睡蓮の池のほとり

ある将軍の退役

 「そうか、ズィダ叔父上の頃からそなたは将軍を勤めていたのだったな。近衛の将軍といえば、とかく目立たぬものだが、そなたの武勲の数々は決して忘れぬ。いや、長年ご苦労だった。叙勲の祝いも兼ねて、送別の宴は盛大に開いて取らせるぞ。」
 「最後の最後まで、お気遣い恐縮にござります。 …では、事務引継ぎもござりますれば、今日はこれにて御免。」

 おお、少し待たせてしもうたか。だが、貴公も別に急ぎはするまい、ゆっくりして行け。この部屋が、もうじき貴公の執務室になるのだ、早めになじんでおいても悪くはなかろう。
 今、長官の御前を退出してきたところだ。あの方も、ご着任になってそろそろ半年か。だいぶ近衛長官が板についてこられたわ。何人目の長官かな、わしが近衛に入ってから…

 わしが将軍にしてもろうたのが、ズィダ長官の時か… カルケミシュで討ち死になさったのだが、名将だったぞ。ついこの間のことに思えるが、わしには一番華やかな頃だった。その次の、カイル長官の頃もそうだったがな。ただ、カイル長官はご在任が短かった。何しろすぐご即位になってしもうたからな。
 それはそれでめでたいことだったが、その後がえらいことだったよ。何しろ、後任の長官が決まらんでな、欠員のままだ。それで、わしが職務代行者だ。もっとも、わしは生まれつきの身分がこの程度だから、宮廷の公式の席へは出してはもらえぬ。そのくせ実務だけはみな回って来てな。いやあ、近衛長官というものがあれほど煩わしい仕事だとは、わしもやらされるまで解らなんだ。とてもわしのような田舎武者には勤まらん。
 とうとうたまりかねて、ちょうど皇太后陛下に拝謁する用があったから、その時に訴えたのだ。早く後任の長官を寄越してもらわねば、わしは身がもちませぬ、とな。
 するとどうだ。あまりよい評判も漏れ承らぬ皇太后陛下だが、なぜかその願いだけはあっさりとお聞き入れくださったよ。皇太后陛下のご推挙とかで、後任の長官が決まったのだ。
 しかし、その長官がだ。イシュタルさまだというではないか。わしも長年軍人でおったが、女の兵隊など使ったこともないし、増して女の近衛長官など聞いたこともない。いかに陛下のご寵姫とはいえ、このわしが、あんな小娘の下で軍務を勤めるのかと思うと情なかったよ。しかし、誰でもいいから新しい長官を寄越せと言い出した手前、わしの口からは嫌とも言えまいが。
 それでも案外な、付き合って見るとユーリ長官もなかなかの大物だった。剛勇無双とは言わぬが、あの華奢なお身体で、その辺の雑兵なら二、三人、まとめて相手にする程度の武芸はたしなんでおられて、まあ、とりあえず前線にお出しできる程度の腕はお持ちだったしな。それに、正規の軍事教育などお受けではなかったから、ご着任が決まるとわしがにわか講師だ。女官方もまとめて、大急ぎで軍学をご進講申し上げて、演習にもご出馬願ったのだが、それがまた、砂に水がしみいるような飲み込みの速さでな。特に「鶴翼の陣」を張らせれば目の覚めるような采配ぶりだった。そうだ、エジプトへ潜入なさった時の後方撹乱戦でも、ユーリ長官はあの戦法を採られたそうだな。もちろん、オロンテスの戦の時もだ。
 第一、あのお方は、人を統べるということを知っておられた。それが長官というものの大切なところだからな。
 その頃だな、弓兵のルサファが副長官に来おったのは。あの若造、なかなかいい腕をしておったのに、女の長官の下ででれでれと腰巾着ばかり決め込みおって、わしは呆れ返ったよ。だが、あいつも武人の魂を忘れたわけではなかったのだな。オロンテスでも、身を挺してユーリ長官をお護りしおったし、最後は陛下の御前で、立派な死に花を咲かせおったわ。

 そのユーリ長官も、オロンテスの戦の後、すぐ立后なさってしもうた。前々からそういう噂はあってな、兵隊どもも戦の最中から、長官の旗印を「タワナアンナ旗」だとはやし立てておったが、まさか兵隊の評判で皇妃が決まったわけでもあるまい。宮廷でどんな駆け引きがあったのか、わしには判らん。わしはただの軍人だからな。
 それもそれでいいのだ。だが、また近衛長官が欠員になってな、またわしが職務代行者だ。若い頃から武芸と軍学しかやったことのないわしに、書類だ手続だ折衝だと、そんな仕事が勤まるものか。戦で討ち死にするなら本望だが、机の前で疲れ死にするなど、死んでも死に切れん。前に頼った皇太后陛下はあんなことになってしまわれて、今度は元老院に日参したよ。早く次の長官を寄越してくれとな。
 それで、今のロイス長官が着任なさったのだ。
 この間、イル・バーニ殿がわしに耳打ちしてくれたのだが、本当は次の長官にはデイル殿下が予定されているらしい。ただ、もう少しご成長をお待ちするということで、ロイス長官はそれまでの中継ぎなのだそうだ。
 長官も、苦労人であられるな。今の皇室では長老格だというのに、何でもご出自が少し劣っておられるらしゅうて、皇帝にはお立ちになれぬらしい。こう申しては恐れ多いが、ロイス殿下なら皇帝になられても、充分お勤めになれるご器量だと思うのだ。なぜ弟君が即位なさらねばならぬのか …いや、これは口が滑ったか、どうか内聞にな… 皇室の仕来たりというのはどうも解らん。

 とかく地味な役回りの多い方だが、長官は豪い方だ。他の者はあまり知らぬらしいが、わしは長官のご着任前からそれをよく存じ上げているのだ。
 というのは、あの、オロンテスの戦の時だ。戦の最中、近衛は陛下のご所在を見失のうてしもうてな。いやいや、この老いぼれとしたことが、何が百戦練磨か、えらいしくじりをしてしもうた。結局ご無事だったからいいようなものだが。
 それをユーリ長官が、まるで自分一人の落度のように慌てられて、といっても事は急を要する。すぐさま、ロイス殿下を立てて、全軍の指揮を継承するよう要請なさったのだ。
 すると、ロイス殿下は何とおっしゃったと思う。「ご命令あれば従いますよ、イシュタルさま」だと。いや、あの一言、とてもわしには言えん。
 考えても見よ。ただでさえ、弟の皇帝の風下に立たされて、田舎の知事職止まりの待遇だ。それがだ、恐れ多くも金枝玉葉の御身で、どこの馬の骨とも知れぬ、たかが弟の側室風情の指図をみずから進んで受けるというのだぞ。それも本当に、淡々とその指揮下に入られたのだ。あの度量の主を大物と言わずして、誰を大物だというのだ。
 何、腰抜けだと? ばか者。ロイス殿下が腰抜けなものか。ホレムヘブを追い詰めた時の勇猛果敢な戦いぶり、わしら筋金入りの近衛も感じ入ったほどだ。それに本当なら、陛下がご不在の上は、ホレムヘブの剣を取り上げる役は、皇室の長老格であられる、ロイス殿下のお仕事ではないか。その栄えの見せ所ですら、殿下はあっさりとユーリ長官に花をお持たせになったのだよ。まあ、ユーリ長官とて、敵の王を相手に堂々たるものではあったがな。
 それにしてもエジプト人は往生際が悪うてな、王が降伏している最中だというのにユーリ長官に矢を射掛けた下郎までおったぐらいだ。おかげでわしはその後、物解りの悪いエジプトの雑兵どもを叩いて歩くのに手を焼いたわ。ちょうどその頃だったのだ、陛下がお戻りになったのは。
 陛下も、決して逃げておられたのではなかったぞ。お戻りの時は全身傷だらけのお姿でな。ことさら御身のご武勇を誇るようなことは何も仰せではなかったが、あのお傷は徒手格闘で負われたものと拝察した。いかに命知らずの兵隊でも、徒手で敵と渡り合うまでに戦意の高い者はなかなかおらんぞ。さすがは陛下だ。
 ミタンニ王? ああ、あの男もユーリ長官に全軍指揮のお声を掛けてもらっていたな。しかし辞退しおった。わしにいわせれば当然だ、あんな奴。カルケミシュを陥した戦ではな、わしはバビロニアへ落ちるあの男を追撃して、今少しで矢を射掛けてやるところまで追いついたのだ。そこへなぜかカイル殿下から追撃中止命令が来て、仕方なく見逃してやったのだよ。長官はどうなさったのかと思ったのだが、その頃、もう戦死しておられたのだ。
 今思えばあの時、何かの拍子にバビロニアの王女さまとやらを射抜きでもしていてみろ。今度はバビロニアと戦になっておっただろうな。そうなれば何しろ相手は新手、こちらは大戦の直後、勝てたかどうか、怪しいものだ。それに、妹が害されたとなれば、こちらの皇太后陛下も黙ってはおられるまい。あのご命令も、そのあたりを考えてのものだったのだろうな。結局あの男、うまうまと逃げ切った上、いつの間にか、ちゃっかり国王だと。全く忌々しい奴だ。マッティワザという男は。
 それより、ロイス長官だよ。今でもハレブに代官を置いて、知事を兼務しておられる。まるで、デイル殿下がご着任になればまた田舎知事に逆戻りだと、今から決められているような扱いではないか。それでも、長官は悠然と構えておられるよ。
 ハレブの民衆など、みなロイス長官がハットゥサにおられるのが淋しいらしくてな、近衛長官など辞めて早くハレブへ戻って下さらぬか、だと。田舎の民衆どもめ、近衛長官がどれほどの顕職かも知らずに無茶をいうものだが、みなそれだけお慕いしておるのだよ。ロイス知事を。

 すまぬ。つい話し込んだな。引継書類はこれだけだ。 …笑わんでくれ。無学なわしが必死で刻んだ楔形だ。外国人のユーリ長官の方がよほど達筆でいらっしゃるのはわしにも解っておるわ。何とかして読んでくれ。
 近衛にはな、大抵は皇族方がお勤めになる長官がおられる。煩わしい付き合い仕事や書き物などは、長官閣下にお任せしていればいいのだ。
 恐れながら、近衛長官というのは半分名誉職、偶像のような職でな。ご着任になるのも軍事がお得意の方ばかりとは限らん。ここの将軍というのはそのための実務担当者なのだから、貴公のような武辺者には、むしろ気楽な役回りだろうよ。何しろ、戦にしか能のないわしでも勤まったというのがその証であろうが。

 ただしだ。この役回り、己の名を上げようとは思わぬことだ。
 陛下の直轄部隊なら、ミッタンナムワやカッシュ、それから何といったかな、ああ、シュバスか、あやつらでも一端の功名面をしている。わしとて、手柄ならあやつら若造連中に負けはせぬわ。しかしな、近衛の将軍の手柄は、全て長官閣下のものだ。それ位に思わねばこの役は勤まらん。
 増して、これからは陛下のご威光で天下も泰平になろうから、その手柄を挙げる機会もそうはあるまい。だからといって、宮廷や政治には気を取られまいぞ。近衛の将軍が宮廷に入り浸って部隊を留守にばかりしていては、いざという時に兵はついて来ん。貴公も精々汗をかいて、とにかく兵を練るに心を砕いてくれい。いざという時のためにな。

 これからか? 近衛を退いたら、もうハットゥサにいても仕方がないのでな。妻も死んだし、息子らも、上はミッタンナムワの部隊だ。下は技術者になるといってアリンナへ出て行ったし、もう親が世話を焼かんでもいいだろう。
 実は、ハレブへ移ろうと思ってな。ゆっくり隠居して、ロイス知事のお帰りを待ちたくなった。軍事顧問の役も断ったぞ。わしなどただの退役軍人だ。国史にも、戦史にも名など残るまい。近衛に数多おった軍人らの中の一人、それで本望だ。
 知っておるか、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という名言がある。ハレブで隠居しながら、田舎青年相手に弓術でも教えて暮らすよ。弓なら狩猟にも役立つだろう。ただ戦で殺しあうためだけの道具ではなく、豊かな食糧を得るための道具でもある。これなら、戦をお嫌いだったユーリ長官にも申し訳が立つというものだ。

 どれ、練兵場の様子を見に行こうか。おそらくこれが最後だ、貴公も付き合ってくれぬか。


 時代としては、原典本編完結から、「キックリの一日」の間のお話です。
 原典を読んでいても、ヒッタイトの軍制がどんな形だったのかよく判らないのですが、近衛長官というのは<専任軍人としての最高位>の<重要な役職>だとされています。
 そういう役が一触即発の緊張下、欠員のまま放置されていたり、軍政にも軍令にも経験のない人によって占められたりして、しかもそれがうまく機能しているのですから、おそらく目立たない所にこういう仕切り役がいたのだろう、と想像したのが「近衛の将軍」という役どころです。
 もとより、原典には一度も登場しませんし、それらしい姿も見かけません。しかし、こういう役回りの人というのは、どこの団体にもいるものではないでしょうか。今も昔も。

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