睡蓮の池のほとり

 

竜眼流転(後編)



「竜眼流転(前編)」に戻る

 ミタンニが前進基地としたマラティア城は、ヒッタイトの皇子の奇策により敢なく落城した。
 落城時の混乱の最中、城内の倉庫は統制を失った兵らによる略奪を受けた。
 この地に進駐していたミタンニ軍の最高指揮官であった太子マッティワザは、撤退直前、ヒッタイト軍の従軍神官と思しき人物を誰何し、ヒッタイトの指揮官への伝言を託して釈放した。
 この時、マッティワザは神官が手にしていた小さな箱に何気なく目を留め、没収してこの地を離れた。

       ● ● ●

 ミタンニ軍は、ワスガンニへ帰還した。
 ワスガンニ市民の間には、マッティワザがマラティアを撤退したのは、敵に利を見せてその攻勢終末点を越えて進撃させ、延びきった補給線を遮断、孤立させて殲滅するための戦略的後退というものであるとする噂が盛んに行われていた。マラティアというのはもともとミタンニ領ではないのだから、別に捨てるに惜しい地ではない。
 事実、マッティワザは帰還早々、大本営でそのように報告をした。その上、敵将ムルシリの妃をさえ捕虜としたというのだから、宮廷でも軍部でも、誰も敗けたとは思っていなかったし、将兵もこれからが本当の戦いだと信じ、その士気は天を衝くばかりであった。
 ただ一人、マッティワザだけが、生まれて初めて敵に後を見せた屈辱に、内心忸怩として唇を噛んでいた。

 数日後、マッティワザは戦利品の処分について指示を与えるため、夥しい戦利品が集積されている練兵場へ出向いた。
 糧秣や馬匹、兵器の類については、規定通り、ただ厳正に処理させておけばよかったが、毎度のことながら財貨、宝物の処分は手間がかかる。軍の主計官や宮廷の財務官、学者や技芸官等を伴い、いちいち評価する。そして、払い下げるもの、国庫に収めるもの、恩賞として下賜するもの、それぞれの扱いを決定し、書記官に記録させるのである。
 もともと軍事を専攻したマッティワザは、この種の作業は苦手であった。しかし、立場上逃げてばかりもいられない。ものがものだけに、放っておいてはたちまち不正が行われても不思議はない。だから、太子の指示を待たない鹵獲品の処分は厳に戒めてあった。
 マッティワザが、山のような戦利品を一点ずつ手にし、形だけ眺め回しては、傍らの財務官に手渡してゆく。それを各分野の専門官が、古びた美術品の真贋や、貴金属の純度、宝石の時価、その他必要な評価を行い、マッティワザに報告する。最初のうちこそ、商人にでも払い下げろ、とか、王陛下に献上しろ、とか、わたしの宮に運べ、とか、処分についていちいち指示を下していたマッティワザであったが、百点目あたりからは財務官に助言を命じ、その助言に頷くだけとなっていた。
 退屈な作業に辟易としながら、マッティワザは百三十六番目の戦利品を手に取った。小さな宝石がいくつも嵌めこまれ、竜を象った彫刻のついた小さな箱であった。ああ、この箱はあの神官が持っていたものだな、と思いつつ、固い蓋を力任せに開けてみたマッティワザは、目を瞠った。そして、随員らに見られないうちに、せっかく苦労して開けた蓋をぱたりと閉じた。
 財務官は、その箱を受け取るために両手を差し出しかけたが、マッティワザは意外にもその箱を手放さず、これはわたしが召し上げる、と言って懐に収めてしまった。
 太子の意外な行動に諸官は顔を見合わせたが、異を唱えては後が怖い。太子が、乱暴に次の戦利品を掴み取り、財務官の方に突きつけたのを幸い、諸官も何事もなかったかのように作業を続けた。
 ああ、あれは確か、初めから殿下がおん自ら鹵獲し給うたものだ、殿下も戦勝記念品の一つぐらい、お手元に置かれたいのであろう、と、諸官は皆、納得していた。
  
        ● ● ●

 ようやく作業を終えたマッティワザは、諸官への労いもそこそこに、せわしなく自分の宮に戻った。
 そして自室に籠ると、マッティワザは懐から件の箱を取り出し、しばらく見詰めてから、ためらいながらそっと蓋を開けた。手が、震えていた。
 やはり。先ほどはちらりと見ただけであったが、やはり間違いはない。
 間違いであって欲しい。
 マッティワザは、自分の額飾りを外すと、箱の中に空いた不自然な空間に押し込んでみた。そこにぴたりと納まった二つの小さな装身具は、寸分違わぬ同じものであった。
 なぜだ。なぜこれがここにあるのだ。これは、エジプトの姉上が、大切にして下さっているはずのものではないか。わたしと姉上との、大切な絆のはずではないか。

 盗まれたのか。いや違う。エジプト王宮に賊が侵入したとなれば、わが諜報網を通じてわたしの耳にも聞こえるはずだ。
 売却されたのか。いや違う。エジプト王室が、そして姉上が、そこまで逼塞しているはずがない。
 姉上が身につけておられて、誤って紛失なさったのか。いや違う。それならご丁寧に、元々の箱に納まっているはずがない。
 それから先は、考えたくなかった。しかしマッティワザは、これが姉の手を離れた様子が脳裏に浮かびあがってくるのを止められなかった。
 姉上が、これを払い下げたのだ。信じたくはないが、わたしは聞いている。姉上は今、形振り構わずファラオを利用し、己が権勢を高めることに夢中になっているのだ。ミタンニへの、わたしへの便りも絶えて久しい。姉上は、もうわたしのことなど何とも思っていないのだ。故郷での甘い思い出など、姉上にはもう過去のものなのだ。
 マッティワザは、そんな思いを何とかして否定しようと足掻いた。しかし、それ以外に考えようがなかった。
 わたしとの最後の思い出の品など、もう姉上には価値がなくなったのだ。その辺のがらくたと一緒に、商人にでも払い下げてしまったのだ。
 姉上…
 マッティワザの閉じた双眸から、涙がこぼれた。
 姉上… 姉上は、もう完全に、エジプト人になってしまわれたのですね。いつか、必ず里帰りなさる日があると信じて、あの日のままに鎖しておいた「青鹿の間」には、もうお戻りにならないのですね。
 それも、仕方のないことなのかも知れません。でもわたしは、姉上と過ごした日々を忘れません。たとえ姉上が、わたしのことを忘れてしまったとしても。わたしは、ミタンニの王太子なのですから。そして死ぬまで、タトゥーキア姫の弟に生まれたことを誇りに思い続けるのですから。あの「青鹿の間」は、永久に鎖しておきます。
 そうだ、そうだ姉上。
 きっと姉上は、このイヤリングを下賎の商人などに払い下げたのではありませんね。姉上は、きっとこのイヤリングを、誰の手にも触れられない所に葬ってくださったのでしょう。それがここにあるのは、きっと悪い奴が、それを発き出して売り飛ばしただけのことなのでしょう。姉上がこのイヤリングを、わたし以外の男の手にお委ねになったなんて、信じたくありません。これは、これは不測の事態なのでしょう。
 そうに決まっています。ね、姉上。
 姉上が葬り去ろうと決心なさったイヤリングなら、もう誰の手にも渡しません。誰の目にも触れさせません。
 でも、いいでしょう。わたしが生涯にたった一人、心から愛した女性の思い出だけは、永久にわたしのものに、しておかせてください。
 マッティワザは、箱から自分の額飾りを取り出すと、残りを箱ごと床に置いた。そして、壁に掛けた槍を手にすると、その石突を箱の真上に擬した。そして、一瞬だけその箱を見詰め、目を閉じて突き下ろした。
 さようなら、姉上。
 箱もイヤリングも、粉々に砕け散った。槍の石突は床にまで貫通し、敷石に亀裂を生じさせていた。
 数々の戦場で、いかなる強敵をも撃砕してきた、その手練の一撃であった。
 額飾りが取り出される寸前、小さな箱の中に二つ並んだ黒い石が、どういうものか一瞬緋く光ったように見えたことに、マッティワザは気を留めなかった。
 
 マッティワザは余人を近づけず、終夜唇を結んで物を思っていた。
 そうだ。女は変わるのだ。いつまでも変わらぬ、美しい愛など、わたしの幻想に過ぎなかったのだ。
 そして翌朝、悲愴な眼光で砕け散った破片を睨みつけ、かき集めて手巾に包んだマッティワザは、額飾りを着け、剣を帯びて部屋を出た。そして、控えていた侍従に鋭く「馬を引け」と命じ、誰にも供を許さず、単騎で城門を駆け出していった。
 竜の飾りのついた小さな箱と、その中にあったイヤリングの残骸は、ユーフラテスの大いなる流れの中に投じられ、川底の砂に混じって押し流されていった。

        ● ● ●

 ミタンニに侵攻したヒッタイト軍は、マラティア攻略を皮切りに、ハッフムを抜き、ハランを抜き、瞬く間に首都・ワスガンニに迫った。予測しない進撃速度であった。マッティワザは、自ら兵を率いて出陣、ザルパ城外でヒッタイト軍を邀撃した。
 敵の主力を捕捉したミタンニ軍は、混戦の中、マッティワザ自身が陣頭に立ち、敵将ムルシリと直接斬り結びさえして善戦したが、迂闊にもヒッタイトの別動部隊にワスガンニ突入を許してしまった。マッティワザは慌ててワスガンニに戻り、逆突入を敢行したものの既に利なく、ついに首都を失陥するに至った。
 落城に先立ち、ミタンニ王はエジプトに対して援軍を要請するようマッティワザに指示したが、マッティワザは既に時機を失していることを理由にそれを拒んだ。マッティワザにはもう、時機がどうあれエジプトを頼る気など全くなくなっていた。
 わたしが憧憬し続けた女神のような姉の姿は、幻だったのだ。無理やりエジプトに嫁がされた悲劇の王女は、自らの息子に進んで操を与え、あまつさえ娘婿まで操って権勢を誇るだけの権力の亡者になり果てているのだ。
 そうだ、女など、そんなものなのだ。
 それでもミタンニの軍・宮廷中枢は辛うじて脱出に成功した。そして、カルケミシュ城に入ってなおも抗戦を続けた。

 ミタンニ最後の牙城・カルケミシュの攻防は長期戦となり、ミタンニ軍は次第に押され始めた。
 そのうち、勝算の見込めない籠城が長引くに及んで将兵には厭戦気分が蔓延した。そのため、ついに近衛の一部将校が叛乱を起こして国王を殺害、ミタンニの国は内部から崩壊したのである。
 マッティワザは、変わり果てた父王の姿を目にし、一時は玉砕を決意したものの、ただ一人、進んでわが許に残った側室・ナディアの説得によりバビロニアに亡命した。その直前、マッティワザは自らの後宮に納めていたムルシリの妃を解放するに当たり、混乱する城内を脱出する際の手形代わりに、自らの額飾りを外してこれに与えた。
 その甲斐あってか、ムルシリの妃は無事に城外に脱出、侵攻軍を指揮していたムルシリに保護された。
 マッティワザがこの妃に与えた額飾りは、その後、この妃のチョーカーとして愛用されることになった。

        ● ● ●

 ミタンニが滅亡して約一年の後、ヒッタイトでは皇太子ムルシリが皇帝の座に就いた。そして、程なくエジプトとの戦いが始まった。
 皇帝が名実共に強大な実権を握っていたヒッタイトに対し、エジプトでは四代前の王の側室として嫁ぎ、名もネフェルティティと改めたミタンニ王女タトゥーキアが、次の王の正妃となり、娘婿たるその次の王を傀儡としてますます権勢を誇っていた。
 その王が夭折した後には、王統の断絶を防ぐため早期に再婚することが求められた王妃自身の希望もあり、ヒッタイトから婿を、すなわち次の王を招くという案が実現しかかった。そうなると、国の実権はヒッタイトの国力を背景とした新王に移ることになり、ネフェルティティの権勢は過去のものとならざるを得ない。
 そして、王妃の申し入れを受けたヒッタイト側でも、皇子の一人をエジプトへ婿入りさせることを決定、縁談はまとまってしまったのである。
 しかし、ネフェルティティはあきらめなかった。幸い、ヒッタイトの皇妃が、ネフェルティティと同じくこの婚姻を快しとしない立場であることを知り、密かにこれと誼を通じ、この婚姻の実現を阻止すべく結託したのである。
 その結果、ネフェルティティ自身が何の手も打たないうちに、先方の皇妃の手回しで花婿が暗殺され、婚姻の実現は阻止された。
 これを受けて、ネフェルティティは間髪を入れず、自分の息のかかった老神官をわが娘の婿に据え、失脚の危機を乗り切ったのである。
 その後程なく、この老王も崩御したが、ネフェルティティは、今度はこれといった後盾を持たず、既に臣下に嫁している王家の娘の一人に着目し、かねてから王位に関心のあったその夫を推して即位させた。この夫はもともと一介の武将に過ぎなかったが、長年の野望であった王座が現実に手に入ったことを喜んだ。そして同時に、己が即位をお膳立てしてくれたネフェルティティには頭が上がらない立場となったのである。
 しかし、元来王による専制体制が建前のエジプトでは、代々の王を傀儡に貶めた王太后の専横と、その権勢を背景とした官僚による苛政に反感を抱く臣民も数多かった。いきおい、国内では小規模な暴動が続発していたが、王太后は軍部出身の王を操れる立場を利し、武力による有無をいわせない鎮定を繰り返していた。
 こうしてネフェルティティは、五代にわたる王の交代にも関らず、ますますその権勢を高めていた。そして、ヒッタイトの皇太后との間の協力関係も、密かなうちにも恒常的な関係として確保し続けていた。
 そんなネフェルティティの権勢に、半ば公然と反感を表明していたラムセスという将軍がいた。もとよりネフェルティティにとっては目障りな人物でもあるので、ラムセスの婚約者に不敬行為があったことを口実に、ネフェルティティはラムセスを逮捕せしめた。
 その頃、エレファンティンで暴動が発生した。当初は、珍しくもない場当たりの暴動に過ぎないと見られていたこの暴動は、意外にも本格的な反乱に発展、反乱軍はついに首都テーベになだれ込んだ。
 従来、幾度となく繰り返された暴動は、人数こそ相当な規模になることもあったが、所詮は烏合の衆であり、いずれも組織的な鎮圧作戦に対しては問題にならなかった。
 ところが、この度の反乱軍は相当に組織化され、鎮圧に出動した王軍に正面から会戦を挑み、これを撃破しさえしたのである。
 ネフェルティティは、実際にテーベ市街に上がる火の手を目の当たりにするまで、とても信じられなかったのだが、反乱軍はネフェルティティの宮にまで突入してきたのである。
 ネフェルティティは、それでもその混乱を利し、反乱軍の仕業に見せかけてラムセスを抹殺することとした。
 ところが、ネフェルティティがラムセスに向かって剣を振り上げたその刹那、ネフェルティティの身辺に反乱軍の矢の雨が降り注いだ。
 ネフェルティティは、突入して来た反乱軍の指揮者と相対して驚愕した。指揮者は、ラムセスの婚約者その人だったのである。その小娘は面と向かって、ネフェルティティこそが反乱の原因だと指摘した。
 ネフェルティティには、こんな小娘の説教に耳を貸す義理はない。鼻であしらって改めてラムセスを斬ろうとしたところ、小娘は己が首に着けていたチョーカーを引きちぎると、ネフェルティティの手元に投げつけて来た。
 その小さな装身具を受け止めたネフェルティティは、硬直したように動きを止めた。そして、漆黒の双眸を大きく瞠った。
 小娘は、それを覚えていませんか、と訴え始めた。
 マッティ… そうだ、思い出した。わたしのイヤリングだ。この女の説明を聞くまでもない。ナイルの水底に永久に眠っているはずの、あのイヤリングの片割れだ。
 それにしてもなぜ。なぜこれを、この小娘が持っているのか。
 ネフェルティティは、ラムセスの婚約者を見詰めた。
 小娘は、ここで本当の身分を明かした。
 ヒッタイト帝国近衛長官、ユーリ・イシュタル。
 その名には、王太后も聞き覚えがあった。ヒッタイト皇帝唯一の妃ではないか。
 そんなことよりも。ネフェルティティはもう、平静ではいられなかった。

 マッティ… あなたもこのイヤリングを、捨ててしまったの? わたしではない女に、与えてしまったの? 
 そうよね。当たり前よね。あなたは今や、父上の代で滅びてしまったミタンニを、神業のように再興してしまった奇跡の王ですもの。こんなおばあさんに操られている、不甲斐ないこの国の王なんかとは訳が違う、本物の王ですものね。
 もう、こんな女をいつまでも慕っているような子供ではなくなったのね。

 それに。あなたに慕ってもらえる女ではなくなった、って、イヤリングを捨てたのはわたしの方なの。こんなものを持って追憶に浸るような気分では、宮廷で生き残ることなんてできないと気付いてしまったのは、わたしなの。
 そうよ。本当にそうよ。こんなものを見せられて、衝撃を受けているなんて、わたしもまだまだ、甘かったのだわ。強くなったつもりだったのに。強くならなければならないのに。これからも…

ネフェルティティは、きっと顔を上げ、固い石の床にイヤリングを投げつけた。そして、自分にいい聞かせるように、ことさらに叫んだ。このようなものは、知らぬ。
 冷たい音を響かせて、イヤリングは砕けた。
 ネフェルティティは、反乱軍に身柄を拘束された。そして、ネフェルティティの手を逃れたラムセスは、たちまち行動を開始し、ネフェルティティが当の敵国であるヒッタイトの皇太后と通じていた証拠となる書簡を押収してしまったのである。
 ラムセスこそ、エジプトの将軍の身で敵の近衛長官と通じていたのだ。しかし、そのようなことは反乱軍も、居合わせたネフェルティティの近臣さえも、誰も非難しなかった。
 人心は、ラムセスが掴んでしまった。
 
 ラムセスにより、国家反逆者の烙印を捺されたネフェルティティは、権力の座を追われることになった。覚悟を決めたネフェルティティは、家臣全てに暇を出し、身辺を整理した。
 しかし、ちょうど王太后の胸像を手掛けていた彫刻家・トトメスは、ネフェルティティの許を去ろうとはしなかった。依頼主自身の気がどう変わろうと、報酬の当てがなくなろうと、己が精魂を傾けた仕事を途中で放棄することは、どうしてもできなかったのである。
 トトメスは、保身にも関心はなかった。それよりも、今現に手掛けている胸像の、眼の表現に悩んでいた。
 王太后は、宮を去れとのわが命にも従わないこの頑固者に、何十年ぶりかで己が手に戻った思い出のイヤリングの破片をくれてやった。
 トトメスにとって、奥深い輝きを湛えた黒玻璃は、王太后の眼を表現する素材として、願ってもないものであった。ただ、片方だけしかないというのは痛かった。片方では、胸像は完成しないのである。さりとて、これに釣り合う極上の黒玻璃など、そうおいそれと手に入るはずもなかった。
 しかしネフェルティティは、トトメスに背を向け、バルコニーに出た。そして、未だ混乱の収まらない市街を眺めながら、呟いた。
 …そのイヤリング… 失わずに持っておれば、今のわたしは変わっていたであろうか…?
 いや、やはりわたしは、このようにしか生きられなかったであろうよ。
 だから、わたしの胸像は、片目が似合いかも知れぬ。
 ネフェルティティは、トトメスを振り向きもせず、自室へと姿を消した。そしてそのまま宮を去り、二度と戻らなかったのである。
 トトメスは、精魂込めた胸像を納入すべき先を失った。それでも、トトメスは最後まで仕事を続けた。たった一つの黒玻璃に手を加え、彫刻の右眼の部分に嵌めこんだ。これが、最後の工程であった。
 トトメスは、胸像に左眼を補うことを差し控えた。依頼主から示された最後の意向を尊重することで、はかなく失脚した依頼主へのせめてもの餞にしようと考えたのである。
 行き先のない胸像は、トトメスの家に保管され、そのまま長い長い眠りについた。
 
        ● ● ●

 ワスガンニで、一対が揃えられる最後の機会を得た漆黒の石は、持つ者の真摯の思いを受けて、緋く光った。
 この光にどんな意味があったのか、今となっては誰にも解らない。光に変じ得るほどの真摯な思いを滾らせた本人は、神官ではなかった。そればかりか、面妖な魔力などに意味を感じる思考は露ほども持ち合わせない男であった。
 古代の本物の竜の眼球だといわれ、人の心を操る力を持つと伝えられた石の片方の、その破片は、その本来の持主の胸像の一部となった形で三千有余の星霜を眠り続けた後、再び日の目を見た。
 しかし、ユーフラテス河の水底に沈んだその片割れは、もはや探す術もない。
 一対揃ったこの石に、どんな力があったのかを確かめる術も、もう永久にない。


原典の中には、遂に最後まで解き明かされなかった謎がいくつかあります。
 中でも、「イルヤンカの眼」の行方は、謎の中の謎、ともいえるでしょう。
 そこで、原典では明らかにされていないその行く末を、想像してみました。想像した、というより、例によって「こじつけた」ばかりの作品となってしまいましたが。
 原典中、この「眼」の外箱は何箇所かで描かれていますが、肝心の中味については遂に描かれませんでした。しかし、<竜の眼球>と伝えられる以上は二つ揃って一対を成していたのではないかと思われますし、<緋い石の玉>だというのも伝聞に過ぎません。
 一方、タトゥーキアの手からマッティワザへ、マッティワザの手からユーリへ、そしてユーリの手からネフェルティティへと、その都度印象的な挿話を伴って伝えられた黒玻璃のイヤリングですが、その片割れがどうなってしまったのか、これも謎の一つとして残されています。
 原典では、このイヤリングの黒玻璃が、最後にはネフェルティティ像の片眼となって現代に伝えられたとされています。このイヤリングの謎を、<イルヤンカの眼>の謎と結びつけてみましたが、いかがでしょう。
 またこのお話には、先に掲載した拙稿「決断」との兼ね合いも考慮せざるを得ませんでした。原典との関係はもとより、こちらの方とも齟齬は生じていないはず、なのですが。



トップに戻る

inserted by FC2 system