「まったく、失礼ですわ。今の若い女官は何を考えているのやら。」
「どうしたの? 何か、あの者らに手落ちがあって?」
「姫さま! 何もお感じになりませんの?
他でもないエイミさまの御前で、ユーリ・ナプテラさまのお噂に花を咲かせていたのですよ! それも無遠慮に誉めちぎるなんて、あまりにもエイミさまに対して失礼ではございませんか。」
「ああ、そんなこと。…いいではないの。何と申してもユーリさまは直宮さまであらせられるのよ。わたくしのような鄙つ女よりも気高くてご聡明で、お美しくて当然でしょう。
わたくしのことはさておき、女官たちが直宮さまをお誉め申し上げるのも、皇室に対し奉る讃仰の現われではありませんの。
たかが公女に過ぎないわたくしのような者とユーリさまを同列にお比べ申し上げるなんて、それこそ恐れ多いことではなくて?」
「それは…
それはエイミさま、左様でございましたわ。恐れ入りましてございます。
わたくしといたしましたことが、エイミさまをお気遣い申し上げるあまり、出過ぎたこと…
いい年齢をして、恥ずかしゅうございますわ。」
「いいのですよ。そなたのわたくしへの気遣い、嬉しく思います。
でも、皇帝陛下や皇室の皆さまへは、くれぐれも失礼のないように。
ご苦労でした。退ってよい。」
「恐れ入りまして。失礼仕ります。」
ふう。
いいお姫さまでいるのも楽じゃないわ。ああでも言って鷹揚に、つつましく構えでもしていないと、ますますわたくしが世間知らずのわがまま姫になってしまうではないの。
わたくしだって、自分の目の前で他の姫をお美しいだのご聡明だの、誉めそやされていい気がするわけもないのだけれど。…仕方ないじゃない。
ああ、迷惑だなあ。無責任に「比べられる」なんて。
どうしてにわかに、そんな姫のことなんかが噂になるわけ? それも、いちいちわたくしと比べなくてもいいではないの。そんなにわたくしを笑いものにしたいの?
ふん。どうせもともと、格が違いますわね!
あちらは今上陛下の直宮さま、純粋の王宮育ち。わたくしはたかがカルケミシュ知事の娘。
あちらはお小さい時から、周囲の期待を一身にお受けになって、みっちりと花嫁修行をなさっているって。 …わたくしにはお父さまだって「健やかに、伸びやかに育ってくれればそれでいい」か。それって、大して期待はしてないぞ、って言われてるのと同じよね。どうせそのうち、お父さまお気に入りの臣下と娶わせられるのが関の山ですもの。
それに引き替え、あちらは期待もしてもらえるわよねえ。
よちよち歩きの頃から、エジプト王の正妃なんて玉の輿の保証つきなんだから。ご本人さまがどんな姫にお育ちになるか、お利口かお馬鹿か、判りもしないうちからよ。たまたま、皇室宗家のお姫さまだ、っていうだけで。
そんなのでいいんだったら、わたくしだって充分… これでもいちおうは「皇孫」なのですもの!
「えっ? おまえ、そんなもったいないお噂…」
「でも、ほんとなんですってば。そりゃあ恐れ多くて、みんなはっきりは言わないけど、ユーリ姫さまはね、このカルケミシュの町におしのびで、お住まいになっているんですって。」
「それなら。わたくしもご挨拶に参上しなくては。」
「だから。おしのびなんですよ。表向きには絶対極秘、どこの誰だか判らないけど、知事さまが絶対ご信頼の方の所で、町娘としてお暮らしなんですもの。
エイミさまがご挨拶なんかにお出かけになっては、おしのびの意味がありませんわ。」
「でもおまえ、どこからそんな噂を仕入れて来たの?」
「どこ、って… 絶対内緒ですわよ姫さま。極秘っていうことにはなっていますけど、マリエさまのお付き女官なら皆知っていますわ。それどころか、姫さまのお付きの中でも、マリエさまから内々に、ユーリさまのお支えになるよう命じられている者もいますもの。エイミさまのお湯殿係の、あの子なんかもその一人ですわ。あの子なんか臨時のユーリさま付きとして、知らん顔をしてるけど、もう内々のご奉仕に当たってるんですって。
もちろん表に、まして下々の者に漏らすようなことはあの人たちもなさいませんけど、わたくしなら、ほら、エイミさまの腹心ですもの。そっと耳打ちしてくれたんですよ。」
「そう。でも。…そんな大切なことは、たとえ女官仲間の内でも、みだりに言い触らしてはなりませんよ。腹心だろうと何だろうと、おまえが軽々しいことをすれば、わたくしの恥になるのだということを忘れぬように。」
「は、はい。心得ました。」
あの者を「腹心」にした覚えはないけれど、噂好きもたまには役に立つわ。
でも、わたくしってそんなに信用がないのかしら。あのお湯殿女官にまで知らされていることが、わたくしには一言も知らせてもらえないなんて。
わたくしも、変だとは思っていたのよ。お母さまったら、このごろ何かにつけてあの子をお召しになっていたもの。…あの子はわたくし付きの女官なのに。
まあそんなこと、わたくしが知ったからって何のお役にも立たないし、必要のない者には知らせないからこそ、「秘密」なのでしょうけれど。
でも。そうだったの。
エジプト王妃になるために、そんな花嫁修行もあるの。
わたくしでさえ物心ついて以来、街なんか歩いたことはない。お出かけの時だって、わたくしの輿が通る道筋は民なんか払ってあって、姿を見かけることさえあり得ないほどなのに。
でもユーリさまは、女官たちの話に聞く、活気に溢れていろいろな物が商われているという街で、ご見聞を広めていらっしゃるのね。
それがご聡明の証なのですって? ほんとうなら地に足を下ろすこともなくて、今日のお天気さえご存じのご必要もない皇女さまが、進んで街住まいをお試しになることが。 …わたくしには理解できないけれど。そんなの、皇室のご威光に泥を塗るだけではないの。
でも、街って楽しいところなのでしょうね。だって女官に街へ出る用事を言いつけたら、みんなぱっと顔を輝かせて、喜んで出てゆくもの。
そうだ。わたくしも一度、乳母に頼んで街の見物に出てみよう。乳母はだめだと言うに決まっているけれど、ちょっと駄々をこねれば許してくれるわ。
「姫! 姫、ご無事で!?」
「ですから街をご覧になりたいなど、お止めしたのです。乳母やは息がとまるかと思いました!」
ああ、怖かった!
馬というものが、あんなに荒々しいものだったなんて。これまで乗ったことがなくて幸いだったわ。やっぱり、荒々しい兵士たちに相応の乗り物なのだわ。…あんなに高い馬の背から振り落とされては、わたくしは死んでしまっていたでしょうし、あのまましがみついていても地の果てまで連れ去られてしまうところだったわ。
もうたくさんだわ、街なんて。狭苦しくて騒がしくて、むさ苦しい下賎の者どもがうようよと歩き回っていて、臭くて… やっぱりわたくし、お部屋にいるのがいいわ。
でも… やっぱり出かけて、よかったかな。
凛々しいお方だったこと、あの殿方。走り狂っている馬に飛び乗るなんて! お父さまの兵士たちにだって、あんな芸当はできないのではないかしら。それも、何でもないことのように、涼しいお顔で。
わたくし、下賎のおのこに親しく言葉を賜ってやったのなんて初めてだわ。
それに、あの馬に乗っていた男の子。鮮やかな手綱さばきだったわ。人の馬の手綱に手が届くまで馬を摺り寄せるなんて。 …街の男の子って、みんなあんなにすごいことができるのかしら。
そうか! 女官たちは、あのような威勢のいい街の殿方を見たくて、街へ出たがるのだわ! あんなに凛々しくて、涼やかな殿方と会えるのなら、わたくしだってこれからちょくちょく、おしのびで、でも今度はおひろいで…
だめっ! そんな、はしたない。
お父さまが、アーシャを召し出された。
お父さまは、お珍しくお声を荒げていらっしゃる。お気持ちはお察しできるけれど…
ユーリさまがさらわれておしまいになったなんて! 父さまには重大な責任問題だわ。
でも、アーシャは落ち着いている。わたくしだって何度かアーシャの進講を受けたことがあるけれど、落ち着いていないアーシャなんて見たことがない。
わたくしには事情がよく解らないけれど、とにかく、アーシャは自信たっぷり、心配ない、と言っている。
何をどう考えれば、そんなにはっきりと断言できるのだろう。
ユーリさまは、スパイに身を捕われて、剣を突きつけられて、連れ去られておしまいになったのよ。
怖い話。そのような賎しい男、何をするか判ったものではないもの。
でも、ユーリさまは。ハットゥサの王宮でじっとしていてもかまわないのに、進んでそんな恐ろしい街にお出かけになって、民の暮らしを学ばれていたとか。
それはそれで、お偉いことだと思う。
わたくしには、到底真似はできないわ。
最新情報! こういう情報は、やっぱりあの者が報せてくれる。わたくしに付いていながら、普段は何の役にも立たない女官だけれど、非公式の情報源としては抜群だ。だからこそ、いくら女官長に「無能だ」って疎んじられる女官でも、わたくしはあの者を手放さないのよ。…勝手に「腹心」気取りでいるのも、この際大目にみてやろう。
その情報によれば。そのスパイっていうのが、あの日、暴れ狂っていたわたくしの馬に飛び乗って、たしなめてくれたあの殿方なのですって!
…恐ろしい! 一時の気の迷いとはいえ、そのような禍々しい者にときめいてしまって、親しく言葉まで下してしまったなんて。
しかもしかも、しかもよ。あの時の、馬に乗った男の子、あの子。
実はあの子が、ユーリさまだったっていうの! 信じられない!
信じられないけれど、本当なのですって。お父さまの所へそういう報告が届いた時、偶々側に控えて聞いていたっていうのですもの。間違いないわよね。
…ほんとはそういうこと、口外しちゃいけないのよ。解ってる?
悔しいけれど、たとえわたくしにだって。
でも、わたくしだけになら、まあいいけれど。
あーあ… 何だか憂鬱…
お湯殿を使いながら、乳母やからユーリ・ナプテラさまのことを詳しく聞いた。
その上、いつもお湯殿の隅に控えているお湯殿係の女官までお話に割り込んできて、ユーリさまのおばあさまに当たるイシュタル陛下のご事績について詳しく講釈してくれた。…知っているわ、ユーリ・イシュタルさまのことぐらい。わたくしにとってもおばあさまなのは、ユーリ・ナプテラさまと同じなのですもの。
でも、あのお湯殿女官の口から聞くと、この上もなく偉大な、まさに女神さまであらせられたのですわ、というのが本当に思えてくる。…あの子、イシュタルさまの話になると切りがないのにはうんざりだけれど。
イシュタルさまと同じお名をいただかれたナプテラさまは、その偉大なイシュタルさまによく似ていらっしゃるのですって。
お二方とも、皇位争いで油断も隙もないハットゥサの王宮にお住まいになって、お二方とも国の将来のための大きな期待をお受けになって、お二方ともたゆまぬご努力を惜しまれることなく、お二方ともすすんで危険や困難にお立ち向かいになって…
ああ、もうたくさん!
わたくしなんか、そんなにお偉いナプテラさまと比べられたって、太刀打ちできるわけないではないの。
跡目争いなんて露ほどもない平和なお父さまの家に生まれて、こんな田舎でのんびり育って、周りにはいつだってわたくしのことを甘やかしてくれる家族以外、わたくしよりも身分の高いお方なんていない。何不自由なくわがままいっぱい、楽しいことだけ考えて暮らしてきた。
そういうことなのね、おまえたちの言いたいのは。でも。
言われてみれば、わたくしって「恵まれている」のよね。
お国の期待を背負わされるほどの身分でもなくて、さりとて誰かにへりくだっていなければならないような身分でもなくて、ほどほどのところで一生、楽に暮らしていれはいいのですものね。
あーあ。何だかこの世でただ一人、エイミ・ハクピッサだけが気楽に、贅沢な暮らしに甘えきっているみたい…
「お母さま。ユーリさまとはお会いしたことないけど、おばあさまと… ユーリ・イシュタルさまとよく似ていらっしゃるそうですわね。」
「そうね。おふたりともご自分の責任をご存じの方ね。」
「…責任
わたくしは自分の責任など、考えたことありませんでした。
ユーリさまは、ずっとよい王妃になるよう努力してきたとうかがいました。ですがわたくしは今日まで、楽しいことだけを考えて暮らしてきました。
恥ずかしゅうございます。」
「あなたもヒッタイト皇家の姫のひとり… ムルシリ二世陛下とユーリ・イシュタル陛下の孫です。あなたのすべきことはきっとありますよ、エイミ・ハクピッサ。」
お母さまは、そう仰せくださったけれど。
わたくしに、どんな責任が果たせるというの。お父さまの跡目は、お兄さまがお継ぎになるし、お父さまにはわたくしを政略の手駒にお使いにならなければならないほどの政治問題などおありではない。
だからと言ってユーリ・イシュタルさまのように自分で政務を見ることなど、わたくしには到底できはしない。
あーあ… 自分がどんなにつまらない人間か、思い知らされた気がする。
ほんと!? ユーリさまが、ナプテラさまがお越しになるの?
ユーリさまは、スパイを河の中に追い落とした兵士たちにその場で保護されて、おしのびのご日程をお切り上げになってここへお移りになるそうではないの。これはお母さまの仰せだから、間違いない。
そうなれば、わたくしもご挨拶に上がらなくては。
わたくしが礼儀知らずの田舎者だと思われてしまっては、お父さまやお母さま、そしてこのカルケミシュの恥になってしまうわ。
「ユーリさま。初めてお目にかかります。エイミ・ハクピッサと申します。
お疲れでしょう。少しワインでも召し上がりませ。」
「ありがとうございます。
エイミ姫… うかがっております。マリエ伯母さまの姫君ですわね。」
「はい。それから、夕刻には皇帝陛下がこの街にお着きになるとか…」
「お父さまが!?」
他愛もないことだけれど、わたくしはお父さまにお願いして、皇帝陛下行幸のお知らせを、ユーリさまにお伝え申し上げる役をいただいた。
ユーリさまって。どんなに毅然として、気高くて、近寄り難いお方かと思っていたのだけれど…
お目にかかってみると、確かに清楚にお美しくていらっしゃって、お行儀もよくていらっしゃって、お掛けになっているだけでも洗練されたお上品さでいらっしゃった。
でも、み気色を拝していると、わたくしと同じような、普通の姫でいらっしゃった。いいえ、「姫」ではなくて…
何と申し上げればいいのかしら。わたくしには、普通の「女の子」でいらっしゃるように思えた。
ユーリさまの御身は、直宮さまの気品や、エジプト王妃となられるべき威厳ではなくて、ごく普通の女の子の「恋」の匂いに馥郁と包まれていた。
わたくしにだって、そのぐらいのことはお察しできる。
軽々しい恋心など、はしたない。そうしつけられ続けてきた、わたくしにだって。
身体の奥の奥から、熱い不思議なものがとめどなく湧き上がってきて。
自分でもどうにもできなくて。どうしても抑えることなどできなくて。
胸の鼓動にどくどくと押し出されて、身体の隅々にまでほとばしって、頭の中に溢れ返って、渦を巻いて。何も見えなくなって。
はっきりと見えるのは、ただ一つの面影。
戸惑うような、息詰まるような。泣きたくなるほど熱い思い。
そんな匂いが、した。
皇帝陛下に型通りの謁を賜って、滞りなく退出したわたくしは、今さらながらユーリさまのお立場の重大さを感じた。
この婚姻は、わが大ヒッタイト帝国の命運を賭けた婚姻だ。
わたくしなんかにはよく解らないけれど、わが大ヒッタイト帝国の威光はかげりかけている。その威光を取り戻すためには、エジプト王陛下のご援助が欠かせないのだ。わが皇帝陛下には、エジプト王陛下とご縁戚の関係になられることが必要なのだ。そのためには、何が何でもヒッタイト皇女がエジプト王妃に立たなければならないのだ。
エジプト王陛下は、ヒッタイト皇女という立場の、どこから見ても美しくて気高い姫を侍らせることで、ご自身の威信をお高めになる。そして、ヒッタイト皇帝の婿というお立場になられればこそ、わが正妃の実家としてのヒッタイト皇室が見苦しくならないように、わが正妃の里としてのヒッタイトがみすぼらしくならないように、ご援助を下さるのだ。…己が威信のために、エジプト王室の威信のために。
ユーリさまには、ご自身の恋も、ご自身の希望も許されない。ただ、ヒッタイト皇女としてエジプト王妃になること。それだけが、ユーリさまに許された、そして運命づけられた道なのだ。
ユーリさまは物心ついた頃から、わたくしなどにはとても堪えられない重圧を背負ってお育ちになってこられたのだ。
わたくしはお父さまにお願いして、せめて最初の婚儀が行われるカディシュまで、ユーリさまをお見送りすることを許していただいた。
それに、お父さまやお母さまの計らいで、わたくしの女官の半分が臨時にユーリさま付きとして遣わされて、ユーリさまのためにご奉仕申し上げてくれている。
中でも、普段は何やらぼおっと考え事ばかりしているけれど、ことに香り合わせに関してだけはうっとりするようなすてきな演出をしてくれる、あのお湯殿女官はきっとユーリさまのお気持ちもほぐしてさしあげてくれると思う。
どんなに心が波立つ時にでも、どんなに気持ちの沈んだ時にでも、あの子がととのえてくれるお湯殿で手足を伸ばせば、わたくしはすっきりと穏やかな気持ちになれる。それはあの子が、その時どきのわたくしの気分にぴったりの香りでお湯殿を満たしてくれているからだもの。きっとユーリさまにだって、最高の香りのお湯殿をお楽しみいただけるように役立ってくれるわ。
わたくしもユーリさまのために、どんな小さなことでもいいからお役に立ちたい。
これまで、たまたま与えられた何不自由ない境遇を省みもせず、わがままばかり言って甘えてきたわたくしになんて、自分では何もできないのは知っているけれど。
まあ。何ということでしょう。
それが、どんなに失礼で、あり得ないことなのか。世間知らずのわたくしにも、よく解った。
わが皇帝陛下が、親しくカディシュにまでお出ましになっているというのに、エジプト王陛下が遅れていらっしゃるというのだ。
大した理由も説明もなく、ただ遅れていらっしゃる。対等の立場のはずのわが皇帝陛下を、待たせるというのだ。
しかも。しかもだ。わが皇帝陛下も近臣たちも、それをお咎めになる様子もない。誇り高きヒッタイト皇帝なのだから、エジプト王の無礼に対しては強硬に抗議して、相手の陳謝がなければ席を蹴り、毅然としてハットゥサへ立ち戻ってしまうべきはずなのに。
同等の立場であるはずのラムセス二世が、当然のように遅れてくる。それが現実、それが今の国力の差だわ。
だからこそ一層、この婚儀はこわせない。
いよいよ明日、エジプト王陛下がお着きになる。日程が遅れているから、婚儀は明日早速始まって、ユーリさまはすぐにもエジプトへお発ちになる。
ユーリさまにとっては今夜が、ヒッタイトで過ごす最後の夜だ。お心のうちも偲ばれる。
何か、何かお役に立てることはないの? ユーリさまのためにはわたくしなんか、何のお役にも立てないの!?
「ユーリさま。お休み前に何かご用はありますか?」
「エイミさま!? まあ、あなたにそのような…」
「わたくしでもお役に立てることがあればうれしいのです。ご用の際はお呼びくださいませね。」
それはそうでしょう。いかに皇女さまだとて、わたくしを女官代わりに使い立てるようなことをなさるわけがない。ユーリさまは、そのぐらいの常識はしっかりと弁えていらっしゃる。
でも、わたくしには気掛かりでならなかった。婚儀のことではなくて。
わたくしだけが気付いた、ユーリさまのあの「匂い」のことだ。
ユーリさま。本当によろしいの? お胸のうちに、大変なお心残りを秘めていらっしゃるのではありませんの?
ユーリさまは今、ご自身にとってかけがえのない大切なものを、お国のために必死で抑えつけておられるのではありませんの?
そうだ! そうだわ! 今、解ったわ!
ユーリ・イシュタルさまがご存じだった、そしてユーリ・ナプテラさまがご存じの、「責任」ということが。
そして、その「責任」というものが、わたくしにも確かに課せられていることが。
わたくしのような、一人では何もできない、何のとりえもないただの「小娘」が、ただ、高貴な血筋を引いている、というだけの理由で、当然のように贅沢な暮らしをさせていただいている。着る物も、食べ物も、お部屋も。大勢の女官をかしずかせて、お父さまの家臣方や市民はもとより、ハットゥサからご用で下って来られる大臣方でさえ、わざわざわたくしのご機嫌伺いにお時間を割いて下さる。
生まれた時から、そんな暮らしを当たり前だとしか思っていなかったわたくし。でも、そんな特権にどんな責任が伴っているか。
わたくしは、やっと気付いた。
わたくし自身の能力も、人格も問われない特権の裏には、いざという時にはその身分だけを活かして、自分自身の人格も、思いも捨てて、国のため、民のために己を投げ出す義務があるのだ。いつか、その義務を果たすことが期待されているからこそ、民はわたくしを、いいえ、わたくしだけではなくて、お父さまやお母さまや、皇族方、皇帝陛下を敬い、忠誠を尽くしてくれるのだ。
ナプテラさまも、今どんな思いを胸に秘めておられようとも、お国のために求められれば、その求めにお応えにならなければならない責任をお持ちなのだ。
それが、帝国最高のお家柄の姫としてお生まれになり、臣民の讃仰と敬愛を一身にお集めになる御身の責任なのだ。
ナプテラさまは、生まれながらお持ちの地位や名誉と引き換えに、ご自身の思いに固く封をすることを義務付けられていらっしゃったのだ。
わたくしが間違っていた。義務も責任も自覚することなく、ただただ恵まれた境遇に甘え続けてきた、わたくしが。
表向きにはどうあれ、内心そんなユーリさまへの嫉妬に燃えていたわたくしが、間違っていた。
もう、時間はない。
でも、わたくしはどうしても、もう一度ユーリさまとお話ししたかった。今度こそ素直にユーリさまと向き合って、わたくしの気持ちをお伝えしたかった。ほんのひとときだけでいいから。
そうだ。そろそろユーリさまの、ワインのお時間だ。わたくしは一人お部屋を出て、本来はわたくしに付いていた係の女官を呼び止め、ワインのお盆を引き受けることにした。
女官は、わたくしの顔をまじまじと見詰めて驚いていた。
それはそうでしょう。だってカルケミシュでは、わたくしがワインのお給仕をさせていただく方なんて、お父さま以外にはいらっしゃらなかったのだ。
でもわたくしは、強引にその役を引き受けた。
「いいのよ。最後の晩ですもの。少しお話もしたいし。」
わたくしは、知ってしまった。
ワインを捧げて、ユーリさまのお部屋の扉をそっと開くと、ユーリさまがお一人でいらっしゃるはずのお部屋から、男の声が漏れていた。
「刺されなかったのは、期待していいと思っておくよ。明日、父上が着くまでにその気になったら言ってくれ。
必ずつれて逃げてやる!!」
これから婚儀に臨まれる皇女殿下のお部屋に、男がいていいはずがない。花婿さまでさえ、まだ花嫁さまとお会いになることは許されない仕来りなのだ。それなのに、男の声がした。
大変なことが起きている。わたくしは、そっとお部屋の扉を開いて、中の様子を窺ってみた。
「マリパス!!」
男は、向うの扉から姿を消したのだろう。ユーリさまは、その男の名を呼んでおられた。
マリパス。そうだ。その男が、ユーリさまに恋の匂いをまとわせた男なのだ。
ユーリさまは、頬を紅く染められ、おろおろと口に手を当てて、男が姿を消した扉を見詰めておられた。
わたくしは、そっと扉を閉じて引き返した。
「何!? ユーリが消えたというか!?」
「マリパスもいないだと!? まさか、あやつが姫を……!?」
皇帝陛下が、お声を荒げていらっしゃる。皆様方が、真っ青になって慌てふためいていらっしゃる。
そうだったのか。「マリパス」とおっしゃる方は、エジプトの王子さまだったのか。
でも、わたくしには半ば、判っていた。こうなるであろうことが。
そして半ば、期待してもいた。ユーリさまが、ご自身のお気持ちに素直になられることを。
わたくしには、もう解った。ユーリさまが、ヒッタイトで最高の血脈に生まれた「責任」を、いかに真摯に果たしてこられたか、そのために何を犠牲にしてこられたか。
そして今、どれほど重大な決意をなさったのか。皇族としてではなく、一人の人間として。
今度は、わたくしの番だ。
これまで、偶々与えられた恵まれた境遇に甘えて、一人の人間として楽しいことばかりを考えてきたわたくしが、ユーリさまと同じ血脈に生まれた「責任」を果たすのだ。
ね。ユーリさま。
ご一緒に「責任」を果たしましょう。ユーリさまはこれまで、ヒッタイト中の期待を浴びて、その期待を裏切らないようにご自分を殺してこられたのでしょう。
それで、充分ですわ。ユーリさまは、もうご自分の「責任」を、充分果たされたのですわ。
後は、わたくしが引き継ぎます。ユーリさまが、ここまでつないでこられた祖国の期待に、わたくしが実を結ばせます。
その代わり、ユーリさまはわたくしの代わりに、ご自分のなさりたいことをなさって下さいませ。ご自分のお信じになる道を、ご自由にお選びになってくださいませ。
わたくしは、お小さい頃から華やかな地位が約束されていたユーリさまが羨ましかった。
エジプト王妃という地位が、この上もなくすばらしく、晴れがましいものだと思っていた。でも。
その地位に伴う「責任」が、見えてはいなかった。その地位に就く者が負わなければならない重圧に、気付かなかった。
ね。ユーリさま。
よいではありませんの。わたくしには、「憧れの地位」だったのですわ。「エジプト王妃」が。「今上陛下の第一皇女」が。
思い描いていたほどの、華やかできらびやかなばかりの地位ではないことは解ったけれど、それでもいいのです。わたくしに、その夢を叶えさせてくださいますわね?
だいじょうぶですわ。わたくしのような公女風情が直宮さまのお身代わりなんて、とんでもない僭越なのはよく存じていますけれど、わたくしだって一応は、ユーリさまと同じ「イシュタル陛下の孫娘」なのですもの。
エジプト王陛下からごらんになれば、わたくしのほうがユーリさまよりも「お姫さまらしい」かも知れませんわよ。わたくしにはユーリさまのように、男の子みたいなおてんばなんてとてもできない分だけは、ね。
…申し訳ございませんけれど、ユーリ・ナプテラさまのお名はお借りいたします。これから一生。
だから、ユーリさま。
これからは、ほんとうのユーリさまらしく、もうお国のためになんか何の責任も義務もない、活き活きとした町娘におなり遊ばしませ。
そしてその「マリパス」さまとどこへでも、自由な大空へ羽ばたかれませ。
「いいえ… いいえ、皆様方。
婚儀の準備をつづけてください!
ラムセス2世陛下の元に、ヒッタイト皇女は嫁ぎます。」
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