睡蓮の池のほとり


鉄の帝国

 「よろしいか? で、次は行を改めて、後見人がある場合はその名及び身分並びに本人との続柄を記載するのです。」
 「後見人なあ。やはり必要だろうな。わたしの名を記載しておこう。」
 「はい。いくら何でも、ユーリさまお一人のお名では心もとないですからな。」
 「あれ… カイル皇子、何書いてるの? イル・バーニさんとお勉強?」

アリンナを本拠とするハッティ族は、思わぬ災難により跡取りのティトを失った。族長のタロスは、当初ティトの死亡の原因が、皇子・ムルシリの側室であるユーリにあるものと誤認していたが、むしろユーリが一度はティトの命を救ってくれたことを知り、さらにはティトの仇討ちまで果たしてくれたというので、己が老先の短さを鑑み、秘伝の製鉄法も含めた部族全体としてユーリに従うことを申し出たのである。
 いわば、跡取りのないハッティが、今後はユーリを主として仰ぐというのであった。
 といっても、ユーリはこの国に来てまだ日も浅く、これまで部民はおろか使用人一人さえ持ったことがないらしい。それだけに部民を持つということがどういうことか、本人は全く理解していない。
 それでも、ムルシリはちょうどアリンナ解放戦の戦闘詳報をまとめ終わったところだったので、ついでに今、この旨を皇帝に届け出て、勅許を受けるための書類を作成しているのだ。
 種々の事情を勘案すれば、少なくとも当座は実質的にムルシリがハッティの主としての任に当たるのが妥当であった。


 「ああ、ハッティがおまえに従うというのだからな、その届出をしておかねばならん。」
 「届出、って… そんな手続が要るの?」
 「それはそうだ。ちゃんと勅許を受けておかないと、いざという時におまえの立場を主張できなくなる。」
 「勅許って、皇帝のお墨付きってこと? いいよ、そんなの。第一、あたしなんかに従われても困るし…」
 「しかし、おまえはもうその立場で三姉妹を召抱えたことになっているのだ。嫌では済まん。
 それに、ハッティが製鉄法を持っていることが判った以上、皇妃も諸侯も、ハッティを取り込もうと画策を始めるはずだ。だからはっきりと、ハッティはおまえの支配下にあるのだということを示しておく必要がある。
 心配するな。実務はわたしが取り仕切る。だから今、書類にその旨の記載をしているところだ。おまえはただ形式上、ハッティの主としてここに座っていてくれればそれでいい。」
 
 「もうっ。なんでそう話が大袈裟になるんだろう。全く面倒なんだから…」
 書類を起案しながら、ふたりの遣り取りを聞いていたイル・バーニが、ここで顔を上げた。
 「おっしゃる通りですが、殿下。こうなった以上、ユーリさまにも最低限のご認識はお持ちいただかねばなりませんぞ。」
 「そうだな。わたしは忙しいのだが、ユーリもちょうどいい所へ戻って来た。少し話しておこう。おい、そこへ座れ。」
 「そうなされませ。その間に、書類はわたしが起案しておきます。」
 ムルシリは、ユーリを前に話し始めた。人を従えるということがどういうことか、どのような責任が出てくるか、どういう心構えが必要か。
 そして特に、今回ユーリに従うことを誓ったハッティが、他に例を見ない製鉄の秘法を伝えていることから、人の手による鉄の生産というものがどういう意味を持つか、それを詳しく話して聞かせた。
 「…だから、アリンナでも少し話したが、元来、鉄という物は天からの恵みだ。何十年に一度か、何百年に一度か判らないが、天から石が降ることがある。そんな石の中でも、特にずしりと重いものを火で炙り、鉄を得るのだ。
 わたしにしても、皇子という身分でなければ、そんな珍奇な物を目にする機会など、一生なかったに違いない。
 しかし、現実にハッティは、人の手で鉄を作っていた。これは、天からの授かり物を地上で作り出してしまうという、神の力を人が得たにも等しいことなのだ。
 ここに、わたしの剣がある。
 この剣は、青銅製だ。これは地上の石から取り出した原料で作られている。ズワが帯びていた長剣も、同じだ。
 あの剣を、おまえは鉄剣、それも短剣で叩き折った。
 ただし、あれは偶然の僥倖だ。後でズワの持っていた剣を検分したが、なるほど強剣ながら相当使い込まれて、弱っていた。そうでなければ、いくら鉄剣が強靭でも、ズワとおまえとでは膂力に差があり過ぎる。まともに刃を合わせても、なまじ己が剣の強靭な分、剣を取り落とさなければ手首を折っているのが関の山だ。」
 ユーリは、ついこの間までの、恐ろしい容貌の巨漢に追われる戦慄を思い起こして顔を引きつらせた。
 「そ、そうだよね、偶然だよね。あんな大男とちゃんばらなんて、もうたくさんだよ。」
 「しかし、だ。もしズワの剣が完全だったとしても、腕の立つわたしの兵が鉄剣を持ってズワと戦っていたらどうなっていたか。少々短い剣でも、その気になれば難なくズワの剣など叩き折っていたはずだ。
 つまり、同じ剣ではあっても、鉄ならより硬く、粘り強いものが作れるのだ。むしろ天から授けられた鉄よりも、人の手で作り出した鉄を加工した剣の方が強靭だという話さえある。
 反対に、それに比べれば青銅剣は軟らかくて、しかも少し脆い。
 石の剣というのもあるが、硬さはともかく、大変脆い。第一、長剣は作りにくいな。」
 「ふうん。じゃあ青銅の剣なんて、いい所は何もないんだ。」
 「ああ。まあ、鉄というのは、放っておくと錆が出て朽ちてしまう。青銅なら、輝きは曇ってもまず錆びつきはしないから、その点は鉄よりも優れているな。もっとも、鉄剣も手入れさえきちんとしていれば問題はないが。
 ともあれ、欲しくても手に入らなかった、そういう夢の素材を使った剣が量産できるとなれば、たとえ技量で彼我の兵が互角だとしても、装備がものをいって断然有利な戦いができる。
 現に、わが帝国はミタンニとの戦いを繰り返しているが、惜しいことに兵力も作戦能力も互角、装備にも目立った優劣はない。何度戦っても、決定的な勝負はつかないのが現状なのだ。
 しかし、これからは違うぞ。わが軍は装備の質が飛躍的に向上する。鉄剣を装備したわが兵は、青銅剣しか持たないミタンニ兵を圧倒して、これまで勝ちきれなかった戦にも、堂々と勝てるようになるだろう。そしていつかわが帝国は、不倶戴天のあの国を討ち滅ぼして、オリエント統一の名乗りを上げるのだ。」
 次第に声に力がこもり、拳さえ振り上げ始めたムルシリを前に、ユーリは溜息をついていた。
 「はあ。ま、そうなるといいわね。結局、鉄を手に入れれば戦争に強くなれる、ってことなのね、この時代は。」
 ユーリは、いつか学校から連れて行かれた博物館で、作文を書かねばならないだけのために、あくびを噛み殺して見て回った緑色の剣を思い浮かべていた。そうか、あれが今、カイル皇子が持っている茶色い剣なんだ。あれは…「やよい時代」? いや、違ったかな?
 「この時代、といわれてもよく解らんが。とにかく、おまえが献上された製鉄法というのは、わが軍に素晴しい戦力の向上をもたらすということだ。」
 「うん。…それでみんな、鉄と聞いて目の色を変えてたんだね。鉄なんて、別に珍しくもないと思ったんだけどなあ。第一、剣っていったら鉄に決まってるんだから、日本では。 …本物なんか、見たことなかったけど。」
 「そうなのか。大した国だな、ニッポンとやらは。
 しかし驚いたぞ。おまえが一目でその鉄を見分けたというのにはな。」
 「だから。あれはたまたまなんだってば。」
 「いや、たまたまというのはおまえが、騎馬でカシュガの陣に突入したのがそうだろう。おまえが、ニッポンとやらでも馬に乗ることを知らなかったのは、乗馬訓練の危なっかしさを見ていてよく解った。」
 「やだ皇子、見てたの? 仕方ないじゃない、アスランてば、ほんっとに乱暴な馬なんだから!」
 「そのうち慣れるさ。じゃじゃ馬同士、先が楽しみだ。」
 「あーっ、ひどいっっ!!
 
 二人の会話が、雑談にそれてしまったことに気付いたイル・バーニが、粘土板から顔を上げた。
 「殿下。お話はそれで終わりですかな。」
 「あ、ああ、イル・バーニ。概ね解ってもらえたようだ。」
 「はい。先程から拝聴しておりました。お話を伺っていても、やはり殿下はわが帝国第一の武将でいらっしゃる。」
 「ふん、わたしをおだててどうしようというのだ、イル・バーニ。」
 苦笑を見せたムルシリに、イル・バーニは冷たく言い放った。
 「誰が殿下をおだてましたか。わたしは、殿下には精々一介の武将程度のお考えしかお持ちでない、と申し上げているのです。」
 「何だと?」
 仮にも皇子を前にしてこれだけの皮肉をぶつけ、涼しい顔をしていられるのはこの男を措いて他にはない。ムルシリが生まれた時から、共に育ってきた乳兄弟ならではの芸当なのだ。
 それも、ただ気易さに甘えて皇子を嬲っているのではない。この男がこういう物の言い方をする裏には、必ず何か、重要な指摘が隠されている。
 「いいですか。いつか、殿下が即位されること、そして、めざしておられる治世は、わたくしにとっても夢です。だからこそ、殿下にはもっと、広い視野をお持ちいただきたい。軍事だけではなく、あらゆる方面に抜かりなく目配りをなさってこそ、初めて優れた為政者たり得るのです。殿下には元々軍事をご専攻なのですから、その方面についてのご着眼が鋭くあられるのは初めから当然です。自慢にもなりません。」
 「う、うむ。」
 もっともな指摘だった。ムルシリとてまだ若い。特に、各地の知事として実際の地方行政に当たっている兄弟とは違い、ハットゥサに在って、これという役職もないまま得意の軍事だけに専念しているムルシリは、殊に政治についての経験の貧しさを自覚していた。
 「何か、わたしの話に足りない点があったか。」
 「はい。殿下にはやはり視野がお狭い。鉄といえば剣、鉄剣といえば強靭な剣、そこまでしかお考えにはなれないのですか。
 国の政務は軍事だけではない。むしろ軍というものは、他のいろいろな政策の強力な実行を担保し、民の安寧秩序に奉仕するための支援機関に過ぎないとお心得ありますよう。」
 「そんなことは解っている。わたしとて民を導き、他国と交際するのに、無闇に剣に頼る気はない。」
 「でしたら、わが帝国が製鉄法を知ったということがどういうことか、今少し、深くお考えください。
 この際、少なくともお国にお帰りになるまでの間はハッティの主として、製鉄のことを司るお立場になられるであろうユーリさまにも確とお聞きいただきますぞ。

 今、帝国の、いや世界のどこでも実用的な金属素材といえば青銅が主たるものです。殿下がご専門の剣、兵器を例に取ってもそうでしょう。
 青銅というものは、銅と錫がなくては製造できません。ところが、特に錫について、わが帝国では所要量を産出せず、残念ながら輸入に頼っているのが現状です。
 ですから、わが帝国が近年、軍事力を目覚しく充実させ、近隣諸国との関係にも常時優位を保っているといっても、その実は錫の確保を睨んで、常に諸国の、特に錫輸出国の顔色を窺っているのが現状なのです。
 ヒッタイトの国力を削ぎたければ、錫を禁輸すればいい。それが怖くて、わが帝国は諸国との関係にも及び腰にならざるを得ないのです。
 そこへ今、製鉄法が手に入った。
 鉄という物は、銅や錫に比べても、容易に入手できる。国内にも、鉄の鉱石が出る見込みのある山はたくさんあります。タロスによれば、赤い河の底を浚えば、質のいい鉄の砂さえ手に入るといいます。
 お考えいただければお解りでしょうが、今、青銅で作られている製品、別に剣には限りません、そのほかの官需品、民需品のどれを取っても、どうしても青銅で作らねばならず、鉄では作れない物がありますか。。
 鉄というもの、少しタロスに聞いただけでも、少しの手加減でいろいろな性質が得られる由です。途方もなく硬い鉄、型に流し込んで自由な形状を得られる鉄。その可能性の広さは限りないのです。
 まあ、特に水に触れる物や、屋外に吹き晒して置くものとなると青銅の方がよい物も少しはあります。何しろご存知のように、鉄には放っておくとすぐに錆びるという欠点がありますからな。
 しかし、そういう特殊な用途の製品を除けば、大抵は鉄で間に合うのです。鉄という物は、殿下がお考えのような夢の素材であると共に、不足しがちな青銅の代用品としても極めて有用なのです。」
 「うむ…」
 ムルシリは考え込んだ。イル・バーニのいう通りだ。
 ムルシリは直接政務に関った経験を持たない立場上、どうしても専門の軍事、それも戦術面にばかり目が向く。その上アリンナでは、現実に製鉄技術を持つハッティの長・タロスに、鉄剣の実物を前にして「オリエントの覇権を決める剣」と吹き込まれ、その鉄剣が従来の青銅剣を叩き折る有様を目の当たりにしたのであるから、製鉄法を献上されたとなると、剣、精々が他の兵器の製造にしか思いが及ばなかったのである。
 また、資源行政や貿易に関しても、あまり深く考えたことなどなかった。
 そうだ。戦術だけで戦はできない。戦だけで国政はできない。まだまだ勉強が足りないのだ、とはっきり思い知らされたムルシリは、内心忸怩として唇を噛んだ。
 確かに今のこの国、青銅ならさして珍しくはない。珍しくはないといっても、地上の鉱石を探し出して加熱し、灼熱の湯にしてこれを冷やし、銅を得る。その製造工程なら、ムルシリも何度か視察し、技術者の進講を受けたこともある。この銅という金属に、錫を加えれば硬さが増し、刀剣や容器などの材料として理想的な素材となるのであるが、この国では、その錫がなかなか採れないのだ。だから、必要な量を外国から輸入し、青銅を生産している。銅そのものも、その辺の山の石なら何でも原料になるというものではない。銅を取り出せる石というのはごく限られている。その上、銅だけでは軟らかすぎて、利用範囲は限られる。
 ムルシリが帯びている青銅剣にしても、国産だとはいいながら、原料は外国から輸入したものだ。それも廉い買物ではない。少し国際情勢が悪化すれば、たちまち輸入は途絶する。
 ムルシリの背後に退り、その大きな背に隠れるようにしてイル・バーニの話を聞いていたユーリも、きょとんとしていた。訳も解らないままにハッティの従属を得、製鉄法を献上されながらも、ユーリにはまだそんな実感はなかった。今、ムルシリやイル・バーニの話を聞いて、何だか大変なことなんだ、というのは解ったが、さしあたりカイル皇子に任せておけば何とかしてくれる。ユーリにはそれよりも、初めての使用人を三人も得、四六時中傅かれる戸惑いと気疲れの方がよほど重要な問題であった。
 
 「お解りですな。鉄が作れるということは、わが帝国は、これまで外交の足枷となっていた、金属資源の確保という問題から解放されるということなのです。
 もし、国際情勢が悪化し、錫の輸入が途絶えるような事態になったとしても、わが国は資源欲しさの屈辱的な媚態外交を強いられずに済みます。
 また、最終的に国際紛争を武力で解決しなければならなくなっても、兵器の完全自給ができるとなればどれだけ見通しが楽か、軍事がお得意の殿下なら容易にご想像になれましょう。
 武器としての鉄剣の性能が優れているのは確かです。しかしそれ以上に、『資源独立』ということがどれほど大きな国益か、そこをお考えいただいてこそ、未来の皇帝陛下でしょう。特に殿下は、剣の性能如何、軍隊の戦力如何で政治が決まるような世を、革めることをめざしておられるのではありませんかな。
 まあ、ユーリさまにはそこまでお考えいただく必要はありませんが、それでも、殿下にはそれほど大きな志を抱いておられるのだ、ということだけはお含みおきくださいますように。」
 「いや、参った。
 今日は実にいい勉強をさせてもらった。単に鉄のことだけではない。何を見ても、国全体を視野に入れて、世界の中のヒッタイトという立場に立って考えよ、ということだな。何か、目から鱗が落ちたようだ。
 よし、やるぞ。わたしはいつかこの国を統べる。そしてこのヒッタイトを、そしてオリエント全体を、戦いのない平和な世界にしてみせる。
 そのための視野を養うのだ。イル・バーニ、今さらながらおまえの見識には頭が下がる。これからもよろしく頼む。」

「恐れ入ります。わたしなどは単に、殿下にご助言を申し上げるだけの立場です。が、殿下がご経験を積まれ、ご見識を高らしめられるためのお手伝いであれば、いくらでもさせていただきたく存じております。」
 「うむ。頼りにしている。
 そうか… しかし、戦いのないオリエントが実現すれば、軍事専攻のわたしなど、いの一番に失業することになるかも知れないな。これは困ったぞ。」
 ムルシリの口から飛び出した冗談を、イル・バーニは真顔で受けて、返した。
 「いや。これ以上は申し上げるまでもありますまいが。
 わたしは決して、貿易や外交が不要になると申し上げているのではありません。これからも、青銅の需要が全くなくなる訳ではありませんから、量はともかく、錫の輸入も依然として必要でしょう。また食糧や薬草にしても、現在はほぼ自給を達成、相当量の備蓄もできているものの、凶年や疫病流行時には円滑にその輸入が手配できるよう、普段から環境を整えておく必要があります。
 また、商人らが帝国の産品を輸出して利益を上げることは、国全体の利益にもつながります。貿易というものは、国を富ませるために不可欠の経済活動なのです。そのためには先方の国とも、常に友好が保たれていなければなりません。

 交易の安全を確保し、たとえ一振の剣すら持たない商人でも、安心して各地を旅し、商業活動ができるように保護する。また、わが帝国を侵さんとする国や、邪な利益を図る輩が出て来ないように、無言の示威で秩序を保つ。これからの軍事力というものの目的は、そのように変化してくるのではありませんかな。軍の警察化、とでも申しましょうか。特に殿下がお望みの、戦いのないオリエントが実現した暁には、きっと。
 平和は大切ですが、その平和に狎れてしまえば、国は必ず腐り始めます。乱に在って治をめざすのが今の時代なら、治に在って乱を忘れぬのが太平の世の理想です。
 抜かずの剣こそ平和の誇り。
 理想のご治世を実現なさった暁にも、どうかこれを肝にお銘じあそばしませ。」

 図らずも天下国家を論じ始めた二人が気付かぬ間に、ユーリはお気に入りの窓によじ登って腰を下ろし、大きなあくびを始めていた。
 「ねえイル・バーニさん。書類とか言ってたのは、もう書けたの?」
 「ああ、左様でしたな。概ね後は浄書するだけです。
 そこで、ご相談したいことが。殿下、この届にもユーリさまのお名前を記載するのですが、殿下のお妃であり、この度は部民さえお持ちになることになる方のお名前として、単に『ユーリ』というのはいささか軽すぎはしませんかな。」
 「そういえばそうだな。それなら、なあユーリ、おまえ本当はたしか『スズキ・ユーリ』というのだと言っていたな。」
 「うん、そうだよ。」
 「いや、おそれながらそれでは、得体の知れない異民族丸出しです。」
 「悪かったわね、得体が知れなくて。」
 「別に悪くはありませんが。しかし、以後帝国の最高機密となろう製鉄法をお手になさるのです。いかに後見人として殿下の名を掲げたとしても、当のご本人が明らかな外国人名では勅許を渋られるおそれが…」
 「よし、では『ユーリ・イシュタル』でどうだ。アリンナ以来、ユーリは『イシュタル』という呼名で広く知られるようになったし、それに、神の名でもいただいている方が妃らしくていいじゃないか。」
 「えーっ! 『イシュタル』って、愛と戦いの神さまなんでしょ。立派過ぎるよ、そんな名前。」
 「かまわん。イル・バーニ、そう記載しておいてくれ。
 それにな、ユーリ。」
 ムルシリは席を立つと、窓辺のユーリに近づき、そっとささやいた。
 「ユーリ。おまえは間違いなく、わたしの『愛と戦いの女神』だ。おまえと出会うまで、女神というものがこんなにも美しい姿をしているとは、夢にも考えていなかっ… 」
 こほん、と咳払いをしたイル・バーニが、粘土板を持って静かに部屋を出た。
 扉を閉じたイル・バーニは、背後に大きな悲鳴と、ばしっ、という音を聞いた。
 「キャアアア! エッチ!」


第3巻・65 ページの後のお話です。
 このお話は、ミール・エア・リーデ様(現ミール・エア・レーテ様)による当サイト掲示板へのご投稿「もしも、鉄がなかったら…」(平成15916日)を拝読した当筆者が、原典中、ユーリとムルシリが貿易政策を論じている場面で、ユーリに与えられている<錫が足りないし>(第28巻・50ページ)という小さな科白に過剰に注目、「ヒッタイトに於ける鉄の持つ意義愚考」(当サイト掲示板・同じく9月17日の項)という一文を掲出したことから生まれました。
 以下、上述の掲出内容を少し補正して再掲します。

 上述場面の話題の中で錫の不足に言及する以上、ヒッタイトでは錫の完全自給ができず、その輸入も必ずしも順調ではなかったのではないかと推し量れます。
 しかもこの場面は、国が<一点の曇りもなく整えられ>(第28巻・122ページ)つつあったはずの時代の話ですから、それ以前の戦乱の時代となると、尚更その需給状況は深刻だったと思われます。
 その上、製鉄技術の存在についてはムルシリでさえ第3巻・57ページで初めて知ったのですから、この時期の刀剣の素材としては青銅が精々だったでしょう。即ちヒッタイトは「兵器の自給ができない国」であったのではないかと察せられるのです。
 とすれば、原典では専ら「強靭な素材」としてのみ描かれている鉄の製造法を入手したということは、ヒッタイトにとっては強力な兵器を得た、という以上に「金属材料の自給に目処がついた」という点が重要だったでしょう。
 すると、ヒッタイトがどこに対しても遠慮なく戦いを挑める立場になったのはこの時点からであり、さればこそシュッピルリウマも世界に大きな影響力を持っていたであろう大国・ミタンニに対する露骨な侵攻を決意(第4巻・111ページ)し得たのではないかと考えられるのです。
 逆に、青銅の原料自給が可能であった国では、どうしても鉄製品または製鉄技術についての認識が高まらず、この分野でヒッタイトに後れを取ることになったのかも知れませんし、ヒッタイトとしても、鉄製品の性能以前に、「意外に容易に手に入る原料の加工法」としての製鉄法の秘匿に神経を尖らせていた(第28巻・129ページほか)のではないでしょうか。
 例によって当筆者が拠るのは原典の記述だけ、史実がどうであったかは知りません。
 また、ハッティがユーリに<従いたく存じます>(第3巻・64ページ)と申し出たことにより、具体的にどのような地位関係が生ずるのかもよく解りませんが、ここではわが国の古代を想起し、「部民」という用語を持ち出してみました。

 本稿の掲載に当たり、ミール・エア・レーテ様、そして同じくご投稿をいただいたまりこ様に対し謝意を表します。


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