睡蓮の池のほとり


星の皇子さま

 人はみな寝静まり、いくつかの灯火が消え入りそうに揺らめくばかりの黒い地上に、おだやかな風に乗った星の光が音もなく零れ落ちている。
 緩やかな起伏の連なるアナトリア高原。ハットゥサ城の高台に設置された天文台で、少年が一人、星空を見上げていた。眺望を遮るものは何もない天文台の、そのまた屋上の観測点である。
 限られた観測関係者以外には立入が許されないはずのこの場所に佇む少年は、全宇宙をただ一人で見守っているような、真剣な顔をしていた。そして時折手にした下げ振りを捧げるように天に向け、星に矩を翳して小さく頷くだけで、じっと同じ場所に立ち続けていた。
 
 観測点を囲繞する胸壁の外側に取り付けられた階段の方から、しゃらん、とかすかな音がした。
 少年はぱっと顔を輝かせると、小走りに階段に駆け寄り、ささやいた。
 「ユーリさま。本当に来たんですか?」
 階段からひょいと顔をのぞかせたのは、少女であった。
 「ひょっとしたら、とは思っていたけど… よくここまで忍び込めましたね。背中のおけがだって、まだ治りきってないでしょうに。」
 「ありがとう。だいじょうぶよ。でも入口には兵士が立ってるし、下の部屋にはまだ灯りがついてて、おじさんが寝てるんだもん。普通に歩くわけにはいかないから、城壁と柱をつたってね。人目につかないようにするのに苦労したわ。」
 「その気になれば帰りは一秒で地面にもどれますけど…危ないですよ。気をつけて。」
 少年は、少女の手を取ると、テラスの上に導いた。
 「うっわああ! きれい!」
 屋上に立った少女は、天を見上げて一瞬息を飲み、感嘆の声をあげた。
 「あっ、しっ! 下の技官に聞こえたらどうするんですか。声は小さく!」
 「あ、ごめん、なさい…」
 「だから、何度も言ったでしょう。ここは、天文技官以外は絶対に立入禁止なんです。ぼくだって皇帝陛下からお許しをいただいた天文学の専攻生じゃなければ、その上皇子じゃなければ到底登らせてなんてもらえないんですよ。カイル兄上にだって、皇太子殿下にだって許可なんておりないんですから。」
 「そ、そうなの。…でも、それなら今夜はここで、絶対誰にもじゃまされないで、ジュダ皇子のお話が聞けるのね。うれしい!」
 「ま、まあ、ね。…でも、絶対誰にも内緒ですよ。ぼくにだって、立場っていうものがあるんです。
 ユーリさまだって、こんな夜中に…」

 「どうですか、ユーリさま。案外ここは寒いでしょう?」
 ジュダと呼ばれた少年、皇子ジュダ・ハスパスルピは、兄カイル・ムルシリの側室であるユーリの背に回って、その華奢な肩にそっと用意した布をかけてやった。
 「ありがとう。」
 ユーリは、そっとジュダに微笑を向けた。
 「ほんとはね、ここでは常に二人、星を観測していなければならないんです。もし何か変わった兆候があった時、観測したのが一人だけでは確度が低いですからね。
 下の宿直室に、もう一人技官がいたでしょう。本来ならあの技官とぼくが今夜の観測当直なんです。でもあの人はお酒に目がなくて。ぼくが、いつも世話になってるから、って極上のワインを贈ったら、たちまち相好を崩して、もう観測なんてそっちのけですよ。皇子殿下ならお任せしておいて心配ないですな、なんて、しこたま飲んで眠り呆けてますよ。何しろ、技官あたりじゃもう一生飲めないかも知れない高級なワインですからね。
 それでなくてもあの人は、一旦飲んだくれて眠ったが最後、放っておいたら日が高くなっても目を覚まさない人ですから。」

 「でもそんなワイン、どうしたの?」
 「実はね、キッズワトナから皇帝陛下に献上されたものなんです。大膳から内緒で一本、持ち出してきちゃったんですよ。一番大きなデキャンタでね。」
 「ああっ、悪いんだ! ジュダ皇子ったら。」
 ユーリは、声を潜めながらもジュダを打つ仕草をして見せた。
 「そうでもしなきゃ、ユーリさまをここに呼べないじゃないですか。…同罪ですよ、ユーリさまも。」
 ジュダは殊更にユーリをきゅっと睨んで、ささやいた。
 じゃれあうような二人のやり取りを聞いていたのは、アナトリアの夜空にさんざめく無数の星たちだけであった。

 「でも、どうしてそんなに人の出入りを嫌うの、ここ。
 こんなにきれいな眺めなんだから、誰にでも見せてあげればいいのにね。」
 「そうはいきません。ここは天文台なんですよ。」
 「天文台が、そんなに大切なの?」
 「そりゃそうですよ。ここは、わがヒッタイト帝国の神聖な標準観測点なんですよ。
 いいですか。
 昔から、天を観測するというのは、暦を作り、季節の移ろいを確かめ、天候を予知し、災害に備えることです。前の半分を目的とするのは天文観測、後の半分を目的とするのは気象観測と言って、厳密にはちょっと違った分野なんですけど、特に作暦は、為政者だけに許された特権、同時に為政者に課せられた神聖な義務なんです。誰もが好き勝手に暦を作って使っていたら、国はまとまりがつかなくなるでしょう。ユーリさまのお国だって、そうじゃないんですか?」
 「ううん… よく知らないんだけど…」
 カレンダーでしょ。それぐらい日本にだってあるわよ。お正月になれば晴着を着せてもらえるし、お年玉だってもらえるし… でもそういえば、お正月の日ってどうして決まったんだろう。

 「暦を作るには、大変な知識と技術が必要です。長年に亘って蓄積された正確な観測記録も必要なら、実際の作暦に要する作業量だって膨大です。
 それに、暦というのは一度作ればいつまでも使える、というものではありません。天地の営みは人間が定めた暦などに合わせてはくれませんから、暦と実際の天の動きとの間には、常に誤差が生じ続けています。なるべく早期にその誤差を検出して、それが蓄積し始めたら暦を修正する。そのための観測は、きちんと定まった場所から正しく行わなければなりません。その基準となる観測点が、ここなんです。
 もし、これまで享け継がれてきた天文学の継承者がいなくなったり、このハットゥサの標準観測点が使えなくなったりして、必要な修正ができなくなればもう、現行のヒッタイトの暦なんてすぐに使い物にならなくなります。
 そうならないように、営々と観測を続け、暦を管理できるのは確固たる政権の証です。それに、そうしていくら暦を作っても、みんなが信用して、使ってくれなくちゃ意味がありません。皇帝なり王なりの名で作った暦がちゃんと行われるということは、臣民がその皇帝なり王なりにちゃんと信を寄せているということでしょう。
 だから、技術上、経済上、あるいは他の理由で自分で作暦ができない小さな国は、自分たちが信頼する国の暦を取り入れて使っています。小国が大国に藩属するというのには、そんな意味もあるんですよ。

 でも最新の知見によれば、暦の誤差の生じ方にも、何らかの法則性があることが知られつつあります。未来には、その誤差を予め組み込んだ暦なんかも作られて、実用されるんじゃないかな。現在の暦のように、誤差が実際に生じてから検出して、それを追って修正する暦じゃなくて、将来生じるべき誤差を正確に予測して予め組み込んだ、安定した暦。 …実はね、そんな精巧な暦を作ることが、ぼくの夢なんです。
 それに、暦を作ることは、民の一番大切な仕事、農業の指導にも必要なんです。種を蒔く季節はいつか、水が涸れだす季節はいつか、それが判らなければ満足な収穫なんて望めませんからね。農民と言っても、自分でそれを的確に感じ取ることができる人はむしろ少ないんです。そこでなるべく解り易い目安を示して指導ができなければ、為政者なんて無駄飯食い以外の何ものでもないじゃありませんか。」
 都会育ちのユーリは、それも考えたことがなかった。そうよね。大変なんだな、お百姓さんって。そういえば、おととしは水不足だって、干上がって底が見えるどこかのダムが毎日ニュースに出てた。その前はお米が不作だからってあわてて輸入したんだっけ、日本でも。…あ。
 「そうよ、日本のことなのよ。今夜は。」

 唐突なユーリの言葉にぎょっとしたハスパスルピだったが、くすりと笑ってそれに応じた。
 「突然思い出すんですね、一番大切な用事を。」
 「そうなのよ、早く、早く教えて! ね、イシュタルってどれなの!?
 「ま、待ってくださいよ。イシュタルは今あっち、南西の空にあるんですけど…」
 「どこよ。見えないじゃない。あっちは暗い星ばっかりじゃん。」
 「だから今説明しますってば。」
 「じゃあ、じゃあいつ輝くのよ、イシュタルは!? あたしが帰れるチャンスはどうすれば判るのよ!?
 「落ち着いて! ほんとに兄上が言ってた通りですね、ユーリさまって。
 ぼくは魔法のことは知りませんけど、星のことなら少しは説明できます。今からぼくが話すことを落ち着いて聞いてくださいよ。ちょっと難しくなるかも知れないけど、必ず解ってもらえるように説明しますから、いいですね。」
 「う、うん。…お願いします…」
 「はい。
 まず、イシュタルという星は、新年祭の後、夜明前に東の空に昇って輝く星です。」
 「うん。それは知ってる。」
 あたしだって、少しは知ってるぞ。「暁の明星」って、金星のことだ。ちゃんと理科で習ったもん。理科だって入試の科目だから、必死で勉強したし。でも吉田先生ってば、顕微鏡はお手のものなのに、天体望遠鏡は苦手なんだ。授業で操作して見せてくれたんだって、いかにも自信なさそうでさ。 …そんなことはどうでもいい。
 「『暁の明星』だよね。たしかそれって、『宵の明星』とおんなじ星なんでしょう。」
 「違いますよ。それは金星のことでしょう。」
 「えっ、違うの!?
 「違いますよ。そりゃ金星だって、『暁の空に輝く明るい星』には違いないから、イシュタルと混同されたり、一般には金星をイシュタルと呼ぶこともなくはないけど…」
 「ならば、どっちだっていいじゃない。」
 「よくありません。第一、金星っていうのは定まった位置を持つ普通の星じゃなくて、星たちの間を独自の周期で泳ぎ回る特殊な星です。そしてその運行周期は約五百八十四日なんです。そうそう都合よく、三百六十五日とちょっとで一巡りする地上の年に合わせて同じ位置に輝いてくれるわけがないじゃないですか。」
 「じゃあ何なのよ、イシュタルって。イシュタルが昇れば泉の水が満ちるんじゃないの?」
 「だから。それを今から説明するって言ってるでしょう。
 ユーリさま、水の季節、ハットゥサでは泉の水が満ちるのはどうしてか知ってますか。
 それはね、地の季節、国じゅうに雪が降って、積もりますね。それが暖かくなると融け始める。するとその雪融け水は大地に滲み込む。滲み込んだ水は大地の底を流れる河・水脈を通って、一年近くかかってはるばるとハットゥサに集まる。集まった水は泉から湧き出す。だから泉が満ちる。それがちょうどハットゥサの、水の季節なんです。
 だから、泉の水位の変動周期は、概ね季節が一巡りするだけの期間、即ち一年です。
 まあ、泉の水位を上げる要因は雪融けの他にもあるから、一年のうちには他の要因によって少々泉の水位が上がる季節もあるし、水の季節とは言っても毎年どの日に泉の水位が最高に達するか、正確に決まっているというのでもないけど、いずれにしてもこれは純粋に地上の現象であって、星とは関係ないんです。」

 「ううん。…それはそうかもね。」
 「その一年というのはどうやって定めるかというと、太陽の動きが基準です。
 暦を作るには、必ず太陽を基準にしなければならないというものではありません。月の満ち欠けを基準にした暦、そして他の特定の星の運行を基準にした暦も、作ろうと思えば作れます。でも、最も地上の季節の移り変わりに合致する暦となると、太陽を基準に作ることになるんです。
 でも、一年、という時間は単位としてちょっと大きすぎますね。だからそれより少し短い日数を表すために、月の満ち欠けの暦を併用するんです。それだって、どうしても常に太陽の暦と睨み合わせながらでなければ使えません。太陽を基準とした一年の間に、月は概ね十三回の満ち欠けを繰り返すんですけど、ちょうど十三回、というわけにはいきませんからね。

 でも実際、月は月で便利です。月の形なら、誰にだって一目で見分けがつきますもの。
 あの、ユーリさま、解りますか?」
 「う、うん…それは解るわ。」
 「よかった。それならイシュタルの話に戻りましょう。
 イシュタルは、天上を巡る星たちの中に不動の位置を占めて、その位置関係はいつまで経っても変わりません。星というのは、大抵そうなんですよ。
 でも星たちは、お互いの位置関係は変えなくても、天全体としてこの大地の周りを巡っているんです。だから新年祭の頃、夜明前に東の空に輝く星たちは、この時期、火の季節の終わりには日没直後の東の空に宿っています。そして今、時間が経つとともにその星たちがぐるりと天を巡って、南西の空高く輝いているんです。
 ここからが大切なんですよ。落ち着いて、よく聞いてくださいね。
 大抵の星たちは、その位置関係を変えないと同時に、それぞれが決まった明るさを持っています。どんな季節でも、天のどこにあっても、明るい星は明るいし青い星は青い。そう決まっています。…ここまではいいですね?」
 うーん。ジュダ皇子って、こんな子なんだ。なんだかはにかみ屋さんで、ひっこみ思案の子かと思ってたけど、星のことになるとこんなによく話すんだ。ほんとに星が好きな皇子さま。
 訳も解らないまま、こんなとんでもない世界に迷い込んだ今のあたしは、飛行機で砂漠の真ん中に不時着しちゃって、何とか元の国に帰ろうと必死になってるパイロットみたいなものかも。そこで出会った、一生懸命大切なことを話してくれる皇子さま。二人きり。…そっか、ジュダ皇子って、星の王子さまなんだ!
 「ちょっとユーリさま。聞いてますか?
 だからね。イシュタルという星は、そんな普通の輝き方をした星とはちょっと違うんですよ。
 イシュタルは、一定の周期で変光します。明るいかと思えば夜ごとに暗くなって、やがて見えないほど光が弱くなる。そうかと思えば今度は夜毎に明るさを増して、どの星よりも明るい光を放つ。…その周期は三百六十五日とちょっと。そう、ちょうど一年なんです。そして、普通の人たちの目で明らかに見分けられるようになるのがちょうど新年祭の後、夜明前、東の空に宿る頃なんです。解りますね?」
 「うん。…」
 そんな都合のいい星、あったかな。聞いたことないけど…
 でも、たしか先生が言ってたぞ。そういう星を「変光星」って言うんだ。えっと、なんて星だったかな。…ああん、入試が終わったら、きれいに忘れちゃったよ!

 「不思議な星ですよね、イシュタルって。もっとも、明るさを変える星は他にもあります。たとえばほら、あの星。」
 「えっ? どれよ。たくさんありすぎて判らない。」
 「あれじゃないですか。ほら、あの赤い星。…もう、見えないかなあ。」
 ハスパスルピは、ユーリの背後に回り、その左肩に左手を置いてユーリの身体を固定し、右肩越しに自分の右手を伸ばして、南の夜空の星の一つを指差した。
 おそらくは技官同士、天の特定の箇所を簡便に指し示しあう必要がある時にはそうする習慣なのだろう。ユーリの左肩の上で、黒い髪と金色の髪がさらりと触れ合った。
 ユーリには、それでも見分けがつかなかった。赤い、といわれても、どれも大して違いはしない。
 それよりもユーリは、暗がりの中、突然ハスパスルピの温もりと、ムルシリの匂いとはまた違う、男の子の匂いを感じてどぎまぎしていた。左肩に置かれたハスパスルピの手が、意外に力強い。ハスパスルピの息がかかる頬も熱くなってきた。背中の傷がどくどくと脈打ち始めた気がするのは、ハスパスルピの身体が傷を圧迫しているからだけではない。決して不快な感触ではなかったし、ハスパスルピに他意がないことも解っている。でも… でもちょっと離れてほしい。
 イシュタル以外の星なんて、どれでもいいから。
 「あ、ああ、あれ、あれね、判ったわ。よく判ったから、…ね。」
 「あっ!」
 ハスパスルピが、ぱっ、と飛び退いた。
 「ご、ごめんなさい! ぼく、なんて失礼なことを… つい、夢中になって…」
 「い、いえ、お気遣いなく…」
 「決して、決して変な気はないんです!
 だ、だからですね、あの、あの星です。あの星… えっと、何の話だったかな…」
 「あ、だから… 明るさが変わるんでしょ?」
 「あ、そうです、そうなんです。あの星は、ええと、三百三十二日周期で明るさが変化するんです。といっても、イシュタルに比べれば周期は中途半端だし、光も弱々しいですけどね。 …だからこそイシュタルは、位置が変化しない普通の星なのにもかかわらず、毎年みんなに注目されるんですよ。」
 そうだったの… ねえジュダ皇子。じゃあ、もう一度教えて。イシュタルはどれなの? 次の水の季節、あたしにも見えるの?」
 「ああ、そうでしたね。ユーリさまはそれが知りたくて、こんな所へ忍び込むなんて無茶をなさったんですものね。
 さあ、ユーリさま。この白い石の上に立って。そして、あの壁にはめ込んである白い石の方を見てください。そしてほら、この矩のまっすぐ先を見通して。
 いいですか。今、イシュタルはそこにいます。」
 「…判らない… どれなの…」
 「そりゃあ、ぼくにも見えません。熟練した技官になると、それでも見えるって言う人はいます。でも、見えなくてもいいんです。今はちょうど、イシュタルは輝きを失っている時期なんです。
 でも心配は要りませんよ、ユーリさま。今度も水の季節、イシュタルは必ず光を取り戻します。そして、火の季節になると今度は目に見えて光が弱まってきます。すると、一般の人たちには他のあまり明るくない星に紛れて区別がつきにくくなるから、言葉の使い方として、イシュタルを『明星』と呼ぶのは火の季節が立つまでに限ることになっています。ちょうどその頃、ハットゥサでは泉の水位も下がり始めますしね。
 もしユーリさまがハットゥサではなくて、よその国で夜空を見ていたとしても同じです。少々高さは違ってくるかも知れないけど、水の季節、イシュタルは確かに輝きます。間違いありません。」
 「…うん。信じてるわ。でも今、見えてないのにどうして位置が指せるの?」
 「さっきも説明したように、星というものはお互いの位置関係を変えないからです。だからイシュタル自体は見えなくても、どの星とどの星の間のどのあたりがイシュタルの位置か、それを覚えていればいいんです。
 そのためには、まず目安になる、主な星たちの配置を覚える必要があります。とても一晩では無理だけど、それは普段、宮の池のほとりからでも、テラスからでも夜空を観察していればそのうち頭に入りますよ。それにまた、夜にユーリさまと会える機会があったら、少しずつ教えてあげます。もちろん、水の季節に間に合うようにね。
 そして毎晩その位置を見ていれば、いつかそこに小さな光が芽生えるのが判るはずです。その光は夜毎に明るくなって、やがて誰の目にも明らかに輝き始めます。それを『イシュタルが昇った』と言うんですよ。だからユーリさまも、毎晩ちょっとずつでいいから天を仰いで、星たちの配置に注意してみてください。」
 ハスパスルピが立ち上がり、大きく両手を広げて振り仰いだ天は、果てしなく広かった。ユーリもハスパスルピの傍らに立ち、その広い、無数の星のさんざめく夜空を仰いでいた。
 
 夜空は晴れていた。漆黒の闇に散りばめられたさやかな星々の光が、いつしか腰をおろしたユーリとハスパスルピの影を包んでいた。
 「ねえユーリさま。ぼく、ほんとに心配になってきちゃった。いくらユーリさまの頼みだからって、星のことを話すのにこんなところへ誘ったりして。ぼくが叱られるのは仕方がないけど、ユーリさまが兄上に、もしかして皇帝陛下に叱られたりしたら、ぼく…」
 「だいじょうぶよ。あたしってば、とっても要領がいいんだから。
 でも驚いちゃった。とってもはにかみ屋さんのジュダ皇子が、星のことになると自信たっぷり、どんどん説明してくれるんだもん。
 …心配しないで。今夜のことは絶対誰にも内緒にする。約束するわ、星の皇子さま!」
 ユーリが、軽く握った拳を上げて、細い小指を立てた。
 「何ですか、それは。」
 「あたしの国の、約束のしるしよ。さ、皇子も小指を出して。」
 「は、はあ…」
 怪訝そうな顔でユーリに倣ったハスパスルピの小指に、ユーリは自分の小指を絡ませて、軽く振った。
 ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのぉます。
 「ふふっ。これが約束のしるしなんですか。判りました。」
 
 アナトリアの満天の星々よ… ここへ来てから、あたしは生まれて初めて星に縋った。
 あれはキッズワトナから、たった一人で荒野を駆けた時。お願い、カイル皇子のところへあたしを導いて、って…
 目印は、北の一ツ星。ザナンザ皇子が教えてくれた星。結局どれが北極星だか判らないまま、あたしは駆ける馬にしがみついてた。そのザナンザ皇子は、もう…
 「ねえジュダ皇子、もう一つ教えて。北の一ツ星って、どれ?」
 「ああ、それなら…」
 ハスパスルピはぐるりと振り向くと、手にした矩で北の天の一点を指し示した。
 「あれなんですけど。判りますか? 一般に、最も天の中心に近いと言われている星です。極めて暗い星でよければもっと天の中心に近い星もあるんですけど、普通の人たちはあの星を見て、ごく大雑把な北の方角の目印としているようですね。」
 「北の一ツ星って北極星… 動かないんじゃないの?」
 「いえ、他の星たちと同じように、天の中心の周りを巡ってますよ。」
 「じゃあ天の中心は、どの星?」
 「正確な天の中心には何もありません。だから判りにくいけど、しばらく一ツ星の動きに気をつけていれば、だいたい見当がつきます。…それがどうかしましたか?」
 「ううん… なんでもないの。」
 あの時は、確かめてる余裕なんてなかった。もしかして北極星じゃなかったのかな、ザナンザ皇子の言ってた星は。
 でも、いいよね。あたしの心の中では、あの星を「ザナンザの星」と呼ぶことにするよ。
 ユーリの目に映った「一ツ星」が、心なしか少し、潤んだような気がした。
 
 二人が肩を並べて無言で仰ぎ続ける夜空を、星たちがゆっくりと、それでも確かに巡っていた。
 「ねえ、ジュダ皇子…」
 「はい。」
 「ジュダ皇子には、お妃さまがいるんだって?」
 「はい、いますよ。」
 「お妃さまには、こんなすてきな星空、見せてあげないの?」
 「何度か見てもらいましたよ、宮の庭園で。でもね…
 ぼくが、星を見よう、って誘うと、三人ともそれぞれ、ついては来るんですよ。まあうれしい、なんて。
 でも、いざ庭園に出てみると、まあ、きれいですわ、なんて大袈裟に叫んで見せたきり、それだけなんだ。別に星の話をしようともしない。しかたなくぼくが星たちのことを話し始めても、ろくに聞いていない。自分たちだけで全然関係ないおしゃべりを始めたりなんかして。
 あげくの果て、いくらも経たないうちに言い出すんですよ。ねえ殿下、お風邪を召してもいけませんから早くお部屋に戻りましょうよ、なんてね。…自分たちが退屈なんですよ、星を見るなんて。ぼくは、たとえ凍てつくような寒空の下でも、夜通し星を見てるのがおもしろくてたまらないのにね。」
 「ふうん。でも一晩じゅうなんて、飽きちゃう方が普通かもねぇ。首も痛いし…」
 「こんなに美しい星空、見飽きたりはしませんよ。…女のひとって、そんなものなのかな。自分が身に着けるきれいなものには目がないくせに。
 …でも、ユーリさま。」
 ハスパスルピは、天を振り仰いだまま話すユーリの、横顔に目を当てた。
 「ユーリさま、ぼくにとっては、あなたが初めての女性ですよ。」
 「なっ…!!!
 ユーリは、どきりとしてハスパスルピの顔を見た。
 「何ですか、驚いたりして。
 あなたが初めてだ、って言ったんです。…ぼくの話に、朝まで付き合ってくれた女のひとなんて。」
 「あ、そ、そういう意味ね…
 えっ、もう朝なの!?
 「そうですよ、ほら。」
 ハスパスルピが指す東の地平を縁取るように、天の裾が茜色に染まり始めていた。
 「イシュタルはね、水の季節になるとちょうどこの時刻…」
 「いっけないっっ!!!
 「ど、どうしたんです?」
 「カイル皇子が目を覚ますっ! あたし、カイル皇子が眠るのを待って、ベッドを抜け出して来たのよ! 早く戻って、知らん顔で宮にいなくちゃ! ごめんっっ!!
 ユーリは、だっ、と駆け出して、ひらりと階段に身を躍らせた。
 後には、ハスパスルピがかけてやった布が、ふわりと落ちていた。
 ハスパスルピは、その布をそっと拾って抱えると、ちょっと顔をしかめ、小首を傾げた。そしてくすりと笑って、星たちが光を弱め、紫に煙り始めた天を振り仰いだ。

 あ。そろそろ技官を起こさなくちゃ。
 …でも困るな。あんないい加減な技官が増えたりしたら。


第8巻・99ページと100ページの間の、ある夜のお話です。季節は夏から秋、「火の季節」から「風の季節」への変わり目の頃でしょうか。ハスパスルピの手ほどきを受けた甲斐あって、ユーリはアルザワへの出征中、自分でイシュタルを観測することができたというわけです。
 題名とした「星の皇子さま」というのは、各位には既にお気づきの通り、サン・テグジュペリの名作「星の王子さま」を念頭に置きました。とはいえ何しろ肉眼観測一本槍(ここではハスパスルピに観測用具として矩や下げ振りを持たせてみましたが)であったであろう時代、この「皇子さま」は「王子さま」の小惑星の存在など知る由もなかったでしょう。
 ここでのユーリは、今いるヒッタイトでの時間と元の日本での時間を混同して考えを巡らせていますが、実際に突然「時空を越えた」となると、実感としてはこんなものなのではないかと想像しました。このお話、ユーリが古代ヒッタイトにタイムスリップした<1995年2月>(平成七年二月。第1巻・3ページ)から約一年半後のある夜を想定しましたが、ユーリの意識の底ではやはり「平成八年の初秋」だったのではないかと思われます。
 さて今回は、原典中で重要な役割を果たしている暁の明星「イシュタル」について考えてみました。何しろ、そんな星があった「史実」など、少なくとも当筆者は聞いたことがありません。そこで、毎度のことながら少々苦しいものの、とにかく原典の記述と齟齬を来たさない「イシュタル」という星を想定してみたものです。
 我々にとっては普通、「暁の明星」といえば金星のことですが、原典中のこの星、運行周期からして我々の金星ではあり得ません。また原典中には、この星が金星だとはどこにも述べられていません。
 詳しくは本文中、ハスパスルピに説明してもらいましたが、ここに想定したように、ちょうど地上の一年を周期とし、おそらくは六等以下からマイナス何等かまでの顕著な変光を見せながら、ちょうど春の暁、東の空に輝くという星は少なくとも我々の星空にはありません。しかし、原典に記述された「イシュタル」の性質をまとめてみると、概ねこのような星であったと思われるのです。
 原典に描かれているのは現代から遡ること約三千三百年という古い時代ですから、我々が知る「北極星」はまだ天の中心にはなかったでしょうし、星の配置や運行も、現代とは少々違ったでしょう。しかし、ここでは「イシュタル」という星、我々でいうおひつじ座かうお座のあたりにあって、当時ヒッタイトの空に輝いていたものとしました。
 ところがこの後、アナトリアではヒッタイトが滅亡します。そのため、既に変光星に関する知見まで備えたヒッタイト独自の天文学も継承者がなくなります。
 そして、注目する人もなくなった「変光星イシュタル」は、その後超新星にでもなって急速に消滅、見えなくなってしまい、伝説だけが僅かに伝えられて、我々はそれを金星にまつわる伝説だと誤解してしまっている、のだと思われます(かなり強引な「思われます」ですが)。
 もしかしたら今後、この星について述べられた古代ヒッタイトの天文学文書が発掘・解読され、さらにはその記述に基づいて徹底的な観測が行われて、やがて現代の夜空の一隅にその「ヒッタイトに於ける真のイシュタル」の痕跡が発見されることになるかも …まあ、それは氷室聡教授の活躍に期待しておきましょう。
 また、当時のヒッタイトの暦法としては、原典に<また1年>(第7巻・54ページ)、<半月ほど>(第12巻・129ページ)などという単位が出てくることから「太陽暦に太陰暦を併用」と推定しましたが、「定まった閏法がない」としたことについては全く根拠はありません。
 実のところ、当筆者はこれまであまり天文には関心を持ったことがなく、拙稿中のユーリと大差ない知識しか持ち合わせないのです。今回の拙稿、原典の記述との整合性の他、特に天文や暦について当筆者が理解を誤っている点にお気づきの各位にはぜひご叱正をいただきたく存じます。


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