睡蓮の池のほとり

断 簡

のだと思いませんか。
 短い間だったけども、そんな思い出を共にしたあなたとのお別れも、もう間近です。
 元気に輿の前に立ってわたしを導いてくれるあなた。輿の上からあなたの後姿を見つめていると、ふと、これから始まる砂漠の旅が、果てしなく続いてくれればいいな、と思うことがあります。
 でも、そんなことを言っていてはいけません。わたしは、早くかの国の王宮にたどり着いて、早く王位に就かなければなりません。そして、たとえ生まれがどこであろうとも、エジプト王として、人々を導いていかなければなりません。そしてもし王として必要なら、蜂蜜色の肌をした兵士たちを率いて、赤い河の国に攻め込むことも厭ってはいられません。

夜中だというのにまたハットゥサから使者が着いて、この芦筆を擱かなければならなくなってしまいましたけども、幸い、短い報告でした。
 とにかくそういうわけで、でも、わたしは兄上の兵と戦うのはやっぱり嫌です。そんなことにならなくても済むように、わがお転婆な戦いの女神にはもうちょっと、おしとやかになっていただいて、今度は愛の女神として、ヒッタイトと、そしてエジプトの人々がお互いに親しみあえるように、見守っていてくだされば嬉しいのだけどな。

そうそう、さっきの使者、どんな報告だったかと言うとね。。
 今は、あなたが余計な気を遣うといけないから話さないでおくけども、あなたがこの書簡を読む頃にはもうあなたは任務を完遂しているはずだから、ここに書いておきます。
 実は、わたしの婚儀が終わるまでハットゥサに駐在することになっているハニが、あなたの号令一下、わたしたちの行列がハットゥサを出立するのを見ていて、王宮に抗議して来たのだそうです。
 ハニどのいわく「仮にもわが王妃陛下に婿入りする皇子殿下が、女性を連れて旅立つとは何事か。わが王妃陛下を侮辱する行為ではないか。」と。
 それはそうでしょうね。どこの花婿がこんなに初々しい女性を連れて花嫁のところへ赴くものですか。いくらこちらで理屈をつけても、先方としては気を悪くもするでしょう。それでなくとも、こうして現にもう花婿がエジプトに向かっているというのに、細かい婚儀の手順となるとなかなか煮詰まらず、ハニと、交渉を担当しているズィティの間で丁々発止の激論が続いているというのですから。何しろ前例のない、全く違う姻習の皇室同士の話ですからね。
 ズィティだって、ここで折れては先々エジプトに主導権を奪われることになるのですから負けてはいられません。
 「ほう、エジプトでは花婿の先導者が女性ではいけないのですか。文化の相違と言うものですな。あの方は、愛の神・イシュタルの憑坐であられる。わが皇室の例では、愛の神の導きを奉じない行列など婿入りの体を成さない。貴国こそ、わが国の伝統儀礼を否定なさるおつもりか。」
 そんな伝統儀礼、わたしも聞いたことがないけども。

 それでもハニは
 「皇子殿下にはエジプトの王となられるのであるから、エジプトの常識に従っていただかねば格好がつかない。貴国こそ、相互の文化を尊重しあうという友好的な態度が全く見えない。あるいは殿下のご即位を機に伝統あるエジプトの文化をヒッタイトの価値観で弾圧なさろうとお考えなのではないか。あまりに僭越だ。即刻その先導者を召し返し、男の神官に代えられたい。」
と食い下がったそうです。

 ズィティも、秘書官にしておくのは惜しいですね。外交官に転属させてやれば、きっと辣腕を揮いますよ。
 「花婿の行列に女性がいてはいけないと言われるなら、貴殿こそどうして男のくせに花嫁側を代表しておられるのか。貴殿は即刻帰国され、代わりに女官を寄越されてはいかがか。」
 「当職は男性であるという理由で花嫁側を代表しているのではない。あくまでもエジプト宮廷の廷吏たる職務上の立場でここに駐在しているのである。」
 「それならば、イシュタルさまとて女性であるという理由で花婿の行列を先導しているのではない。あくまでも愛の神の憑坐たる立場で行列に加わっているに過ぎない。
 それでもエジプトの慣習に従えと言われるなら、考慮するに吝かではない。
 こちらとしては、わが皇子殿下がエジプト王として第一王妃にアンケセナーメさまを立てられた後、追ってわが皇室から第二正妃を送り込む用意がある。皇妃は一人と決まっているわが国の姻習に敢えて目を瞑り、王陛下がご正妃をお二方立てられることもあるという貴国の偉大な慣習に敬意を表することを具体的行動で示させていただく。」
 と切り返したのだそうです。いったいわたしは何人正妃を持たされるのかな。

 でも、これにはハニも反論に詰まって、結局ズィティはあなたが国境までわたしを先導し続けることを認めさせた、と、こんな報告でした。ハニも、そのまま負けたとは言いません。
 「いや、まあ、皇子殿下をいただきたいと申し出たのはこちらでもあることだから、この件に限っては譲歩しよう。だから第二正妃など遣わされる必要はない。

 ただしそのイシュタルとか言う者、国境線を越えることは断じて認めませんぞ。」
 と確認を取り付け、辛うじて面目を保ったのだそうです。まったく馬鹿馬鹿しい限りですけども。

 
 こんな調子では、毎晩あなたが眠った頃を見計らって書き継いでいるこの書簡も、いつまで書き続けられるか判りません。まして砂漠の夜営となれば、月や星の光の他は満足な灯りも得られないでしょう。
 この書簡は、わたしが国境を越える時、わたしが信頼する兵士に託します。でもあなたはまだこの国の文字が読めないかも知れないから、兵にはハディのところへ届けるように命じるつもりです。こんな、あなた以外には見られたくない内容の書簡だけども、ハディなら、必ずあなたに読み聞かせてくれて、そして、誰にも漏らさないでくれるでしょう。
 頼むよ、ハディ。

 実を言うと、わたしはパピルスの書簡を書くのは初めてなのです。どうもぺらぺらして書きにくいものですね、パピルスというのは。
 でも、砂漠の酷暑の中で粘土板なんていじっていたら、いくらも書かないうちに日干煉瓦になってしまうかも知れない。その点パピルスは具合がいいのかも知れないけども、やはりこの楔形の文字は、粘土板に刻みつけるようにできているのでしょう。
 こんな泣き言を言っていてもいけません。何しろわたしは、そのパピルスの国の王になるのですから。こんなことなら、兄上の隣に座らされてエジプト通詞の進講を聞かされていた頃、もっと真面目にやっていればよかった。聞いたり話したりなら、まあ何とかできるけども。
 それに粘土板では、こうしてあなたに見つからないように、昼間は輿の座布の下にそっと隠しておくなんて芸当も難しいですからね。こう何枚も書き貯めると、いくら座布の下でも尻が痛くて堪らないと思います。
 これからはヒッタイトの文字ではなくて、わたしが書くのはあの古めかしい、判じ物のようなエジプト文字ばかりになるでしょう。いや、そんなのは書記がやってくれるのかな。まだよく判りません。

もう時間がないから、忘れないうちに、あなたにぜひ知っておいて欲しいことを書きます。
 どうしてわたしがエジプト行きを決意したか、ということです。それは、故国では皇帝にはなれないと決まっているわたしが、エジプトでなら王になれる。そこに惹かれたというのも否定はしません。傍から見れば、敵国の王になるなんてとんでもない、怖いことかも知れませんけども、仮にも皇子に生まれついた以上、そういう動機ならロイス兄上だってマリだって、心のどこかに少しは持っているはずですよ。わたしと同じ「二流皇子」ならね。
 こんなことを言うと、せっかく兄上の妃として皇族の仲間入りをしたというのに、下々の者にも少しも偉ぶろうとしない奥ゆかしいあなたは「男の人はすぐ地位だ名誉だって発想するのね。」なんて、顔をしかめるかも知れないけども。
 マリなんて、競走の後ほっとして溜息をついていたのは、エジプト王にならなくてすむから、じゃないんです。あの後、あいつと語り合う機会があったんですよ。
 あいつはね、娶って間もない幼女のような妃と、お別れしたくなかったんですね。その上、向うで待っているのは年上の再婚の、おっかない姑さんまでついた大層なご身分の王妃さまでしょう。かわいい自分の妃を連れてエジプト王になれるのなら、あいつはそれこそ誰に眠り薬を盛ってでも勝とうとしたはずですよ。
 ロイス兄上もそうです。兄上はもう立派な大人だから、相応の地位も、ご家族もお持ちです。独身者のわたしのように、外国でなら王になれるからなどと、今さらほいほいと身軽に飛び出せるお立場ではないのです。
 わが国で、どうして庶子には皇位が嗣げないことになったのかはよく知りません。庶子では皇帝になれないというのなら、側室などというものを公認する意味なんて、ないような気もしますけどもね。いや、決してこれはわたしの恨み節ではありませんよ。

 わたしがエジプトへ行くと決めたのには、もっと大切な理由があるのです。
 あの日皇帝陛下は、サリ兄上以外の五人の皇子の中から、公平にエジプト行きの皇子を選ぶと仰せでしたね。皇帝陛下ご自身、もうかなりのお齢を重ねておいでだから、いくら何でも正規の、そして直接の後継者を手放すことはできなかったのでしょう。それは当然です。
 サリ兄上は、とても穏やかな方です。自分から早く国の頂点に立ちたいなんて、そんな権力欲を持っている方ではありません。わたしと違って、嫌でも皇帝にならなければならない方なのですけども。
 でも、知っていますか。
 サリ兄上は、少しお身体がお弱いのです。だからお妃方はいらっしゃっても、お子を授かることはおそらく望めないでしょう。あの兄上に限って、実はお妃以外の女性と関係があって、そちらにお子があった、なんてことは想像できませんしね。仮にそんなことがあったとしても、そういう庶子には、サリ兄上から皇位を承け継ぐ資格はありません。ちょうど、わたしが皇位に就けないのと同じ理由です。
 ということは、わが皇統は、サリ兄上を最後に断絶してしまうかも知れない、ということです。
 サリ兄上が皇帝になられて、いつまでもご嫡子がおられなければどうするか。それは、ちゃんと法に定められています。サリ兄上が後継者としてご指名になるのは、カイル兄上なのです。指名、と言っても、わが皇室の典範に拠る限り、カイル兄上を指名することにはじめから決まっているのです。
 そのカイル兄上にも、今のところご嫡子、どころかお子はありません。残念ながらあなたは側室だし、皇帝の正妃にはなれない。たとえ、あなたがゆっくりと時間をかけて、兄上との愛を育まれたとしても。
 カイル兄上にもお世継ぎがない状態で、また後継者を指名しなければならなくなったらどうするか。カイル兄上は、ジュダを指名することになります。
 何につけても、驚くほど飲み込みのいいあなたのことだ。もう、わたしが何を言いたいのかは解ったでしょう。
 国そのものの将来と一体の、皇位継承に関する問題です。いたずらに希望的観測に頼っていてはなりません。
 今の段階では、サリ兄上、カイル兄上、そしてジュダ。この先三代の皇帝として、この順序はもう決まっているようなものなのです失礼ながらサリ兄上は、何か病にでも罹られればちょっとお危ないお身体だし、そういう継承は、意外に早く現実になっても不思議はありません。できることなら、サリ兄上にもあまりご無理をなさらず、いつまでも長生きしていただきたいものですけども。
 ジュダなんかはまだ若すぎて、そんな自覚はないようだけども、ジュダには立派な正妃がいます。ジュダに世継ぎが生まれるのもそう遠い日ではないでしょう。そうなれば、ヒッタイトの皇統もひとまず安泰です。
 あいつ、何だか学問にばかり関心を持って、自分がいつかヒッタイトを背負って立ち、後継者を残すのだ、なんて自覚はないようだけども、少なくとも今、わが皇統の将来を考える上ではあいつこそ希望の星なのです。
 それほどまでに大切なカイル兄上や、そしてジュダを、ヒッタイトから離れさせていいものでしょうか。いえ、断じてなりません。

でも、皇帝陛下の本当のお考え、少しはわたしにだって解った気がしてきました。
 と、賢しげなことを言っても、今から書くことは別に皇帝陛下からお伺いしたわけではありません。わたしが勝手に想像して、納得しているだけなんです。でも、この際あなたにだけはわたしの考えを、知っていて欲しいと思うのです。
 戦車競走なんてくじ引きみたいな方法でエジプト行きの皇子を決めて、もしわたしでなくても、ロイス兄上かマリが行くことになったら、皇帝陛下は一安心なさるでしょう。理由は今、説明した通りですね。いずれにしても、今上陛下にはご自分の子であることに変わりはないのですから、何かとその立場でエジプトを牛耳ることはできます。ヒッタイトだって今やエジプトとほぼ互角の国力を有しているのですから、大義名分さえあればそれ位、わけはありません。また、その気になればこれを前例だと言い張って、代々の王をヒッタイトから迎えさせるとか、代々の王妃をヒッタイトから娶らせるとか、先方の反発さえ覚悟の上ならいくらでもやり方はあるでしょう。何しろ、元はといえば正真正銘のエジプト王妃が作った前例なのですから。
 ならば、カイル兄上かジュダが行くことになったら、皇帝陛下はどうなさったか。皇帝陛下は、ご胸中にとてつもない政略を描かれていたのではないでしょうか。
 まず仮に、カイル兄上が行くことになったとしましょうか。
 
 わが国の皇位継承権を持つ皇子が外国の国王になるという前例は、ありません。そういう場合を想定して制定された法もありません。となると、カイル兄上がエジプト王になったからと言って、わが国での皇位継承権を喪失する明確な根拠も理由もないですし、エジプト王になれば当然にわが皇族の譜から除かれるという規定さえありません。皇妃陛下はその点を見落としておられたのか、皇帝陛下に迫って法典を改正するつもりでおられたのか、それは知りませんけども、逆に兄上が皇位継承権を保持し続けられる明確な根拠もないのですから、皇妃陛下としてはカイル兄上を皇位継承順位から除くべく強く主張したでしょう。そうすれば、サリ兄上が継承した皇位は、カイル兄上を飛ばしてジュダに承け継がれることになりますからね。
 皇帝陛下はそれに対して、カイル兄上が依然皇位継承権を保持しているというご見解をお出しになります。なぜでしょうか。
 カイル兄上は、間もなくエジプト王となります。そしてサリ兄上の代が終われば、ヒッタイトの皇位を継承するのはやはりカイル兄上ですね。
 すると、カイル兄上は、エジプト王にしてヒッタイト皇帝、両国の君主を一人で兼ねるというお立場になられます。そうなれば、今上陛下がエジプトを攻め滅ぼされ、ヒッタイト皇帝のお立場で自らエジプトの玉座に就かれるのと同じ結果ではありませんか。しかも一滴の血を流すこともなく、法を枉げることもなく。
 皇帝陛下と皇妃陛下のご見解が真っ向からぶつかれば、結論は元老院の議決如何に委ねられることになります。でもここまで来れば元老院だって、どちらが国益に副う見解かを見誤りはしないでしょう。
 また、ここではあくまでもその根拠は現行のわが法典に求め、決して慌てて法典を改正したりはしません。エジプトから皇子をくれと言ってきた時点で既に施行されていた法典を根拠に、たまたまエジプト王の座にあるカイル兄上がヒッタイトの皇位を践むのです。それならば、エジプト側も文句は出せないでしょう。現にそういう法典がある国の皇子を、王として戴きたいと申し出てきたのはエジプトの方なのですから。
 兄上は、エジプト王になられた直後から、自分が「ヒッタイト皇室から来た」新しい王であることを国中に訴求しながら、新しい仁政を施します。まあ、今のエジプトのいい加減さに比べれば、兄上のなさることなら、いや、わたしが思いつく程度の政策でも、何でも仁政に見えるでしょうけどもね。
 そうして、兄上は徐々に人心を集めて「その日」に備えておくのです。
 そうしておけば、王がヒッタイト皇室の出身だということは既に好意的に受け入れられているはずですから、エジプト王のままヒッタイト皇帝を兼ねるについても、そう強い拒絶反応は出て来ないでしょう。
 さらに、やがてエジプトはテーベを捨ててハットゥサへ遷都、ヒッタイトと「合併」するのです。国号も「ヒッタイト・エジプト帝国」いや、もっと雄大に「大オリエント帝国」かな。
 わが皇室は、そんな世界最大の帝国に君臨することになるのですよ。
 実現していれば、ね。もっとも本当になるのには、とても難しい課題が山積みです。
 でも、こんな雄大な政略が案出できるのは、今上皇帝陛下の三人の嫡子がみんな有能で、みんな反目せずに連携できる関係にあるから、だからこそです。
 これからもヒッタイトの皇室が、こんないい雰囲気であってくれることを願い続けています。

 もし、ジュダに決まっていたら。
 皇帝陛下はそんなこと、はじめから考えてはおられなかったでしょう。何しろ戦車競走なのですよ。ジュダなんかに優勝できるわけがないでしょう。
 それでももし、誰かさんが目論んだように、何かの拍子にジュダが皇帝旗を手にしていたらどうするおつもりだったか。おそらく、「皇妃の猛反対に押し切られて」見せて、ジュダをエジプトへ遣ることを見合わせたでしょう。皇帝たる方がひっくり返った盆の水を元に戻そうとするように、一旦口に出したことを覆すのはよいことではありませんが、バビロニアの王孫でもあるジュダに関して、保護者たる皇妃陛下の強いご意向を容れて見せれば、今度はバビロニアに対して大きな「貸し」が作れるのです。エジプトには次点になった皇子を送れば、エジプト王妃の望みを叶えてやったことにも変わりはありません。
 でも、皇妃陛下もあんなにジュダだけがかわいいのなら、ジュダが別にヒッタイトの皇帝ではなくて、エジプト王でも不足はないと思いませんか。
 そうすれば、皇妃陛下だってヒッタイトのタワナアンナでありながらエジプトの国母ですよ。しかも元々バビロニア王女。これだけあちこちの一流国で最高の地位と名声が得られるのだから、まさに皇妃陛下のお好みなのですけどもね。
 でも、きっと皇妃陛下にはそれでは不足なのです。かわいいジュダが、エジプト王としてカイル「皇帝」と精々同格だなんて。皇妃陛下には、とにかくこのヒッタイトで、自分以外を母に持つどの皇子よりもジュダを上に据えなければ満足できないのです。わたしは、そうだと思います。母親というのはそんなものなのでしょうか、わたしにはまだ、よく解らないけども。
 それに、この国の正しい皇位継承順位に従う限り、ジュダはカイル兄上の次です。となると、ジュダがわが国の皇位継承順位を確保し続けたとしても、カイル兄上の場合とは違って、ジュダにはヒッタイトの皇位が回って来ず、「ただのエジプト王」で終わってしまう公算が高いのです。
 兄上ならとてもご壮健だから、一旦即位なさればそのご治世は長くなる公算が高いし、お世継ぎだって何人ももうけられるでしょう。カイル兄上にお世継ぎがある限り、ジュダはヒッタイトの皇帝にはなれませんからね。
 まあその前に、天文学の試験ならわたしだってジュダには敵わないけども、試験科目が戦車操法ではね。何しろ現にジュダの奴、あんないんちきをしてさえ次点が精々なのですから。全くかわいい弟です。
 今上陛下は、ウルヒが戦車競走のことを言い出した瞬間、即座にこれだけのことを考えて、そして誰も異論を挟む暇がないように、その日のうちに競走を行わせられたのだと思います。
 この巧妙な策略を、こうして瞬時にできる皇帝陛下がおられたからこそ、ヒッタイトはここまで伸し上がった。だからこそわたしのような者までが今、大ヒッタイト帝国の皇子だなんて、エジプトが辞を低くして迎えてくれる立場でいられるのです。
 わたしがエジプト王になれば、皇帝陛下も何かとわたしのやることにお口を出されるでしょう。でも、わたしはできるだけ、エジプトのことはヒッタイトの皇帝の都合ではなくて、エジプトの人たちの望みを聴いて決めたいな。もし、エジプトとヒッタイトが一体になることができるとしても、たまたま同じ君主を戴くことになったから、というのではなくて、両国の民衆が、本当にそれを望むようになってから。そうしたいものです。

 また使者が着きましたね。あなたには「オードから改めての激励使だよ」とごまかしておきましたけども、これもあなたが余計な心配をしなくていいように、黙っておくことにしたんです。ごめんなさい。その代わり、ここに使者の用件を書いておきます。
 わたしたちが今向かっている国境ですが、オードはね、今頃になって「あそこには満足な施設もないから儀式に支障がある。少々日程を繰り延べてでも、最初の婚儀の場はカディシュ城内に変更できないか。」と心配しているらしくて、わたしの意向を聞きに独断で使者を送ってきたんです。
 みんながいろいろ気を利かせてくれるのはありがたいけども、いくらなんでもこれは手後れですよ。そんなにあちこち引き回されては敵わない。「施設上の制約があるのなら無理に大層な儀式を望みはしない。予定通りで不満はないから、事がここに至ってはとにかく、円滑に予定を進めて欲しい。」と言っておきましたよ。

 何ともまあ、いろんな人がいろんな心配をして、わたしの婚儀を準備してくれているのですね。今さらながら頭が下がりますよ。

 で、そんなにもみんなから気を遣ってもらえる花婿の話です。
 あなたは、ロイス兄上やマリのことは、よく知らないでしょう。

 この縁談が、あと三年遅れて舞い込んできたのなら、本人の思いはどうあれ、エジプト行きはマリでもよかったかも知れません。でも今はまだ早いです。あいつはやたらと強気な奴だけども、やることと言ったらジュダと大して違いはしない。
 敵国の王というのは、難しい地位です。平和の礎になる反面、失敗すれば本人が殺されるだけでなく、両国間に戦争がおこる。上手くバランスをとるなんて、ジュダは言うに及ばず、マリにもとてもまだ無理ですよ。
 バランスといえば、ロイス兄上なら適任かも知れない。作戦にも強い兄上だけども、それよりも穏やかに、おいしい実の生る木の下に自ずから蹊ができるように、自然と人の信頼を集めるご人徳はわたしたち兄弟の中でも一番じゃないかな。王としても、きっとそのお人柄を活かされることでしょう。
 でもわたしは、ロイス兄上にはヒッタイトを離れていただくわけにはいかない、大切なお役目があると思うのです。
 あなたはまだ知らないだろうけども、わたしたちには異母姉上が一人あります。ネピス・イルラ姉上です。
 あまり表に出て来られることはないけども、姉上は、あなたも知っている第三神殿の神官長です。今の皇妃陛下は神官の位もお持ちだから、重要な国家祭祀は皇妃陛下が自ら執り行われるけども、姉上こそが、専任の神官としてはヒッタイトで最高のお立場なのです。
 機会があれば兄上におねだりして、一度会わせてもらうといい。面立ちといい、綺麗な長いストレートの黒髪といい、ロイス兄上と瓜二つですから。
 解るでしょう。姉上はロイス兄上の、実の妹なのです。
 ゆくゆくはこの国の宗教界の頂点に立たれるべきお立場で、否応なく政治的に微妙なお立場に立たされることになる姉上なのですけども、実は目がご不自由なのです。
 何かと油断も隙もない政治の世界のこと、中にはそんな姉上をないがしろにする輩も出て来ておかしくはない。
 そんな時、目がご不自由なぐらいでネピス・イルラ姉上がなめられないよう、姉上の実兄たるロイス兄上に、しっかりと実力で睨みを利かせていただく必要があるのです。
 もちろん、その頃は皇帝になっているはずのカイル兄上だって、姉上のことをいつもお心に留めておいてくれるでしょうが、皇帝ともなれば、身内の心配ばかりはしていられないでしょう。むしろ皇帝というものは、いざという時は身内など顧みず、あくまで国全体のことをお考えになっておられねばならないのです。
 その頃、ロイス兄上はわが皇室の長老格でしょうし、残念ながら皇帝にはお立ちになれないロイス兄上は、その分だけはカイル兄上よりも身軽なお立場であられるはずですからね。
 

 何だか、わたしが一人で国の将来を心配しているようですけども、もしわたしの推測が全部当たっていたなら、皇帝陛下は皇妃陛下の進言を容れて、最初からカイル兄上をエジプトへ遣わしていたことになるのかな。でも、それではあまりに露骨だとお迷いで、形だけでも偶然の要素を含ませたくお考えだったのでしょうか。何しろ、ジュダが勝てっこないのと同じく、誰かさんが余計なことをしなければ、カイル兄上なら負けっこない競技だったのですから。
 でも、イル・バーニあたりに訊けば、案外わたしの考えなんて一蹴されるかも知れないな。「荒唐無稽なご想像ですな。第一、どこそこの時点で何とか法の何の条項に抵触するではありませんか。馬鹿馬鹿しい。」なんてね。
 カネシュでも法制なんて難しいもの、役人たちに任せきりにしてたものなあ。わたしなんていなくなっても、カネシュ県庁は全然困らないだろうな。後任知事どのとの引継ぎだって形だけで充分だったけども、カネシュには海千山千の役人がわんさといるから、精々鍛えてもらうといいですよ、あいつも。

こうして説明すれば、わたしこそ最もエジプト行きに相応しい皇子だということが、あなたにも解るでしょう。まあ、ヒッタイトの立場から一人一人出し惜しみを考えて、最後に残った独身の、どうでもいい皇子がわたしだった、そういう意味でもありますけどもね。

 どうですか。わたしは決して、カイル兄上がいなくなるとあなたが悲しむから自分が犠牲に、なんて、そんな甘い考えでエジプト行きを勝ち取ったのではないのです。
 でも聡明なあなたは、ちゃんと肝心の点に気づくでしょう。「じゃあその難しい地位は、ザナンザ皇子になら勤まるの?」
 おあいにく様。これでもわたしは、あなたが思ってるよりしたたかで、有能なんですよ。しっかり両国のバランスをとって、ちゃっかり幸福にもなって見せます。
 幸福に。そう、ヒッタイトにいれば一生皇帝になれない保証のついた二流皇子が、オリエント一の伝統を誇る大国・エジプトの王になれるんだ。

 何しろ、エジプトには皇帝の意向にいちいち異を唱えるうるさい元老院もないし、皇帝と同格だ、なんて生意気な皇妃もいない。全てが王の思いのままだ。わたしの嫌いな奴は一生遠ざけておけばいいし、わたしの気に入った物はいくらでも王宮に運ばせればいい。どんなわがままや贅沢だって望み次第ですよ。
 それに、わたしの妃になってくれるアンケセナーメという女はたいそう美人だと聞きます。やんごとない血筋で、エキゾチックな蜂蜜色の肌をして、豊かな胸を惜しげもなく露にして、いつだってしとやかにわたしにかしずいてくれるんです。きっと、ユーリなんて比べ物にもならない素敵な姫だ。それに側室だって選り取り見取り、かわいい女の子が目に付けば、わたしの好みで何人でも召し出せるんだ。
 もし、あなたが何かの折にエジプトへやって来ることがあっても、その頃わたしは大エジプト王国の国王陛下です。たかがヒッタイトの皇子の側室風情に目通りを許してやるような安っぽい身分じゃない。だからそんな時も、くれぐれもわたしに気易く声をかけようなんて無礼千万なことは思わないように。
 ああ、楽しみだ。だからそんな天国のような暮らしが始まれば、わたしは一月も経たないうちに、あなたのことなどあっさり忘れてしまう。…そう、ユーリのことなんか、さっぱりと…
 だから、ユーリ。あなたは、こんなに現金で薄情で、好色な鼻持ちならない皇子には早く愛想を尽かして、兄上と、いつまでもいつまでも、なかよく暮らしていてください。時には辛いこともあるだろうけども、兄上ならきっと、あなたを守り抜いてくれるはずです。
 
 アナトリアの旅の空は、平穏できれいでしたね。あなたがほんの短い間に、どんなに乗馬が上手くなったか、それもよく解りましたよ。その分なら、あなたは駱駝にも上手く乗りこなしてしまうんじゃないかな。これからの砂漠の旅も、砂嵐なんかには遭わず、あなたに苦労をかけずに済めばいいな、と願っています。
 そして、やがてわたしをエジプトの使者に引き継いだら、あなたはヒッタイトに戻らなければならない。早くあなたを帰さないと、わたしは兄上に恨まれてしまう。
 その兄上には口留めされているけども、わたしや兄上が、今のジュダより小さかった頃の、面白い話があるんです。
 ある日わたしと兄上が、後宮の、睡蓮の池



第7巻・141ページから、同168ページまでの間に、エジプトへ向かうハットゥシリが密かに書いていたとりとめもないユーリへの書簡、というものを想定してみました。
 もとより予期せぬ事件により、このパピルスに楔形文字で書かれた書簡はハディの許に届けられることはおろか、最後まで書き上げられることすら叶わず、ばらばらに散って果てしない砂の海に飲み込まれてしまったのだと思われます。ですからここでも、書き起こしのパピルスは散逸してしまい、ハットゥシリが書こうとした次の話題も、途中で切れてしまっているという形にしてあります。
 事件が起きる前夜、ハットゥシリはユーリと共に夜更かしをしていますから、その後パピルスを取り出したものの、途中で眠くなって目を閉じてしまったのでしょう。
 
 シュッピルリウマが、特に何の見返りも示されないまま敵国の王妃たるアンケセナーメの要請をあっさりと受け入れた胸中には、ナキアとはまた違った、何か意図するところがあったのではないかと想像したのが今回のお話です。
 エジプトへ向かったハットゥシリが行方不明になった時にもシュッピルリウマは即座に戦を宣していますが、これとて、敵には王が欠けている上、前王には暗殺の疑いさえあるという政情不安の最中、対してこちらは製鉄法を入手でき、ミタンニ討伐を果たして後門の憂いも解消した状態で、皇子が害されたとして大義名分も立てられる、千載一遇の好機と判断したのかも知れません。だとすれば、ユーリが生還して事件の真相を明らかにした時、「余計なことを」と内心舌を打って悔しがったことはナキア以上だったかも知れません。
 もっとも、はるか後世の欧州が舞台ならいざ知らず、当時の現地で相続により全く別個の国が突然同一の君主を戴くという例があったかどうか、当筆者は知りません。
 
 なお、ネピス・イルラとロイス・テリピヌが母の同じ実の兄妹であるとする推測は、文中に掲げた理由のほか、第16巻・40ページにある、ナキアが後宮に入った当時のシュッピルリウマの妻子一同の集合場面に拠りました。
 この絵を、その後の描写に見られる頭髪の特徴と血縁関係を参照して観察すると、皇帝の背後に位置を占めているのが、既に母も亡く、既に皇太子であったアルヌワンダであろうと推測できます。同じように、ヒンティの足元にいるのがムルシリと、ヒンティの子に準じた扱いを受けているハットゥシリ、向かって左から二人目の妃の膝に縋っている幼児がピアシュシュリであろうと考えたのです。
 そして、皇帝の向かって左側に侍っている黒髪の側室に注目すると、そのさらに左側に、ネピス・イルラに比定できる頭髪の特徴を備えた女性を従えており、さらにその背後に寄り添うように立っている男性は、テリピヌと酷似した頭髪の特徴を見せています。
 こうして、各妃がわが子を身近に従えているのだとすれば、テリピヌとネピス・イルラはともに、皇帝の間近に侍っている同じ妃の子であり、逆に子を二人も得たからこそ、この妃は皇帝の間近に席を占めることを許されたのかも知れません。
 もっとも、その妃の背後にいる女性の正体についてはちょっと説明を思いつかないのですが、とりあえず「子を得ることはできずにいるものの最も古い側室」だとしておいてはいかがでしょうか。


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