睡蓮の池のほとり


お・く・さ・ま

 ああ、どうしよう…
 カイルってば、近衛長官職に就くかどうかは自分で決めていいって言うんだけど… 自分で決めるったって、何をどう考えればいいのか、それすら判らない。
 事が事だから、ハディたちに相談したってどうなるもんでもないし、イル・バーニも「陛下がそう仰せなら、ご自分でお決めになればよろしい。」だなんて。
 もう、一人じゃ心細くて。迷惑なのは解ってるけど、こうして執務室まで来てみた。カイルの側にいれば、何かひらめきそうな気がしてさ…
 部屋にいるのが心細いなら、ここにいていいぞ。
 そう言ってくれたのに。カイルったらお仕事に追いまくられて、あたしは置いてきぼりだ。

 しんにんじょうのほうていだの、ちょくにんかんのしょうじょだのって聞いたって、どんなお仕事なのか見当もつかないけど… 忙しいんだな、皇帝陛下って。
 …結局、あたしは一人ぼっちじゃないか!

 玉座の肘掛に腰掛けて、足をぶらぶらさせながら、ユーリは一人、皇帝ムルシリ二世の帰りを待っていた。
 いかに皇帝不在とはいえ、仮にも皇帝の執務室に気易く押しかけた上に居座って、このような態度を取っていられるのは、この皇帝には唯一の寵姫、側室ユーリをおいて他にはいなかった。
 ユーリは今、重大な決断を迫られていた。とはいえ、ユーリにはあまりにも困難な決断であった。

 近衛長官か… ああ、自分で決めろなんて言わないで、いっそ「命令だ、やれ!」って言ってくれたら、こんなに悩まないでもすんだのに。

 「失礼いたします。ミッタンナムワであります。」
 大きな申告の声と共に、円頂見事な大兵が扉を排した。ムルシリの歩兵隊長ミッタンナムワであった。この男も、この執務室へ自由に出入りできる、数少ない近臣の一人であった。
 「おや? ユーリさま。お一人でいらっしゃいますか。陛下は…」
 「カイルなら表だよ。何だか忙しい忙しいって、駆け回ってる。あたしもさっきから、ここに一人、置いてきぼりなの。」
 「困りましたな。すぐにでもご命令を受領したいんだが… わたしも、待たせていただきますかな。」
 「それ、歩兵隊のお仕事?」
 「はい。ユーリさまは…」
 「うん、ちょっと、考え事があってさ。」
 「左様でしたか。陛下には今日も、ご公務が目白押しなのでしょうな。
 …ところで、どうなさるんですか。例の件は。」
 「ううん… それなんだ、考え事っていうのは。
 近衛長官になるかどうかなんて、考えきれないよ。いっそミッタンナムワが昇進して、近衛長官にならせてもらったらいいのにね。」
 「ははは。わたしがいくら昇進したって、近衛長官のお鉢は回って来ませんよ、あいにく。」
 「でも近衛長官って、ヒッタイト中の軍人で一番偉いんでしょ。ミッタンナムワなら歩兵隊長としていつもお手柄を立ててるんだし…」
 「いや、だからですな。我々と近衛とは、全く別物なのですよ。
 今は偶々、結局はカイルさまに直属する軍だという点で同じ立場になってしまっていますから、ご指揮のご都合上まとめて運用されることもよくありますがね。それでもあくまで『行動を共にしている別団体』ですな。
 …失礼ながら、ユーリさま。ユーリさまにはそもそもわが国の軍制について、理解なさっておられますかな。」
 「軍制、って、ヒッタイト軍の組織がどうなってるか、ってこと? …そう言えば、あんまりよく解らないや。」
 「それでは、近衛隊とは何か、近衛長官がどういう立場か、ご存知なくて考えておられたのですか。…就任するかどうかを。」
 「う、うん… 言われてみたら、それじゃ具体的な考えなんてできるわけないよね。
 あたしってば、どうしてこうおっちょこちょいなんだろう。」
 「これまでユーリさまには、あまり関係のないことでしたからな。無理もないかも知れませんが。
 よろしい。わたしでよろしければ、陛下をお待ちする間、その点の概略についてだけでもご説明しましょう。
 ご決断のご参考になるかどうか、それは判りませんが。」
 「ほんと!? お願い、教えて!」
 ユーリは、ぴょん、と玉座から飛び降りて、ミッタンナムワの前に立った。

 「何から申し上げましょうか… ああ、そうだ。
 ユーリさま。わたしの俸給がどこから出ているか、ご存知ですか。」
 「どこって、カイルじゃないの?」
 「そう。カイル・ムルシリさまの、お手元から出ている。
 では、ユーリさまの初手柄となった、あのカシュガのズワ。あの男の俸給はどこから出ていましたか。」
 「そりゃ皇太后、あの頃の皇妃さまでしょう。」
 「左様。ナキアさまのお手元から出ていた。もちろん、今いる私兵どもも同じです。
 このように、皇族や貴族各位は、大抵それぞれご自身のお手元金で、ご自分の兵を養っている。それを私兵、といいます。わたしは、そしてルサファもカッシュも、うちの他の連中も、カイル・ムルシリさまの私兵だ、と言う訳です。」
 「えーっ、やだぁ! ミッタンナムワって、皇太后の私兵と同類だったの?」
 「やだぁ、とはまた… とにかく、個人の負担で個人の軍を建制しているという点では、同じです。いわばカイルさまの『私物』なのですよ、我々は。
 だからこそわたしは、カイルさまが一皇子であられようと皇太子になられようと、そして皇帝陛下におなりだろうと、公的にカイルさまがどのようなお立場になられようとも関係なく、ずっとカイルさまに付き従っているのでしょう。」
 ふうん。ポケットマネーで軍を作ってるのか、この時代のお金持ちは。
 「そのカイルさまの近臣であるイル・バーニさまとて、ちゃんとご自分の私兵団をお持ちです。まあ、こちらはイル・バーニさまのご身辺の警護やご資産の保全が主任務ですから、我々のように主として野戦を想定した組織でも装備でもありません。その点、ナキアさまの軍と似ていますな。主が武将ではない、という点が共通していますから、外征に動員されることも、まずありません。」
 「外征って、ミタンニへ行った時みたいに?」
 「はい。あれはシュッピルリウマ陛下が、カイルさまに対して出征を命じられた訳です。もちろん、カイルさまがどの程度の戦力を保有しているか、ご存知の上でのことです。カイルさまは大命を畏み、ご自身のご負担で必要な軍を調え、出陣なさったわけです。…まあ言わば、出征を命じられたのはカイルさまお一人、我々はカイルさまの馬や剣と同じようなものですな。皇帝陛下から見ればカイルさまの持ち物の一つに過ぎない。はははは。」
 「じゃあ、この国にはちゃんとした、っていうか、国の軍とかってのはないの?」
 「ちゃんとしてますよ、われわれだって。カイルさまはじめ武将たるもの、いつ戦に臨んでもいいように、普段から絶えず自分の兵を養っておく。それがたしなみ、心構えというものです。武将でなくとも、人よりも豊かな財力を有し、相当の地位や名誉を誇る者なら、自分のことでお国に負担をかけず、自ら備える。豊かなればこそ、身分高ければこその心得です。そうすればこそ公の兵は、本当に保護を必要とする、弱い立場の民衆らをより手厚く保護できるのです。
 そういう点で、我々とて立派に、お国のために役立っているのではありませんか。」
 「ご、ごめんなさい、悪いこと言っちゃって…」
 それも、理屈は通ってるな。強い者は国からの保護に甘えてないで、自分が受ける分を弱い者に譲っている、ってわけか。 
 「まあ、下々の庶民ら、ろくな身代もない民らに対しては、自分の身は自分で守れ、などとは酷な話です。それでは、国などというものには何の有難味もない。
 そこで、不心得な者がのさばって、民が自ら身を守らねばならないような事態そのものを防ぐのが国の仕事なのです。それを治安の維持、というのですな。その考え方を推し進めれば、外国からわが帝国への侵略など、民衆の平穏な生活を脅かす最たるものでしょう。そういう事態を抑止するのが国防、というものです。まあ共に、広い意味での福祉の一分野ですな。」
 「それは、やっぱり誰かの軍がやるわけ?」
 「ユーリさまは前に、カタパでお会いになったとかおっしゃる、ひげの歩兵の話をしておられましたな。わたしもその男、知らぬ仲でもないのですが、あの者などは、職能や兵種で言えばわたしと同じ歩兵です。とは言っても、あの者は国家予算から俸給を受けている。軍自体も国の軍事予算で維持されている。その国軍が、軍事に関して皇帝陛下を輔弼する職務を持った主務大臣の指揮監督の下、カタパはもとより帝国全土に配置されて、治安維持や国防の任務に当たっているわけです。
 但し、これらの軍はその大臣個人に仕えている訳ではありませんから、大臣が変われば新しい大臣の指揮監督を受ける。あくまでも、国そのもののための軍隊ですからな。
 また、国によってはその兵の数を常に維持するのに、臣民に兵役の義務を課している国もあります。臣民が税を納めねばならない義務と同じく、兵として軍務に服さなければならない義務を負っている、という形です。これを徴兵制というんですが、わが国にはそういう制度はなく、志願制一本で通されています。軍人になりたい者が志願して、それぞれの軍が採用する、という形ですな。」
 「じゃあ、さ。ザナンザ皇子も、カネシュ軍を率いて戦ってたでしょ? あれも、ザナンザ皇子がポケットマネーで雇ってた軍なの?」
 「いや、あれは『地方軍』という物です。勅令で指定されて国の権限の大幅な委譲を受け、その知事として皇族を充てることとされている地方庁には、国からの権限委譲の一部として、そうした軍が特に建制されているのです。そういう指定都市には原則として国軍は配置されません。逆にカタパ市などの場合は、勅令による指定を受けない一般の地方庁ですから、市域内でも軍事に関しては国が責任を負う。それで国軍が配置されている訳です。
 ザナンザ殿下は、そして今のカネシュ知事ジュダ殿下は、皇帝陛下からカネシュに封を受けておられる。即ち、カネシュ管内での地方税の課税権並びに徴税権を有し、そうして徴した税の一部をご自分の用に充てておられる訳です。
 その代わり、その税収をカネシュの地方行政の財源として遣り繰りして、うまく活用しなければなりません。地方軍の維持というのも、その一環です。カネシュ軍というのは、カネシュ知事の権限で編成され、カネシュ県の予算で維持される。将兵の任命権も知事に属する。知事が代われば新しい知事が、その仕事を引き継ぐのです。
 その軍の指揮監督も知事の仕事です。ジュダ殿下の場合、軍事はご専門外でいらっしゃるから、カネシュ軍の実際の指揮はフパシャ将軍に委ねておられますが、ザナンザ殿下はその軍を直率しておられた。だからこそ、シュッピルリウマ陛下はザナンザ殿下にも出征を命じられました。それは、ザナンザ殿下がカネシュ軍を動員する権限をお持ちで、ご本人も立派な武将であられるという前提に立ってのことです。
 前に一度、カイルさまがザナンザ殿下に代わってカネシュ軍の指揮を執ったことがあるのを覚えておられますか。あれは、予め一定の要件を示してカイルさまの指揮を受けるべく、ザナンザ知事から軍に対して命令が出されていたのですよ。」
 「ザナンザ殿下は、私兵は持っていなかったの?」
 「お持ちではありませんでしたな。ご幼少の頃はもちろんですが、ご成長の後、早々とカネシュ知事の任に就かれましたから、カネシュの軍が動かせる。ご自分の兵など、あまり必要をお感じではなかったのでしょう。もっとも、あのまま順調に国に重要な地位を占められるようになっていれば、自前の部隊の一つや二つ、調えておられたかもしれませんが。
 ジュダ殿下も同じです。お母上が相当な兵力をお持ちですから、これまでご自分の兵など全く不要でしたし、今は遥任しておられるとはいえ、必要があればカネシュの兵を招び寄せて動かすご権限もお持ちなのですからな。知事の職務の一環として、その軍を直率して出陣なさらねばならない事もあり得る訳ですし。」
 「じゃあ皇帝陛下、じゃなくて、カイルはあの頃、どこの知事だったの?」
 「カイルさまは、どこの知事職にも公職にも就いてはおられません。強いて申せば、はじめから外征・侵攻型の軍、要するに我々のことですが、それを建制して、維持することがお仕事であられました。だからこそ、外征と言えば一番に皇帝陛下のお声が掛かるんですし、常に先陣を承る栄に浴するのですよ。
 この国の諸軍は、国軍を含めて大抵、治安維持・警備を主眼として編成されています。それが戦時動員に際して、軍隊区分として戦闘に適した編成に改められるに過ぎません。だから、どうしても改編にも動員にも時間がかかる。
 しかしわが軍は、平時からいつでもどこへでも進出できる野戦軍としての編成を整えています。かつ、ハットゥサ衛戍とはいえ、特に定まった防衛担任地域を持たない機動部隊です。お考えになればお解りでしょうが、カッシュの所の戦車なんて、治安維持や施設警備には示威程度にしか必要のない装備でしょう。そりゃ歩兵隊だって、多少の戦車は持っています。しかしそれは歩兵戦の支援、連絡や偵察、捜索等を任務として、どこの私兵団でも持っている程度のもので、はじめから対戦車戦闘を主眼とした大袈裟な戦車部隊など、カッシュの所ぐらいだって事です。
 戦車なんてもの、平らな道を走る分には機動力も大かも知れないが、いざ戦闘となれば、相当にただっ広い戦場でもない限り、結局下車して徒歩になってもらわないと反って足手まといですよ。
 弓兵だって似たようなものでしょう。どんな軍でも中核になるのは歩兵部隊だし、どんな場合でも戦いの決着をつけるのは結局歩兵です。…いや、決して歩兵の手前味噌ではありませんぞ。うちでも輜重は車両や馬匹の都合で戦車隊、衛生は比較的後方に位置することが多い弓兵隊が担当する等、歩兵単独では本格的な戦闘は戦えないんですし… 
 とにかくそういう、装備に予算を食うばかりで平時にはあまり必要のない部隊が、常に有事即応の態勢を維持している。

 そんな訳で、カイルさまには公職らしい公職といえば、近衛長官が初めてでいらっしゃったのですよ。
 といっても、それまで無収入であられた訳ではありません。特定の地方の封を受ける代わりに、皇室予算の中の皇族費という費目から、現金をお受け取りだったのです。皇族である以上、そうして体面を維持していただかなければ皇室そのものの権威にも関わりますからな。」

 「そっか… じゃあ、近衛隊ってのも、国の軍隊なんだね。」
 「いいえ、違いますな。広義には国の軍隊とも言えるかも知れませんが。
 近衛隊というのは、皇室の軍隊です。国家予算とは別個の、皇室予算によって維持される。だからこそ長官をお勤めなのは原則として、皇族各位であられるのですよ。
 もっとも、皇族各位の中にご適任
の方がおわしまさない場合、臣下が大命を拝する例もなくはないんですが。
 それでも皇室予算で維持され、皇室の長としての皇帝が任命権を持ち、編成し、皇族のどなたか、またはそれに準ずる誰かが皇室を代表して指揮を執る。隊は皇室を、特に皇帝を守る任務を負う。それが近衛隊というものの特徴です。」
 「そうなんだ。皇室予算を使ってるから、皇室の人が長官になるのか。」
 「はい。同じように、我々はカイルさまがお手元金で建てられた軍ですから、カイルさまの家臣が長となり、カイルさまのお好みで、大将の役はご自身が勤められ、歩兵、弓兵、戦車の兵種別三軍制を採っておられる。
 私兵団の規模としては帝国内でも随一、編成も独特とはいえ、私兵団である以上根本の形に違いはありません。
 まあ、カイルさまほど自腹で軍に大枚を注ぎ込んでいるお方は珍しい。普通はもっとお召し物やお住まいにお金をかけられるとか、何かお得意の分野の発展振興のために出資なさるとか、そういうものなのでしょう。…カイルさまにとっては、そのお得意の分野というのが軍事であられるのですが。
 懼れながらユーリさまとて、皇族の一員であられる以上は皇室予算で生活しておられる訳ですし、近衛の指揮に任じられるご資格は立派にお持ちなのです。そして、要請があればその任を負うのは皇族として受けておられる特典に対する義務だとも言える訳ですな。…あ、いや、わたしは決して、だからユーリさまに近衛長官を引き受けよ、と申し上げている訳ではありませんよ。
 第一女性の軍人など、わたしも聞いたことがありませんし。」
 「まあ、そうだろうねぇ。あたしだって、なりゆきで剣なんか振り回してきたけど、軍人だなんて、自覚したことないものねぇ。」
 「自覚も何も、ユーリさまは軍人ではあられません。現状のユーリさまは、ご側室としてカイルさまの身辺にお侍りになっている。そしてそのご側室がご自分に降りかかる急迫不正の危険から御身を自衛なさるために武装しておられる。あくまで、そういう形なのです。
 …まあ、その急迫不正の危険の真っ只中へ好き好んで身を投じに行かれるご婦人など、他には聞きませんが…」
 「えっ?」
 「いや、何でもありません。
 それに、ユーリさまがアルザワへ出征なさったのも、あくまでもカイルさまの個人的な信頼に基づく委任によるものです。だからこそ、カイルさまはご自身の個人的な兵力である我々をユーリさまにお付けになるに留められ、間違っても皇帝たるご自身の指揮下にある国軍や地方軍、近衛隊など、公的な兵力をユーリさまの指揮下に入れることはなさらなかった。それが公私のけじめというものですし、そもそもユーリさまは公兵の指揮に当たるべきご資格などお持ちではないでしょう。」
 「へえっ、そこまで考えてなかった。そういう理屈になってたんだ。
 陛下が公式に皇帝として、公の軍を指揮して戦っている間、あたしがカイル個人の代理として、カイルのプライベートな軍を率いてアルザワへ行っていた、ということなのね。
 陛下は、一人で二つの立場を兼ねて戦争をしていたんだ。」
 「その通り。言わば、公の立場としての皇帝陛下が個人カイル・ムルシリに対してアルザワ征伐をお命じになり、その命を奉じた個人カイル・ムルシリが、己が妃に己が私兵を預けて出征せしめた、法的にはそういう形となります。
 その間に、カイルさまは皇帝として、公の兵を率いてウガリットへご親征遊ばされていた、ということです。
 このように、皇室の長たる皇帝が常に自ら皇室の軍である近衛隊を指揮監督できるのであれば、必ずしも近衛長官などという役職は要らない、ということでもあります。
 と言っても、皇帝陛下のご公務というのは極めて広範に亘るものですから、そうそう近衛の指揮にばかりかまけてはいられないというのもまた、現実なのでしょう。
 我々にはとかくピンと来ませんが、皇帝というのは統帥だけが仕事ではない。むしろそれ以外の仕事の方が、統治の分野の方が多岐にも亘れば量も多いのです。
 だからこそ今日とて、陛下には出ずっぱりで政務に当たっておられるのではありませんか。
 一方、その個人的な軍の方ですが、与えられた任務を結果として完遂しさえするならば、カイル・ムルシリ個人がそのために己が私兵を誰に指揮させようとも、それはカイル・ムルシリの胸三寸です。正規の軍人でないからいけない、もちろん女だからいけない、などと言う問題は起こりません。あくまでも、カイル・ムルシリ家中の問題、カイル・ムルシリ私兵団の中の問題ですからな。いわんや、カイル・ムルシリが勝手に雇って勝手に重用しているに過ぎない、我々私兵の誰かでもよかったのですよ。
 だが、ご亭主がお仕事でご多忙の時、内輪の用を奥さまに託されるというのは、どこの家でも珍しくもないことでしょう。」
 「えっ!? 奥さま、って、あたし!?
 「ユーリさま以外に、どなたがおられますか。」
 「そりゃ、そうなんだけど…」
 「奥さま」、ねえ。そういえばあたし、「ユーリさま」とか、改まって「ご内室さま」とか呼ばれたことはあるけど、「奥さま」とは呼ばれたことなんてないよね。
 まあ、側室なんてしょせん愛人、きれいに言っても恋人程度のもんなんだから、無理もないんだけど。でも。
 …そっかあ、「お・く・さ・ま」かあ。あたしが、カイルの… むふふっ。
 えへへっ!!

 「何という不気味なお顔をなさるのですか、突然。
 しかし、これからユーリさまが公式に軍人となられるとなると、どうなるのでしょうなあ。どの法令のどこをどう読み返しても、公の軍人たるに女性であることを欠格事由とするような明文規定は見当たらない、…いや、これはイル・バーニさまの受け売りなんですが。しかしそれは、軍人といえば男に決まっている、当然過ぎるから書いていないだけのことではないのですかなあ。わたしには法律など、よく解らないんですが。」
 「ミッタンナムワは、オンナの軍人なんて、いや?」
 「はあ、まあ… いや。ユーリさまがどうこうというのではありませんよ。しかしやはり… よその軍の事とは言え… 抵抗がありますなあ。
 こういう考え、頭が固いのかも知れませんが… いや、確かに頭は固いですよ。ほら、この通り。」
 俄かに深刻な面持ちを見せ始めたユーリを前に、ミッタンナムワは冗談めかして拳を固めると、見るからに頑丈そうなわが円頂をこつんと打って見せた。
 そうだろうなあ。日本にだって、何かって言えば馬鹿にして『女のくせに』なんて言い出す人、いるもんな。男の人だけじゃない。女の人にだってそんな人はいる。それでなくてもここは、紀元前の古代だよ。
 「あたしもさ、その気持ち、解らなくもないのよね。実際、ほんとに戦闘になって、腕力の勝負になればやっぱり男の人じゃないとだめだろうし、それでなくても女の子って、いろいろ不便だしさ。周囲に気を遣われるばっかりになっちゃっても悪いし…
 それに、近衛長官って言えば軍人の中でも最高位、ううん、直接には一番偉いっていうんじゃなくても、一番権威のある軍人ってことになってるんでしょう。あたしなんかがそんな役を引き受けて、もしかして本物の兵隊さんたちが、馬鹿馬鹿しくなってやる気なくしたりしたら、大変じゃない。」
 「まあユーリさまの場合、今や『戦いの女神』という偶像化が確立してしまっていますから、軍の象徴として歓迎されるでしょう。さしずめ『歩く営内祠』、この上なく縁起がいい。
 但しそれは、あくまで士気振作の上だけのことで… まあ、実際の用兵の中心としては、近衛にも百戦錬磨の将軍がいますし、もしユーリさまが長官だとなれば、誰もが納得できる実績と実力を持つ職業軍人が、たとえば副長官、などという形でユーリさまの脇を固めることになるでしょうが。」
 「そうしてくれるなら、ちょっとだけ気が楽かな。何しろあたし、軍令だとか戦術だとか、何にも知らないんだもんね。」
 「いや、そういう考慮をなさるのは、あくまで皇帝陛下ですよ。わたしは一軍人として、そういう事態になったならそういう措置が採られるのが現実的だと思う、と言っているだけです。もっとも、本当にユーリさまが近衛長官になられるとなれば、出過ぎたこととは言え、カイル・ムルシリさまの一家臣として、そのような人事措置をご進言申し上げねばならないとは考えています。
 別に、近衛隊だからと言って必ずしも長官が陣頭指揮を執らねばならないというものでもありませんし、長官ともなれば作戦や戦闘以外、軍政面の事務量も馬鹿になりませんからな。
 だから長官によっては、ご自身は後方での全般指揮に専念され、前線へはお出ましにならない方もおられた。それでも別に、仕事を怠けているということでもありません。

 それから申し上げそびれましたが、帝国軍と総称される中には、もっと違った性格の軍もあります。
 たとえば元老院の軍。これは院の警備に当たらせたり、院の独立性や院の権能の実効性を確保するために、元老院が独立して保有している軍です。もちろん元老各位もそれぞれに私兵力をお持ちの方が多いですから、いざとなればその辺りからも兵を集めることがあります。
 それに広義には、ヒッタイト皇帝に忠誠を誓う王が統べる藩属国の軍も帝国軍の一部です。特に海軍となると、帝国は直接保有していませんから、キッズワトナやウガリットに頼るしかありません。ユーリさまのお手柄でわが傘下に納まったアルザワの海軍についても、このほど有事にはヒッタイト皇帝の一元指揮の下に運用できる協定が結ばれましたし。
 さらに、各部族や村が自発的に拵えている簡単な民間防衛組織や、大商人などの守衛たち、まあ、こんなのも兵力だといえば兵力でしょう。もっとも我々から見れば、そんなものはおよそ帝国軍という範疇に含まれませんが、もしわが本土に敵を迎えて戦うような事態になったり、内乱が発生したりした時には、いないよりはまし、程度には働いてくれるでしょう。
 アリンナのハッティなど、なかなか威勢のいい素人兵を揃えていますが、あれも軍、というほどのものではありません。単なる勇み肌の集団で、組織がまるでなっていない。
 もっとも、ハッティの主たるユーリさまが編成をお命じになれば、あの者らを立派なユーリさまの私兵団とすることもできるんですが。
 ともあれ、これら、いろんな人や機関がそれぞれに建てている軍を総称して、ヒッタイト帝国軍、と称んでいる訳です。これらは全て最終的に、皇帝陛下の最高指揮の下にあることになります。なぜなら、賎しくもヒッタイト臣民、ヒッタイト国内の機関である以上、皇帝陛下に忠誠を誓っているのは当然です。さればこれらの軍を保有している者も指揮している者も皆、皇帝陛下のご命令には無条件に服すべき立場です。ですから有事ともなれば、皇帝陛下はそれぞれの軍の戦力や特性を勘案した上で、その保有者に動員命令を下す。保有者は、その命を奉じて兵を動かす。言わば皇帝陛下には、国内にある全兵力に対して、少なくとも間接的には統帥権をお持ちである。
 これを皇帝の統帥大権、と言います。
 まあ私兵の中には、特に一般の兵になるとそこまで広い視野もなく、ただ俸給や褒美を貰うために主の言うことさえ聞いていればいい、という程度の認識しか持たずに軍務を勤めている者も少なくありません。しかし、それでもいいのです。いざと言う時、主が皇帝陛下の下に馳せ参じるのに、忠実に付いて行って任務を果たすことさえできれば、ね。
 また、統帥大権にはただ諸軍を間接的に動員する権限だけではなく、逆に諸軍の保有者に対し、濫りに兵を動かすな、と命じる権限も含まれます。また緊急時や動員中には、皇帝と軍の保有者の主従関係を前提として、皇帝が直接指揮下にない諸軍の兵に直接命令を下すこともできなくはありません。これによって、各軍同士の内戦を抑止することもできる訳ですな。
 まあ、この間接的、と言うのがちょっと曲者でしてね。皇帝と同格の国事決定権者とされるタワナアンナや元老院に対しては、皇帝といえどもそう一方的に統帥権を振り翳す訳には行かない、ということですな。政治的な意味でね。
 もっとも、皇帝といえどもそう気軽に動かせず、然るべき独自の判断で行動できる軍があるというのも、時と場合によれば皇帝の軍事暴走を抑止する効果がある。三権分立制の意義の一つでもある訳です。」

 「うんうん。そう聞かせてもらえれば、納得できることがあるわ。」
 ユーリは、ちょっと事情が違ったとは言え、自身が先帝暗殺の疑いを掛けられて、アリンナへ身を隠した時の状況推移を思い起こしていた。

 そうだったのか。
 きっと、郵便局と宅配便の違いみたいなもんなんだな。おんなじように荷物を届けてくれるおじさんでも、一方は公務員で、一方は民間の会社員。あたしたちにはおんなじように見えるけど、ほんとはいろいろ違うんだろうな。…よく知らないけど。
 ううん。やっぱり難しいや。
 でも、だいたい解ったぞ。
 近衛隊っていうのは、皇室を、皇帝を守るために作られた軍隊で、それも皇室自前の独立した軍隊なんだ。
 てことは、皇室でも一番偉い皇帝陛下が、近衛隊の持主ってことになる…のか。
 でも、皇帝陛下は忙しくて近衛の面倒ばかり見てらんないでしょ、だから皇族の誰かが皇室を代表して長官になって、皇帝陛下のお手伝いをするのよ。ううむ。
 その「お手伝い」が、あたしでもいいわけか。あたしなら、「戦いの女神」だなんて評判になっちゃってるし、側室だっていちおう皇族だ、ってったって、他には何の仕事もしないでいるんだから、やれって言われたらお手伝いの一つぐらいしなさい、ってことでもある…のかも知れないよね。
 それに、実際の専門的なお仕事となると、もともと近衛にはプロの将軍がいて、もしかしたら副長官? そんな人が付いてくれるから、あたしなんかでも格好だけは勤まる…だろう。
 どうしよう! ますます断る理由なんて思いつかなくなるぞ。ただでさえナキアの、じゃない、皇太后陛下の思し召しなんだからさ。普通なら断るなんて、とんでもないことなんだろうし。

 「要するに、ですな。一口に軍と言っても、いろいろあるという訳です。もちろん、一個人が建てた軍よりは公共機関の軍、公共機関の軍よりは国の、そして皇室の軍の方が、権威は高い、ということになります。
 近衛の場合は直接皇帝陛下に属する親兵であり、その長というのも直接皇帝陛下の代理として軍の指揮監督に当たる。そこが、専任軍人として最高位、と称せられる所以なのです。
 そりゃあ我々だって、皇帝の座にあられるカイルさま直属の軍です。しかし我々は、あくまでも個人カイル・ムルシリに直属する軍なのであり、そのカイル・ムルシリが偶々今、皇帝の地位にある、というだけのことなのです。もしカイルさまが御位を降りられることがあったとすれば、近衛はもうカイルさまの指揮には服しません。新しい皇帝の指揮下に入るべき職務ですからな。しかし、我々は違う。どこまでも、カイルさま個人の下で忠誠を尽くすのですよ。」
 「前に、そう言ってたよね。カイルにもしものことがあれば、みんなお供するんだ、って。」
 「はい。左様です。それも、我々がカイルさまの家臣であり、私兵であればこそです。公兵なら、相手がいかに高官であろうとも、特定の個人に私淑し、その個人にもしものことがあれば後のことなど知らないなどという勝手は許されません。上官が交代すれば、否応なく新しい上官の指揮命令に服する事も義務のうちですからな。
 もっとも反対に、カイルさまもわが家臣の生計や行状について、個人としてどこまでも責任をお持ちだ、と言うことでもあります。
 まあこれは、軍人でなくとも同じですが。片や職務に精励する義務があり、片や俸給を支払い、監督に当たる義務がある。
 しかし特に軍人たる者、その職務遂行のためにはいつでも身を挺し、命を投げ出す覚悟が必要です。我々には、常にその覚悟がある。」
 なるほどねえ。お仕事をして、お給料を貰う。今も昔もおんなじなんだなあ。…違った、今も未来も、かな。
 「そうよね。どんなお仕事でも、みんな誰でも一生懸命働いてるんだろうけど、軍人さんともなれば文字通り命がけのお仕事だもん。
 その『覚悟』ってのが、カッコいいのかも知れないね。軍人さんっていうのは。」
 「えっ? カッコいい、ですか。はははは、参りましたな。
 しかし、その点こそが、軍人の誇りというものなのです。賎しくも軍人たる者、主の馬前に討ち死にしてこそ本望というもの。その大義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟すべきなのであります。日々の鍛錬も修養も、一にその日のためにこそ積んでいるのに他なりません。
 さらに、たとえ私兵であっても、皇帝陛下の御為に名誉の戦死を遂げたとなれば、その主が皇帝陛下に忠誠を誓う者である限り、主はわが為に命を捨てたと同じ、いやそれ以上の手柄と賞するはずですし、軍の保有者たる立場としても、一朝事あらばわが命のみならず、わが養う所の兵を皇帝陛下の御為に捧げることは無上の誇りであるはずです。
 これこそ諸軍が、建制、保有の形や指揮系統はそれぞれ違っても、いざとなれば皆一体の、栄えある大ヒッタイト帝国の軍として一致団結できる所以なのです。
 そもそも世々皇帝陛下がお統べになる大御軍と申すものは…」
 ミッタンナムワの口調が次第に熱を帯び始め、「忝くも有難き大御稜威に副い奉り」だの、「只々一途に己が本分の忠節を守り」だのと、忠君愛国の大演説になだれ込んでゆくのを聞き流して、ユーリは全く別のことを考え始めていた。

 「奥さま」か…
 そうだ。あたしは、タワナアンナになりたいんじゃない。あたしは、カイルの「奥さん」になりたいんだ。
 帝国第一の女性になんかなりたいんじゃない。富や栄誉を手にしたいんじゃない。本当に、純粋に、「カイルの奥さん」になりたいんだ!
 もしもカイルが皇帝じゃなくて、町の石屋さんだったとしても、あたしは迷わずその石屋のおかみさんになる。
 カイルも、あたし以外のひとを側室に迎えたりなんかしない。あたしじゃなければ正妃に迎えたりしない。カイルは、あたしだけのひとでいてくれる。…それは信じてる。信じてるけど。
 でも、それならあたしは側室でもいい、愛人でもいい、なんてことは言わない。あたしは欲張りなんだ。カイルのことについてだけは、世界一の欲張りなんだ。
 誰にも後指を指させない、カイルがあたしの子供を堂々と跡継ぎにできる、そして死んでも永久に一緒。そんな正真正銘の「カイルの奥さん」に、あたしはなりたい!
 そうよ。石屋のおかみさんなら、石を運べとは言われないまでも、石の値踏みぐらいはできなきゃならないだろう。パン屋のおかみさんなら、職人にちゃんと指図ぐらいはできなきゃね。でなけりゃ、おかみさん失格だろう。誰も、本気でおかみさんだなんて思ってはくれない。
 でも、カイルは石屋でもパン屋でもない、皇帝なんだ。皇帝の奥さんになりたいんだから、やっぱりみんなに認めてもらわなきゃ。
カイルの奥さんとして認めてもらうための、はっきりした条件だけは示してもらえてるんだ、あたしは。…出題範囲の決まったテストみたいなもんじゃないか!
 そのために、どんなに辛い試練が待っていても。どんな危険に身をさらさなければならなくなっても。
 カイルの指先が、少しでも温かくなるのなら。カイルの苦しみが、少しでも和らぐのなら。そのためになら、あたしはこの身を、喜んで投げ出せる。カイルのために。
 カイルがいるから、この世界で暮らすと決めた。カイルがいなければ、この世界にいる意味がない。だから、カイルを守る近衛隊は、あたしにとっても望むところ。そうなんだ!
 だからって、近衛長官を引き受けても、正妃にはなれないかも知れない。もしかしたら、カイルを守って討ち死にするか、カイルと一緒に討ち死にするか。 …どちらにしても、それで本望じゃないか! 

 「あの、ユーリさま… ははは、何ですか、難しい顔をなさって。
 ちょっと、堅苦しい話をし過ぎましたかな。いや、つい、兵隊相手に精神訓話をしているような調子になってしまいましたが。」

 「えっ? あ、…ううん、とってもよく解ったわ、ミッタンナムワ。」
 「あまり深刻に思い詰めないで下さい。
 近衛隊なんて、長官の権威は高いといっても、隊自体の戦力は知れたものです。所詮、王宮の守衛の集団に過ぎないんですからな。我々筋金入りの実戦部隊とは比較になりませんよ。もっとも奴らは自分たちが帝国一の精鋭だと思っているようで、気位だけはご大層なもんだが。
 まあ、出陣するとしても戦場じゃ、皇帝陛下のご身辺の直衛程度しか勤まりませんよ、お上品な奴らじゃあね。
 もし我々と近衛が混成してご覧なさい。おとなしい近衛の小所帯なんか、どこへ埋もれたか探すのに苦労するでしょうな、ははは。
 だからまあ、長官がいくら偉いって言ったって… あ。」

 突然、ミッタンナムワが背筋を伸ばして向き直り、直立不動の姿勢を取った。

 「ああユーリ、置いてきぼりにして悪かった。淋しかっただろう。」
 ムルシリが、戻って来た。慌しく、供も連れない一人のままだ。また、すぐ出て行かねばならないのだろう。
 「ユー… 何だミッタンナムワ、いたのか。」
 「いたのかではありませんぞ。さあ、早く動員命令を。今夜にでも状況を開始して先遣隊を進発させねば、演習の日程が…」
 「ああ、解っている。もう命令書はできている。先に打ち合わせた予定に変更はない。」
 「命令の厳正・確実な伝達も演習のうちです。どうか、正規のご命令を。」
 ムルシリが保管庫から粘土板を取り出し、ミッタンナムワに交付した。ミッタンナムワはぴんと背を伸ばし、武張った姿勢で命令書を受領すると、びしりと敬礼するや、くるりと振り向いて退出して行った。
 「あいつ、張り切ってるな。…今回の演習、政務から手が放せなくて、全てあいつに任せてしまったが。
 已むを得ない。自分の軍より、公務が優先だ。」
 「ごめんね、カイル。忙しいのに、お仕事場まで押しかけたりして。あまり無理しないでね。」
 「ありがとう、ユーリ。だが、わたしはこの程度で参ったりはしないさ。
 …それよりもユーリ。悩んでいるんじゃないのか、例の件で。」
 「ううん。ミッタンナムワのおかげで、だいたい考えがついたわ。」
 「ミッタンナムワが、何か口を挟んだのか? ユーリの決断には口出しするなとあれほど厳命しておいたのに!」
 「違う、違うの! ただのおしゃべりなの。
 でも、とってもいいこと、聞かせてくれた。…ミッタンナムワ自身には、ほんとに何気ない言葉だったんだろうけど。

 もうだいじょうぶ。自分のことは、自分で決める。…決められるわ。」
 「そうか。決められるか。」
 「うん。…いいよ、ね。」
 ムルシリは立ったまま、ユーリの身体をひしと抱きしめた。
 「ちょ、ちょっと…」
 苦しいよ、と動かしかけた唇を、ムルシリの唇に塞がれたまま、目を閉じたユーリはなおも考えていた。
 でも、ほんとに勤まるのかなあ、近衛長官なんて。



 今や近衛長官の大任を帯びることとなったユーリと出会ったミッタンナムワが、大袈裟に敬礼する。
 そして、まだまだぎこちないユーリの答礼に、にやりと笑って見せた。
 「近衛長官閣下。
 いかがですか、帝国随一の精鋭部隊とやらを従えるご気分は。」
 「やめてよ、もう! そうやって『長官』って呼ばれるたびに、どきっとしちゃうんだから。
 おまけに、あなたたちまで指揮下に入れられちゃって、もう緊張しすぎて失神しそう。」
 「我々は今さら驚きもしませんが、ご老体は腰を抜かしていましたな。まさか女の近衛長官とは世も末だ、なんてね。」
 「ご老体、って、近衛将軍のこと? そうなのよ。それでね、『新しい近衛長官をお迎えしたいと願い上げたは確かに小官なれど、まさか女人の長官がご着任とは思いもかけず、何の支度も整うてはおりませぬ。お身の回りのお世話とて、近衛の従兵では勤まりかねます故、どなたか女官どののお一方でもお従え下さらぬか』なんて言い出してさ。
 で、カイルに相談したら、三姉妹にまで辞令が出たの。近衛に出向ってことで、兼近衛長官副官を命ずる、ってね。後宮女官と近衛兵の兼務なんて前代未聞なんだってよ。
 おかげであたしたち女四人、大急ぎで軍務や兵学の講義や実習を詰め込まれてるの。将軍が自分で先生になってくれてさ。」
 「お勉強の成果、期待してますぞ。何と言うのかユーリさまは、ものを覚える要領、というか、お勉強の仕方に慣れておられるようにお見受けしますからな。
 まあ、ハディたちだって近衛でもユーリさまに従う以上、正規の立場がなくては不自由でしょうし、そうでなければユーリさまだって、陣中でも近衛長官としての命令とご側室としての命令の区別を念頭に置いて、下令を振り分けなけりゃならない。まして戦闘ともなると、明確な指揮系統や厳格な上命下達の埒外の者がいては混乱の元ですから、よかったですよ。」
 「まあね。それに、オトコばっかりの軍隊に女一人じゃ、いくら何でもねぇ… 一人と四人じゃ大違いよ、助かるわ。」
 「もっとも、そうなるとわたしだって、場合によればユーリさまの命を受けたハディや双子の指揮に服さなけりゃならない。こりゃやりにくいですよ。」
 「そんなことにはしないつもりだけど… そうだ。いっそあたしたちはおとなしくお留守番しててさ、長官命令であなたたちの指揮もまとめて近衛将軍にお任せしちゃおうか。」
 「何を馬鹿な。あんな爺さんをそんな忙しい目に遭わせたら、討ち死にする前に息切れして頓死しちまいますよ。」
 「ひどい! いくらお互い目の仇だって言ってもさ。この間からミッタンナムワったら、近衛にライバル意識むき出しじゃない。お願いだから仲良くやってよね。」
 「わたしにとっては、確かにライバルです。お互いに張り合って、強くなるためのね。
 でも、それはご安心下さい。前にご説明申し上げた通りの理屈ですよ。

 皇帝陛下から個人カイル・ムルシリに対して、その兵を近衛隊と合同せしめ、近衛長官の一元指揮に服せしめるべし、とのご命令があった。だからわたしは近衛と共にユーリさまの指揮に従う。そういうことですからな。当面はね。
 ともあれ、そういうご命令を拝した以上、あんな年寄りだってわが直接の戦友ですからな。」

 「ありがとう。ほんっとに、頼りにしてるんだからね。
 …それより、とうとう本当に隊長を辞めさせられたのね、ルサファ。」
 「はい。まあ、よかったと言うしかありませんな。何しろ刑事上は何の罰も科せられないんですから。本来なら死刑、減軽されても実刑は間違いない所なのですぞ。」
 「でも、この間教えてくれたでしょ。あなたたちはカイルの個人的な軍なんだ、って。
 なのに、元老院の決定で隊長を辞めさせられたりするの?」
 「ああ、それはですな。ルサファ本人だって解っていない訳じゃないでしょうが。
 言うまでもなく、元老院というのはこうした罪を裁く立場でもあります。だから、普通なら兵だろうと彫刻家だろうと、とにかく重罪を犯したヒッタイト臣民なのですから、それに対する査問や処分は元老院が行うのです。
 そこで陛下が、いやカイル・ムルシリさまが粘られたのですよ。
 『ルサファの行為が明らかに重罪の構成要件に該当することは争わない。とはいえその犯罪行為は心神耗弱下に為されたものであるから、当然に刑が減軽されるものと期待している。
 増して、ルサファは帝国軍全体としても欠くことのできない卓越した軍人である。その逸材を失っては、この非常の時局下、国防に重大な欠陥を生じることになる。
 ルサファに対してはわたしが、主たる立場で責任を持ち、栄ある隊長の地位を剥奪、兵士に降格して一から再教育に努めるから、どうか寛大なご処分を願います』などとね。
 一種の司法取引を持ちかけたようなものですが、それにしても、上御一人がルサファのために、元老各位の前で辞を低くして懇願なさったのです。
 その甲斐あって、元老院は『心神耗弱下の行為である上、本人の改悛の情が顕著である。また、雇用主が行う処分により充分な社会的制裁が与えられるものと認められる』と理由をつけて、ルサファに刑事罰を科することを見合わせてくれたのです。」
 「そうだったの。カイルは皇帝のプライドなんてかなぐり捨てて、ルサファのために元老院に頭を下げてくれたんだ。」
 「そういうことですな。まあそんな訳で、ルサファはもう金輪際、元の隊長職に復することはできません。何と言っても、雇い主が元老院に約束してしまったのですからな。」
 「じゃあ、ルサファはもう一生、ただの兵士なの?」
 「そこはそれ。この間も申し上げたでしょう。うちの軍だけが軍ではないのですよ、この国では。」
 「どういうこと?」
 「我らがカイルさまのことだ。きっと、ユーリさまも我々も、あっと言わざるを得ないような離れ業を用意しておられますよ。少々強引な措置だとしてもね。
 わたしにも、それ以上のことは拝察できない。しかし、カイルさまともあろうお方が、あの逸材を気楽な現場勤務だけで終わらせるものですか。
 まあそれまでは、あの雑兵めを遠慮なく、びしびししごいてやって下さいよ、長官。」


 前半は第16巻・159ページと161ページの間、後半は第16巻と第17巻の間のお話です。
 先に掲載した拙稿「ある将軍の退役」の後書で、「原典を読んでいても、ヒッタイトの軍制がどんな形だったのか、よく判らない」と書きましたが、今回はその「よく解らない」を無理やりこじつけてみました。そこで、同拙稿で設定した「近衛将軍」の噂も盛り込んでみました。
 この問題について原典の記述から直接読み取れるのは、ナキアやイル・バーニが保有している私兵団に関するある程度の事情と、キッズワトナ海軍とヒッタイト皇帝の関係ぐらいのものなので、その他についての記述は全く当筆者の想像に過ぎません。毎度のことながら、暮々も真にはお受けにならないよう願います。
 しかし、明らかに公兵たる近衛隊と、とても公兵だとは考えにくいムルシリの軍が混成され、近衛長官の一元指揮を受けている(第17巻・6ページ)というのは、相当変則的な措置だと思われます。
 今回この問題について考えるうち、ヒッタイトの地方制度についても考えざるを得なくなりましたが、この地方制度についてこれ以上の議論は別の機会に譲ることとしましょう。
 また、<大臣>という役職についても、原典中では第3巻・119ページほかに名称だけ出てくる程度で、その管掌する事項や地位などについては皆目見当がつきませんが、今回は国軍を掌理する主務大臣というものを想定しました。

 ルサファの処分(第16巻・165ページ)については、被処分人本人が「元老院の決定だ」と言っています(第17巻・14ページ)。
 しかし、軍内部の地位の与奪というのは任命権者の権限でしょうし、隊長たるに何らかの公的資格が必要であったとしても、<弓兵隊長としての身分剥奪>では精々が行政罰に過ぎず、とても刑事罰だとは理解し難いのです。そこで相当苦しいながら(何かといえばこの種の文言が出て来るサイトですが)、本文中に述べた通りの見解としてみました。
 そういえば、必要に迫られてのこととはいえ、一旦免職して無職となった者を即日全く別の機関で採用、当然に前の勤務先での重大な処分歴を知りながらいきなり重職に就けるというムルシリの措置も「相当苦しい」ものですが。


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