睡蓮の池のほとり

好 意

 まったく、ユーリさまにもかなわんなあ。おれたちは大変なんだぜ。解ってらっしゃるのかなあ。
 そりゃあ、遠い国からお一人で来られたんだ、子飼いの女官が欲しいのは解るさ。
 三姉妹なら、まだうなずける。一度はとんでもないことをやらかしたとはいえ、別に悪意があったわけじゃないし、それにタロスが保証人だ、間違いはないよ。
 第一、王宮なんかじゃ「平民の娘だ」って陰口叩かれてるみたいだが、三人ともれっきとした「族長令嬢」だぜ。礼儀作法でも武芸でも、相当以上の教育をしてもらってる。外国語だって、さりげなくペラペラだし、教養なら下手な貴族の姫より上だ。
 しかし、比べちゃ何だが、ウルスラじゃなあ。
 まあ、不憫なことだが、教養どころじゃない暮らしだったのは、見れば判るよ。あの騒ぎの時だって、場所がカタパで、ウルヒが付いてたから、ぼろを出さずに済んだんだ。目の肥えたハットゥサの奴らなら、イシュタルさまと田舎娘の区別ぐらい、一目でつくさ。
 ハディも災難だろうなあ。あのくそ度胸だけは一人前の無教養な娘を、一から仕込むんだからなあ。ヌビアあたりの山出しの娘でも仕込む方が、よっぽど楽なんじゃないかなあ。
 おれだってそうだ。カタパから帰ったとたん、イル・バーニさまに呼ばれたよ。
 「あの娘、改心したとは言っているが、気を許すな。わたしが見極めをつけるまで、ユーリさまにも殿下にも気取られないよう、さりげなく監視するのだ。責はわたしが負う。不穏な言動があれば、かまわぬ、斬れ。」
 気取られないように、って、難題だぜ。そんなのは、三姉妹に命じた方が自然なんだが、三姉妹じゃ、すぐユーリさまにしゃべっちまう、だから女官たちとは少し距離のあるおれに、ってことだったらしい。おれだって、殿下にばらしちまわないように、必死なのに。
 もっとも、そのイル・バーニさまも、そろそろその「見極め」とやらをつけてくれそうな気配なんだが。そうじゃないと、かわいそうだよ。
 はたで見てても気の毒なぐらいだもんなあ。何しろ毎日毎日、立ち方や座り方から、いちいちハディに咎められて、それでも、双子に遠慮しながら必死でハディにつきまとって、見習ってるんだもんなあ。でも、そうしてるだけのことはあるぜ。もう早くも、一応女官らしい物腰になってきたもんな。もうあいつ、本気でユーリさまを尊敬しちまってる。もともと顔やスタイルは抜群なんだし、あれでけっこう賢いんだ、ウルスラも。
 「そりゃそうよ、ここでなら、がつがつ食いだめなんてしなくたって、毎日ちゃんと食事にありつけるし、金持から騙し取らなくたって着る物もいただけるもの。お上品ぶるぐらいの余裕はあるわよ」なんて笑ってるけど、田舎じゃ苦労したんだろうなあ。
 そりゃあおれだって、ガキの頃には毎日、空き腹抱えてたさ。その上、親父は貧乏なくせに、貴族だってプライドだけは高かった。腹が減ったあまりに食い物の話でもしようもんなら、「ばか者。貴族たる者、下賎なことを口に出すものではない」なんて怒鳴られたっけ。
 その代わり、ちっちゃな頃から毎日難しい粘土板の前に座らされたよな。確か、「書中自ラ千鍾ノ粟アリ」なんていうのがあったな。あんなものを読ませるんだから、親父も本当は、貧乏には飽き飽きしてたんだろうな。粘土板からパンが出てくるんなら、誰が毎日腹減らしてばかりいるもんか。その上、武芸の鍛錬まで年中無休だ、余計に腹が減って、親父を恨んだよなあ。もっとも、そのおかげで、こうして隊長だって勤まってるんだけどな。とにかく、パンを焼く麦には事欠いても、食えもしない粘土板と武具だけは立派に揃ってたもんな、おれんちは。
 そうだ、あの粘土板、まだ置いてあるだろう。おふくろが、親父の大切な文庫を処分しちまうわけはないさ。
 あれがあれば、ウルスラも読み書きの勉強ができる。ウルスラさえその気なら、ハディに頼んで、暇を作ってもらおう。おれが教えてやるんだ。ユーリさまには内緒でな。もちろん、イル・バーニさまにもだ。
 うちの隊の貨物車を二個小隊も遣れば、全部積みきれるか。おふくろだって、「おれが読みたくなったんだ」っていえば、喜んで文庫を開けてくれるはずだ。
 もっとも、戦車隊長がこんな私用に部隊を動員していいものか、それはちょっと問題だが。

 これでいいでしょ。
 え、どこがよ。…別におかしくないじゃない。…へえ、「文語」だとそう書くのか。何でだろうね、しゃべってる通り… なんていうんだっけ、そうそう、「口語」のまま書いとけば判るのに。 …ふうん、そうなのか。
 よくこんな難しいこと、覚えたわね、あんたも。ここの人たちはみんな、当たり前みたいに読んだり書いたりしてるけど。
 うそっ、そこもあんたが言った通りに書いたのよ。 …あ、線が一本足りないって? 笑うことないでしょ! 間違えないぐらいなら、誰があんたなんかと二人きりになってまで勉強なんてするもんか。
 でもカッシュ、あんた、こんなことしてていいの? 今に戦車兵たちが怒り出すわよ。「隊長は毎日隊の仕事をすっぽかしてる」って。
 ハディさんやミッタンナムワが、なんだかんだってごまかしてくれてるけど、殿下だっていつか嗅ぎつける…じゃない、お気づきになるわよ。ユーリさまなんて、昨日も「気のせいかなあ、どうも最近、宮でよくカッシュを見かけるんだけど」なんて言ってた、いえ、おっしゃってたのよ。
 悪かったわね、おしゃべりで。あたしがおしゃべりなら、あんたは物好きじゃないの。軍人のくせに、毎日教師ごっこなんてさ。まともじゃないわよ。
 はいはい、今度はどこ? あ、わかった、これだ。この字、昨日もあべこべだって叱られたのよね。うん、明日はきっと、ちゃんと書くわ。
 ごめんね。なかなか覚えられなくて。せっかくあんたがおとっつぁん、じゃなかった、お父上の形見の粘土板まで持ち出して教えてくれてるのに。あたしばかだから、いらいらするでしょ。口が減らない女だってことも、ちゃんと自覚はしてるのよ。これじゃいけないって。
 ねえ、教えてくれるんなら、もっとビシバシ、厳しくしてくれたっていいのよ。いつもあんた、兵隊さんの訓練でやってるみたいに。あたし、それでもがんばって勉強するから。
 でも、誤解しないでよ。せっかくあんたが教えてくれるっていうから、教わってるだけなんだからね。あたしは、字も書けない女官がいるんだなんて、ユーリさまやハディさんたちに恥をかかせちゃいけないって思うだけなんだからね。
 あんた個人のことなんか、あたしは何とも思ってないんだからね! 

 原典第10巻・12ページに至る以前の二人です。
 ユーリは何かときさくに女官を採用していますが、女官という職、そう誰にでも勤まるというものではないでしょう。誰もが文字を知り、学校に通って勉強をするという時代ではなかったでしょうから、原典に<王宮勤めの女官は皆貴族の娘です>、<宮廷女官といえば都の娘たちのあこがれの仕事ですよ>などという科白があったのも、基礎的な素養の必要という点では理由のないことではなさそうです。ことに、<帝国の西のはずれの貧しい所>などでは、いかに自由民だとて満足な教養など望むべくもなかったでしょう。
 その上、三姉妹の仕事を見ても、この仕事は単なる雑役とは訳が違う様子、突然そういう役に採用されても、ウルスラには非常に困難な勤務だったのではないかと思われます。
 なお蛇足ながら、「書中自ラ…」という文句は、カッシュの時代からは二千年以上の未来に現われる詩の一節です。しかし、がんばって勉強すればいい生活ができる、という励まし方は、いつの時代にもあったのではないでしょうか。 

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