると殿下は、お人払いをなさって、深刻な顔で事の次第を市長さまに打ち明けたんだそうだ。「わたしは、いかに惹かれたとはいえ、わが妃でもないあの娘にとんでもないことをしてしまったのではないだろうか。あの娘、嫌がってはいないようであったが、それは、わたしの権威を慮って、無理に辛抱していたのではないだろうか。傷ついてはいないだろうか。あの娘を、わが宮へ召すことは容易い。しかしあの純朴な娘が、宮廷暮らしなどを喜ぶであろうか。」なんて、大層お悩みだったんだって。何でもあのひと、町で見かけた女の子に声を掛けるなんて、初めてだったらしいんだ。
 全く、くそ真面目と言っては失礼なんだろうけど、皇太子殿下なんだよ。あたしに目をつけたんなら、市長さまを呼びつけて、「あの娘をわが宮へ」って、一言命じれば済むご身分なんだ。それであたしにどんなことをしようと、殿下のなさることをとやかく言える人なんて、いるわけないんだから。
 市長さまも、それは驚かれたそうだけど、あたしの宮仕えについては、頑として辞退してくれたんだ。そりゃ、光栄と言えば光栄なんだけど、正式に迎えられたお妃方にも淡白な殿下が、おん自らお見そめで、お抱きになった娘だよ。それも、卑しい身分の百姓娘だ。嫉妬に狂った尊いお妃方に苛め抜かれるのは目に見えてるじゃないか。それで市長さまは、下手すりゃ恐れ多くも殿下の思し召しに逆らうことになるかもしれないのを覚悟で、断ってくださったんだ。
 あたしだって。もう一度、あのひとに会いたいとは願っていたよ。でも、見たくはなかったんだ。大勢の重臣方やお妃方をかしずかせて、大きな椅子にふんぞり返っている、あのひとのことは。あのひとには、やっぱりもう一度、ふと気が付いたらあたしの畑に立っていて、あたしが育てた、でもありふれたアルケミラの花を、珍しそうに眺め回していてほしかったんだよ。
 でも、もうそれきりだった。殿下は、もう二度とはお越しにならなかった。市長さまの頑とした態度で、何だかとても悪いことをしたようにお感じになったんだろう。それに、お忙しいご身分だ、そうそう離宮で骨休めなんてしてもいられないんだろう。あたしは毎日待ってた、ううん、今でも待ってるのにね。だからって、あたしなんかが会いに行けるひとじゃないからね…

 恨むかい。おまえを、皇女にしてやれなかったあたしを。
 その後、気付いたんだよ。あたしのおなかに、おまえがいることに。他には身に覚えがないんだ。たった一晩だったけど、あのひとの胤に決まってる。それで、あたしは困ってしまって、市長さまに相談に行ったんだ。そりゃ、こういうことなら、おまえも知ってる乾物屋のおかみさん、あの人が頼りになるんだけど、何しろ相手が殿下だよ。男の人になんて恥ずかしかったけど、市長さましか仕方がないじゃないか。
 市長さまは、その場で手を打ってくださった。あたしの気持ちを確かめると、「よし、そういう気があるのなら、その子を育てなさい。わしが手を打とう。但し、事の真相は一生、秘めておくだけの覚悟はしておくように。」って。何しろ、皇太子殿下のお子が生まれるというのは、大層政治的な問題なんだそうで、あたしやおまえや、市長さまでさえ、もみくちゃにされた上、下手すりゃ抹殺されても当たり前だっていうほどの問題なんだ。
 でも、さすがは市長さま、政治対策はお手のものだ。どう手を回したのか、次の日にはもう、町に噂が流されてたよ。「花畑の娘が身籠った。相手は、この間、町に宿営していた部隊の兵士で、先日噂になった、あの輸送艦遭難事故で、沢山溺れ死んだ兵士の中の一人らしい。ところが、何でも作戦中の軍の行動に関する事だから、たとえ兵士一人の消息にしろ、滅多なことを口に出すと、スパイとして捕まる。余計な詮索をしないのが身の為だ。」なんてね。確かに、その輸送艦がどうこうって事故は本当にあって、市庁には緘口令も届いていたそうなんだ。全く、巧みな口実を作ってくれたもんだよ。
 市長さまは、時々おまえをお邸に呼んで、行儀見習いをさせてくれるだろう。それには、そういう事情があったんだ。
 いいかい。おまえの、ほんとうの素性を知っているのは、あたしと、市長さまだけだ。もし、おまえの素性が他人に知れて、噂にでもなったら、攫われて権力争いに利用されるか、殺されて闇に葬られるか、まずどちらかに決まってるぐらいの事情なんだよ。
 決して、脅すつもりじゃない。ごめんね。今まで、隠していて。でも、わたしがいなくなったら、市長さまがおまえに話すかも知れない。それじゃあ、おまえもとても信じられないと思うんだ。だから、おまえの母さんの、あたしから話しておくよ。あたしがいなくなっても、今の話は覚えていてね。そして、何でも市長さまと、お若いけど絶対頼りになる、若市長さまをお頼りして、力強く生きていてね。

 それからすぐ、母は亡くなりました。
 市長さまは、みなし子になったわたくしを、行儀見習いということでお邸に迎えてくださいました。でも、それからの行儀見習いは、家事なんかは全部省略、読み書きから詩作、音楽、教養、そんな難しいものばかりになったのです。もちろん、礼儀作法も殊に厳しく。市長さまは、「この娘は見込みがある。いずれ、わが養女に迎えたい。しかしそのためには、市長令嬢に相応しい教養と技芸を身につけてもらわぬとな」などと、周りの方たちにはおっしゃって。
 母が亡くなってから、市長さまは、父さまがご即位になったら、わたくしのことを申し出るお考えになられたのです。そして事実、あの七日熱騒動の中、父さまはご即位になったのですものね。
 それからというもの、わたくしに課せられたお稽古ごとも、物凄いばかりの難しさになりました。それを市長さま自ら、毎日様子を見に来られるのです。お邸や市庁の方々も、「市長には女の子がないからな。よほどサバーハがかわいいと見える。」「いや、養女になどといわれるが、サバーハの母親が死んだのをいいことに、アレじゃないのか。」などと、いろいろ噂をしておられたようですけれど。
 市長さまのお考え、わたくしにも少しはお察しできました。市長さまは、皇帝陛下となられた父さまにわたくしのことを認めていただいて、「皇女殿下ご生誕の地」としてカタパ市の名を広め、わたくしを通じて宮廷とのパイプを太くして、カタパの町の格を高めようとお考えだったのです。父さまが晴れて皇帝陛下となられたから、もうサバーハの名が出ても、政争に巻き込まれる心配も薄らいだとお考えだったのでしょう。
 それは、当然のお考えだと思いました。市長さまともなれば、みなし子の世話もお仕事なら、町の格を高めて、発展させることも大切なお仕事なのですから。母子二代にわたって、一方ならずお世話になったわたくしは、それで市長さまのご恩に報いることができるのなら、と、命じられる通りに一生懸命、いろんなお稽古に励んだものでした。
 一方で市長さまは、わたくしを王宮に送り込む布石として、離宮へお越しになる皇族方お一方お一方に、その都度大々的な歓迎行事を実施なさって、町の特産品を掻き集めて献上し、少しでもカタパ市に好印象を持っていただくためにご尽力なさったのです。突然お越しになった、皇子さまのご側室とおっしゃる方にまで大層な歓迎企画を実施なさって、カタパ市の名を売り込み、挙句、その方が偽者だったということもあったそうです。後で判ったことですけれど、その事件は、わたくしにはもう決して忘れてはならない、事件の発端でもあったのです。
 折から、それも七日熱騒ぎの最中のこと、市庁としては衛生行政にも手は抜けません。一応、その方面は若市長さまのご担当ということになってはいましたけれど、市長さまのあまりに派手な対皇室活動のために、市民の方々が暴動を起こされ、その中に若市長さままで加わっておられたということまであったそうです。
 あったそうです、なんて、暢気なようですけれど、市庁辺りで騒ぎのあったその夜のわたくしといえば、日頃からお邸に閉じ込められたような有様の上、竪琴の先生から、明日までには弾けるようにしておくように、と言いつけられた曲を必死で練習しながら、頭の中では詩の先生にいただいた、鳥を詠みこんだ水の季節の詩を一編、という課題のことを考えながら、女中さんから明日のお稽古についての注意を聞かされていたのです。もう、気が触れそうなほどのお稽古漬けの最中で、少々お外が騒がしくても、そんなことに気を取られている余裕なんて、ありませんでした。
 でも、仕方がないかも知れませんわね。本当のお姫さまなら、よちよち歩きの頃からお初めになるといういろいろなお稽古を、大きくなってから一度にこなさなければならなかったのですもの。
 でも、市長さまに課せられた厳しいお稽古にも、その甲斐はありました。
 わたくしがたった一度、父さまの御前で竪琴をご演奏申し上げた時、父さまは、にわか仕込の拙い演奏を、深く、何度も頷かれながら、お目に涙を浮かべてまでお聞きくださいました。その時の、どこまでも深いお慈しみに満ちた、輝くようなご表情を、サバーハは一生、忘れません。

 そして、ある日。わたくしは、若市長のクルクさまに連れられて、ハットゥサの王宮に参ったのです。父さまは、若市長さまがご覧に供した瑠璃の額飾りをお手にされて、震えておられましたわね。階の下に控えていたわたくしにも、それがはっきりとお察しできました。
 そして、父さまは、お部屋から急いで取り寄せられたものを、わたくしに示されました。分厚い木の板と、真っ白な布に挟まれた、てっせんの押し花。母が育てた、母から聞いた通りの、てっせんの花。わたくしは、場所柄も弁えず、思わずその場に泣き伏してしまったのです。
 その時からわたくしは、父さまのお近くにお部屋を賜り、侍女を賜り、やがて皇女宣下をいただき、それまで、雲の上の方だとさえ思っていた高官の皆さまからも、最敬礼を受ける身分になったのでした。
 この間、偶々参内なさった若市長さまから、市長さまのお噂を聞きました。市長さま、「あの娘、見所があるからわが養女にと仕込んでいたのだが、ひょんなことから、皇帝陛下のお胤だと判明したのだ。そうなると、市長如きの養女になどと、とんでもないことではないか。いやあ、参った。」などと、ご自分が道化の役になって、辻褄を合わせて下さっているそうです。
 皇族の皆さまも、市長さまのお手回しのおかげで、わたくしのような者でも、あのカタパの出身だ、というだけで、概ねご好意をお持ちくださっています。本当に、市長さまはわたくしの大恩人でいらっしゃいます。
 
 父さま。どうして父さまのようなご立派な、おやさしい方がお命を狙われなければならなかったのですか。父さまのお目にかかれて僅か一月余り。突然、お命を落とされるなんて。父さまほど、尊い御身にも係わらず、いつも周囲に気を配られ、真面目にお仕事に取り組んでおられた方が、どうして。
 わたくしには、だれも詳しい経緯は話してくれませんでした。わたくしはあの日から、危ないからお部屋にいるようにと諌められて、ろくに王宮内の様子さえ、窺うことはできなかったのです。
 でも、後から侍女がそっと教えてくれました。父さまのお命を奪った犯人は、あの、市長さまの懸命の歓迎行事を台無しにした、あの偽皇族だったそうではありませんか。しかも、そんな悪人を身近に置いて、重く用いていたのが、イシュタルさまだとの由。もともと悪人だと判っていて取り込んだわが家来が、恐れ多くも皇帝陛下を暗殺し奉るという大罪を犯して死罪になったというのに、あのイシュタルさまときたら、知らぬ顔で今でも、新しい皇帝陛下につきまとっておられますのよ。もしかしたら、女だてらに剣術がお得意だとお噂のあのイシュタルさまこそ、本当の犯人でいらっしゃるのではないかしら。ですからわたくし、イシュタルさまとはお話もいたしませんの。イシュタルさまは、もともとご身分が低くていらっしゃるから、いくら皇帝陛下に取り入って、お目をかけていただいたところで、決して皇妃にはお立ちになれない由。当然ですわ、あんな怪しい女。わたくしから、たった一人の父さまを奪った女。

 わたくしは、まだまだ父さまに、お話ししたいことがありました。そして、父さまにお伺いしたいことも。父さま、母が知りたがっていました。父さまは、母のどんなところにお惹かれになったのですか。わたくしも、知りたいです。
 でも、もうそれも、お伺いできなくなってしまいました。冥界では、母とお出会いになれましたか。もし、母とお出会いになれましたら、今度こそ、お立場もお時間もお忘れになって、お二人きりで、いつまでもいつまでも、お花畑でお遊びになっていてくださいませ。

 新しい皇帝陛下がお立ちになってから、王宮の方々の、わたくしに対する態度が少し冷たくなったような気がします。義母上陛下やお妃方も、まるで居候のように、小さくなってお暮らしです。王宮って、そんなところなのですね。わたくしには、もともと父さま以外、後盾なんてありませんものね。
 もし、わたくしが男なら、腕を鍛えて戦に出て、お手柄を沢山立てて、「アルヌワンダ二世の皇子サバーハ、天下一の大将軍なり」なんて、高らかに名乗りを上げて、父さまのご令名を高らしめることもできたでしょう。学者になって、父さまの事績集を編纂して、思い切り派手な賛辞で、輝かしい父さまの御名を、後世に伝える仕事ができたかも知れません。
 でも、わたくしは、父さまと過ごした夢のような一月の間に、わたくしのすべきこと、父さまの、たった一人の娘にしかできないことを見つけたのです。
 父さま。わたくしは、未だご正妃のおわしまさない皇帝陛下の、正妃になります。そして、この国のタワナアンナとして、父さまのお人柄そのままの、誰にもやさしくて、お互いに慈しみあえる国作りをするのです。そして、立派な皇子を沢山産んで、父さまのご血脈を、この国に残すのです。
 こういうのを、「権力争い」というのでしょうか。でも、わたくしはそんなの、嫌いです。だって、父さまの宸襟を一番悩ませたのが、そんな、醜い争いだったではありませんの。
 わたくしはただただ、非業の最期をお迎えになった、父さまのご遺志を継がせていただきたいのです。そして、一生、父さまとの思い出を抱いて生きた、母の思いを守りたいのです。そうして、大恩ある市長さまと、カタパ市のためにも、少しでもお役に立ちたいのです。
 父さま、どうか冥界からサバーハをお守りくださいませ。もうすぐ、いよいよご正妃選びも始まる由、サバーハは、必ず皇帝陛下のお目に留まって、この国のタワナアンナになります。父さまが、貧しい花畑の娘に目をお留めになったように、どうかムルシリ二世陛下が、こんな野育ちの、にわか皇女に目をお留めくださいますように。

 何だか、もうお外が暗くなってきました。早くお部屋に戻って大人しくしていなければ、侍女に心配をかけてしまいます。もう、退がりますね。本当は、今夜は一晩中、こうして父さまのご陵で過ごしていたいのですけれど。
 安らかにお息みくださいませ、父さま。



 ムルシリ二世の正妃の座が争われる最中に殺害された(第15巻・140ページ)サバーハ姫です。
 この争いに、原典第2巻で、<ご正妃にも5人のご側室にもお子はいらっしゃいませんし/今後も望めないで
しょう>とされたアルヌワンダ二世帝の息女が突然参入しているのですから、その前には一筋縄では行かない経緯があったことでしょう。この問題については、その一見矛盾する記述について考えている途次、「時空の旅人」(参照 但、現在工事中です)というサイトの「元老院会議室」に、関連する愚見を開陳したことがあります。
 このお話、例によってこじつけに終わってしまったかも知れませんが、サバーハ姫には、他の姫君たちの例に漏れないユーリへの悪感情の原因と、どうしても正妃になりたいという動機を「無垢なもの」として設定してみました。
 陰湿な面ばかりが強調される正妃候補の姫君たちも、どこかにこんな「無垢な打算」を秘めていてくれたとすれば、まだしも救いのあることだと思います。
 なお、てっせんやアルケミラなどという花、当時の現地にあったかどうか、筆者は知りません。ただ、季節のイメージとして晩春を想定してみたのですが、随所に多彩な花々が描かれている原典中にも、それらしい花は見当たりません。


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